2012年1月23日 (月)

「心、仏、衆生、三無差別の心」について

「真象の有無」について質問をいただきました。

 ここを、うやむやにせず、「実相」と「現象」の違いが明確になるにしたがって、信仰が実生活を活かすものとなり、その人自身を救うとともに多くの人を導けるようになります。

「現象無し!」の大刀を自在に振るいうるか否かは、ここの理解と、祈りの深さとに懸かっています。

 以下に質問と、回答を公開させていただきます。

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【質 問】

 合掌ありがとうございます。

「真象の有無」についてお聴きしたいです。

『生命の實相』20巻のP133後ろから3行目の、
「一心転じて、佛ともなり衆生ともなり極楽ともなり地獄ともなり」
のところで、佛と現れた心や姿、極楽と現れた状態が真象だと考えましたが、その後で「現象一切無し」と書かれてあり、真象も無いのかと思いましたら、P136の1行目に、
「実相とは神である。あるものはただ神のみである。神の心と、神の心の顕現のみである」
と書かれていますが、神の心の顕現は真象ではないのですか?? 

  一方では真象が否定され一方では肯定されているように思い、よく分かりません。どの様に解釈したら、宜しいでしょうか??m(__)m

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【回 答】

 合掌、ありがとうございます。

「実相と現象」について先ず頭で理論的に理解し、その後の観行(神想観)によって体感体得するためには、ここはとても重要な箇所でもありますので、私の回答を参考に、あらためて本文を熟読していただければと思います。

 さて、まず「一心転じて、佛ともなり衆生ともなり極楽ともなり地獄ともなり」という「心」とは、「心、仏、衆生、三無差別の心」つまり本来無い「現象の心」のことです。

 またP136の1行目にある、「実相とは神である。あるものはただ神のみである。神の心と、神の心の顕現のみである」と説かれた「神の心の顕現」とは、「実相世界」のことです。

「真象」とは、この実相が、現象世界に展開した相(すがた)です。ですから、実相さながらに調和した真・善・美が現れるのです。しかしながら、どんなに素晴らしい「真象」が現れていようとも、それは現象にすぎないのです。

 現象は、時間の経過とともに必ず消滅します。これを仏教では諸行無常と説き、浄土真宗では「朝ニハ紅顔アリテ夕ニハ白骨トナレル身ナリ」(蓮如上人「白骨の御文」)というコトバで、このことを表現しています。

 あなたが疑問を持たれた、「実相とは神である。あるものはただ神のみである。神の心と、神の心の顕現のみである」という、ここで説かれた「神の心の顕現」とは、繰り返しますが、実相世界のことです。現象世界に展開した「真象」のことではありません。たとえ「真象」といえども、それは現象に過ぎないのです。

「現象は無い」ということは、「神と神の創り給うた世界のみが実在である」ということです。それが、神想観において観ずる世界です。

 その円満完全なる世界を日々観じて悦んでいれば、「三界唯心」の心の法則によって現象世界に「真象」が現れる、つまり実相世界さながらの大調和した真・善・美が、あなたの実生活にあふれてくる、それが生長の家の信仰生活です。

 以上が「唯神実相」の教えからみた「現象顕現の法則」であり、幸福な生活を実現する秘訣なのです。

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2012年1月20日 (金)

「現象無し」の教えについて

 先月末、家系にまつわる精神疾患という「業」について質問をいただき、その後、数回にわたって応答させていただきました。

「現象無し」の教えと「先祖供養」との関係など、信仰の根本に係わることについて答えましたので、相談された方の名前や背景など一切伏せて、要点のみ公開させていただきます。

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【質 問】

 夫、姑からの有難いご縁、および実家の母、妹等の後押しのお陰で、信仰についてたくさんの勉強をさせていただくようになりました。

 教化部の早朝神想観にも通わせていただき、また家では白鳩誌友会、夫の相愛会の例会のお手伝いと、驚くほどのご縁をいただけるようになりました。

 しかし、今なお課題が山積しています。「すべて有難いこと」という真理はわかりますが、一方でこのまま放っておいてよいのだろうかという疑問があります。

 振り返ってみると、姑、夫、娘と、婚家は精神病の家系だったということです。

(中略)

 私の初孫ですが、利発で元気な子ですが、保育園でも問題で「多動性障害の疑い」といわれています。姑、夫、娘、そして孫と、一体どこまで精神病が付きまとうのでしょう。

 頭のことは即先祖供養と聞きますが、こんなに何代も精神疾患が続くというのは不自然な気がします。何か悲しい思いをしているご先祖様や流産児がおられるのなら、私はいくらでも供養させていただきますが、そのような考えは不要なのでしょうか?

 どう考えればよいのか頭が混乱します。地元では皆うちの家族のことを知っていますので、内緒にしています。訳がわからないのです。

 生長の家は現象を見ないといいますが、「先祖供養」の必要と、「現象はない」ということとの兼ね合いも分かりません。長々と申し訳ありませんが、お時間があればご指導お願いします。

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【回 答】

 合掌、ありがとうございます。

 お姑様のこと、そして一家にまつわる「業」の問題でご苦労されていること、お手紙から伝わってきました。

 あなた様は地方講師でもありますので、結論から申し上げることにします。

 まず、「先祖供養」と「現象は無い」ということの兼ね合い、についてのご質問ですが、信仰に“兼ね合い”などというものはございません。

「現象は無い」とは、つまり「神のみがある」という信仰です。

 ご先祖も流産児も、姑もご主人もお孫さんも、「実相」はそのままで円満完全な神なのです。

 神の創り給うたままの完全円満なる世界のみ実在であり、他のもの(現象)は非実在であり、心のカゲが現れては消えていく姿なのです。

 この、神の創り給うたままの、円満な光明一元の世界(実相)を観じ悦ぶ行事が、日々実修する神想観(祈り)です。

 したがって、「迷っている霊がいる」「精神病がある」「困った姑が居る」これらの現象を認めて、それを「良くしよう」と、無いものを相手にしていることが迷いなのです。

「現象は無い!」とは、それら一切の不完全な現象は、「現れているだけにすぎない」ということです。

 そして、「在る(実在する)ものは円満完全なる神のみである」「完全健康円満なる神の子人間のみである」と、実在するもののみを相手にする生活が、信仰生活です。

 この円満完全である実相の先祖と、未だ一度たりとも堕ろされたことのない神の子・光りの子として流産児を拝むことが、先祖供養です。

 迷える霊や不完全な姑を「在り」として、それを「良くしよう」とするのでは、そもそもの着眼点が根本から間違っているということは、「三界唯心」の法則からみてもお分かりいただけることでしょう。

 三界唯心所現の教えは、「唯神実相」の世界を徹底的に悦ぶことから、天地が開け、八方塞がりを完全に氷解させる道が開けるのです。

「先祖供養」してから神の子になるのではありません。先祖も、流産児も、姑もご主人もお孫さんも、はじめのはじめから円満完全なる神の子であり光りであることを観じ、悦び感謝することが、生長の家の神想観であり先祖供養です。

「不完全な現象を良くする」のが信仰生活ではありません。

「不完全は無い。現象は無い! 完全円満なるもののみが実在し、天地一切のものが愛し合い抱きあっている」と、実相を観じて拝み感謝するのが本ものの信仰です。

 分からないことがあれば、なんなりとご質問ください。

 また、年末に別の方から「業の流転について」の質問をいただき、回答を私のブログに公開しておりますので、共通の問題でもあるのでご覧になってください。

http://ashikabi.cocolog-nifty.com/blog/

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【礼状、追加の質問】 (2012年1月8日)

 合掌、素晴らしいご回答を頂き心より感謝申し上げます。

 全くもって、「神のみ実在、不完全な現象はない」ということでした。先祖供養と現象はない、ということの兼ね合い等ないのでした。

(中略)

 私は長年教師をし、退職後思いもよらず生長の家にご縁をいただきました。教職員組合に入っていまして、民主主義が本当に人間の幸せにつながると信じていました。しかし、生長の家の勉強をさせていただき、本当の意味の自由や平等ということが分かり、本当の命を頂いたと心から感謝しています。

 良いことも悪く見える事も全て私の心を大きく成長させてくださる練習だと思います。
 あと、もう一度だけ具体的にご教示頂ければ幸甚です。

 つまり、私の場合、神想観中、具体的にどのように思えば良いのか。また、思いつくままに四部経を誦げてみたり、霊牌をたくさん書き、先祖供養の真似ごとをしてみたり・・・・。自分のパターンが決まりません。

「神想観等せず、お役なんかも止めて、家のお仏壇で『甘露の法雨』だけ誦げていればよい」という姑の意見はやっぱり違うなと思うのですが、私自身も良い結果を早く得ようと焦っているのかも知れません。

 神想観や先祖供養の時、どんな思いですればよいのかを教えていただけないでしょう
か?

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【返 信】 (1月10日)

 合掌、ありがとうございます。

 神想観や先祖供養のとき、どんな心持ちで実修したらいいかとのご質問ですね。

 これは、特別な工夫などは必要ありません。

 信仰生活では「三正行」ということが重視されているように、真理のコトバが書かれたご本を日々紐解き精読すること。神想観と先祖供養は、朝と晩など時間を決めて毎日実修することです。

 また神想観のような観行は、招神歌を唱えることで、それを指導するために現れた生長の家大神が守護すると(「詳説 神想観」参照)説かれてますが、「神想観は神想観が教える」などとも、私も先達の方々から教えていただきました。

 道元禅師は、禅の心得について、「只管打坐(しかんたざ)」(ただひたすら座りなさい)と説かれています。

 神想観も、ただただ日々座ることから、大生命との一体感が深まってまいります。ご先祖供養も同様、日々勤めることでご先祖のみならず流産児も神であり、救われ済みの光りである実相(本当のすがた)が拝めてくるものです。

 また、三正行の一つである「愛行」も、あなたの内なる神性仏性を開花させ、多くの人たちを真理の道へと導く大切ないとなみとなりますので、地方講師として毎月出講し、個人指導などをさせていただくことを通して、これまで以上に、より深い心境へと導かれ、理解もますます深められることでしょう。

以上が、「神想観や先祖供養」についての心得です。

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2012年1月 8日 (日)

ご主人の浮気で悩んでいる方へ

 昨年末、ご主人の浮気で苦しんでいる40代の女性から相談のお手紙をいただきました。

 数年前、大病をしたのを切っ掛けにみ教えに触れ、病が癒されて今日をむかえたものの、昨年の秋口からご主人が、理由もなく外泊するようになったそうです。

 宇治の短期練成会に参加されましたが、帰宅後、彼女は、

「頭ではわかっているように思えても、実際、夜いなくなったその瞬間、いままで何を教えてもらったのだろう? というくらい悲しくなります」と悩み、

「親やきょうだい、もちろん子供たちにも、心配させてしまうだけなので言えません。どうか教えてください。悲しくなる私の心をどうにかコントロールしたいです」

と辛い心情を訴えて来られましたので、とりいそぎ以下のような返信を封書にして送りました。

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【回 答】

 人生における辛い時期を迎えていらっしゃることが、お手紙から伝わってきました。

 このような時期に、あなた様が神さまの方に振り向き、信仰一筋に問題の解決を図ろうとされていらっしゃることは、あらゆる問題の根本的な解決に繋がります。

 これはご夫婦の問題だけではなく、お子様たちの将来の問題にも係わってきますので、これから、あなた様が本ものの信仰生活を生きるための手助けとして、アドバイスをさせていただきます。

 宇治の短期練成会に行かれて、楠本先生のご指導を受けられたとのこと。最良の人生の選択をされたと思います。

 あと、あなた様に必要なことは、神さまへの「全托」の信仰です。

 これは、問題だけを神さまに預けるのではなく、あなたの人生そのもの、この世に生まれたこと、あなた様を取り巻く一切を、神さまに全托してしまうのです。

 この祈りは、神想観を通して、あなた様の魂が納得いくまで、毎日の生活の中で時間を決めて徹底的に祈り続け、神さまにすべてを委ねた、と思えるまで日々徹底してください。

 生長の家の教えは、「人間・神の子」の教えです。

 ですから、あなた様が「“自分が”生きている」と思っている間は、さまざまな悩みや寂しさ辛さがつきまとうことでしょう。しかし、私が生きているのではない、神の大生命がここに生きている、仏の四無量心がここに生きている、神の無限の愛がここに生きている、大光明がここに生きている、そのように自分の一切を神さまに置き換えて、神さまにすべてを委ねた生き方ができるようになれば、これまで問題と思えていたことの一切は、最良の形で解決することでしょう。

具体的なアドバイスを挙げますと――

①一定の時間を決めて神想観の実修と聖経を読誦すること。

②ご主人が不在でさびしい時にも、聖経読誦または、神さまに全托する神想観を納得がいくまで実修すること。

③相手の女性は、あなた様が、ご主人に対して行き届かなかったことを教えてくださり、生長の家の御教えへと導いてくださった観世音菩薩です。「人間」として拝むのではなく、あなた方ご夫妻を根底から救い導くために現れた、「神」として、「仏」として、「光り」として徹底的に感謝し、拝むことに徹してください。

④できれば、宇治の一般練成会(10日間)を受講して、あなた様の信仰を確立することをお勧めします。

以上です。分からないことがあれば、なんなりとご質問ください。

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【礼状と追加の質問】 (2012年1月8日付)

暮れの一番忙しい時期に回答を頂きありがとうございました。

先生から手紙が届いたのが 12月26日で、 主人が出掛けた夜の次の日でした。かなり心が乱れていた日でしたので 先生からの回答を ひと文字ひと文字戴くことができました。神様に全托すること。そのためには神想観、聖経読誦。相手の女性に対し感謝し拝むこと。

具体的なアドバイスだったので、わかりやすく私でもできる! と目の前が明るくなったように感じました。でも 神様に全てを委ねた生き方と確信できるまでにはなかなか行き着かず、ただ 先生からいただいた手紙を何度も繰り返し読み、実行しました。(中略)

今回の事があるまでは いろんな浮気事件も私が許したからこそ解決して今の私達夫婦がある! と思っていました。そうではなかった事に気づく事ができました。主人は問題を通して私に大切な事を教えてくださっていました。それと どんなに主人の事が大切か、またわからさせてもらう事もできました。今日から『 女性の幸福365章』を読んでいます。良夫の浮気は妻の心の影…と教えてくださっています。私は本当の意味で主人を愛していたのだろうか…とにかく 辛いぶん 今は必死なので間違っているかもしれませんが、神想観、聖経読誦で 神様に全托の生活ができますように 頑張ってみます。不思議と、ついさっきまで弱気だった私が この手紙を先生に書いているだけでなんだか 勇気が湧いてきたように感じます。ありがとうございました。

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【礼状への返信】 (同日付)

 合掌、ありがとうございます。

 辛いこと、悲しいことがあれば、それを抱えこんだり、我慢してはなりません。
 そのような時こそ、神さまに全托するのです。

 つまり、すべての苦しみ悲しみを、神さまに委ねてしまうのです。
 それが神想観における全托の祈りです。

 また、実相世界には、浮気をしてしまうようなご主人など存在しません。

 一度も浮気などしたことのないご主人(神人)と出会い、そのご主人に感謝するのです。
 それが「実相直視」ということです。

 あなたが生きているのではありません。
 神さまが、今ここに生きているのである、それを信じ、祈りの中に悦び生きるのが人間神の子の生活です。

 谷口雅春先生の御作で、次のようなお歌があります。

   ひと筋の道踏み行けば燦然と
      光り満ちわたる吾が世界来ぬ

 あなたも、真理の書を紐解きつつ、この神の道を信じてただひたすら祈り、一筋の道を歩んでください。光り満ちる世界が必ず開けてきますから。

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【礼  状】 (1月9日付)

合掌。ありがとうございます。
本部講師の先生で お忙しい中、私のために時間を割いてアドバイスをいだだきありがとうございます。
先生からのメールを読みながら納得した気持ちで 神想観をすると 気持ちが軽くなり神様はやさしい…神様が私の辛いとこ全てを受け入れてくれありがとうございます…と思うことができました。 しかし朝方、主人が帰ってきた現象をみると言わなくていい事を言ってしまい後から後悔してしまう…そんな繰り返しです。
先生が言われているとおり神様にすっぽりと委ねた生活ができますように また、一筋の道をまっすぐ迷わず進んでいきます。

ありがとうございます。

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2011年12月30日 (金)

業の流転で苦しんでいる方へ

 ブログのコメント欄に、業の流転で苦しんでいらっしゃる方から質問をいただきました。
 純粋で、魂が浄く高い方ほど、このような問題に苦しむものです。私にも身に覚えがありますので、この方のお気持ちはよく分かります。
以下に回答を書きましたので、同様の苦しみに悩んでいらっしゃる方のために公開させていただきます。

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【質 問】

こんばんは。初めまして。夜分遅くに失礼致します。
ご相談したかったのですが、メールで送れなかったので、コメントで投稿させて頂きました。
先生、私は業の流転に大変苦しんでいます。
兄が11年前に失恋を機に自殺し、私も数年後恋愛問題で何度か自殺未遂をしました。
本部講師の先生からは先祖供養と両親への深い意味での感謝(何かしてくれたからありがたいではなく、神の子として礼拝することらしいですが)をしたら、業が消えると、言われました。
行を実行中ですが、とにかく恋愛しなければまず死にたくならないと思っていましたが、恋愛的感情ではなく、大変人生の先輩として、尊敬し、心から愛する方(父や祖父を思う様な感情です)ができてしまいました。
私はその方の身の回りのお世話をさせて頂いていましたが、同様にお世話する子や会いにくる子達にその方が非常に愛する様な態度で接しているのをみると堪らなく辛く激しい嫉妬心にさいなまれます。そして、凄く悲しくなって、自分の存在を消したくて、今すぐ死にたくて堪らなくなります。これは我の愛で本当の愛ではないし、そんな不純な思いのまま接するのは失礼で違うと思いますし、嫉妬してしまう自分が堪らなく嫌で、そんな現場(その方が他の子達を愛す)をみていると苦しくて悲しくてたまりません。
年末年始は仕事が、忙しく辞めれないので、辞めませんが、年始の仕事が終わったら、死ににいこうかと思っています。
心がぐちゃぐちゃです。何で生きてないといけないんですか? 何で実相顕現しないといけないんですか? 神の子なんて分かりません。今の場から離れても、また次に大切な人に出会ったら、また同様に死にたくなるのかと思うと業を断ち切るしかないのは分かってます。深い意味での感謝、覚らなければ分からないですよね。そんなのできません。辛くて辛くて仕方ありません。

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【回 答】

 2日間ほど不在にしておりましたので、先ほどご相談のコメントを拝見しました。
「業の流転」に大変苦しんでいらっしゃるとのこと。辛いことでしょう。

「業の流転」から逃れるためには、「業の流転」から離れなければなりません。
「業の流転」するような境涯に住んでいたのでは、たとえ自殺したとしても、何遍生まれ変わったとしても、逃れられるものではありません。

「業苦」に苦しむのは、大生命(神・仏)とのつながりを見失っているからです。
大生命とつながり、大生命に生かされている神の子本来のすがたに目覚めることによってのみ、「業の流転」から逃れることができるのです。

 人間ははじめから大生命とひとつであり、未だかつて一度も離れたことなどありません。

 神さまから愛され切っていればこそ、今、私たちはここにこうして生かされて存在しているのです。

 しかし、私たちは、「“自分が”生きている」と、思い違いをして、大生命とのつながりを見失っているのです。

 大生命との根底からのつながりを思いだし、それを呼び戻す道はただ一つ、それは祈ることです。

 自分が生きている、のではありません。大生命が、あなたを生きているのです。

 完全円満なる神のいのちが、あなたを生きているのです。

 それは、自覚してから、先祖供養してから、祈ってから、「行」を一所懸命積んでから、生かされるのではありません。
 はじめのはじめから、あなたは神さまの子であり、神とひとつのいのちなのです。
 そのことを知ることが天命を知り、神の子に目覚める神想観なのです。

 ひたすら祈りなさい。心ゆくまで心底から祈り、一切の問題を神に委(ゆだ)ねなさい。朝も、昼も、夜も、神さまはいつでも、どこでも、どんな心境のときでも、どんなに心がぐちゃぐちゃで乱れていても、そんなことにおかまいなく、あなたを「無条件」にただただ生かし、愛し、赦し、掛け替えのないあなたの存在を包容しているのですから。

 分からないことがあれば、なんなりとご質問ください。

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【返信】

こんばんは。 先生、お忙しい中、解答して下さいまして、ありがとうございます。
そうですね。祈ってみます。生きるなら、全力で生きていきたいです。 先生、本当にありがとうございます。先生の御愛念に感謝です。

投稿: 光 | 2011年12月30日 (金) 18時56

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【追加質問】

合掌ありがとうございます。
先生、先日はありがとうございました。先生のお言葉のお蔭で、思い止まることができました。ありがとうございますm(__)mm(__)m
今、祈り中です。 先生、ふと疑問なのですが、どうして実相顕現しないといけないのでしょうか??

投稿: 光 | 2012年1月11日 (水) 14時05分

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【回答】

光さま

「どうして実相顕現しないといけないのでしょうか?」とのご質問ですね。

「しないといけない」ようなものなど、この世にはありません。

 忘れていけないのは、あなたが「実相」そのものである、ということです。

 神とは、光りとは、愛とは、あなたのことなのです。

 それが「人間・神の子」ということです。

 その円満完全なる神なる実相を素直に悦ぶことが、「実相顕現」ということです。

投稿: 久都間 繁 | 2012年1月11日 (水) 15時07分

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【返信】

先生、ご回答をありがとうございます。

そうなのですか。 はい、分かりました。ありがとうございますm(__)mm(__)m

投稿: 光 | 2012年1月11日 (水) 18時35分

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2011年12月13日 (火)

自然エネルギーを求めて(6)――ペレットストーブと循環型の社会

 9月8日のこと、ペレットストーブがわが家にやってきた。外では、まだ蝉時雨が降り注いでいた。

 取付工事には、東京ペレットのOさんと、60歳前後の職人さんと2人で来られ、午前10時ごろから着工、約2時間ほどで設置が完了した。

 わが家に来た製品は、オーストリアのカリマックス社製の「ベリーナ」というストーブだった。

 
 このストーブは、店頭に何年か実演展示していたものを、製品がモデルチェンジしたのを機に、部品を取り寄せて修理し、譲っていただいたものだ。

 

 あれから3カ月ほど過ぎ、木枯らしが吹く寒い晩や、気温が10度以下になる朝には、ストーブに火を焚いて暖をとっている。

 耐熱ガラスの窓の向こうで燃える炎を、子供たちは懐かしそうに覗き込んでいる。

 わが家に来たペレットストーブは、鋳物でできている上に、サーモスタットが付いている。室温が設定した温度に達すると、自動的に運転を停止し、鋳物に蓄熱された「熱」をゆっくり時間をかけて放熱(輻射熱)する。

 したがって石油ストーブやファンヒーターなどのように連続して燃焼することがなく、燃料を無駄に使わなくて済むところがありがたい。

 ペレットストーブを設置した当日、ストーブの試運転をしながら、Oさんと次のような会話を交わした。

O氏 「これは欧州の方から聴いた話ですが、彼らは冬が来たからとて、あわてて石油ストーブやファンヒーターを買うようなことはせず、夏の間に冬支度をすべて済ませるそうです」

ashikabi 「――ってことは、わが家は今年から欧州なみだね」

O氏 「ドイツやオーストリア製のペレットストーブは価格もそれなりに高価ですが、堅牢な作りをしているため家具のように“一生もの”として使い続けることができます」

ashikabi 「へえ~“一生もの”なんて、タンスだけかと思っていたよ!」

 振り返ってみれば、結婚して二十数年を経たが、家族が増え、引っ越しをするたびにわが家ではいったい何台の暖房器具を買い換えて来たことだろう! 電気ストーブと電気ゴタツに始まり、石油ストーブ、石油ファンヒーター、エアコン、そしてホットカーペットにオイルヒーター。

 これまで、家族の生活を支え続け、お世話になったこれら数々のモノたち。その製品が、大切に修理しながら一生使い続けることができる物ばかりならば、よもや季節ごとに大量の暖房器具が店頭に並ぶこともないだろう。

 私たちのライフスタイルが、いつの間にか「大量生産・大量消費」の渦の中で、「一生もの」というコトバを見失い、物に対する大切な感覚を、どこかに置き忘れてきているのかもしれない。

 物に対する大切な感覚、それは「人」と「物」との“心の繋がり”と言い換えてもいい。

 物との“心の繋がり”を失えば、モノに対しても、資源に対しても、同じような扱い、つまり「使い捨てる」ことが気にならなくなるだろう。

 そして、「自然」に対しても、「食物」に対しても、さらに「いきもの」たちや「人」に対しても、私たちはいつの間にか、この“心の繋がり”を見失っているかもしれないのである。

 金光教祖は、

「大根にも机にも御礼を言う心にならなければならぬ」

と説かれたというが、「御礼を言う心」とは、大根や机などの物たちに宿る“こころ”と、さらにそれらのものを生みだしたものと、深く心を通わせることにほかならない。

 12月の始めのこと、飛騨高山にあるオークビレッジ(代表 稲本正)を訪問させていただいた。

 薪ストーブとペレットストーブという“循環型のエネルギー”で暖をとった山の中のギャラリーには、魅力的な木製の椅子、年輪の浮き出た漆塗りの味わい深いテーブル、玩具、手作りの食器類などが展示され、ビレッジの方からは、「テーブルなどの家具は三代使えます」とのご説明をいただいた。
 
 丹誠込めて物を作り、その想いを受けとめながら大切に扱い、長く使わせていただくこと――

 そこには素材となった樹木を育てた人、師匠から受け継いだ技を駆使して作った人、家族の幸せを願い購入した人、子供の健やかな成長を祈り拭(ふ)き続けた人、そんな人々の温かな“こころ”がこめられることだろう。

 つまり、「物」とは、人々の深い“こころ”と、人々や大自然を生みだしたものの“こころ”が託された、“いのちのバトン”なのではないだろうか。

 ――そして、その最たるものが、私たちの躯(からだ)なのかもしれない。

 すべての生きとし生けるものたちが、このバトンを親から担い、それを後世へと伝えている。それが“いのちのバトン”を託された生き物たちの、生物多様性の諸相のようにも思える。

 私たちは人間だけの都合を優先して、この尊い“いのちのバトン”を断ち切るようなことをしてはならない。

 そのためにも、すべてのものに御礼を言い、そこに宿る深い“こころ”を拝むような、環境に負荷を与えない“循環型のライフスタイル”を、エネルギーのみならず家具、道具、建築、食べ物などあらゆる分野にわたって、現代の暮らしにに蘇らせることが必要ではないかと思うのである。

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2011年11月18日 (金)

神の“無条件の愛”について

 北海道の旭川近郊にお住まいの女性の方から、「神の愛について」と「憑霊について」の質問をいただきました。

 キリスト教の素養のある方のようで、贖(あがな)いや苦行を通さなければ、神の赦しを得ることができない、という観念に縛られていることが、手紙の内容から伝わってきました。

 たとえば次のような切実な悩みを訴えています。

「果たして一つひとつの過ちを、いちいち苦行や苦痛を通して改めさせられるのか、どんな小さな過ちも贖わなければならないのか。もしそうであれば、その贖い方、懺悔した後の心の持ち方などを教えてください」

 というものです。

 共通の悩みや疑問をお持ちの方のために、私からの回答を公開させていただきます。

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【回 答】

 頂いたお手紙によると、生長の家の教えを読むと、ほっとされるとのこと。
 それは、あなた様の本質が愛そのものであり、あなた様が円満完全な神の子さんだからです。

 神さまの愛について教えてほしい、とのご質問ですが、一言で云えば、神さまの愛は「無条件の愛」です。

 ですから神の愛には、「何か良い行いをしたから愛する」とか、「贖罪をしたから愛する」といった、「・・・・してから」という“条件”は一切ありません。

 ですから、そのような「贖いをしてから」「苦行をしてから」「懺悔してから」ようやく赦してくれるような条件付きの神は、それは人間の側が勝手に作りだしたものなのです。

 神さまの愛は太陽のように、誰にでも平等に無限に降り注いでいるのです。

 その愛をそのまま受けて、その愛のまっただ中に浴するのが、生長の家の神想観(座禅的な瞑想法)です。

「贖い」や「悔い改め」をするのが小懺悔だとすれば、生長の家は「現象は無い!」との大懺悔によって、現象の一切を否定して、そのまま円満完全なる神の子の実相の大海原へと、人生の航路を漕ぎ出すのです。

 また、お手紙にあるように、憑霊のことがどうしても気になるようでしたら、人間はそのままで円満な神の子であることが書かれた、『甘露の法雨』を読むことをお勧めします。
 

 これは改まって仏壇や神棚で誦げるもよし、また暇な時間がちょっとでもあれば、椅子にでも腰掛けて5分でも10分でも読まれるとよろしいでしょう。

 あなた様が、“神の無条件の愛”に目覚め、神の無条件の愛を悦ぶにしたがって、頼って来ていると思われる霊も、安らかな悟りを開いて救われるのです。

 人間は神の子です。

 憑霊などに惑わされるような存在ではありません。

 あなた様の内にある「神の子の円満完全な実相」を深く観じて、心から喜ぶことが神想観です。

 神想観について詳しく指導を受けたい場合には、あなた様がお住まいの場所に近い生長の家旭川教化部を訪問して、指導をお受けになるとよろしいでしょう。

連絡先は以下の通りです。
〒070-0810
北海道旭川市本町 1-2518-1
電話 0166-51-2352
 

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2011年11月 8日 (火)

自然エネルギーを求めて(5)――木質ペレットのこと

 東電の原発事故が発生して以来、私は自然エネルギーについての理解を深める中で、バイオマス燃料に注目するようになった。

 バイオマスの一つである薪を燃料とする「薪ストーブ」については、前回のブログで紹介させていただいたが、薪のほかにも、木質ペレットという燃料を使う「ペレットストーブ」というものがある。

 木質ペレットとは、地域の製材所などから出るおが屑や、丸太から柱を切りだした端材、間伐材などを木粉にして、それを圧縮して固めたものだ。

 木質ペレットは、基本的には次の3種類に分けられているようだ。

・「ホワイトペレット」――木の幹の部分でつくられたもの。
・「バークペレット」――木の皮でつくられたもの。
・「全木ペレット」――幹・皮を含む木全体からつくられたもの。

 いずれも、森から産出される端材や樹皮などの副産物が原材料だ。

 映画『みつばちの羽音と地球の回転』(鎌仲ひとみ監督作品)でも紹介されたように、スエーデンをはじめ欧州各地では、地域社会で共有する暖房や給湯装置の燃料としても木質ペレットが使われ、クリーンな循環型エネルギーとして活用されている。

 上記のペレットの中で、主として家庭用に使われるのがホワイトペレットで、これを利用した暖房器具がペレットストーブなのだ。

 このストーブは、ドイツ、オーストリア、イタリアなどの欧州諸国の製品に加え、アメリカ、カナダなどでも製造され、化石燃料に依存しない暖房装置として広く使われており、国産でもいくつかのメーカーが製品をエントリーしている。

 ペレットストーブの特徴としては、

①薪とちがって煙りが極めて少ないため、住宅地でも使用できること

②場所もとらず、エアコンなみの簡単な工事で安価に設置できること

③燃料代が、灯油のように国際市場の相場に左右されることなく安定していること

④CO2の増減に影響を与えないカーボンニュートラルな暖房であること

⑤薪ストーブと同様に、家の中で“本ものの炎”で暖をとることができること

という魅力的な特徴がある。

 そんなことを調査していた矢先―― なんと市内でペレットを製造し、おまけにストーブまで扱っている会社があることが分かった。

 環境問題に関心を深めるようになってから10年ほど経つが、“灯台もと暗し”とはこのことだった。

 さっそく電話で連絡をとり、5月末の休日に訪問させていただいた。

 それは「東京ペレット」という青梅市にある会社で、私は駐車場に車を止め、事務所の方に歩き始めると、

「ashikabiさぁ~ん!」と声が掛かった。

 なんと声の主は、これまで地域のPTA行事で何度も顔を合わせ、ともに二次会まで飲みに行ったことのあるOさんだった。

 事務所に入り、ぐるりと各種のペレットストーブに囲まれた応接スペースで椅子をすすめられ、私たちはこの日初めて、環境のこと、循環型エネルギーのこと、3.11の震災や原発事故後の日本のエネルギーのことなどを語り合った。

 私は、このペレットストーブの背後にあるもの、それは「森」と、「地域の産業」と、そして「家庭生活」とを結ぶ、画期的な循環型の社会がこのシステムの向こう側にあることが、温かく燃えるストーブの炎の中から次第に象を結び始めるのを感じていた。

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2011年10月15日 (土)

自然エネルギーを求めて(4)――あこがれの薪ストーブ

 目の前にあった夢が潰(つい)えたとき、人はそれに代わる新たな夢を追い始める。

 そして、その夢をいよいよ具体化するとき、私たちは「経済的な価値」を優先するか、それとも「経済以外の価値」を優先するかという問題に逢着する。

 ここで言う「経済以外の価値」とは、「倫理的」価値ということが大きなウエイトを占めるのであるが、ときには「美的」価値が、さらに地縁・血縁というゲマインシャフト的な「ご縁」が決め手となったりする。

 以前から、強いあこがれを抱いていた「自然エネルギー」を燃料とした暖房器具のひとつに、リビングで薪を燃やして暖をとる「薪ストーブ」がある。

「薪を燃やす」というと、森林保全に逆行して環境を悪化させるようなイメージを抱く方もいるかもしれない――

 しかし薪の燃焼によって排出されるCO2は、樹木の成長過程で吸収する量とほぼ等量であり、一方的にCO2と熱とを排出する石油・石炭などの「化石燃料エネルギー」とは対照的な、「循環型エネルギー」(Circulation Type Energy)なのである。

 つまり「薪ストーブ」を利用すれば、CO2の増減に影響を与えないカーボンニュートラルな生活が実現できるのだ。

 かつて私は、実はバーモント・キャスティング社(アメリカ)の薪ストーブで「アンコール エヴァーバーン」という製品の導入を検討した時期があった。

 しかし、薪ストーブの生活を詳しく研究していくうちに、思い掛けない発見が幾つもあったので、感心を寄せている方のためにその一端を紹介しようと思う。

「薪ストーブ」といえば、燃料は薪である。

 調査したところでは、薪ストーブは1束400円~500円ほどの薪を、だいたい1日で3束ほど使うそうだ。

 すると1カ月90束で約4万円ほどになる。
 ということは、一冬の暖房費だけで約20万円ほどの出費を覚悟する必要があるのだ。

 もちろん、自由に薪を採取できる山林があれば、費用は発生しない。

 また、森林組合などを通して原木に近い状態で購入すれば、薪も安価に入手できる。

 しかし山林から直接採取する場合も、森林組合から購入する場合も、薪作りに使うチェーンソーや斧(オノ)などの道具を調達し、薪を割るための体力と、そのための時間を確保しなければならない。

 薪を割る元気があれば問題ないが、時間が思うようにつくれないときや体調がすぐれないときは、ちょっと辛そうである。

 さらに重要なことは、「薪を置くスペース」を確保しなければならないのだ。

 一冬で450束の薪を燃料として使うとなると、わが家の場合は、畑のスペースか自動車のガレージをあきらめるかしなければ、冬を越せそうにないボリュームである。

 しかも、「薪は2年以上乾燥させる」のが理想というから、その倍となる900束(!)ほどの薪を置くスペースが必要となるのだ!

 これでは、わが家は経費(薪代)とスペース(土地)の双方から、畑も自動車も手放さなければ憧れの「薪ストーブ」ライフは実現しないかもしれない。

 さらに薪ストーブは、シーズンはじめに煙突掃除とストーブのメンテを毎年欠かさずしなければならない。

 高い屋根に登るリスクと煤(スス)だらけになるのを覚悟の上で、自分でメンテをすれば材料費だけだが、外注すれば3~4万円ほどかかる。

 つまり、薪ストーブを導入するためには――

①「お金」にゆとりがあるか「山林」を持っていること。

②家の近くに薪を置くための「土地」があること。

③薪を割るための「時間」と「体力」があること。

④「掃除」や「メンテ」が苦にならないこと。

⑤煙突のけむりによってご近所迷惑にならない場所に家があること。

 ざっとみても、これだけの条件を満たす必要があるのだ。

 満たしている条件が、「体力」と「掃除」だけではお話にならないことが、次第にハッキリしてきたのである(^^;

 わが家でこれを導入するためには、「定年後の道楽」としてなら家族も納得することだろう。

 しかし、学齢期の子供を4人も抱えて、自宅のローンの支払いに追われている現在では、夢のような話だったのかもしれない―― (^^;

 しかしながら、上記の条件を満たし、さらに薪ストーブに興味を抱いている方がいらっしゃれば、ぜひチャレンジすることをお勧めしたい。

 薪ストーブと同じく、木質燃料を燃焼させて暖をとり、しかも「森」と「地域の産業」と「家庭」とを結ぶ、循環型で地産地消エネルギーの本命とも思われる「ペレットストーブ」についても、折をみて紹介させていただこうと思う。

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2011年10月13日 (木)

宇宙は神さまの創造か?

 30代の主婦の方から「宇宙は神さまの創造か?」ということについてご質問をいただきました。

 質問と回答のメールでの遣り取りを公開させていただきます。

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質 問

 神様をもっと知りたくて、感じたくて、

「そうだ、神様は宇宙を造ったんだ!」

と思いつき、最近、宇宙に関する雑誌を読んでいます。

「神様は、こんなに広くて、すごい法則をおつくりになったんだなぁ」と、少しは神様のことがわかりそうだと思ってうれしい気持ちになったのですが、

「あれっ、宇宙って実相世界じゃないんじゃない?」

という疑問がわいてきました。

 神様は、現象世界はおつくりになっていないんですよね?

 宇宙は、現象世界?

 じゃあ、この星のたくさんきらめく大宇宙は神様の創造ではないのでしょうか?

 教えてください。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【回 答】

 お手紙を拝見して、あなた様が発見した宇宙への新鮮な驚きが伝わってきました。

 私も星座をながめ、ときおり子供たちと天体望遠鏡で星を観察したりしますので、星々の美しさに魅せられるお気持ちはよく分かります。

 さて、ご質問は、「宇宙って実相世界じゃないんじゃない?」ということへの、新たな驚きから発したものですね。

 これも、すでにあなた様がお気づきになっているように、私たちが肉眼を通して見ている宇宙は、実相世界ではなく、現象宇宙の相(すがた)を、私たちは観察しているのです。

 私たちの五感、六感から入ってくる情報は、すべて「現象」を感受しているにすぎません。

 鎌倉時代の夢窓国師という高僧は、次のようなコトバを残しています。

「月の衆水に影を映すがごとし」

 この場合の「月」とは、「実相」の象徴です。

「衆水」とは、世の中つまり現象世界を水に喩えたものです。

 実相世界は欠けることなく完全円満に大調和して輝いていても、私たちの五感、六感は、現象に映し出された世界しか感受することができないために、ときに歪(ゆが)んで見えたり、欠けて見えたり、全く見えなかったりします。

 ですから、夜空に輝く星々のきらめきも、神さまの創られた実相宇宙の「映し(現象)」ではありますが、「実相(実在)そのもの」ではありません。

 私たちが星の輝きを見て、そこに美しさを感ずるのは、現象世界に映し出された神(の幾分か)を観じているのです。

 神想観の折に、「吾れ今五感の世界を去って、実相の世界に入る」と称えるのは、五感・六感から入ってくる現象を見る肉眼の目を閉じて、さらにその奥にある「実相」(大生命)そのものを、いのちで観じるためなのです。

 実相は、そのままで完全円満であり、時間・空間を生み出すところの大生命であり、私たちはその宇宙大生命と一つのいのちなのです。

 この宇宙大生命のことを、古来から日本の神道では天照大御神と云い、仏教では宇宙を遍く照らす光りであるとの意味をこめて尽十方無碍光如来とも、大日如来とも、阿弥陀如来とも称しています。

 その実相大生命が私たちと「一つのいのち」であることを観ずる行事が「神想観」です。

 生長の家で言う「人間は神の子、仏の子」との意味は、そのような中味があるのです。

 以上が、メールを拝見した上での私からの回答です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【礼 状】(2011年10月9日付)

 質問へ返信をいただき、とてもうれしいです。

「宇宙は実相世界じゃない」というお答えに、やっぱりそうかー、と少し残念でした。

『甘露の法雨』にも、宇宙という言葉が出てきたり、宇宙飛行士なども「神を感じた」いう意味のコメントをしていたので、もしかしたら、という期待がありました。

 私は神様をとても愛しているのですが、つかみどころがないような気がして、少しでも神様を知る糸口みないなものがほしかったのです。

 やっぱり、神想観しかないんですね。少しずつ精進します。

 わが家には小学生以下の子供が6人いて、なかなかパソコンに向かえず、お礼が遅くなりました。

 ありがとうございました。

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 【回答 追伸】

 

 「宇宙が実相世界」なのではなく、実相世界はあなたの内に在るのです。

 それが「存在」、つまり“本当に在るもの”の神秘です。

 その「存在」(実在)こそがあなたであり、神であり、実相世界なのです。

 その「存在」こそが、「実相」なのです。

「存在」していないもののことを、「現象」と云い、「非実在」といい、仏教では「無」と呼んでいます。

 ですから「あなた」こそが、宇宙を生みだしたところの「存在」であり、それが「人間・神の子」ということの荘厳な事実であり、あなたと宇宙とは初めから一つであり、あなたは宇宙が生まれる前から在り続けているのです。

 この「存在」のことを「般若心経」では、不生不滅、不垢不淨、不増不減、と表現しています。

 その「存在」そのものの実相に帰るのが神想観であり、「中心帰一」ということです。

 つまり「中心帰一」とは、非実在なる「現象」に帰一することではなく、真の自分自身(存在)=「神(実相)」に帰ることなのです。

 ですから「神さまを知る糸口」は――

 『汝らの内』にのみ神の国はあるなり。(『甘露の法雨』人間)

 このコトバに素直に従い、内に心の眼を向けることから開けてきます。

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2011年10月 8日 (土)

自然エネルギーを求めて(3)――生活の身近にあった「火」のこと

 わが家での冬場と夏場に使用しているエネルギーのことを、読者にはちょっと煩わしいかもしれないが、少しだけ紹介させていただこうと思う。

 まず冬場の暖房は、以前は電気コタツと石油ストーブを使用していたが、8年前に4人目の子供が生まれてからは、危険を避けるために石油ストーブを廃止し、リビングにホット・カーペット敷いて、その上にコタツのやぐらを載せている。このほか寝室では氷点下に達するような晩のみオイルヒーターを使っている。

 一方、夏場の冷房は、網戸からの通風によるそよ風と団扇(うちわ)と、ときおりの扇風機――そして17年ほど前に買ったエアコンは、来客のときだけ使用。

 こんな具合に「電気」の使用を控える、いわゆる“省エネ”の生活を続けてきた。

 それでも、今年(平成23年)の家族7人分の電気使用量は、真冬の1月で411kWh(9,485円)、真夏の8月で223kWh(5,723円)と、どうしても冬場の寒い時期をしのぐためのエネルギー消費が跳ね上がっていた。

 しかし、このようなささやかな努力とは裏腹に、“省エネ”に努める生活は、家族にしてみれば決して快適なものではなかったかもしれない。春と秋を除いてガマン大会のような生活を遵守しているさまは、実状を知った人から見れば修道院や禅寺のようにも映ったかもしれない(^^;

 今年の3.11以降、原発の矛盾や問題点に気づいて以来、あらためて足下を見直しているうちに、ある肝心なことが見えてきたので、そのことについて紹介させていただこうと思う。

 それは、原発や化石燃料や石油化学製品の消費こそが、「廃熱」と「廃棄(CO2も含む)」という2つの点で、地球環境全体のバランスを崩す「問題の原因」なのであるから、それをできるだけ「買わない」し「使わない」ことはこれまで通りである。

 さらにもう一歩踏み込んで出来ることは、私たちが利用する資源やエネルギーを、原発や化石資源に由来しない循環型の「自然エネルギー」へと転換し、それを積極的に「買い」そして「使う」ようにすれば、その分だけ異常な「廃熱」と「廃棄」が消え、結果的に問題の原因が消え、さらに循環型社会が実現するという、あたりまえのことに気が付いたのである。

「自然エネルギー」とは、非枯渇性のエネルギー、つまり太陽と大地と水がある限り枯れることのないエネルギーのことで、太陽光をはじめ、水力、風力、地熱、波力、バイオマスなど、再生可能エネルギーといわれているものの総称である。

 たとえばバイオマスについてであるが、これは“生物由来の資源”という意味で、平たく言えば薪(まき)などの木質燃料のことである。(バイオエタノールについては別途考察予定)

 私が小学生だった40数年年前は、田舎に住んでいれは薪で竈(かまど)や風呂を焚き、学校でも冬になると薪ストーブの煙突を先生と生徒たちとで教室に組み立て、だるまストーブに薪を燃やして暖をとったものである。

 ストーブや風呂釜の中で燃える、あの埋み火の荘厳な炎の輝きは、薪のはぜる音やにおいとともに、今でも時を超えて蘇ってくるのであるが、よく知られているように薪などの木質燃料から出た灰は、カリウム、カルシウム、マグネシウムなどを多く含むため、野菜などの生育にとって大切な肥料となり、決してゴミとはならないのだ。

 思えば、家庭生活の中から、薪などのバイオマスによる「火」が消えたのは、人類の歴史からみればほんの最近のことにすぎないのではないだろうか。

 それまで人々は、薪による火で料理をし、火で暖をとり、火で風呂を沸かし、洋の東西を問わず家族で囲炉裏や暖炉、そして火鉢や掘り炬燵やペチカ(^^; などを囲んで親密なる時を過ごしてきたのである。

 現代文明が失った大切なものの一つは、この、かつて家の中にあった「火」を中心にしたいとなみであろう。

 思えば、昭和30年代から40年代にかけて、各家庭には急速に家電製品が普及し、バイオマスによる「火」は、電気釜や電気温水器やガスコンロ、ガス湯沸かし器などによって、その本来の居場所を失っていった。

 この新しい消費文明の潮流に拍車を掛けたのが、「火」に替わって屋内の中心部に登場したテレビという未体験のメディアだった。

 テレビは、波状的なコマーシャリズムによって、知らないうちに人々の心を徹底的に「モノ」や消費へと向かわせた。生活の中から「火」や森や自然との親密な関係を見失った私たちは、人間至上主義・経済至上主義へとひた走りに突き進んで来てしまったのではないだろうか――

 それが、今日における環境問題のひとつの重要な要因となったと、私は考えている。その背後に見え隠れしているのは、何万年も人間生活の身近にあった、森(自然)との繋がりを持った「火」の喪失である。

 これは最近、警察庁が公開しているデータを見て驚いたことであるが、日本における平成21年度の自殺者の総数が、なんと3万2000人に達していたという。それは、東日本大震災による犠牲者の数よりも、さらに1万人以上も上回る人々が、毎年毎年3万人も、尊いいのちを自ら絶っているのである。

 何千年という列島上の人類のいとなみの中で、果たしてこのような悲劇的な文明が、かつて発生したことがあっただろうか。

 身近な森から得た「火」の背後に感じ取っていた、「自然」との豊かな繋がり。これを見失った代償は、自殺者や、うつ病などの心の病の増加のみならず、さまざまな方面に影響を与えていることだろう。

 わが家での自然エネルギー利用の第一歩は、家の中にこの、かつて人間生活の身近にあったパイオマスによる「火」を、もう一度呼び戻すことなのかもしれない――

 そんな想いが、脳裏に燃える懐かしい炎とともに、心を温かく照らしていた。

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2011年10月 3日 (月)

インターネットと受験勉強

 中学3年生になるお子さんの勉学について、相談のメールを頂きました。

 その子は、これまで学校の成績もよく、地域のトップ校を目指して受験塾にも通っていたそうです。

 ところが、生来のんびりしたご性格のため、今年の夏ごろから塾から出される宿題等が間に合わなくなり、とうとう塾を休むようになったそうです。

 インターネットやメールにも、かなりの時間を費やしているようなご様子も、相談内容から伝わってきました。

「これからどのように子供に接したら良いのか」との質問をいただきましたので、同様の悩みを抱えていらっしゃる方の参考にもなればと思い、私の回答を公開させていただきます。

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 この度は中学3年になるお子様のことで、相談をお寄せくださりありがとうございました。

 わが家にも高3と中3の受験生の長女・次女がおり、さらにその下に小6と小3の男の子がいますので、お子様のことを心配されるあなた様のお気持ちはよく理解できます。

 ことに学生である子供がインターネットや、ケイタイメールなどに費やす時間と、勉強時間とのバランスは、人生経験の少ない子供たちにとっては、親が何らかのルールを設けない限りは自分でコントロールできなくなる場合があるかと思います。

 かといってルールで雁字搦めに縛りすぎても逆効果となりますので、親としては悩ましいところでもあります。

 大切なことは、本人も充分に納得できるようなルールを、親子でよく話し合った上で設けることが必要ではないかと思います。

 参考までにわが家での事例を紹介しますと――

 小学生の2人の男の子については、ゲームは毎日1時間というルールを設け、これを破ったら一週間使用禁止。

 さらに掟(おきて)破りをしたらゲーム機没収(^^;

 このルールは、小学生の子供たちと充分に話し合って、何度も改訂をしながら実施していました。

 ちなみに、現在は「ゲーム機没収中」で、本人たちも事情をよく納得して、今では手持ちぶさたなのでピアノや勉強に励んでいます。

 また、高3と中3の娘のインターネットとケイタイメールの利用については、これまで特別なルールを設けていませんでしたが、受験生である中3の娘の成績がちょっと落ちてきたのを懸念して、

「二学期の成績が◎◎以下に落ちたらケイタイ没収」あるいは「夜の◎◎時以降はケータイ使用禁止」という選択できるプランを夫婦で話し合い、これを娘に提案してみました。

 この背後には、明らかに携帯メールに費やす時間と、勉強時間とのバランスの問題があったからです。

 すると娘からは、

「――じゃあ、二学期の成績が◎◎以上になったら何かご褒美があるのか!」

などと逆提案されてしまいましたが、今ではひとつ踏ん切りがついたように、一所懸命に勉強しています。

 このように、子供たちがインターネットやゲーム機等から解放されて、勉強をしやすくするためのルール作りを、まずは夫婦でよく話し合って、その上で子供たちに提案してみるのもよろしいのではないでしょうか。

 さて、生長の家では「子供は神さまからの預かりもの」であり、「神の子」として拝み育てることが、教育の基本だと教えられています。

「自分の子供だ」と思ったら、なんとか親の思うとおりに育てよう、型どおりに育てようという計らい心が起こり、子供はその“思い”に縛られることを嫌って反抗します。また、逆に反抗しない場合には、自発的な能動性をなくした見た目だけの“良い子”となり、持って生まれた個性を見失ってしまいます。

 しかし、子供は「自分のもの」でも、「親のもの」でも、まして「教師のもの」などではなく、神さまの子供であり、大いなるご使命を持って生まれてきているのですから、その素晴らしい実相を拝み、どこまでも信じて、限りない可能性を伸ばしてあげなければなりません。

 そのためにも、子供たちが勉強しやすくなるようなインターネット等のルールを、子供たちの判断で自発的に決めさせてあげるような提案を、ご両親が知恵を絞って考えてあげることも大切かとと思います。

 あとは、学習塾の方針と、子供の個性との相性なども、よく配慮してあげる必要があるかもしれません。

 たとえばお子様の個性に合った学習塾に替えることで、無理なプレッシャーから解放されて、伸び伸びと楽しく勉強できるようになる場合もあります。

 以上が、頂いたメールを拝見した上でのアドバイスです。

 分からないことなどありましたら、なんなりとご質問ください。

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2011年10月 1日 (土)

自然エネルギーを求めて(2)――今できることを足下から

「これだけは実現したい」と切望しても、与えられた条件、資金、時期など、さまざまな阻害要因が重なり、それがたとえどんなに善いことで、どれほど望ましいことであったとしても、「実現」にまで至らないことは、人生では度々経験させられるところである。

 今般、福島で発生した東電原発事故による放射能漏れは、周辺地域のみならず、日本全体に深刻な影響を与えていることが次第に明らかになりつつある。

 そのこと一つとってみても、いかに原発というシステムが、人類の生活に不適合なものであり、「放射能」と「生命」とが相容れないものであるかが分かるのである。

 原子炉から放出されるセシウムの半減期30年。プルトニウムの半減期2万4千年という途方もないものを、いったい誰が責任を持って管理するというのだろう――。

 未来世代のためにも、一刻も早く、原発由来のエネルギーから、太陽光、風力、波力、地熱などの「自然エネルギー」を利用した電力へと、社会的な規模での転換を図りたいものである。そこで一念発起して、わが家で試みた太陽光発電プロジェクトだったが、その顛末は前回のブログをご参照いただきたい。

「時節到来」という言葉があるように、この世には、ものごとが人・事・処を得て自然に成就する「時節」というものがある。しかしそれは、ただ手をこまねいているだけで巡ってくるものではないのかもしれない。

 社会全体を、循環型のシステムへと移行させて行くためには、先ず先駆者となる人々が、未来へのより善きビジョンを描き、それを先ず足下からこつこつと実践することを通して、人々の心の扉を叩き続けることから、すべては始まるのである。

 地域の産業として、自然エネルギーを利用したシステムが社会的な規模で実現するのは、まだまだ時間を要するかもしれないが、個人の生活においては、今できることを一歩でも二歩でも踏み込んで、自然エネルギーを利用した暮らしを実現できるはずである。

――それにしても3.11における原発事故と、それが環境に与えた影響はあまりにも深刻である。

 スーパーに山積みされた野菜、鮮魚売り場の魚を見ても、私たちは放射能が与えた影響を勘案せざるをえず、地産地消という、これまで“安全”とされてきた前提がすっかり崩れてしまった感がある。

 ことに成長期にある子供のいるご家庭では、放射性物質による内部被爆への懸念は、学校給食のことも含め深刻な問題である。

 原発が与えた影響を考えれば考えるほど、環境保全への願いは募るばかりだ。

 このような「願い」から、わが家で3.11以降に取り組んだささやかな試みを、本欄では何回かに分けて紹介させていただこうと考えている。

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2011年9月28日 (水)

自然エネルギーを求めて(1)――羨望の太陽光発電

 福島における東電の原発事故以来、わが家では「自然エネルギー」の導入を真剣に考えるようになった。

 太陽光発電については、だいぶ前に施工業者に調査してもらったことがある。

 そのときは、

「屋根の形状の関係で、パネルを1kW程度しか載せることができませんので、ちょっと無理ですね」

との見立てで、やむなく断念したことがあった。

――あれから7年ほど経っている。

 パネルの形状も多様となり、面積当たりの発電量も、きっと増加しているだろう。せめて2kW程度でも発電できればいいのだが・・・。そう考え、今度はメーカーの相談窓口を通して、経験豊富な施工業者を紹介してもらった。

 数日後、施工会社の社長はじめスタッフらがわが家に来訪。

 同社の社長の話によると、ちょうど青梅市で「地球温暖化対策住宅用機器設置費補助金交付制度(平成23年度)」の募集が始まったところで、締め切りは一週間後。とりあえず申請だけでも出しておきましょう――とのこと。

 思いがけない朗報に、1kWあたり5万円、上限額は15万円とのことで、弾む心を抑えながらとりあえず2kWの補助金を申請することにした!

 同時に、施工チームの方に屋根の形状を徹底的に調査してもらうと、うれしいことに合わせて2.05kWの太陽光パネルの搭載が可能との連絡をいただいた。

 飛び上がるような想いで10年間のローンを組み、国と東京都への補助金申請書に署名し、東電に申請する発電所の名称を夫婦で話し合って決め、翌月に実施する施工の日取りも決定。

 わくわくしながら、家内とともに手帳とカレンダーに施工日をしっかり赤ペンで書き込んだ。

 これでいよいよわが家の屋根にも太陽光発電が乗るぞ! 子供たちをはじめ、ご近所、知り合い、職場の同僚にも、嬉しさのあまり発電所の設立をふれて廻った(^^; 

 そんな、工事まであと一週間とせまった晩のこと、施工会社の担当者から突然の電話が入った。

 受話器をとると、恐縮した声で、

「――屋根が特殊な形なので、パネル編成の関係で最低入力電圧に届かないことが判明しました。ご期待に添えなくて、まことに申しわけございません…」

との、あっけない結末を、申し訳なさそうに話してくれたのである(^^;

 かくして、またもや太陽光発電への道は閉ざされ、補助金の申請もローンもあえなく取り下げとなる幕切れとなった。

 これ以来、電車に載っていても、道を歩いていても、なぜか住宅の屋根ばかり視界に飛び込んでくるのだ。

 ――この家の屋根は2kWくらい。あそこは3kWは乗るぞ。
 おっ! この屋根の広さと陽当たりの良さなら4kW、いや4.5kW載せて数年で元を取れるなあ――

 そんな当て所のない皮算用が、脳裏に浮かんでは、屋根の上に浮かぶ白雲とともに、どこかへ消えていくのだった。

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2011年8月31日 (水)

嫉妬の炎を消すために

 先日、49歳の主婦の方から、ご主人の浮気についてのご相談のメールをいただきました。

 2年ほど前、風俗に行ったご主人を許すことができず、以来この方は夫婦としての関係を拒否し続けてきました。

 つい最近、あることからご主人の浮気が発覚し、ご主人を責め立てたところ、彼は家庭や会社での不調和の苦しみに耐えかねて、風俗出身の女性とホテルで密会していたことを告白、奥様の前で懺悔して生まれ変わることを誓ったそうです。

 しかし彼女は、夫に騙され、裏切られ続けていた悔しさと、肉体的にはとても敵わない親子ほども年の違う相手の女性(23歳)への激しい嫉妬から、いけないとは知りつつも、その後も毎日毎日ご主人を責め続け、自分でもどうしていいのか分からなくなってしまったそうです。

 そして、「どうか助けて下さい。苦しくて苦しくてたまりません」とメールが結ばれていましたので、あらぬ方向へエスカレートしないことを祈りつつ、取りいそぎ次のような返信を送りました。

 情報が限られた上での私からの一般的な回答となりましたが、なにかの参考になるかもしれませんので返信を公開します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【回 答】

 合掌、ありがとうございます。

 頂いたメールの内容を拝見しました。

 相手の女性に対する嫉妬から、身を焼くような苦しみに苛(さいな)まれているとのこと。

 また、信じていたご主人に裏切られた悲しみも、いかばかりのことかと思います。

 しかし、過ぎ去った「過去」をいつまでも握っていたのでは、そこから永遠に解放されず、いつまでも地獄の苦しみが消えることはありません。

 あなた様にとって何よりも大切なことは、「過去」を心から放ってしまうことです。

 ご主人も、自分の過ちで犯した罪を、いつまでも責め立てられていたのでは、やがて自暴自棄になって、その苦しさに耐えきれず、再び同じ過ちの渦へと巻き込まれないとも限らないのです。

 メールによると、ご主人は「今日からスパッと生まれ変わることを約束」されたとのこと。

 このご主人の精一杯の、潔い懺悔と、尊い決意とを、あなた様は大切に受け入れてあげなければいけません。

 そのためには、ご主人が自暴自棄にならないように、今後は決して、ご主人の「心の傷」に触れないことが大切です。

 また、生長の家の教えを学んでいるあなた様は、すでにご存じのことと思いますが、ご主人も、奥様以外の女性に走らざるをえなかったほどの耐え難い寂しさ、その後の地獄のような葛藤があったことを、理不尽なことに見えるかもしれませんが、よく汲み取ってあげなければなりません。

 しかし、すでに全てのことは過ぎ去り、過去へと永遠に消え去ったのです。

 ですから、済んだことの中に生活するのは、今日限り止めにしましょう!

 あとは神さまに全托することこそが、あなた様を、現在の嫉妬の苦しみから救い、夫婦が調和した本来の姿に帰るための唯一の道なのです。

 そのための具体的なアドバイスを以下に掲げますので、できるところから、実践していただければと思います。

①ご主人を「責める心」や、彼女への「嫉妬心」が生じたときには、迷わずに『甘露の法雨』を誦げ続けてください。

(法華経の中には、「甘露の法雨を注いで、煩悩の炎を滅除し」(普門品)と説かれています。「甘露の法雨」は観世音菩薩の大慈悲のコトバであり、これを繰り返し読誦することで、燃えさかる嫉妬の炎が消え、苦しみから解放されます)

②それでも、どうしようもなく苦しいときには、今までの「生活のモード」を、「信仰のモード」に一変させる必要があります。そのために最適なのは、生長の家の練成会を受けることです。

(例えば宇治別格本山の一般練成会や、地元の教区練成会などに参加して、ベテランの本部講師に何もかも打ち明けて、指導に素直に従うことをお勧めします)

③朝晩、一定の時間を決めて、祈り(神想観)、『甘露の法雨』読誦(先祖供養)を実修してください。

(神想観は、谷口雅春先生著の『詳説 神想観』や『新編 聖光録』などを参照しながら「四無量心を観ずる神想観」「如意宝珠観」などをお勧めしますが、もっとあなたの気持ちに合ったものでもかまいません。祈りの最後には、繰り返しますが、全てのことを神さまに全托することが大切です)

④ご主人の善いところを見つけて毎日「日時計日記」を書き続けましょう。

(生長の家を学んでいるあなた様ならご存じのように、教えに照らしてみれば、ご主人はあなた様を救うために現れた観世音菩薩です。未だかつて罪を犯したことのない円満完全なる「神の子の実相」を拝みきりましょう)

⑤ご主人と「あいさつ」をしっかり交わしましょう。

(「ありがとうございます」「おはようございます」「いってらっしゃい」「おかえりなさい」「おやすみなさい」これらの基本的なあいさつをしっかり交わすことで、心が着実に通い始めますので、忘れないで実行してください。心の通うところに本来の大調和した世界が顕れるのです)

 以上が、頂いたメールの文面を拝見した上での、あなた様へのアドバイスです。

 今は辛く苦しい時期ですが、信仰生活を続けていれば、すべてが好転する時が必ず訪れます。

 もし、私に追加のご質問がある場合には、実名と住所などを公表してください。手紙にて返信をお送りさせていただきます。

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2011年8月15日 (月)

「知らずに犯す罪」と原発事故(2)

 8月12日に本欄で発表した〈「知らずに犯す罪」と原発事故〉について、都内在住の主婦の方から率直なコメントをいただきました。

 生長の家に関心を持つ方の多くが、この問題について共通の疑問や悩みを感じていらっしゃるかもしれません。

 返信が長文になりましたので公開します。ご意見ご感想などありましたらお寄せください。

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 mama さま。貴重なご意見をありがとうございました。

 小学生のお子さんがいらっしゃるとのこと、水や食べ物への放射能の影響がご心配のことと思います。

 さて――
 
>> 生長の家の先輩方に放射能の懸念をお話しすると、
>> 認めたものが顕われるから気にしないでいい、人間は
>> 物質ではなく霊だから、何物にも冒されない、この困難
>> な時期に生れる赤ん坊は使命があって生れて来てい
>> るのだから絶対に守られる、という話になり、でも とか、
>> だけど とか言わず素直に受け取ればよいと言われます。

 
 先輩の方のご意見とのことですが、これは一見もっともらしい指導のようにみえますが、生長の家の教えがよく分かっていらっしゃらない“独り善がり”な考え方、と言わざるをえません。

 原発事故も含め、さまざまな「現象」に、「実相」の智慧をもって対処するためには、正確な情報と、深い愛と、祈り(神想観)を通して得た正しい判断とが必要です。

 もし原発事故や放射能汚染について「気にしない」ような、そんないい加減な信仰姿勢でいたならば、正確な情報を得ることも、時宜を得た最善の対処をすることも、まして正しい指導などはできません。

 そのような信仰姿勢が、「知らずに犯す罪」を、何度も繰り返してしまうのです。

「人間は物質ではなく霊である」という教えは、そんな曖昧(あいまい)で不徹底な生き方をすることではありません。

 内なる「神の子の実相」(善一元)を正しくはっきりと直視すること、そして「神の子・仏の子」として、自由自在に「現象」に対処して、真・善・美を生活の場に現すこと、それが霊的実在としての人間の生活なのです。

 さて、『真理の吟唱』の「向上の力を得る祈り」の中で、谷口雅春先生は次のように説かれています。

「真の愛は一体感である。彼のよろこびを、わがよろこびとし、彼の悲しみ苦しみを、わが悲しみ苦しみとして、彼より、そしてすべての人より、その悲しみ苦しみを除いて楽を与えんとする願いである。否、単なる願いではなく、実践である。真の愛は、中うつろにして大きく鳴るラッパのようであってはならないのである。少しでも多く、他の人々の悲しみ苦しみを除いて、悦び楽しみを与えるための実践を為すことである」          (同書「向上の力を得る祈り」より)

 つまり原発事故や放射能汚染などの「現象」について「知る」ということは、「彼の悲しみ苦しみを、わが悲しみ苦しみと」することなのです。なればこそ、正しく「知る」ことで「すべての人より、その悲しみ苦しみを除いて楽を与えるための実践」が可能となるのです。

 それが仏の四無量心を生きることであり、神の無限の愛を生きる生長の家の信仰生活です。

>> 現象の事実を知ることと、
>> 善一元の世界の安心を得ることとが、
>> 私にとっては相反するように思え、
>> 悩ましい日々です。

  
 繰り返しますが、信仰生活とは、私たちの「実相」である智慧・愛・生命を、この現象世界で“生きる”ことであり、それが神の無限の愛・仏の四無量心の展開としての私たちの運動です。

 だから「現象」のさまざまな事柄について正しい情報を得て、祈り(神想観)を通して人・事・処において自在に最善の対処をすることが信仰者としての生活なのです。

「善一元の世界」というのは単なる観念ではありません。また、「善一元」は私たちと離れたところに存在しているのではありません。私たちの実相こそが「善一元」そのものなのです。

 それが「人間は神の子である」ということの真意です。

 神の子・仏の子である実相を悦び、智慧・愛・生命を生きる私たちの生活こそが、人類光明化運動であり国際平和信仰運動なのです。

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2011年8月12日 (金)

「知らずに犯す罪」と原発事故(1)

 仏教の説話(『那先比丘経』)の中に――

「知って犯した罪と、知らずに犯した罪と、いったいどちらの方が重いか」という話がある。

 この質問に対して、同経の中では、

「知らずに犯した罪の方が重い」
との答えが述べられている。

 3月11日の東北大震災は、東北地方に甚大な被害をもたらしたが、ことに福島県で発生した東京電力の福島第一原発における事故は、8月に入っても未だに終息の目処も立たず、放射能と放射性物質を放出し続けているのが実状のようだ。

 原子力発電所は、現在日本に54基ほど存在し、その一つひとつの原発が、福島での事故と同じ災禍をもたらす危険性を秘めているということを、私たちは偏見のない目で見つめ直し、あらためて「原発とは何か」ということについて考えてみる必要があるのではないだろうか。

 多くの日本人、ことに都市部に在住する日本人にとって、電力の「原発」への依存ということや、その危険性や地域住民の苦悩については、今般の福島における事故を通してその甚大な被害が明らかになるまでは、「知らずにいたこと」なのではないだろうか。

 これは私自身への自省を込めて書いているのであるが、原発について「知らない」ということ、知らないがゆえに立場を鮮明にしていなかったということ、実はこれは「知らずに」原発を推進し、「知らずに罪を犯していた」のではないか、そんなことを強く感じている。

 繰り返すが「知らずに犯す罪」は、かえって知って犯す罪よりも重いという。

 それは、「焼け火箸」と知って握れば、大けがをすることはないが、「焼け火箸」と知らずして握った場合は、“大やけど”を負ってしまうからである。

 ましてや「死の灰」と言われている放射性廃棄物や放射性物質の場合には、今生きている世代のみが“大やけど”を負うだけならまだしも、子々孫々に亘って、いったいこれからどのような災禍をもたらす可能性や危険性があるのか――

 日本中にある「原子力発電所」から不可抗的に排出される「高レベル放射性廃棄物」が、現在どのような処理をされ(あるいは未処理のまま)、どのようなペースで地球上に蓄積され、それが人類の健康にどのような影響を与え、さらに現在進行中の福島原発事故の現状や、大量の被爆を覚悟の上で事故の処理に当たっている人々のことや、この放射能汚染にどのように対処すればいいのかを知るためにも、私たちは“原発”や放射性物質の与える影響について、より深く、より正確な情報を知る必要があると思われるのである。

――私は元来、保守的な人間である。しかし福島での原発事故を機に、イデオロギーによる偏見を超えて、未来世代の子や孫たちのためにも、目をそらすことなくこれらの現状をしっかりと「学ぶ」ことの義務を感じている。

 それが、今日の日本において「知らずに」罪を犯さないための確かな生き方であり、今般の大震災と原発事故を真摯に受けとめ、人と自然とが調和した世界を拓くための、大きな転機にしなければならないと考えている。

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2011年8月 6日 (土)

生きるって何でしょう

 10代前半の女子の方から、「生きるとはなにか」「人間とはなにか」という、存在についての哲学的なご質問をいただきました。

 人生のある時期、このような根元的な問題に逢着する人もいれば、このようなややこしいことなどほとんど考えることもなく生きている人もいます。

 このようなことへの関心や疑問が生まれてくるということは、すでにその方の内にある神性・仏性が目覚めはじめている証(あかし)でもあります。 

 こころの目を澄ませて観れば、私たち自身を含め、周りには不思議なことが充ちています。10代、20代のころには、この深淵が巨大な不安と映ることもあれば、光明輝くよろこびの泉として捉えられることもあります。

 大切なことは、この巨大な不安ともみえる不思議な宇宙から逃げないこと、目を背けないこと、いいかげんなところで妥協しないこと。そして答えを探求し続けること――

 では、次に質問と回答を紹介させていただきます。

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【質問】

 こんにちは。

 生長の家の皆さんに、前から聴きたかったことがあります。

「人間はなぜ生きるのか」ということです。

 私にはよく分かりません。

 以前、『日時計24』に載せていただいた「マイ・ポエム」に、私は「生きるのは、幸せを味わうためだ」と書きました。

 でも正直私は、そう思ってはいません。

 幸せだから何なんですか。私は、人間が存在しているというこことが、根っから不思議です。

 生きるって何でしょう。

 人間て何でしょう。

 誰でもいいので、私に教えてください。

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【回答】

 質問のおハガキを読ませていただきました。

「人間はなぜ生きるのか」ということ、十代前半でこのような哲学的な質問をされるあなた様の魂(たましい)のことを、「大きなご使命をもって生まれた方なのだな」と、そんなことを思いながら回答を書かせていただきます。

 あなたがおハガキでご質問されているように、「生きる」とは、幸せを味わうだけの、それだけの存在ではないかもしれません。

 また、私たちが「存在している」ということは、それは「この世」がある、ということとともに、本当に不思議なことなのです。

 あなたのおハガキを見ていて、ふとその昔、私が教えを受けた先生から聴いた次のエピソードを思い出しました。

 これは何年も前の、関西での話です。

 ある日、生長の家の先生のところに、上品なご婦人が人生相談に来られたそうです。

 そのご婦人が語るのには、彼女はとても熱心に神さまを信仰し、ある宗教の教会に度々お参りして、たくさんのお金を奉納して、神さまに自分の幸せや一家の幸せを祈り、多くの人を教会へとお誘いしていたので、自分でも「わたしほど熱心に神さまを信仰している人はいない!」と、自信をもって思っていたそうです。

 ところが、ご主人の経営していた会社が行き詰まり、とうとうお金の遣り繰りができなくなり、にっちもさっちも行かなくなってしまいました。

 ある親しい方が見るに見かねて、生長の家のことを紹介されたそうです。このご婦人は藁(わら)にもすがる思いで、紹介された講師のところに相談に来られたのでした。

 そのご婦人は、生長の家の講師に、これまでご自分の信じてきた信仰のこと、そしてとうとう行き詰まってどうにもならなくなったことなど、思いのたけをお話になると、

「――この世には、神も仏もいないのでしょうか」

と訴えられたそうです。

 すると講師は、間髪を入れず、

「あなた、この世にはねえ、神も仏もいませんよ」

と答えられたそうです。

 そのご婦人は、

「やっぱりそうでしたか。もう神も仏もあるもんか、私はだまされていたッー!」

と、失望のあまり、地団駄(じだんだ)をふんでくやしがりました。

 それを聞いていた講師は、静かに次のように言われました。

「あなたねえ、この世の中に神はないけど、神さまの中に、この世はあるんだよ――」

 ご婦人は、そのコトバに触れたとき、まるで天地が開けるような思いがしたそうです。

 彼女は帰宅するとすぐに、思いつく限りの人に連絡して頭を深く下げて資金繰り(お金)の手配をし、打つべき手を全て打ち、夜眠る前には、この世の一切を抱き育んでいる神さまに、すべてを打ち任せて眠る、このような日々を送っていました。

 ――そして数カ月、気が付いてみれば、つぶれそうだった会社が持ち直し、いつしか借金は消え、彼女の家はふたたび富み栄えていたそうです。

 さて、前置きが長くなりましたが、人間が存在している、あるいは、この世が存在している、ということの背後には、それを生みだした宇宙大生命ともいうべき「神」が存在している、というのが生長の家をはじめ、仏教やキリスト教など世界にある伝統的な宗教の説く世界です。

 だからあなた様は、お父さんお母さんのお子さんであると同時に、この大生命(実在)の子であり、すべての人間は一人の例外もなく大生命の子どもなのです。

 この宇宙的な大生命のことを、私たちは神と呼び、仏とも呼んでいます。

 つまり、人間はみな神の子であり、仏の子なのです。

 人間が神の子であるということは、あなた様の内には、無尽蔵の「知恵」と「愛」と「生命」そして無限の喜びとが、充ち満ちているのです。

 ですから「生きる」ということは、大生命があなた様を生きている。神さまがあなた様を生きているのであって、わたしたちは「生きる」というよりも、大生命(神さま)に「生かされている」のです。

 コトバがちょっと難しかったかもしれませんが、とても深い意味をもったご質問をいただいたので、このような、まるで大人にお話しするような文章になってしまいました。

 分からないことがあれば、いつでも、どんなことでも、遠慮なくご質問ください。

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2011年7月27日 (水)

弟のギャンブル

 弟のギャンブルをやめさせたい、という59歳になる主婦の方からご相談をいただきました。

 男性がギャンブルに走る、というのは、その方だけの問題として捉えられがちですが、決してそうではありません。

 その背後には、美しい純真なる心が、声なき叫びを挙げている場合が多いように見受けられます。

 お姉さまからのご質問と、私の回答を紹介させていただきます。

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【質問】

 ありがとうございます。

 現在、会社勤めをしている50代の弟の事でご相談申し上げます。

 子供たちは皆成人して独立。弟は、単身赴任で地元に帰り、母の居る実家より通勤しています。

 仕事はつつがなくこなし、地元の評判も良いのですが、以前の単身赴任の時に覚えた競馬等のギャンブル癖が治らず、母に時々金を無心しているようです。

 最近は、ひどくなり、私の所まで、嘘と分かっているような理由を付けては仮に来る始末です。

「返すから」というのですが、返したり返さなかったりです。

 弟の妻も、あきらめているのか、ぜんぜん帰ってきません。こんな弟に、母も私も心を傷めています。

 どのように対処したらよろしいでしょうか。

 高知県  主婦 (59歳)
 

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【回答】

 弟様のギャンブル癖のこと、さぞやお悩みのことでしょう。

 男性がギャンブルに走る要因として考えられることを、幾つか挙げてみますと――

①ご家庭や、夫婦が不調和で面白くなく、その辛い気持ちを紛らわして寂しさを解消するため。

②ご家庭では奥様に、職場では上司や同僚に、いつも負け続けていることが辛くて、自分でも勝てる可能性のあるギャンブルに走ってしまう。

③上記のようなことが度重なって、ギャンブルで負けた金額が高額となり、ふと冷静になったときに自分を責めてしまい、その辛さをうち消すために、さらにまたギャンブルに引き寄せられる。

④いつかどこかで一攫千金を得て、「これまでの“負け”を帳消しにして、皆を見返したい」との願いから、みさかいもなくギャンブルへとお金を投ずる。

 以上のようなことが考えられます。

 あなた様もご存じのように、ギャンブルを続けている限りはこれらの問題は解決しません。

 仮に、一時的にお金を儲けたとしても、そのようなあぶく銭は、たちまち消え去ってしまい、そうなると、先に挙げたように、弟様はますますギャンブルに走る、といった悪循環がうまれます。

 このような方を正しい道へと導くためには、なによりも先ず本人の自覚が一番大切ですが、そのようにになかなかいかないところが、ギャンブルに走っている方のやっかいなところでもあります。

 弟様を導くためには、まず、彼と奥様との調和を図ることが第一です。

 夫婦仲良くなれば、ギャンブルになど目もくれなくなることでしょう。

 そのためには、弟様か、その奥様に夫婦調和の素晴らしさを知ってもらうことが大切です。

 あなた様が生長の家で説いている内容についてお話になってもよろしいし、地元で開催されている誌友会なり、練成会なりにお誘いして、夫婦調和の大切さ、家庭調和の素晴らしさについて学んでいただくことが、問題解決の第一歩です。

 あるいは、弟様のお子様たちに協力していただけるようであれば、ご両親に手紙を書いていただくというのも一つの方法です。

 ともあれ、お金を与え続けている限りは、弟様のギャンブルの火に油を注いでいるようなものですから、いつまでも消えることはありません。

 そのことも弟様によく理解していただき、弟様のためを思えばこそと、お金の提供を打ち切ることも、お母様とよく話し合った上で決めていただければと思います。

 もうひとつの方法は、生長の家にふれていらっしゃるあなた様が、弟様のこと、その奥様のことの一切を、神様に委(ゆだ)ね、すべての人やものや事の一切を神に委せて神想観(生長の家の座禅的瞑想法)を実修し続けること。
 そして、聖経『甘露の法雨』を誦げ続けることです。

 そうすれば、不可視の世界から必ずや何らかの導きがあるはずです。その導きに素直に従うことで、弟様がより正しい道へと導かれ、問題が解消することでしょう。

 以上が、お手紙の文面を拝見させていただいた範囲での、私からのアドバイスです。

 さらに詳しいご相談をされたい場合には、地元の教化部長か、地方講師の方に相談されることをお勧めします。

 また、生長の家本部では「神癒祈願」もさせていただいております。弟様の祈願をお申し込みいただければ、本部講師が交代であなた様と一緒に、弟様のことを祈念させていただきますので、必要とあれば遠慮なくお申し込みください。

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2011年6月14日 (火)

本当に大切なことは

 「自分が大嫌い」だ、というご16歳になる女子高生の方から、ご自身の性格について質問をいただきました。

 自分の過剰な性格を持てあましながら、当て所なく運命をぐるぐる回っている、そんな経験は私にもありますので、この辛さはよく分かります。

 これは年齢を越えたテーマかもしれません。

 同じような悩みを抱えていらっしゃる方のために、彼女からの質問と、私の回答を紹介させていただきます。

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【質問】

 私は自分が大嫌いです。

 その理由は私の性格にあります。

 私は小さい頃から、いつも周りの目ばかり気にする無口すぎる性格で、その性分が祟ってか人間関係も行き詰まってしまって、小学校高学年から中学卒業時まで不登校を繰り返してきました。

 おまけに超のつく怠け者なので、ついに高校受験までも放棄してしまいました。

 そんな、もうどこから手を付ければいいか分からないような時に出合ったのが「生長の家」の教えだったのですが、その教えに触れればふれるほど、自分の力量の少なさや薄っぺらさに目がいき、前に進めずにいます。

 かといって全く成長しないわけではなく(そう思いたいだけかもしれませんが)、毎日、神想観をした後は「私は神の子だ!」という想いがどこともなく湧き上がって、意気揚々と家を出るのですが(今は一念発起して学校に行かせてもらっています)、やはり今までの積み重ねがゼロに近いせいか、周りの人からの対応や、その対応に対しての私の反応の全てが不自然で、いつも他人に嫌な想いをさせてしまいます。

 さらに、そればかりでなく、家族とも隔てなく話すことが難しくなってきてしまいました。でもその原因は私にあって、それを解決するには努力をすればいいだけということは、わかってはいるのですが、その一番元となる私自身に、そこまでお金を掛けてもらってまでの価値があるのか正直わからなくなる時があります。

 かといって、このままでいいわけもなく、といいますか、これ以上家族や周りの人に迷惑を掛けてはいけないことも分かっているつもりなのですが、でも、いつもいろいろな感情や過去の出来事、未来への期待や偽善やらが空回りして、落ち込んで、動けなくなってしまいます。

 そんな自分から抜け出すには、また、もっともっと心の深いところに根差すような強い信念を得るには、どうすればいいのでしょうか。

 見苦しい、長々とした文章ですみません。何かアドバイスお願いします。

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【回答】

 私は、昨年までは『日時計24』の編集をはじめ、生長の家から出版される機関誌や新聞などの編集のお仕事をしていました。

 そんな私の目から見て、あなたがハガキに綴られた、しっかり自分のことを客観的にとらえて、自由自在に表現されているご文章にびっくりしています。

 このような優れた感覚の持ち主は、大いに自信を持っていいと思います。

 また、ぜひこの“表現するチカラ”を伸ばして行ってもらいたいと思います。

 もうひとつ、おハガキを拝見してハッキリ観じたことは、「人間は神の子であり、仏の子であるということに、この子は目覚めはじめているな」ということでした。

 地球上には、これまでたくさんの人間が生活してきましたが、「人間・神の子」というコトバに触れて、まさに自分自身がそうであったことに気が付きはじめる人は、あなたが思っているほど多くはないのです。

 キリスト教ではこれを、「神性」と呼び、仏教ではこれを「仏性」と呼んでいます。

 もっと言えば、この「神性・仏性」が直感的に分かる、ということは、それだけで貴方には大いなる使命がある、ということなのです。

 その、ご自分が持って生まれた使命を、あなたは大切にしなければいけません。

 生長の家の教えのポイントは、

・「唯神実相」=つまり人間は神の子であり、仏の子であるということ。(縦の真理)

・「三界唯心」=ようするに全ては心の影であり、現れているだけにすぎない、ということ。(横の真理)

 この2つの視点のことを、いつも思い出してください。

 そして、全ての現象は“心の影”であり、現れているだけである。ということを、生長の家では「現象は無い!」というコトバで表現しています。

 ですから、過去は無い! のです。過去の不完全な自分も無い!  できなかった自分も無い! のです。

 過去の自分の出来なかったことや、現在の自分に自信が持てないことなど、そんなただの影に過ぎない「現象」に捉われる必要はありません。

 実在するのは、「神の子・仏の子」である、あなたの実相実在だけなのです。

 実相を観ずるお祈り(神想観)を通して、「今」そのまま円満完全な、生まれたての神の子のいのちに立ち返って、現象無しの「今」を、“意気揚々”と楽しんでください!

 周りの人の反応や、ご家族の方とのコミュニケーションは、自分の実相が神の子であることを悦んで楽しく生活していれば、自然と(放っておいても)大調和してくるのです。

 だから焦る必要はありませんし、もし仮に上手くいかなかったとしても、人生は“神の子のいのち”を表現するためのレッスンの場ですから、ゆっくりと、一番大切なあなたのいのちのリズムを大事にしながら、楽しく楽に出来ることから始めてください。

 また、お手紙では、「私は小さい頃からいつも周りの目ばかり気にする無口すぎる性格」だったと書かれていましたが、それを「変えよう」なんて思う必要はありません。

 無口でいることによって、また不登校となることで、大切なものをまもり、そして育み続けてきたのですから、これまでの人生で無駄なものは一つもないのです。

 

 本当に大切なことは、「人間神の子、仏の子」に目覚めること。

 そして「人間・神の子」の黄金の人生を悦び生きること。

 あなたの内なる“神の子のいのち”を信じて、安心して神想観を実修してください。

 そして勉強に、読書に一所懸命に励んでください。必ず道が開けてきますから。

 また、人生のこと、真理のことで分からないことがありましたら、何なりとご相談ください。

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2011年6月13日 (月)

「産土の神」と「教えの先達」について

 先月、三十代の女性の方から、「産土の神」についてと、「懺悔の神示」に説かれている「吾が教えの先達」ということについて、ご質問をいただきました。

 質問の本文と、私からの回答を紹介させていただきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【質問】

 合掌、ありがとうございます。

 新緑のさわやかな季節となりました。
 貴人におかけましては、益々ご清栄ののこととお喜び申し上げます。

 お忙しいなか申し訳ございませんが、二つの相談をさせていただきます。どうぞ宜しくお願いいたします。

〔1つ目の相談〕

 私は、父が駐在員でしたので、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス市で生まれました。

 生後半年ぐらいから、カナダ国ブリティッシュコロンビア州リッチモンド市へ引っ越しました。同市で弟が誕生しました。

 私が7歳、弟が1歳3カ月ごろに帰国しました。

『霊供養入門』の184ページに、現実世界の奥にある「産土(うぶすな)の神」について書かれています。

 私のような生い立ちの場合、産土の神様について、どのように考えたらよろしいのでしょうか。

〔2つ目の相談〕

 亡き祖母は、生長の家地方講師を拝命していました。
 教階は分かりません。

 自宅で、『人生を支配する先祖供養』『霊供養入門』を参考に、仏壇ではなく『甘露の法雨』をご本尊に見立てて中央に置き、厚紙で作った位牌を安置し、聖経を読誦して先祖供養をしています。

「懺悔の神示」の中に、

「汝らのうち病める物らば、吾が教への先達の許に来りて祈りを乞い神想観の指導を頼め。吾が教えの先達は吾がことばを受けたるものなれば、彼の言葉汝を癒やさん。心に省みて罪ありと思うものは、教えの先達に包むところなく懺悔すべし」

と書かれていますが、ここで説かれた「吾が教えの先達」に、祖母を当てはめて位牌に向かうことは、妥当でしょうか。

 ご回答よろしくお願い申し上げます。

 末文になりましたが、ますますのご発展を心よりお祈り申し上げます。

            再 拝

茨城県 女性 30歳
信仰歴10年

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【質問への回答】

合掌、ありがとうございます。

 まず、最初のご質問、「産土の神様」についてですが、人間の運命のおよそ50%ほどは前世からの宿業、あとの約25%は霊界におけるご先祖などの高級霊(守護神)の導き、残りの25%は本人の精進努力によって決まる、と言われていることはご存じのことと思います。

「産土の神様」の影響は、霊界における高級霊の導きの一部に当たります。

 谷口雅春先生によると、古代から歴史が連綿と続いている日本の国のような場合は、霊界において産土の神様がそれぞれの地域を守護し、人々を導いているため、霊界でのネットワークが緊密に張り巡らされていると教えていただいています。

 では海外(ご質問をいただいたアメリカ合衆国やカナダ)の場合はどうかというと、日本とは事情が異なるとは思われますが、歴史が浅いなりに、(あるいは先住民族の時代から)霊界での市長のようなご存在がいると推察することはできます。

 しかし、土地の神様を丁重にお祀りしてきた歴史や慣習のない風土や、古代からの祭りが途絶えてしまった風土では、土地の神様とそこで誕生する人々との間に、日本ほど深い結びつきがあるとは考えにくいのではないかと思われます。

 ことにご両親が一時的に海外に居住されて、その土地でお生まれになった方の場合は、ご両親と深い繋がりをもつ日本の産土神様の導きや、ご先祖のお導きが強い影響を与えていることが充分に考えられます。

『霊供養入門』の263ページには、守護神について以下のような記述があります。

「人間には守護神というのがついていて、その人を安全で、繁栄の道へと導いてくれるようになっているのである。守護神というのは、その人の祖先の霊魂で、修行足りて或る程度の神通力を得たものが、あらかじめ産土の神から選ばれて胎児の出産の刹那、その子供についていて、その人の一生涯を護っていてくれることになっているのである」

 ということが紹介されていますが、ここで注目していただきたいのは、

「守護神というのは、その人の祖先の霊魂で、修行足りて或る程度の神通力を得たものが、あらかじめ産土の神から選ばれて――」

 という記述です。

 このことからも、ご両親と深い繋がりをもつ日本の産土神様の導きや、ご先祖のお導きが、あなた様や弟様の運命に強い影響を与えていることが推察できます。

 ですから、あなた様のような場合は、産土の神様は①「ご両親と深い繋がりをもつ日本の産土神。②「お生まれになったロサンゼルス市の土地の神様」これらの神々の連携と、双方の神々に護られて導かれていたのではないか、と推察することができます。

 さて、次のご質問ですが、「懺悔の神示」に記述された「吾が教えの先達」に、お祖母様を当てはめて位牌に向かうことは妥当か否か、ということについてお答えします。

 この「吾が教えの先達」について書かれた「懺悔の神示」をやや詳しく紹介すると、

「汝らのうち病める者あらば、吾が教えの先達の許に来りて祈りを乞い神想観の指導を頼め。吾が教えの先達は吾がことばを受けたるものなれば、彼の言葉汝を癒さん。心に省みて罪ありと思うものは、教えの先達に包むところなく懺悔すべし」

と説かれています。

 つまり教えの先達とは、「神想観の指導」「言葉による教えの指導」「懺悔の言葉を聴くこと」この3つの役割をしっかりと担える者でなければ、「吾が教えの先達」とはなり得ません。

 従って、すでに霊界へと移っていらっしゃるお祖母様の場合は、霊界からあなた様の「懺悔の言葉を聴くこと」はできるかもしれませんが、それ以上の働きをすることは、難しいと思われます。

 生長の家の教えを真剣に学ばれるのであれば、あなた様が本当に信頼できる本部講師を見出し、その講師の方から教えを請うことをお勧めします。

 生長の家本部会館では、毎日「聖典講義」が本部講師によって行われています。

 また、各地にある生長の家練成道場や、生長の家教化部でも各講師が指導をしておりますので、師となり得る人を求めて門を叩いてみてはいかがでしょうか。

 このほか、分からないことがあれば、何なりとお訊ねください。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【礼状】 (平成23年6月1日付)

 合掌、ありがとうございます。

 雨のおかげで、緑もひときわ美しく見えるようです。

 久都間先生には、ますますご健勝のこととお喜び申し上げます。

 この度は、つたない相談に、迅速にご丁寧なお返事を下さり、まことにありがとうございます。

 お礼が遅くなりまして申し訳ございません。

 先生のご回答で、私の産土神様について知ることが出来て、大変嬉しく、安心いたしました。

 また、「懺悔の神示」の「吾が教えの先達」についても、理解できました。

 近くにいる祖母に指導を求められたら良いなと思いましたが、それでは不十分であることが分かり、浅はかであったと自分を恥ずかしく思います。

 今までにも練成や行事に参加させていただいたり、個人指導を何度かしていただいたことがあります。

 改めて指導をしていただきたい時は、足を運ばせていただきたいと思います。
お忙しい中、ご回答を下さり本当にありがとうございます。

 季節柄どうぞお体をお大切にしてください。

 まずはお礼のみにて失礼いたします。

                    再 拝

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2011年5月18日 (水)

田中優著『原発に頼らない社会へ』を読んで

 この映像のことは Facebook でも紹介させていただきましたが、私が最近読んで感銘した田中優氏の近著『原発に頼らない社会へ こうすれば電力問題も温暖化も解決できる 』の幾つかのポイントが、この講演で語られています。

 日本における電力問題、温暖化防止、そして身近に迫る原発事故の放射能汚染に対処するための処方箋が、近未来へのビジョンとともに縦横に述べられていますので、私たち一人ひとりが、自身の判断と責任においてこれらの問題に対処するためにも、また、これからの日本の「絵図」を描くためにも、時宜を得た内容ではないかと思います。

 同氏の著作と講演を通して、現在の日本全体のシステムを俯瞰していると、それを解決するための幾つかのレバレッジポイントが見えてきます。

 文明、経済、政治の各視点から、より良い日本を実現するためのポイントを、それぞれのお立場で受けとめて、出来るところから一つひとつ取り組んでいくためのヒントにしていただければと思います。

 先ずは、ご覧になってください。

 (ただし2時間半ほどの内容です(^^;)

http://www.ustream.tv/recorded/14146884

http://www.earth-garden.jp/magazine/11043/

 

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2011年5月17日 (火)

迷っている霊はひとりもいない

 なかなか結婚しない35歳になる息子さんのことについて、相談の手紙を頂きました。

 質問されたご婦人は、この原因として、ご自身が生まれる前に死産したというお兄様の供養が「充分でないのでは」との危惧をいだいていました。

 皆さまのご参考になるかもしれませんので、私からの回答を、実名等を伏せて紹介させていただきます。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 合掌、ありがとうございます。

 この度は便りを寄せてくださり、ありがとうございました。
 息子さんのご結婚のこと、そして亡きお兄様の供養のことについて回答させていだたきます。

 あなた様は、これまで生長の家の信仰生活を通して、また地方講師としていろいろなご体験をされたことと思いますが、今回のことを機縁として、いよいよ本ものの信仰へと目覚めるときをお迎えになっていらっしゃるのだと思います。

 この問題は必ず最良のすがたで解決できますので、大安心のうちにご精進いただければと思います。

 さて、まずあなた様がお生まれになる前に死産されたという、お兄様のご供養についてですが、死産された御霊は、地方講師をなさっているあなた様ならお分かりになることと思いますが、この世での人生経験を必要としないほどに高く魂の生長を遂げておられる高級霊であることは、間違いございません。

 お手紙では、

「次男が結婚に乗り気でないのも、お兄さんの供養が充分でないのではないかと気に掛かっています」

 とのご質問でしたが、そのような見方とは別に、お兄様はご先祖とともに、これまでご実家をはじめ、あなた様の嫁ぎ先のご家族をも導き、さらに今も守り続けていらっしゃることがお手紙の内容から読みとれますので、そのことにお気付きになることこそが、お兄様の方ではなく、ご存命のご家族にとって大切なことではないか、そんなことを思わせていただきました。

 ですから、あらためてお兄様をご供養されたいのであれば、日々の祈りの中でこれまでのお導きとお護りへの満腔の感謝を捧げさせていただくことこそが、大切ではないかと思います。さらに必要と思われるのであれば、あなた様がおっしゃるようにお名前を付けて差し上げてもよろしいかと思います。

 あらためて申し上げるまでもありませんが、生長の家は、「迷っている霊はひとりもない」という教えです。つまり円満完全なる「実在」のみを相手にして、日時計主義を貫き生きることで地上に天国を実現するのが生長の家の信仰生活です。

 これについては『霊供養入門』(谷口雅春著)301~304ページなどに詳しく説かれていますので、紐解かれてご確認ください。

 そしてご次男様の結婚についてですが、まず信仰者であるあなた様ご自身が、次男様の実相を拝み、感謝し、さらにその円満なる実相を、神想観の折に観じて魂の奥底から悦んであげることが大切です。

 お手紙の内容から推察しますと、どうやら現象のご次男様のお姿(偽象)ばかりに捉われていらっしゃって、実相本来の完全円満な相(すがた)を拝むことが、おろそかになっているようにも見受けられますが、いかがでしょうか。

 現象は砕けては散る波のような世界であり、諸行無常であることは、地方講師であるあなた様はよくご存じのことと思います。

 それを「善くしたい」のであれば、「現象無し!」に徹しきって、実相の完全円満なる神の子の「真象」のみを直視して、その円満完全なる世界に全てを打ちまかせることこそが大切なのです。

 いつまでも「偽象」のニセモノを相手にしていたのでは、不完全な「偽象」はいつまでも、どこまでも付いてくるように見えるのです。

 仏教などで説いている「三界唯心所現」の横の真理は、「実相独在」の縦の真理を直視することによって、この世(現象世界)にも、神の国・仏の国さながらの完全円満な相が現れてくるのです。

 いつまでも「現象を整えよう」「現象を良くしよう」と、ニセモノの偽象を相手にして気をもみにもんで、あらゆる方策を尽くして条件を整えてみたところで、肝心要の「実相を観ること」を置き忘れていたのでは、頑張れば頑張るほど、逆の結果をもたらすことにもなりかねません。

聖経『甘露の法雨』には、

 外にこれを追い求むる者は夢を追いて走る者にして
 永遠に神の国を得ること能わず。
 物質に神の国を追い求むる者は
 夢を追うて走る者にして
 永遠に神の国を建つる事能わず。
 キリストは又云い給えり、
 『吾が国は此の世の国にあらず』と。
 此の世の国は唯影にすぎざるなり。

 と、現象に捉われることの虚しさが説かれています。

 地方講師のあなた様なら、これ以上の解説は不要と思われますが、今回のことを通して、あらためてこの「唯神実相」「現象無し」の縦と横の基本的な真理に立ち返るための“機縁”としていただければと思います。

 実相直視とは、繰り返しますが、神の子完全円満なる息子さんの実相(ほんとうのすがた)を直視して、それを魂の奥底から悦び感謝して、生活に鳴り響かせることです。

 合わせて、息子さんのみならず天地一切のものを神の光り、仏の光りとして拝み、感謝の日々を送ることです。

 このような悦びの信仰生活を送っていれば、三界唯心所現の法則によって、あなた様を取り巻く現象の世界は天地が開ける如く、善きこと楽しいこと嬉しいことばかりが、次々と湧出することでしょう。

 このほか分からないことがあれば、なんなりとご質問ください。

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 その後、この方から礼状を頂きましたので、追記させていただきます。

【礼 状】 (平成23年5月24日付)

 合掌、ありがとうございます。

 先日はお忙しいしいですのに、私のQ&Aに寄せました質問にお返事いただき、ありがとうございました。心より感謝申し上げます。

 田舎に帰っていた事もありますが、御礼が大変おそくなり申しわけありません。

 先生のお返事を胸にだき「ありがとうございます、ありがとうございます」と感謝でいっぱいになりました。

 そして兄に対する思いも、胸につかえていたものがスーッと取れ、おだやかで平安な気持ちになりました。

 次男に対しても「実相直視」のできていない自分に気付き、分かっているようで分かっていなかったのは自分であったということを、強く思いました。お便りにありましたように、本ものの信仰へと目覚めるときととらえ、三正行を励行し精進してまいります。

 また分からないことがありましたら、ご指導を仰ぐことと思いますが、よろしくお願いいたします。

 先生、本当にありがとうございました。

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2011年5月10日 (火)

PTA総会での会長あいさつ〈2011年度〉

 5月の上旬、岩ツバメの飛び交う校舎で、今年も小学校PTA総会が行われました。

 月日の経つのは早いもので、これで3年目の「会長あいさつ」となります。

〈2009年度〉 http://ashikabi.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-1fec.html
〈2010年度〉 http://ashikabi.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/pta2010-1f27.html

 今年も、スピーチさせていただいたことの草案を公開させていただきます。

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【総会冒頭での「会長あいさつ」】

 今日は、A小PTA総会にお集まりくださり、ありがとうございます。

 また来賓の皆さんも、ご多用の中をお越しくださり、心より感謝しております。

 この3月、東北地方を震源地として大きな震災が発生しましたが、東京でも、ほんの一時期ではありますが、食べ物が不足したり、ガソリンが供給されなかったり、停電したことがありました。

 しかし被災地では、家や家族を失い、さらに仕事を失うという深刻な状況の中で、ライフラインが絶たれたことにより食物も水もガソリンも無くなり、同じ地域に住む人たちが助け合い、支え合って生活していたことが報道などを通して伝わって来ます。

 地域社会が本来持っている役割の大切さが、あのような大変な状況の中で、浮き彫りになっていたことを感じました。

 そのような目を通して、私たちのPTAの活動を振り返ってみますと、それは、学校と地域社会、そして明日の地域を担う子供たちとを結ぶ、大切な役割を担っているように思います。

 この地域に住む一員として、これからも皆さまからたくさんのおチカラを頂きながら、またコミュニケーションを深めながら、一つひとつの行事に取り組むことで学校や地域に貢献して行きたいと思いますので、どうぞよろしくお願い致します。

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【新体制発足後の「会長あいさつ」】

 今日でPTAの新体制が発足し、私としても今年で3年目の会長をお受けすることになりました。

 実は2年前にPTAの役員をお受けするまでの私は、学校や地域のことは家内に任せっきりで、学校の運動会や学習発表会に顔を出す程度でした。

 したがって、そのころの私は――

「PTAの役員の人たちは、ご苦労なことだ、でも私はそんな面倒くさいことやってられないよ」

という考えでおりました。ですから、校長先生と担任の先生のほかは、先生方のお顔も名前もほとんど知らないような状態でした(^^;。

 ところがご縁あって、「めんどくさい」と思っていたPTAのお役を受けてみると、一歩踏み込めば一歩だけ、二歩三歩と踏み込めばその分だけ、そこから家庭や職場だけでは得ることのできない、地域のボランティアならではの世界が開けてきて、いろいろな人と出会い、語り合う中から地域社会との絆が深まり、そこで経験したことがフィードバックされて、また家庭や仕事に善い影響を与えていることが、PTAのお役を受けることでよく分かるようになりました。

 離れて見ていたときには「めんどくさい」としか思えなかったことこそが、実は個人においては〝人生の扉〟を少しずつ開く大切なカギであり、そのカギを回すことで、地域社会においても、多様性と実りのある、豊かな生活を実現することに貢献できるのではないか――そんなことを会長3年目にして感じております。

 今年度もPTA本部役員および運営委員一同、「めんどくさい」ことに一所懸命に尽力して参りますので、どうぞよろしくお願い致します。

2010年5月7日

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2011年4月27日 (水)

職業の選択について

 職業の選択についての質問をいただきました。

 皆さんのご参考のため、本人の許可をいただき公開させていただきます。

 以下が質問と回答です。

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【質問】

 現在の仕事について相談致します。よろしくお願い致します。

 私は現在、地元の旅行会社に勤めています。この業界でやりたい!という強い気持ちがあったのではありませんが前職の塾講師に行き詰まりを感じてハローワークで応募して採用となりました。

 今年で入社6年めとなりましたが、短期間でカウンター業務、営業そして現在の業務と様々な部署を経験しました。そして添乗では様々な地に行かせていただき、全く未経験の分野でしたが自分の世界を大いに広げてくれたと思います。そして昨年は国内旅行業務管理者という国家資格まで取ることができました。

 そして青年会では教区青年会委員長を務めさせて頂いておりました。仕事と生長の家の両輪で自分の世界を広げる悦びを体感できて、感謝しております。

 ところが…最近になって仕事に行き詰まりを感じるようになりました。前述のように自分の人生に於いてもまちがいなく貴重な時代(とき)ではありましたが、これからの人生設計を考えたとき、「私」としてこの世に生を受け、神の御心を表現することを考えたときに、旅行業界が自分の使命だろうか?ということを仕事しながら考えてしまいます。

 また、今回の震災でうちの会社も打撃を受け、厳しい状況にもなっております。

 営業にいたときは少しずつでもお客さんが増えてくることにやりがいがありましたが異動となったいま、気持ちに一区切り付きました。営業マンとしてバリバリ仕事している人を見て、「すごいな」とは思いますが、自分もあのようになりたいと必要以上に憧れることもなくなりました。上司からは時折『突っ込みが足りない』と指摘されることがあります。自分はどちらかというと前にガンガン出る性格ではないのですが、『本当に旅行業界でやっていきたいのか?』という気持ちが一因になっているのかもしれません。

 実は、私には密かに憧れている職業があります。教育カウンセラーです。大学は教育学部で教師になりたかったのではなく教育を学びたい! という思いだけでした。営業や添乗で学校と色々かかわって、子供たちの心に向き合いたいと思うようになったのも事実です。通信教育で資格取得の道があることもわかりました。具体的な職業はなかったのですが、教育というものへの憧れは奥深くに抱いておりました。

 また、私事ですが、今年になって父が他界しました。独身ですので今は母と二人暮らしですが、長男として自分がこれから支えていかなくてはという気持ちもあります。長くなってしまい申し訳ありません。繰り返しになりますが『大いに自分の世界を広げてくれた』という感謝の思いと『自分は何を持って神の御心を表現するのか?教育という分野はいかに?』という思いで揺れ動いているのが現状です。善きアドバイスを頂ければ幸いです。

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【回答】

 合掌、ありがとうございます。

 この度は「仕事についての相談」をお寄せくださり、ありがとうございました。

 ご質問の手紙が私の手元に回ってきましたので、お答えさせていただきます。

 長年の教区青年会でのお役目、本当にありがとうございました。

 さてご質問のことですが、「密かに憧れている職業」があるのでしたら、それは貴方の「内なる神」の“ささやき”にほかならないと思います。

 私たちの内部から湧いてくる切なる「願い」は、既に実相世界に成就していればこそ、「願い」や「憧れ」となって脳裏にひらめいてくるのです。

 その「内なる願い(神)」を実現することこそが、私たちがこの世に生まれてきた使命であり、目的であり、神の御心でもあります。

 ことに貴殿は、青年会活動を通してこれまで三正行を実践し、神想観を実修して来られたのですから、その「願い」は、ほぼ間違いなく、内なる神からの「汝、これを為せ!」との呼び掛けではないかと思います。

 また、現在のお仕事の方は、「異動となった今、気持ちに一区切りつきました」とのことですが、それは貴方の魂の偽らざる“想い”なのではないでしょうか。

 私からのアドバイスは、「内なる願い」の実現に向けて、黙々と取り組むべし。その願いは必ず実現し、多くの人のお役に立つことでしょう。

 以上です。

 分からないこと、疑問に思うことなどあれば、何なりとご質問ください。責任を持ってお答えします。

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 以上が回答でした。
 その後、礼状をいただきましたので、こちらも紹介させていただきます。

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【礼状】

 合掌ありがとうございます。

 このような場で力強いアドヴァイス頂きまして感謝、感謝です。

 人(特に多感なこどもたち)の心に入り込んで人生を、悩みを、悦びを共有する。
とみに憧憬(あこがれ)が深まっています。根底にあるのは生長の家の信仰に他なりません。

 今の旅行会社もかけがえのない体験を頂きました。時機が来るとするならば…
すべてが調和した形で次のステップに進みたいと思います。

 御心のままに。

 ありがとうございました。

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2011年3月29日 (火)

小学校卒業式でのあいさつ(平成22年度)

 去る3月24日、私がPTA会長を務めている小学校で、平成22年度の卒業式が行われました。

 私がお話させていただいたことの概要を紹介します。

 このような場でスピーチさせていただく度にいつも思うことは、聴いている子供たちの中に、小学生のころの自分が、そっと紛れ込んでいて、私の話を一緒に聞いているという不思議な感覚です。

 今回は、東日本大震災後という特別な時期で、当日は計画停電の時間帯と卒業式の時間とが重なっていましたが、停電することもなく、無事に式を終えることができました。

 この場を借りて、震災によって、家や学校や、大切なご家族を失われた皆様へのお見舞いを申し上げるとともに、犠牲者の方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

 以下が卒業式でのスピーチのおおよその内容です。これをベースに、心に浮かんできたことを自由にお話させていただきました。

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  卒業生の皆さん、本日はご卒業おめでとうございます。

 また、保護者の皆様、お子様たちの門出となる今日の佳き日を、心よりお祝い申し上げます。

 そして、六年間お世話くださった先生方、本当にありがとうございました。

 この三月十一日に、東北地方を中心に大きな地震が発生し、未曾有の被害をもたらしました。お亡くなりになった方や行方不明の方を合わせると、二万人を越えるとも言われています。

 東京でも計画停電が行われ、電車が止まり、ガソリンが不足するなど、皆さんのご家庭でも不自由をされていることと思います。

 私も都心への通勤ができなくなった折に、拝島まで何度かタクシーを利用しました。ある日、たまたま一緒に乗り合わせた六十代後半の、今は会社役員をされているという男性の方が、次のような興味深いことを語っていました。

 それは、これから十年後、二十年後に、「ああ、あのときの地震を境に、日本は変わった」というときが必ず来る、地球温暖化を止めることのできなかった、多くの人々の価値観や、生き方などが、これを機に大きく変わることでしょう、と話していました。

 脳科学者の茂木健一郎さんは、脳が持つ特性を一つ挙げるとすれば、それは「脳は変わることができる」ということだ、と語っています。
 それは、わかりやすく云えば、皆さんは、「こんなふうになりたいなあ、と思っている自分に、自由に成ることができる」ということです。

 だから皆さんは、今の自分の実力だけを見て、自分は頭が悪いとか、成績が低いとか、家にはお金がないから、という“できない理由”ばかりならべて、自分の夢をあきらめないでください。

 皆さんが生まれる前の一九九五年に、神戸を中心に阪神大震災という大きな地震があり、大きな都市が壊滅し、六千人近くの人々が亡くなったことがあります。

  私も現地にボランティアで駆けつけましたが、立派なビルや高速道路が倒れた現場を見た多くの人たちは、「もう神戸は立ち上がれないだろう」と口々に語っていました。

 しかし、震災に遭った神戸の人たちは「こんな状態は、私たちの本来の姿ではない」と、決して諦めませんでした。

 十数年を経た今では、神戸は立派に復興を遂げています。ですから、今回の地震で大きな被害を受けた東北地方の被災地の人たちも、必ず雄々しく立ち上がることでしょう。

 だから皆さんも、被災地の人たちに恥ずかしくないように、自分の内にある〝願い〟や〝夢〟を決してあきらめないでください。

 脳はいくらでも変わることができるし、皆さんにはビックリするような可能性があり、そのチカラや能力はどこまでも向上し、豊かに成長し、やがては多くの人に役立つ時が来るのですから――

 皆さんが、ますます自分らしく、のびのびと夢の翼を広げ、未来に向かって羽ばたいて行かれることを、ここにいらっしゃるご家族や、先生方と一緒に応援して行きたいと思います。
 
 以上をもちまして、私からのお祝いのコトバとさせていただきます。

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2011年2月28日 (月)

人並みでない人間は……

 1月下旬、60代の女性から相談のお手紙をいただきました。
 回答を書き送ったところ、2月に礼状をいただきましたので、名前を伏せて紹介させていただきます。

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【質問(要約)】

 私は数年前に講習会に参加したのを機に、生長の家の教えに触れました。

生長の家では家族を持つ幸せや、子供を育てる悦びなどを大切にして、練成会や誌友会、普及誌などでも紹介していますが、私の人生は子宝に恵まれず、結婚3年目に宿った子供は流産し、主人とも40代で死別し、今は一人で孤独に暮らしています。

自分で選んだわけではないのに神様はどうして私に、人並みでない苦労の多い道を与えられたのか分かりません。

生長の家を信仰していても、今でもその思いが心の片隅にあります。

でも、人に訊くことができません。

親となり、母となることができない私のような人並みでない人間は、いったいどうしたらいいのでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

以上のような質問でした。

以下が返信です。

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【返信 その1】

 合掌、ありがとうございます。

  お手紙をありがとうございました。

 さて、ご質問のことですが、生長の家の「人間・神の子」の教えは、人間の実相は「はじめから円満完全である」という教えです。

 ですから、この世には「人並みでない人間」などは、一人もいないのです。それが、「自性円満」(そのままで完全円満なこと)という意味です。
 母になったとか、なれなかったということは、現象のことであり、「現象は無い」というのが生長の家の根本真理です。

あなた様はそのままで、円満完全な神の子であり、すべての生命の母なのです。

 また、生長の家で神想観の終わりに「大調和の歌」(みすまるのうた)を朗々と唱えます。その中に「あまてらす みおやのかみの みすまるの・・・・」というコトバがあります。この「あまてらす」とは、「天照大御神」のことです。

 人間は神の子ですから、私たちはそのまま天照大御神の御子であり、天照大御神の“いのち”そのものなのです。この、大いなるいのちを、悦び生きるのが生長の家の信仰生活です。

 お手紙によると、あなた様は、生長の家の地方講師を目指していらっしゃるとのこと、天照大御神の御子としての大いなる悦びを、人間・神の子の最高の真理を、ご縁ある方々にお伝えいただければと思います。

 このほか分からないことがありましたら、何なりとおたずねください。

平成23年1月25日

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 その後、さらに追加の質問をいただきましたので、次の返信を送りました。

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【返信 その2】

 合掌、ありがとうございます。

 お手紙を拝見しました。これまでの人生、いろいろなご苦労をされましたね。
 また長年、福祉の方面でご指導されていたとのこと、お仕事を通して、多くの方に悦ばれていたことでしょう。

 そして近年、生長の家のみ教えに出合えたとのこと。その中での、新しい人との出会いがあり、そして最近では、教化部で真理の教えを学ばれているとのこと。そして昨年末には肺炎を病まれたとのこと。

 人生には病気をはじめ、さまざまな事件などが現れますが、そのような現象は、「現れたら消える」のです。

 人生の光明面を見る、生長の家の「日時計主義」の教えに触れて以来、光りの方を向いて歩まれていることと思いますが、そのような心の人には、明るい心の反映として、運命がますます光り輝いて来るのです。それが“心の法則”であり、生長の家の「横の真理」です。

 ですから、生長の家の光明思想に触れたあなた様には、これから、ますます最良のこと、楽しいこと、嬉しいことが、次から次へと人生に現れて来ることでしょう。

 また過去の自分を省みて、「親となり、母となれなかった」とのことですが、人間は神の子ですから、例え親になれなくても、また母となれなくても、さらに半身と出合えなくても、そのようなこととは“無関係”に、そのまま完全円満な神の子なのが人間の実相なのです。

 親となり、母となり、夫婦円満となるのは、それはそれで有り難いことであり、尊いことではありますが、生長の家では、そのようなことで人間の優劣を決めるようなことはしていません。

「人間・神の子」の教えとは、そのような現象的な評価とは無関係に、人間ははじめのはじめから「神の子である」という教えなのです。

 つまり、貴方様はそのままで最上・最高であり、全ての人類は、そのままで神の子である、というのが生長の家からみた人間観です。

 み教えに触れて、まだ日も浅いことと思われますが、お手紙でご質問されるなど積極的に求道される信仰姿勢は、実に素晴らしいと思います。

 教化部長をはじめ、地元には優れた地方講師の方がたくさんいらっしゃいますので、今後も誌友会などに参加し、どしどし質問して、より深く真理を学び研鑽していただければと思います。

 それでは、ますますのご多幸と、ご健勝をお祈りしています。

平成23年2月4日

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 数日後に礼状をいただきましたので、紹介します。

【礼状】

合掌、ありがとうございます。

度々のお便り、ご指導ありがとうございます。お手紙の宛名の文字が踊っていました、ご多忙の中を私のために時間をさいてくださり、有り難うございます。
練成会にご夫婦で参加されている方を見ると、羨ましく思っていました。

そして誌友会にも、練成会の班別座談会にも、私が心で思っていること(本音)は発言できませんでしたが、それを先生に聞いていただき、適切なご指導をいただき、ありがとうございました。
引け目を感じていたこともありましたが、「現れたら消える」現象を実感いたしました。

これからは「光り」の方向に向かって「真理の勉強」に邁進致します。

まず今は、人に物に事に感謝するコトバを『日時計日記』に書き、心に残った「真理のコトバ」を書き添えています。
またご指導をいただくために、文を差し上げるときもあろうかと思いますが、よろしくお願いいたします。
ありがとうございます。

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2011年1月22日 (土)

ご主人への小言について

 最近、ある主婦の方からご主人のことについて、相談の手紙を頂きました。

 皆さまの参考になるかと思いますので、実名や背景を伏せて、私の回答を公開させていただきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 合掌、ありがとうございます。

 ご縁あって、私のところにご質問のお手紙が回ってきましたので、お答えさせていただきます。

『生命の實相』を読み進めていらっしゃるとのこと。

 何もかもが好転する時期が、もうそこまで来ています。ご安心ください。

 ご主人に小言をいってしまうのは、それは貴方がご主人や子供たちに対して、「善かれ」との“願い”があればこそ、そのような小言が出てきてしまうのです。

 しかし、その貴方の心の奥底にある「善かれ」との“願い”は、貴方の内に「愛」があればこそ、次から次へとあふれてくるのです。その「愛」こそが、「神」なのです。あなたの内に「神」が在ればこそ、小言が出てくるのです。

 ですから「小言をいってしまう」と、自分を責める前に、先ず「私の内に愛が、神が充ちていたのだ」というその事実(実相)を認めて、喜んであげましょう。繰り返しますが、貴方が「善かれ」と思う、その“願い”こそが内に在る「愛」であり、「神」なのです。

 神は完全円満であり、愛そのものですから、先ず“内なる神”に気付いて「私の内に愛が、神があふれていたのだ! 嬉しい、楽しい、ありがたい!」と、感謝し、祝福し、内なる「愛」を認めて喜んであげましょう。

 その内なる神を認め、喜んでいれば、家庭に大調和が実現するのです。

 また、ご主人は、一人で友達と遊びに出かけたり、パチンコに行ったりしているそうですが、パチンコをやりたくなる男性の心理は、「勝ちたい、勝ちたい」と思っていることの裏返しなのです。

 つまり、職場で、あるいはご家庭で負けてばかりいらっしゃるから、心の奥底で「勝ちたい、何かで勝って認めてもらい褒められたい!」との想いが、われ知らず湧いてきて、もしかしたら勝てるかもしれないパチンコへと、走ってしまうのです。

 また、家族を置いてお友達と出かけてしまうのも、負けている自分に耐えられず、妻にも子供たちにも、そんな自分を見せたくないという心理から、無意識のうちにそのような行動に走ってしまうのです。

 好きこのんで家族をほったらかしにしているご主人など、本当はいないのです。

 それはご主人自身も気が付かないほど、抑圧された深い願いから来ているのですから、ご主人のやり場のない悲しみを、貴方はよく理解して、温かく包んであげれば、ご主人の行動は一変することでしょう。

 不完全なご主人など、はじめからいないのです。貴方も、ご主人も、子供たちも、すべては完全円満なる神の子なのです。

「人間・神の子」の教えとは、これから修行して、神想観して、いろいろな「行」を積んでから「神の子」になるという教えではありません。自性円満とは、はじめから、そのままで完全円満なる神の子である! という教えです。

 そのことを素直に悦ぶことが、神想観なのです。それが、「神」の完全円満なる世界を、「想」い感謝し、喜び「観」ずる、「神・想・観」の中味なのです。

 また、お嬢様のお顔の傷のことをご心配されているようですが、人間が物質ならば心配しなければいけませんが、人間は物質でも、肉体でもありません。肉体は心の影にすぎません。完全円満なる神の子さんは、未だかつて一度も傷ついたことも、ケガをしたことも、病気したこともないのです。

 その円満なる実相を喜び、楽しく生活していれば、お顔の傷も、ご主人の病気も、跡形もなく消えてしまいます。

 病気も、ケガも、ご主人のギャンブルも、貴方の小言も、“現れたときが消えたとき”なのです。現象は無いのであり、すべては浄化の姿であり、現れたら、あとは善くなるほかはないのです。

 大安心の気持ちで神想観を実修し、黙々と聖典『生命の實相』の拝読を続けていれば、ちょうど夜が明けて朝が来るように、貴方の周りに天国浄土が実現してきます。

 なお、育児中とのことで練成会にご参加できないのであれば、折をみて本部で行われてる「聖典講義」(1時間半ほど)などにご参加いただき、「人間・神の子」の真理を、いよいよ深く研鑽されることをお進めします。また、各教区で開催されている白鳩誌友会や、母親教室にも、折をみてご参加すれば、諸先輩から良きアドバイスをいただけることと思います。

 このほか分からないことがあれば、なんなりと遠慮なくお尋ねください。

 生長の家本部講師 久都間 繁

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2010年12月17日 (金)

「方位学」についての質問に答えて

  過日、ある方からメールで「方位学」についての悩みの相談をいただきました。
 ブログをご覧になっている皆さんの参考になるかと思われますので、匿名で公開することにしました。

 質問は、およそ次のような内容でした。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【質問】

 私の父親は、たった一つ大きな問題がありまして、私は非常に困惑しています。それは、「方位学」に何十年と固執しているのです。
 例えば私が先週の月曜日に風邪で中耳炎になり、熱の炎症の影響で耳管の通気が悪くなって、なかなか完治しません。そんな折、母親の知り合いで、とても良い気功治療の先生がいると聞きまして治療を受けようしていた矢先、父親から、「方向が悪い。大凶だから駄目だ! あと2週間我慢しろ!」と言われてしまいました。

 私の体を思っての父親の気遣いなのであまり邪険にも出来ませんが、かといってこのような突発的な病気になった場合は、方位学をどこまで参考にして病院や治療院を選んだら良いと思いますか?

 なお、私たち家族は、父親の異常なまでの方位学へのこだわりで、今までも行きたいところに中々いけませんでした。 病院はもちろん、旅行や自動車などの大きな買い物、引っ越しなど、すべてに方向を利用して生活してきました。
 方位学的には、私がすぐに行ける治療院は、皆無の状態でした。長い方位学の習慣のせいで、疑心暗鬼になってしまい、情けないことに、思い切った行動が取れないようになっています。
 そもそも「方位学」と「生長の家」の両方を信心できる父親が不思議でなりません。私は、このまま「気功治療」を受けても良いのでしょうか?
 どうか、助けてください。宜しくお願いします。
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以上が頂いた質問です。
以下が、私からの回答です。

【回答】

合掌、ありがとうございます。

名無しでのご質問で、男性なのか、お歳がおいくつなのか判明しませんので、分かる範囲でお答えいたします。

 あなた様からのメールの最後に、
「どうか、助けてください。宜しくお願いします」
とのメッセージがございますので、生長の家の教えによって「助かりたい」ものと思われますが、そのためには先ず、あなた様が生長の家を実践されるのが、一番の解決法であり、救われる道かと思われますので、そのことについて回答させていたただきます。

 ご両親が生長の家を信仰されているとのことですが、生長の家の方位についての考え方は「どちらを向いても吉方である」というものです。なぜなら、この世は神様・仏様以外のものの無い世界であり、全ての方角に「神」が充ちており、あなた様も神の子であり、お父様もお母様も神性・仏性そのものであると、現象の背後にある実相(ほんとうのすがた)をしっかり拝むのが生長の家の教えだからです。

 さらに言えば、人間は初めから神の子ですから、気功治療などに頼らなくとも、あなた様が内に宿る完全円満なる実相を自覚すれば、病は消えるのです。

しかし何よりも、ご両親を「変えよう」と思う前に、ご両親は、あなた様はじめご一家の幸福のためを思えばこそ、「方位」を学び、生長の家を信仰し、気功治療を進めてくださっているのです。そこまで愛深く、あなた様のことを心から心配し、心を砕いてくださる方は、お父様とお母様以外にこの世にはいないのです。ご両親は、あなたに様とって紛れもない神の化身であり、愛深き観世音菩薩そのものなのです。

 つまり、お父様お母様のもとに、あなた様がお生まれになったということは、神の愛の(仏の大慈悲の)真っ只中にお生まれになったということであり、それだけで、あなた様はすでに救われているのだ! ということに気付かなければなりません。

 その感謝の生活をするのが生長の家の生活です。ですから、先ず、その掛け替えのない事実を先ず認めることから始めましょう。

さらに深く教えを学びたくなりましたら、谷口雅春著『生命の實相』や『新版 真理』(日本教文社刊)などをお読みください。

また、講師の方にもっと詳しくご相談になりたいのであれば、生長の家本部宗務課にお越しいただくか、各地の練成道場や教化部で指導していただけますので、メールなどの質問ではなく、遠慮なく足をお運びください。

私に質問されたい場合には、ブログ http://ashikabi.cocolog-nifty.com/blog/
のコメント欄か、メールkutsuma@gmail.comで問い合わせいただければ、お答えします。ただし、その場合の回答は匿名の質問にして、ブログで公開させていただきますのでご了承ください。

生長の家本部講師
 久都間 繁

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質問を寄せた方から礼状を頂きました。
以下がその内容です。

【礼状】

久都間 繁先生

お返事が遅くなり大変失礼しました。

私は現在39才の男です。
この度は、大変身にしみる教えを頂きありがとうございました。

両親の私への思いを、より感じ取る事ができました。
確かに私は今も耳の病気に悩まされています。

信仰する事で少しでも救われるよう、またご先祖様や家族に感謝し、励みとし、頑張っていこうかと思います。

ありがとうございました。

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2010年11月 2日 (火)

邸前の槙(まき)の木

 今から40年ほど前、私の実家の県道に面した邸前に、一本の槙(まき)の木が生えていた。

 子供のころは、今で言う“ツリーハウス”のようなものを作り、きょうだいと遊んでいた。

 中学に入学してからは、受験や部活などに追われ、木の存在などまったく忘れていた。やがて高校を受験し、家から遠く離れた高校に進学した。

 夏か冬の休暇の折に帰省してみると、その木は跡形もなく消えていた。

 当時、建設会社を経営していた父に、そのことを訊ねると、従業員の人たちが木の近くでセメントなどを洗ったことが原因で、強いアルカリ性に負けて枯死したらしい、とのことだった。

 私はそのとき、今まで木の下でセメントを洗うことなど何度もあったのに、枯れたとは不思議なことだ。木はきっと、私が居なくなった寂しさに枯れたのかもしれない、と勝手に思ったものである。

 とりとめもない話である。

 が、あれから40年近くの歳月を経ても、未だに木に登ったときの幹の感触、樹皮の匂い、葉の手触り、樹上からの風景など、昨日のことのように脳裏に思い浮かべることができる。

 邸前の槙の木は、その固有の時空をもって生まれ、生長し、そして枯死した。私も、私固有の時空を持って生まれ、そして生長し、やがて現象的な寿命を終えるときがやってくる。

 固有の時空と、固有の時空とが重なるとき、それは即ち「生命(いのち)」と「生命」とが、ふれあうときなのである。

「一期一会」とは、人と人との出会いのみならず、森羅万象とも出会うのである。

生長の家の『甘露の法雨』というお経に、次のコトバがある。

「生命は時間の尺度のうちにあらず、老朽の尺度のうちにあらず、却(かえ)って時間は生命の掌中にあり」

「空間は却(かえ)って生命の造りたる『認識の形式』にすぎず
生命は主にして空間は従なり」
        (聖経『甘露の法雨』「実在」より)

 時間は「生命」の掌中にあり、同時に「生命」は、空間の造り主であると、ここには表現されている。

 つまり「生命(いのち)」は、その「生命」固有の時間・空間を持つのである。

「生命」は時間・空間を生み出す主体者なるが故に、「生命」が心に描いた通りに、現象世界は展開するのである。これを仏教では、三界唯心所現という。

 私の「生命(いのち)」は私固有の時空を持ち、あなたの「生命」は、あなた固有の時空を持つ。その、固有の時空を持つが故に、私たちは「人生の主人公」となることができるのである。

 時間・空間は、私たちと無関係に展開しているのではない。それは近代合理主義が生みだした最大の誤謬であり、無明(まよい)であるともいえよう。

 邸前の槙の木には、彼固有の時間・空間があり、事務所の窓から見える八重桜には、その八重桜固有の時間・空間があり、あなたの家の近くにある桜や楓やドングリの樹には、その桜、その楓、そのドングリの樹、それぞれ固有の時空がある。

 私には私固有の時空が、あなたには、あなた固有の時空がある。

 そのごとく、天地の全てのものの「生命」を拝み、そこに固有の時空を観ることが、即ち「天地一切のものに感謝する」ということである。

 生物多様性を尊重する根拠は、生物(生命)の一つひとつが、固有の時間・空間(つまり宇宙)を持つ「生命」であるところにあるのだ。

  久都間 繁
 

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2010年9月 6日 (月)

遊馬正・画伯の絵「“8”のピーク」

『イエロー・ラプソディ』から音楽が聴こえてきたことについて、遊馬画伯にお話ししたことがあった。

 すると画伯は、

 そういう見方をしてくださって、本当に嬉しいですね。でも、あの作品は、その後すっかりダメにしてしまいましたよ。
 絵というのは、制作して4ぐらいのピークの段階で、いったん完成します。
 『イエロー・ラプソディ』は、そのピークのときに「生光展」に出品させていただきましたが、あれから手を加えちゃってね。
 しかし絵というものは、5、6の段階を経て、それから7、そして8つぐらいの段階になって、ようやく本当のピークだな。
 それが“本ものの絵”だね!

 そんなことをお話しくださった。

 私は思わず、「先生、あの絵を誰にも売っちゃあダメですよ。私が買いますから!」とお話しすると、
 最初、びっくりしたお顔をされていたが、

 だめだめ、絵というものは、そんなうまいぐあいに(計算通りに)は描けないね。
 そんなこと考えたら、何も出来なく(描けなく)なってしまうよ!

 と、手を軽く左右に振って、笑いながら語っておられた。

 その後、この作品を、ご自宅のアトリエで拝見させていただいたことがある。現在は、どの段階なのかは知るよしもないのだが、同作品がさらに円熟したラプソディを奏ではじめるのは、きっと「8つの段階」のピークを迎えてからのことなのだろう。

 さて、そこで不思議に思うことは、なぜ作品の最終的なピークが「10」ではなく、「8」の段階なのか、ということである。

 これはあくまでも推測の域を出ないが、それは、作品をどこまで描き込んだとしても、現象世界の作品は、完成(10)に至ることはない、ということではないだろうか。

 生命が現象の形を超えて、久遠に生き通しているように、生命を表現しようとする芸術が完成形として固定されることは、永遠に不可能である、ということなのかもしれない。 

 それは「永遠の未完成」の内に、久遠なる生命が映し出される、ということではないだろうか。

 ピークを越える度に、数多の色が塗り重ねられるのとは裏腹に、そこでは、作品に映し出されようとしている真象を覆う一つひとつの色彩が、ゆっくりと剥落していく。

 気が付けば、森の木々、湖畔の風景、行く雲、あらゆる素材が、いつのまにか宗教画の根元的なモチーフへと変貌を遂げ、私たちの裡に秘められた世界を透明に映し始める。

 遊馬画伯の絵を拝見していると、そんなとりとめもない省察へと駆られるのである。

 

  久都間 繁

 

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