耳を傾けること

 私は結婚して今年で21年目になる。

 その間、仕事の関係で関西と東京で生活してきたが、かつて残業が続いて一週間も子どもと会話をしていないことが、ときどきあった。

 そんなとき、なんとなく子どもたちの心が離れてしまったことが分かるものだ。

 彼らの態度が妙によそよそしくなり、“お父さんなんか居てもいなくても全然関係ない”といった世界に住み始め、努めて会話を試みてはみるものの、どうも取り付く島もないような状態になってしまうものだ。

 これは多くのお父さんのみならず、忙しく働いているお母さん方も、ときに感じることがあるかもしれない。

 こんなとき、それぞれの家庭では、コミュニケーション不足を補うための、いろいろな工夫が為されていることだろうと思う。

 わが家でも、子どもが幼いころは、努めて早く帰宅して抱きしめたり一緒に風呂に入ったり、休みの日に野山を散策したり、即興でつくった物語りを聞かせて大笑いさせながら一緒に眠ったり、いろいろな工夫をして心を通わせたものだ。

 しかし子どもが中・高生になると、これらの方法が功を奏しなくなる。ことにきょうだいが多い(わが家は4人)場合は、どうしても行き届かないことも出てきたりする。

 身も心も大人へと成長しつつあるこの時期の子どもにとって、実はこれからがいよいよ大人の経験や知恵を必要とする、大切な時期なのだ。

 さて、皆さんはどのようにしてこの時期を乗り越えているのだろうか。


 放っておくことも一つの手かもしれない――


 しかし、つい先月、娘の通う中学校の生徒が、メモに親への感謝の言葉を書き遺し、誰にも告げずに、誰にも相談することなく、イジメなどのハッキリした理由もないのに自殺してしまうというショッキングな事件があった。

 子供が一人で、黙って死を選ぶ、彼にどんな孤独や、辛い思いがあったのかは、今となっては知るよしもない。が、放っておけば雑草が蔓延(はびこ)り荒れ果てるのは、人の心も同じなのかもしれない。

 この事件を機に、私は、あらためて親子間のコミュニケーションについて考えさせられた。


 もしかしたら皆さんの参考にもなるかもしれないので、わが家で始めたささやかな工夫の一つを紹介させていただこうと思う。

 それは至って簡単なことである。

「子供からの問い掛けに、耳を傾けること。そして一緒に答えを探してあげること」

 これに尽きるのではないかと思った。そして、とても大切なことは、先の言葉の前に、

「どんなに忙しいときでも――」

 という一句を添えて実践することだ。

 そうすれば、もし子どもたちが自殺したくなってたとしても、どこかでその信号をキャッチする機会が生まれるはずである。また、それ以前に、親子間の深い信頼関係を構築できることが、何よりも重要なことなのだ。

 それは、「どんなに忙しくても、あなたのことを第一に考えているんだよ!」という親から子への、明確なメッセージをもって生活することになるからだ。

 しかし簡単なことのようでいて、これを実践するには「親の側」に、意外なほどの心的努力が要る。

 ついつい、

「今、忙しいから!」
「今、仕事をしているから!」
「今はダメだから!」

と、言ってしまうのだ!

 心ならずもそんなことが何回か重なれば、もう子どもたちの脳裏にひらめいた宝石のような問い掛けは、どこか空の彼方へと消し飛んでしまうかもしれない。
(かく云う私も、どれほど宝石を扱い損ねてきたことか(^^;)

 しかし、私たちの人生の中で「子育て」の時期というのは、意外なほど短いということも忘れてはならない。

 ことに小学生から中・高生にかけての多感な時期は、彼らの長い人生の中のほんの数年にすぎず、この大切な時期を逃したら、よほどのことがない限り、彼らは私たちに対して自由に心を開いて問い掛けることを、あきらめてしまうかもしれないのだ――


 
――でもご安心いただきたい。

 たとえどんなに「手遅れになった!」と見えたとしても、

「彼らからの問い掛けに真摯に耳を傾けること。そして一緒に答えを探してあげること――」

 人生で出会う全ての人のことを祈りながら、この時の来るを待ち続けていれば、成人したわが子のみならず、どのような大人でも、やがて天来のタイミング(導きのとき)が必ず訪れるのである。

 そのときが、彼らが心を開き、彼らと心を通わせることのできる、神様に導かれた時節なのである。

 ただし子供のときと比べて、たっぷり待たされるかもしれない!


 しかし、私たちには永遠の生命が宿っているのだから、なにもあせる必要はない。

 祈りつつ、ご縁ある人たちの魂の成熟を待つ時間くらい、この広大な宇宙のいとなみと比べたら、ほんの一瞬なのだ。

 しかしその一瞬の内に、人間・神の子の神性・仏性が芽生え、生長して華を開き、やがて「実相」の実を結ぶのである。


  久都間 繁


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仏の四無量心について

 本日、本欄の読者のYさんから質問のメールをいただきました。
 回答をこちらに掲載します。

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Yさんからの質問
心という言葉は『甘露の法雨』にもたくさんでてきますが、この心をどうすることもできないのが現実の世界です。
真象であればよいが、偽象が現れた時には、やはりいろいろと迷いますし困惑もします。

そんな心をすべて無しと、打ち消したのが生長の家の教えなれば、ただ神さまの世界のみを肯定し、その実相そのものを味わうというか、悟るというか、喜ぶということも、やはり「心」ではないのでしょか?

先生の云われる歓喜とは、われわれのよろこびとはちがうのかもしれませんが。(現象的喜び)

時間空間がすぎてしまえばなくなるもの、それは、絶対的なものでもない。「肉体もなし」と打ち切っています。では「心」とは、神さまが作られたものなのでしょうか?


質問への回答


「心」についての質問をありがとうございました。
生長の家の聖経『甘露の法雨』には、


完全なる神の
『心』動き出でてコトバとなれば
一切の現象展開して万物成る。万物はこれ神の心、
万物はこれ神のコトバ、
すべてはこれ霊、
すべてはこれ心、
物質にて成るもの一つもなし。


 と書かれていますが、ここに説かれているの「心」は、「神の心」のことです。つまりそれは「実在の心」であり、完全円満なる「実相の心」とも云うべきものです。

 この「心」のことを、キリスト教の『聖書』などでは「御意(みこころ)」と表現し、仏教では「仏心」や「仏性」とも呼んでいます。

 一方、生長の家で「心も無し」と否定してしまうところの「心」とは、「現象の心」のことで、「実相の心」や「仏心」のことではありません。

 先に引用した『甘露の法雨』の文章は、次のように続いています。


物質はただ心の影、
影を見て実在と見るものはこれ迷(まよい)。
汝ら心して迷に捉わるることなかれ。


「影を見て実在と見る」それが、現象に惑わされた「心」です。
つまり、影のように現れては消える現象を、「有り」として、それを追いかけて掴んで放さない「迷いの心」のことです。

 聖経には、この心のことを「無明」と書いて、「まよい」と仮名をふって読んでいます。

 天理教祖は、この心の働きのことを次のように表現しています。

「惜しい、欲しい、可愛いと、欲と傲慢、これが埃(ほこり)や」と。

 普段私たちが「心」と認めているのは、この「迷いの心」である場合が多いのです。

 では、あらためて実相の心、真実の心、実在の心とは何かと云えば、それは、「神そのもの」の命の響き(コトバ)であり、「仏そのもの」の命のことなのです。

『観無量壽経』には、「仏の心」について、「仏心とは四無量心是なり」と説かれています。

 四無量心とは、慈、悲、喜、捨のことで、「無量」とは、「量が無い」つまり「無限である」ということです。

 衆生の悩み悲しみを見て慈しむこと無限であり、同悲の心をもって苦を除くこと無限であり、人の悦びをともに歓喜すること無限であり、執着を解き放ち一切を束縛から解放すること無限である、これが「仏心」です。

 この「仏心」こそが、私たちの「本心」(実相の心)なのです。

 ですから、現象的に金が儲かった、執着していた人や物や事が手に入った、というところから来る「求めるよろこび」と、「仏心」(実相の心)から来る「慈しみ与えるよろこび」とは、根本的に異なるのです。

 前者は「無い」よろこび、であり、後者は「実在する」よろこびなのです。

 この「仏心」そのものに生かされて生きることが、「救われる」ことに当たります。

 その「仏心」(神の御心)の中にこそ、私たちがこの世に生を受けたところの本当の「使命」があり、それを生きたとき、「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」というような真の生き甲斐やよろこびを見出すことができるのです。

 なぜなら、私たちの実相は、自性円満なる「神性」「仏性」そのものなのですから。


 
 とり急ぎ書いたので説明としては不十分かもしれませんが、質問があればブログかメールにまたお寄せください。


  久都間 繁


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『文明論の概略』を読む

 2週間ほどかけて、福沢諭吉が100年ほど前に著した『文明論の概略』を読んだ。
 
 福沢は、天保5年(1835年)に生まれ、 明治34年(1901年)に66歳の生涯を終えているが、彼の前半生は旧幕藩体制の時代、そして後半生は明治の文明開化の時代という、二つの異なる時代を一身で生きるという希有な体験をしている。

 これについて、最晩年にざっくばらんに生涯の顛末を述べているのが『福翁自伝』だが、『文明論の概略』では、激変した二つの時代を貫く、政治的、思想的立場を越えた福沢の「独立自尊」の一貫した精神が、顕わな形で吐露されている。

 福沢の著したものを読んでいるときに、いつも興味深く感じるのは、彼の精神の根拠となっているものの所在である。

 幕藩体制にも、明治新政府にも、学閥にも財閥にも、科学的技術をもたらした西洋文明にさえもおもねることなく、全ての事象を柔軟に受け入れた上で自身が「正しい」と判断したところのものを身命をなげうってでも、果敢に断行する。そのような英断の連続のような生涯をまっとう出来たところの精神の在処(ありか)、そこに強く引かれ、福沢の福沢たるものを感じるのである。

 彼の思想は、仏教、神道、儒教、キリスト教をといった当時の形骸化した既成の宗教や道徳を「虚誕妄説」と一蹴し、いわゆるオカルティズム(occultism)とも明確に一線を画しているところがまた面白い。

 しかし彼の著作を紐解いて分かることは、彼ほど「徳義」や「良心」の蘊奥について、自身のコトバで生き生きと説き証した学者も、これまた希(まれ)だということである。


「肉体の便利既に饒(ゆたか)にして、一身の私徳既に恥ずることなしと云ふも、尚この有様に止まりて安んずるの理なし。其饒(そのゆたか)と云ひ、恥ずるなしと云ふは、僅(わずか)に今日の文明に於て足れるのみ、未だ其極(そのきわみ)に至らざること明らかなり。人の精神の発達するは限りあることなし、造化の仕掛けには定則あらざるはなし。無限の精神を以て有定の理を窮(きわ)め、遂には有形無形の別なく、天地間の事物を悉皆(しっかい)人の精神の内に包羅して洩らすものなきに至る可し」
(『福沢諭吉選集』第4巻136~137ページ)〈原文は歴史的仮名遣い〉


 下級藩士の家に生まれ、しかも幼くして父親を亡くした福沢は、糊口をしのぐために子供のころから、さまざまな職人から手仕事を学んでは家計を助け、さらに学問の道を志して後は、出会う師匠宅で家事全般をこなしながら、寝食を忘れて勉学に励んだことは、自身の筆による自伝に詳しい。

 万巻の書を読み洋学者として大成した後も、チャンスをみのがすことなく貪欲に渡米、渡欧を繰り返して学び、さらに後進を啓蒙するために『西洋事情』『学問のすすめ』などの著作や翻訳など数多くの書籍を著し、今日へと続く慶應義塾を立ち上げ、「時事通信社」を設立し、日本の独立と文明確立のために生涯にわたって在野から発言し続けた。そんな福沢の生涯をたどってみると、先に引用した、


「人の精神の発達するは限りあることなし、造化の仕掛けには定則あらざるはなし。無限の精神を以て有定の理を窮(きわ)め、遂には有形無形の別なく、天地間の事物を悉皆(しっかい)人の精神の内に包羅して洩らすものなきに至る可し」


 という言葉は、即ち彼の生涯を貫く、無限生長(向上)する彼の精神の運動そのものを物語っていることが理解できる。
 
 自己内在の無限性を信じ、無限生長の権化の如く疾走する福沢にとって、既存の宗教も儒教も、そして科学文明に彩られた西洋のキリスト教ですらも、彼の目には色あせたものとしか映らなかったであろう。
 上記の文章の最後に、彼は次のような言葉で、この章を結んでいる。

「恰(あたか)も人天並立(じんてんへいりつ)の有様なり。天下後世、必ず其日(そのひ)ある可し」と。

 福沢が後世の者に托した精神的遺産、それを私たちは「読む」ことによって継承できるのであるが、その「独立自尊」の精神は、現在におけるあらゆる形骸化への解毒剤であり、無限生長のための指針ともなるのである。 


  久都間 繁



 

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忙中「歓」あり

 数日前の夜、地元の「地区防災対策委員会」が開催され、仕事を早めに切り上げてそれに出席した。

 小学校のPTA会長をお受けすると、自動的に6つか7つの地域におけるさまざまなお役が割り当てられる。

 最初は、このことを知らなくて煩わしく思っていたが、社会貢献の意義について職場のメンバーにも理解していただき、リズムに乗ってしまえば、地元の人たちとの絆が深まり、あらめて地域における自治体の活動や、その改善すべき細かな点なども客観的に見えてくるので、これはこれでよかったと今では思っている。

 しかし、実際に私がお役に立つことができるのは、早くて今年度後半から、遅くとも2年目以降からが本番であろうとも思っている。

 さて、翌日は休みをいただいていたので、通勤の折に毎日少しずつ読み進めていた福沢諭吉著の『文明論の概略』を読了することができた。これについては、別の機会に紹介できればと思う。

 庭の畑で、午前中にキュウリの収穫、トマトの枝打ち、落花生の周りの草引きなどを終え、お昼にはゴマだれの冷やし中華を、これも畑でとれた野菜、そしてゆで卵にハムなどを添えてたらふく食べた。

 4時すぎ、次女のいずみ(中1)がテニスの部活から帰宅し、その後ピアノのレッスンから帰ってきた弟たちを加え、町内のグラウンドに皆で行って、いず、まこ(小4)、ひろ(小1)、私の4人で日が暮れるまでテニスをやった。

 気が付けば7時をとおに回っており、遊んでいて時の経つのも忘れるとは、まさにこのことかと思った。

 
  久都間 繁

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魂の進歩向上について

 今日の夕方、本欄の読者の方からメールで2点ほど質問をいただいた。こちらで回答させていただきます。

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質問①この魂の訓練は現象であると普通に思われます。が、神さまは完全であるにもかかわらず、やはり進歩向上が必要なのでしょうか?
質問②神想観のあの歓喜が、どうしてこの現象の早く現れないのでしょうか。よほど現象を捕まえているのでしょうか?

【回答】
 
 進歩向上する躍動的な経験を、私たちの魂は「よろこび」と呼んでいます。
 また進歩向上とは、「生長する」ということでもあります。

 生長することは、万物の霊長たる人間にとって、その内なる無限生命が音楽のように鳴り響くことであり、それは悦び以外のなにものでもないのです。

 つまり進歩向上とは、内なる無限生命の理念が、この天地に花開くことなのです。

 アジサイが咲くことが、アサガオが咲くことが、ヒマワリが咲くことが、これが内なる理念が展開する姿です。

 まして私たち人間には無尽蔵の真・善・美が内在しているのですから、私たちが進歩向上し、無限の真・善・美をこの現象世界に実現させる(生きる)ことこそが、仏教的に云えば地上に極楽浄土を建立することであり、キリスト教的に云えば「御心の天に成る世界を地に成就する」ことに当たるのです。

 道元禅師は、このことを「証上の修」と表現しています。

「証上」とは、すでに生命は、これ以上なにも付け足す必要がない完全円満なものである、ということです。

「修」とは、この完全円満なる生命を、この神様の創られた画布にたとうべき現象世界に表現することです。それは、花が咲き、鳥が歌い、森が四季それぞれの色に染まり、音楽家がメロディーを奏で、画家が絵筆を振るい、文筆家が千古の詩を綴ること、そして信仰者が神の愛を行じ、仏の大慈悲を生きることです。

 あせる必要はありません。

 実相実在の世界では、すでに全てが円満完全に成就して(さらに無限生長して)いるのですから、私たちはその実相を観じて悦んで生活していればいいのです。

 真・善・美(縦の真理)の展開として現象世界が成就する、それが三界唯心所現の「心の法則」(横の真理)です。

 うまずたゆまず神想観を実修し、神の無条件の愛を生きることです。


  久都間 繁

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神想観の醍醐味について

 祈りについて、もう少し書かせていただこうと思う。

 私は宇治別格本山にいたとき、神癒祈願部長をしていた小嶋博先生から、

〈人のために祈ってあげるときは、まず自分が実相(神)と「ひとつ」になっていなければ駄目だ。不完全な人やものや事が〝ある〟と思って、その不完全を認めて〝治そう〟と祈っていたのでは、神癒祈願にならない〉
〈神様がお創りになった世界は、はじめから完全円満であり、その実相世界は既に在り、すでに成就しているのだから、神癒祈願とは神様の邪魔をしないことだ!〉
 と、ご指導いただいたことがあった。

 あれから25年以上も経っているのであるが、このコトバは、祈り(神癒)における重要なポイントを語っていることを、折に触れて感じている。

 生長の家には、「縦の真理」と「横の真理」があると云われており、「縦の真理」とは、「唯神実相」の哲学である。
 これは神の創り給うた実相世界は、そのままで完全円満なる善一元の世界であるという教えである。

 また、横の真理と云われているのは「三界唯心」である。これは仏教に由来するコトバであるが、平たく云えば私たちの五感六感の感覚を通して観じられる現象世界は、心が造り出したところの世界である、ということであり、これを三界唯心所現の法則とも、「心の法則」とも呼んでいる。

 人のために、あるいは家族のために祈るとき、「私が」祈っていたのでは、これではなかなか「神癒」に至ることはできない。

「私が」というものが消え、ただただ実相(神)に身をも心をも全托して、完全円満なる神が「私」を生きる、その神の子無限力の充実し切った悦びが神想観なのである。

 ここでは、もはや天地の森羅万象が「神癒」(祈り)の対象となるのである。

 家族のこと、仕事のこと、学校のこと、友人のこと、生長の家のこと、指導した人たちのこと、地域社会のこと、国のこと、国際社会のこと、地球環境のこと、ありとあらゆるものが祈り(神癒)の対象であり、心の底から、本当にからっぽになって、彼らのことを祈り切ることが出来るのである。それこそが神想観の醍醐味なのである。

 そのときに、初めて神意というものが分かり、中心帰一とは如何なるものであるかが分かるのである。
 
 なぜなら、生長の家大神――総裁・副総裁――み教え、この構図が、生命の本源から発した「無償の愛」の無限供給の流れの一つであることが理屈抜きに体感できるからである。

 そして信仰者の人生とは、「神癒の展開」以外のなにものでもないことが分かるのである。それが「全托」ということであり、「生かされる」ということであり、絶対他力の信仰なのであると、私は思っている。


 なお、誤解のないように補足するが、生長の家大神とは、「生長の家」の固有の神様のことではない。時間(生)・空間(長)となり、森羅万象を生み出すところの究極的実在(大生命)のことである。これを神道では、「天之御中主神」とも「天照大御神」とも云い、仏教では「尽十方無碍光如来」とも「毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)」とも称するのである。


  久都間 繁


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「全托」について

 神想観をやっていると、日常生活の通念を超えた経験をすることがよくある。

「全托」という言葉があるが、これは絶対他力の信仰を一言で現したコトバである。

 例えば、何か問題が起こったとき、「それは神様に全托したらいいよ」というようなアドバイスを、することもあるし、される場合もある。
 しかし、そのような托し方は、絶対他力の信仰とは、実はあまり関係がないのである。

 絶対他力の信仰における「全托」とは、即ち「自分が托す」という、その「自分そのもの」を托してしまう、ことである。
 そして、「自分そのものを托す」とは、自分の見聞覚知している全意識、全宇宙、全存在を大生命に「托す」ということである。
 
 ここに不思議な世界が出現する。

 自分がぽっかり、神(究極的実在)と全宇宙との「接点」に位置していることを知るのである。

 つまり、からっぽになって、全宇宙となって、全存在となって、神に祈っている(包摂されている)ものが、これまで「私」と思われてきたところの存在なのである。

「大調和の神示」には、

「われは此処(ここ)に見よ、彼処(かしこ)に見よと云うが如くにはいないのである」
「われを招ばんとすれば天地すべてのものと和解してわれを呼べ」

 というコトバがある。

 神は「此処や彼処には」存在しない。
 なぜなら、「此処や彼処」とは、時間・空間上に現れた現象に過ぎないからである。

 また、「天地のすべてのものと和解して」いなければ神を呼ぶことができないのは、「天地のすべてのもの」は、即ち「神そのもの」の顕れだからである。

 和解するとは、要するに身を(も心をも)捨てて、天地万物を「無償の愛」の内に包摂することにほかならないのである。

「全托」とは、ただただ完全円満なる大生命のみに生かされることである。
 こんなに楽な世界はないのである。

 
  久都間 繁


 

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信仰と実生活

 私は、神想観という瞑想を始めてから、ずいぶんな歳月が経っていることに最近になって気が付いた。この祈りは、長くやっていればいいというものではないが、計算すると一万時間以上にもなっていた。でも、そんなことは大したことではない。

 大したことなのは、内なる大生命(神)を観ずることは、三十年の歳月を「あっ!」という間に感じさせるほど、魅力的だった、ということである。いわば浦島太郎みたいなものかもしれない。

 神想観を始めたころ、恩師の榎本恵吾先生(故人)が、「神想観を熱心に続けていると、祈りを始めたころの天にも昇るような悦びがなくなったように感じることがあるかもしれない。しかしそれは、実相を観じられなくなったからではなくて、現実生活の方が、祈りの世界に近づいてきて差が無くなってきたからなんだよ」と語ってくれたことがあった。

 実に配慮された、天狗になっていた初心者にも分かる優しい言葉だったことを、しみじみと思うのである。

 祈りの世界は広大無辺である。実生活が、祈りの世界に近づくたびに、内なるものがクライマックスに達し、さらに次なる光明と、次なる歓喜と、次なる使命が、まるで恩師の優しさのように、祈りの内からあふれてくる。そんなことを、これまで幾たび経験させていただいたことだろう。

 かつて宇治別格本山の智泉荘で目にした、谷口雅春先生のお詠みになったという短冊に墨書された歌を思い出す――


 一筋の 道踏み往けば燦然と
  光り満ちわたる 吾が世界来ぬ


 「信仰生活」とは、この一筋の道(唯神実相)を、勇敢に踏み往くことである。

 また「実生活」とは、私たちを光満ちわたる世界へといざなう、「道」そのものなのである。


   久都間 繁
   
   
   


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〝新価値〟の創造について

 オスカーワイルドは、ロンドンの霧は詩人がこれを言葉に表現したときに、初めて存在に入ったと語っているが、これは、詩人が言葉にした後に霧が存在するようになったという意味ではない。

 霧は、はじめからロンドンに存在していたのである。存在していても、言葉にして表現しなければ、人々の認識に入ることがなかったのである。

 私たちがコトバを通して「表現活動」をする場合、大きく分けて二つのタイプがあるように思う。

 一つのタイプは、広く巷間に出回って、世の通念となっている情報によって組み立てられた表現である。

 もう一つのタイプは、既に存在しているにもかかわらず、コトバによって表現されないために、ほとんどの人が気が付かないで見落としている情報。これは団体や組織の伝統や、風土に深く溶け込んだ文化、詩人が詠んだロンドンの霧のような自然の風物、あるいは或る人物の生き様など、人々の意識に上ることなく埋もれている概念を、コトバとして表現する場合である。

 前者には、さしたる魅力や発見はない。しかし後者には、多くの人が魅力を感じたり、ことによれば世の中を変えてしまうほどの力が宿っているように思われる。

 しかし、後者のスタイルでコトバや作品を表現するためには、常人が容易に見つけることのない鉱脈を発見して、それをさらに精錬して作品を生み出すような、尋常ならざる努力が要るのではないだろうか。

 しかし、そのような努力を通して紡ぎ出されたコトバ(や芸術)は、〝新価値〟となって世の中に迎えられ、新たな常識として定着する。

「日時計主義」のもたらす、真のインパクトは、この〝新価値〟を創造することである。

 そのためには、表層の意識に上る世の通念を超えて、意識の深層へと深く穿ち入らなければならない。

 そこには、未だコトバとして表現されることのなかった、ある人物の生き方や、社会や地域の伝統、それぞれの風土に溶け込んだ文化、自然の風物などが、無尽蔵の鉱脈として、私たちに発見されるのを待っているのである。

 鉱脈を見出したら、それを深く観察し、掘り出し、精錬して、コトバや作品として紡ぎ上げることである。

〝新価値〟の創造とは、私たちがどれだけ世の伝統や常識に深く棹さして、さらにその根源にある「真・善・美」の世界を内なる規範として生きているか、その人生経験そのものが、各自の作品となって顕れるのではないだろうか。

   久都間 繁

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PTA総会でのあいさつ

  小学校のPTA会長をお受けすることになって、5月9日に初めての総会に臨ませていただきました。

 5日ぶりに晴れ渡り、ツバメが飛び交う校舎の一室には、100人ほどの人々が参列していました。学校を取り巻く木々の新緑が午後の日差しに映えて、とても美しかったです。

 土曜日ではありましたが、午前から午後にかけて授業参観やセーフティ教室などが開かれ、午後2時45分から総会は始まりました。

 見渡せば、PTA会員の皆さんや校長先生をはじめとした先生方、そして来賓として地元名士の方々がご列席くださっていました。
 以下は、総会の折に発表した「PTA会長あいさつ」の草案です。
(これをベースに、アドリブで伸び伸びとお話させていただきました(^^;)

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 今年度より、PTA会長を拝命致しました久都間 繁と申します。
 わが家では、長男が4年1組、次男が1年3組でお世話になっています。また、今年高校生になった長女、中学校に入学した次女も、このA小学校でお世話になりました。

 その中で、印象に残っているエピソードのひとつを紹介させていただきます。

 私は10年ほど前に、仕事の関係で関西から東京に転勤して来ましたが、最初に住んだ調布市で、当時小学校1年だった長女が、言葉の違いなどが原因でいじめに遭い、腰掛けるときに男の子にイスを引かれて脳しんとうを起こしたことで、登校できなくなりました。

 その後、3年生のときに青梅に越してきたものの、長女はその時のトラウマをかかえたまま、教室に入っても座ることができず、A小でも3年、4年と保健室のソファーの定位置に腰掛けて、持参した本を終日読んで過ごす日々を送っていました。

 当時、校長をされていたH先生とも相談しながら、彼女の成長を見守っていましたが、やがて4年の三学期になるとソファーから窓際に移動して、外ばかりながめるようになり、そのころ書いた作文には、5年に進級した際のクラス替えを楽しみにしている文面が出てくるようになりました。そして5年生に進級したのを機に、突然生まれ変わったようにクラスに溶け込んで、人一倍元気な彼女の本来の姿へと生まれ変わったのです。

 振り返ってみますと、長女は保健室にいる間に、先生方や生徒の様子をじっーと観察して、この学校は生徒も先生も、安心して信じることのできる人たちであることを、何度も何度も心の中で確認していたのではないかと思います。
 そして5年生となり、卵からヒナが孵るように、当時、新たに赴任して担任となったN先生のもとで、安心して伸び伸びと翼を広げることができました。以来、彼女は猛勉強を重ね、第一志望だったあこがれの公立高校に今年ぶじに進学しました。

 このような、子供たちが安心して学ぶことのできるA小の校風、たとえケンカして傷つけあったとしても、イジメにまで発展することない懐の深い学習環境は、A小を取り巻く豊かな自然環境と、先生方と保護者との深い信頼関係、そして地域の人たちの見守りなど、長年の努力の積み重ねがあればこそ、実現できるものだと思います。

 私は今年、縁あって初めてPTA会長をさせていただくことになりましたが、このような当校の良き伝統をしっかりと継承しつつ、それを次代へと伝えるために、諸先輩のお力をいただきながら、PTAの会員の皆様、そして校長先生をはじめ諸先生方と一緒に、本部役員一同、子供たちの幸せのために尽力させていただきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。

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友人への手紙〈2009.4.22〉

 これは友人からの質問に答えた手紙です。
 支障のない範囲で転載します。

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合掌、返信をありがとうございました。

本当にあなたが道を求めているのであれば、まず周りの人たちに貴方から心開いて、皆のお役に立つこと、身近な人が喜ぶことを、毎日ひとつでいいからやってみましょう。

本当は、自分も他人も無いのです。
すべてひとつの、神のいのちです。
そこを体感してカラッポになって、一所懸命に生きることが、「救われる」ということです。

生長の家では、親切のことを「深切」と書きます。
それは、自分や他人といった「現象」を、深く切る、ということです。

無いものを、無い! として、そこに飛び込むことです。
それが百尺竿頭を進一歩することであり、そこからいのちの世界への扉が開くのです。

だから、今から、身近な人が悦ぶことを、周りの人が楽になることを、させていただきましょう。
そこから天国が開けてきます。

久都間 繁

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新たな使命

 自分にはそんな資格がないから、能力がないから、学歴がないから、とてもそんな器ではないから、などと「出来ない」理由を挙げることはいくらでもできるのであるが、これらのことは全て「現象」に過ぎないのである。

 なによりも大切なことは、私たちは今、ここに、それは神とも仏とも呼ぶべき「無限の大生命」によって〝生かされている〟ということである。

 誰も、自分の意志によってこの世に生まれて来た者などはいないのである。
 ここに〝生かされている〟ということは、自分で生きているのではなく、この仏とも神とも云うべき「無限の大生命」が、そのままそこに〝生きている〟のである。

 この「無限の大生命」に生かされているにもかかわらず、私たちが自分で、能力がない、時期ではないなどと、目先の現象にとらわれてさまざまな条件を作り上げ、私たちの内にひそむ「夢」や「願い」や「希望」(即ち人生の真の目的)を勝手に握りつぶしていたのでは、私たちを生み出した無限の大生命が、その生命の噴出口(表現の場)を失ってしまうのである。それが、つまり人生における〝行き詰まり〟であり〝生き甲斐を見失う〟ということであり、スランプ状態の本質である。

 つまり、巡りめぐって私たちのところに偶然のようにしてやって来る「新たな使命」を、表面だけ見てただの人為的なもの、価値なきもの、取るに足らぬものと解釈し、現象的な条件が整わないからという理由を付けて退けていたのでは、大生命が私たちを無限に生かそうとしても〝生かしようがなくなる〟のである。

 二葉のうちは、誰もそれが大木になるなどと信じないのは世の常である。

「新たな使命」がめぐって来るということは、私たちをこの世に生み出した無限の大生命そのものが、そこに実現しようとしているのである。

 

 久都間 繁

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友人への手紙〈2009.4.7〉

合掌、ありがとうございます。

 イエスは、「与えよ、されば与えられん」と語っていますが、この言葉は真理です。

 与えてもらうために「与える」というのでは、これは商売であり、利害関係が濃くなるほど、神から発した無償の愛や善の行為とは遠ざかることになります。

 しかし、神が無限の大生命であるように、太陽の光が無尽蔵であるように、人間が神の子であるということは、「与えるものが無限にある」ということなのです。

 それは、その人が役に立つとか立たないとか、能力があるとか無いとか、明るいとか暗いとか、そんなことはすべて現象であって、「人間・神の子」ということとは関係ありません。

 大切なことは、神が無限の愛であり、私たちは「神という大生命」から生まれた「神の子である」ということです。
 智慧も、愛も、生命も、与えれば与えるほど無尽蔵のいのちの水源(本源)から流出して来るのです。

 だから、「何か特別なことをしなければ、生きている甲斐がない」などというのは、まだ在りもしない現象にとらわれているのです。

 自分の周りの人たちのお役に立つこと、相手が誰であれ、頼まれたことを真心込めてさせていただくこと、日々祈りながら神の御心を生きること。

 それが、貴方のいう「ご恩返し」ということであり、「お役に立てる人間になる」ということです。
そこ(今、ここ)を離れて、神様の御心を生きる場所はありません。


  久都間 繁

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夜空の星

 今年の一月元旦、小6の次女と小3の長男の2人を連れて実家のある静岡の田舎に帰省した。

 その翌日、8年ぶりに同窓会に参加したのであるが、宴は昼から始まり、えんえんと会場と品を替え、ついに深夜にまでおよんだ。
 夜も更け、送ってくれた友人と、その息子の運転する車から降り、玄関前に立って夜空を見上げると、深く神秘的な光景が頭上に広がっているのに驚いた。一瞬、ゴッホの描いた「星月夜」を観ているのかと思った。

 幾つもの星雲、星団や細かな星々の一粒ひとつぶが、双眼鏡も使ってないのに手に取るように見えた。まるで深い星くずの海の底に頭を沈めて、普段は誰も見ることのできない宇宙の秘密を垣間見てしまったような気分だった。

 部屋で眠っている子どもたちに見せたら、どんなに驚嘆するだろう! 母にも知らせてあげなければ! と、家に飛び込んでみたものの、みんなすっかり熟睡していたので、あきらめて、そっと床に就いた。

 3カ月ほど経ったが、あの夜の光景が今も忘れられないでいる。
 考えてみれば、あのような星空は、私が子供の時から頭上に輝いていたはずである。なのに、なぜその美しさに気が付かなかったのだろう。

 ちょうどそれと同じようなことを、当日の同窓会でも体験した。
 午後1時からはじまった同窓会は、振り返れば12時間ほどにおよんだのであるが、そこで膝を交えて語り合った旧友たちの魂に魅せられているうちに、あっという間に時が経っていた。
 私は浦島太郎なのかと思った。今まで“当たり前”のように存在していた全てのものが、ぜんぜん“当たり前”ではなかったのだ。

 あの日、私は何を見て、何を感じていたのだろう。今はそんなことしか思い浮かばない。
 夜空にしても、幼なじみにしても、学生だった当時は“当たり前のもの”としてしか感じることのできなかった全てのものが、星空に輝く美しい星たちのように輝いていたのである。

 イエスは、「目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている」(ヨハネ4・35)と語っている。

 彼の眼には、取り巻く弟子たちのみならず、ピラトもマリアも、パリサイ人も取税人も、きっと夜空の星のように、美しく輝いて観えていたのではないだろうか。
 

  久都間 繁

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卒業式に寄せて

 先週から今週にかけて、幼稚園、小学校、中学校と、3つの卒業式に出席させていただいたが、最後を締めくくったのは火曜日に行われた小学校の卒業式だった。

 小学校を卒業した次女の担任だったA先生は、児童と保護者に宛てた学級通信を、5年生の1学期から卒業式の当日までの2年間、授業のある日はほぼ毎日発行していた。主幹を兼務した多忙な日々にもかかわらず、この作業のお陰で、学校でのさまざまな出来事が分かり、学校に通う子供たちのみならず私たち保護者にとっても、大切で、楽しみなニュースレターになっていた。

 A先生は、青梅の小学校に赴任する前は、三宅島の小学校で教員生活を送っていた。
 島で出会った海洋生物学者のジャック・モイヤー氏とも親交を深めながら、モイヤー氏や子どもたちと一緒に海に潜り、環境問題やその啓発活動に深い関心を寄せながら離島での児童教育に勤しんでいた、そんな矢先、2000年に三宅島が噴火。

 避難先となった東京都・あきる野市内の施設で、140人ほどの児童とともに疎開生活を開始したものの、両親の落ち着き先が決まった子供が一人去り、二人去り、毎週のようにお別れ会を繰り返す中で、残された子どもたちが親恋しさに涙を流すのにいたたまれず、A先生は泣く児童を毎晩両腕に5人も6人も抱えながら一緒に眠った。朝になると、服の両腕が涙でぐっしょりぬれていた。

 翌2001年春には児童数が20数人となり、同年度後半には、ついに0人となった。

 カラッポになった教室に残されたA先生は、かつて子どもたちと本土へ渡る船の中で、「必ず島へ一緒に連れて帰る」「私がみんなのことを守るぞ」と誓った期待に応えることができず、教師の使命や役割について反芻する度に無力感に苛まれ、「もう教師を辞めて別の仕事に就こう」と思ったという。
 しかし、教師として悔いの残らぬよう、「あと一年だけ、精一杯やらせていただこう」と決意し、たまたま赴任した先が青梅市内の小学校だった。

 2002年春、さっそく校長室を訪問し、「一年間だけですが、お世話になります」と挨拶した。

 彼にとって、教師生活最後となる一学期が始まった。
 演壇に立って、自分を見つめる子どもたちの純粋な眼に出合ったとき、「三宅島の子どもたちの眼と同じだ!」と、感じた。

 天職とは、周りの人たちから教えられるものなのかもしれない――

 以来、今日までの7年間の歳月は、彼にとって、あっという間の出来事だったことだろう。

 私がA先生と出会ったのは、3年前の2006年秋、小学校で行われた学習発表会だった。

 それは環境問題についての6年生による「いのちの環(わ)」という児童劇で、台本も、ストーリーも、子どもたちの唱う歌も、衣装も、舞台セットも先生の指導で何もかも自分たちの手で作り上げたものだった。

 劇の最中に登場する、子どもたちと先生とで作詞・作曲したというオリジナル曲の合唱を聴いているとき、この歌と物語の根底に流れている、自然に寄せる深く、そして優しい眼差しが伝わってきた。たかが小学校の学習発表会と高を括り、まったく何の期待もしていなかった私の目に、涙が止めどなくあふれてきた。それは紛れもない、A先生の根底に流れているものとの出会いだった。

 翌年、次女が5年生に進級し、A先生は娘の担任となった。それ以来、何度か膝をつき合わせてお話しする機会があり、私たちは導かれるように、教育のこと、環境のこと、地域社会への貢献のこと、他の若い先生方、あるいは大先輩の先生なども交えて夜が更けるまで話し合った。


 そんなA先生も、どうやら4月からの転勤も決まり、より責任ある立場の道へと進まれるようだ。したがって、今年の卒業生が、彼が教育現場で受け持つ最後のクラスとなった。

 卒業式の後、クラスの謝恩会が開かれ、A先生のニュースレターを通して繋がり合っていた保護者の皆さんが大勢参加した。

 謝恩会では、生徒の一人ひとりが両親に宛てた「感謝の手紙」を、皆の前で一人ずつ読み上げて、それぞれの親に直接手渡したほか、これも新たに卒業式に向けて先生と子どもたちとで作詞・作曲したというオリジナル曲の楽器演奏が披露され、最後に父母と子どもたちとが、先生のギターに乗せて一緒にその曲を合唱した。希望に満ちた、どんなに絶望したときでも元気が湧いてくるような爽やかな歌詞とメロディからは、A先生から子どもたちへの、彼らの将来に寄せる深い〝思い〟があふれていた。その演奏と歌は、今も私の頭の中で鳴り響いている。

 A先生、長年にわたる生徒たちへの情熱的な指導、本当にありがとうございました。

 子どもたちは、貴方と一緒に経験した学校でのさまざまな行事を通して、無償で奉仕して何かを成し遂げる喜びを、全身で感じ取ったことでしょう。
 この経験は、彼らの生涯の宝となり、自身の運命を切り開く大きな力となることでしょう。
 貴方と出会えたことを、生徒共々心より感謝しております。
 

  久都間 繁 

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自分を拝むことについて(二)

 愛さん

 ご質問、ありがとうございました。
 

>> 一年間、学校に通い、4月から2年生になりますが、この期に及んで、「わたしはこの学校に来てはいけなった」「わたしの居場所ない」と思ってしまっています。毎日、自信も明るさも、喜びもない生活です。早くここから脱したいです。こんなに苦しい思いをしなければならないほど、わたしは悪業を積んできたのでしょうか?

 これは大切なことですが、それは「悪業」とは関係ありません。むしろ、貴方の魂が素晴らしいが故に、そのような苦悩と思えるようなことをご経験になっているのかもしれませんね。
 
 大学や専門学校などに通うということは、ご両親が大きな経済的負担を負わなければ実現できないことと思います。
 学校に行くことが苦しいのなら、大学は義務教育ではないのだから無理して行く必要はありませんし、また、勉強を本当にしたくなったときに、改めて学び直すこともできます。

 かく言う私自身は、大学に行ったのは社会人になってからです。専門的な分野の研究を本気でしたくなったので、働きながら稼いだお金で学費を払って卒業したのですが、そのころの私は学ぶ理由がはっきりしていたので、(しかも自腹で行ったので(^^;)学校の授業の1分1秒がとても貴重で尊いものに感じました。
 
また、貴方が本気でやりたい仕事をすでに見出しているのであれば、まっすぐにそこに向かって歩み出してもいいと思います。

 しかしまだ、具体的に進みたい進路が定まっていないのであれば、貴方自身が興味をいだいている分野を、在学中に徹底的に掘り下げてみるのもいいでしょう。

 また学園生活で、外の世界に興味が湧いてこないということは、実は読書体験を深めて魂を深く耕すのにもってこいの時期でもあるのです。
 トルストイ、シェィクスピア、ディケンズ、ゲーテ、ヘルマン・ヘッセ、夏目漱石、森鴎外、生命の實相全集など、珠玉のような物語の世界があなたを待ち受けています。また、これらの作品に出会うことで、あなたの人生がどれほどいろどり豊かなものへと成熟されることか、とても楽しみなことです。

 また、そのようにして、内面の世界を深めているうちに、勉強や学校に対しての考え方も、大きく変わってくるかもしれませんね。

 いずれにしても、あなたは完全円満なる神のいのちそのものなのですから、どの道に進もうとも、全てが善き経験となることでしょう。

 久都間 繁

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自分を拝むことについて

 「新たに生まれる」の文章に寄せられたコメントへの返信が長文となり、皆さまのご参考にもなるかと思いましたので、こちらにアップさせていただきます。

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 合掌、ありがとうございます。
 昨日まで長崎に出張しておりましたので、返信が遅くなり失礼しました。

 さて、

>>毎日神想観はしていますが全く劣等感を取り除けません。周りの人たちのことも怖くて仕方ありません。自分を拝むって難しいですね。


 ということですが、現象の「自分」を拝むことは、貴方が言うようにとても難しいのです。
 それは現象の自分は「影」であり「実体」が無い、ということもありますが、なによりも困難なのは「過去の残像」(現象の自分)の中には善いものと不完全なものとが混在しているからです。

 生長の家で、「自分を拝む」というのは、過去の不完全な自分の残像(つまり現象)を拝む、ということではありません。

 現象は影であり、実体がないのですから、そんなものは放っておいて、はじめのはじめから完全円満であるところの「実相の自分」つまり、智慧であり、愛であり、生命であるところの本当の自分を拝み、そして味わうことが、神想観で実修するところの実相直視ということであり、そのような神想観を実修されることで、生長の家の「行」が悦びそのものである「楽行道」であることを見出すことができます。

 だから、現象の不完全な自分を見て、それを〝良くしよう〟などと思って研鑽していたのでは、いつまでもその不完全に捉われてしまい、さらにそれが〝心の影〟となって現れ、努めれば努めるほど苦しくなってしまうのです。

 貴方は、はじめのはじめから神の子であり、完全円満なる智慧・愛・生命をいただいているのですから、もっともっと全身の力をぬいて、神様に全托して、その完全円満なる大生命にただただ生かされていることに感謝して悦んでいればいいのです。
 そうすれば、実相さながらの大調和した世界が貴方の周りに実現して来るのです。

 また、「周りの人たちのことも恐くて仕方がない」というのも、人生というものは自分の力でなんとかしなければならない不完全なものだと見て、努め励んでいることの裏返し(心の影)ですから、これまでの日々で辛いことも多かったことでしょう。
 
 もうそろそろ「現象」(影の世界、結果の世界)を信仰することをやめて、「実相」(神様の世界、実在の世界、本当の自分)を信仰する生長の家の生活へと、思い切って飛躍する時期が来ているのではないでしょうか。

 機は熟していると思います。分からないことがあれば、何でもお尋ねください。

 また、関東地方にお住まいであれば聖典講義の日は個人指導もしているのでお越し下さい。

 久都間 繁

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イエスについて

  新約聖書には、イエスが行ったさまざまな奇蹟が記録されている。死んで数日経ったラザロを蘇らせ、目しいの眼を開き、足萎えを立ち上がらせ、悪鬼を追い出すなど、常人には成しえないような奇蹟を行ったことが紹介されている。

 しかし、現象的に見れば、やがてイエスは十字架上に磔になって殺され、生還したラザロも、目の癒された人も、足が癒えた人も、悪鬼から救われた人も、みんな間違いなく死を迎えているのである。

 聖書に記されていることの本当の値打ちのあるところは、死人が蘇った奇蹟でも、不具や病気が癒された奇蹟でもないのである。イエスが神のみを信じて、その神の御意(みこころ)を生きたところにこそあるのだ。

 神のみを信じて生きた結果として、ラザロが蘇り、目しいの眼が開き、足萎えが立ち上がり、悪鬼が消えたのである。

 現象のイエスは、ラザロの死を見ては嘆き、磔(はりつけ)になる前には「願わくはこの苦き杯をわれより取り去り給え」と神に哀願しているのであるが、そこがありのままに記述されているところが聖書の素晴らしいところである。

 イエスは、私たちと同じ悩み苦しみを抱きながらも、最終的には一切の問題を神のみに委ねているのであるが、そこから、この物語の「聖」なる輝きが生じているのである。

 イエスの復活とは、二千年前に生じた一回限りの事件ではない。キリストは、私たちの内に、はじめから(生まれる以前から)活在しているのだ。

 内なるイエス・キリストと出会ったとき、今・ここから「聖」なる物語が始まるのである。

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赤毛のアンについて

目の前に広がるこの美しい世界。赤い花を赤い花だと認識し、青い空を青い色として体感することの不思議。水があり木々があり、宇宙があることの不思議。「私」という意識があることの不思議。そもそも、この「私」がこの世に生まれてきたということ自体、考えてみると「奇蹟」としか言いようがない。
 そうしてみると「奇蹟」というのは、何も宗教だけの専売特許ではなくて、日常生活のありとあらゆる瞬間に潜んでいるのです。後は、その小さな「奇蹟」に気が付けるかどうかということが、すべての鍵を握っています。

(茂木健一郎著『「赤毛のアン」に学ぶ幸福になる法』239頁より)


 私は「赤毛のアン」の隠れファンである。が、そんなことは家族以外には話したこともなかった。かつて、モンゴメリーの書いたアンのシリーズを夢中になって通読したことがあったが、私の中では、それは心の引き出しの奥深くにしまったままになっていた。
 しかし、7年前にわが家に迷い込んできたメスの子猫に、「アン」と命名していたり、テレビでアン関係の番組があれば予約してチェックし、関連書籍があれば思わず手にとって紐解いている。これも潜在意識のなせるワザであり、それなればこその隠れファンなのであり、要するに表立ってファンであることをあからさまにするのが恥ずかしかっただけのことである。

 茂木健一郎さんの書いた『「赤毛のアン」に学ぶ幸福になる法』も、そんな具合にたまたまアマゾンで発見して購入したものだ。

 一読して、自分がなぜアンをはじめマシュー、マリラ、リンド婦人など、彼女を巡る人々やストーリーそのものに引かれていたのか、その構造がようやく理解できたような思いがした。そして、その構造に気が付くたびに、涙があふれて来た。この物語は「真心」「誠実」「愛」といった原初的なものによって骨格が成り立っていたのである。

 同書で茂木さんは語っている〈その小さな「奇蹟」に気が付けるかどうかということが、すべての鍵を握っています〉と。

 虚心に眺めてみれば、世界そのものが、「奇蹟」そのものだったのだ、再びアンに会いたくなってきた。


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「願い」の成就

 私たちが抱くところの「夢」や「願い」は、すでに神様の世界で成就していればこそ、後から私たちの脳裏に閃(ひらめ)いて来るのである。だから全ての「願い」には、「実体」があり、その「実体」がすでに完全円満に成就して、光り輝いていることを悦ぶことこそが重要なのである。

 その「願い」が正しいものなのか、それとも間違ったものなのかを判断する以前に、その「願い」の背後にある「実体」を知ることが重要なのである。「実体」とは即ち「実相」である。「願い」や「夢」の「実体」を見極めたとき、最早そこには、在るもののみが在るのであり、この「在るもの」のことを、「神」とも「仏」とも「実在」とも云うのである。この「在るもの」と出会ったとき、全ての「願い」は成就するのである。

「われは此処に見よ、彼処に見よと云うが如くにはいないのである」と、『大調和の神示』には書かれている。が、「願い」も「此処に見よ、彼処に見よ」というが如くにはないのである。イエスは、「汝らもし盲目なりしならば、罪なかりしならん。されど今は見ゆと言う汝らの罪はのこれり」(ヨハネ9・41)と語っている。「此処に見よ、彼処に見よ」が指し示すものは、現象世界に現れた影に過ぎないのである。

 現象世界において、さまざまな「願い」が成就することは嬉しいことであるが、この世は「諸行無常」であるということを私たちは知っている。しかし、ささやかな「願い」が成就するということは、実はたいへんな(驚くべき!)ことなのである。
 私たちは、いずれは財産や地位、名誉のみならず肉体も家族も何もかも“この世”に置いて去らなければならない時が来るのであり、全人類がそのような宿命の内に生きており、一つの例外もあり得ないのであるが、現象世界に咲く一輪一輪の花(願いの成就)は、これ全て「実相世界」から咲き出でている“実在の鳴り響く相”であることを知らなければならないのである。

 だからどんなに小さな悦びにも、そこに無尽蔵の光明が宿っているのである。

 仏教でも「三車火宅」の喩えがあり、この世の栄枯盛衰は、まさに春の世の夢の如きものにすぎないのであるが、そのようなこの世(現象世界)にも、次から次へと無尽蔵に尽きることなく花を咲かすことができる秘訣が、生長の家の教えにはあるのである。

「願い」とは、実相世界からの切々たるメッセージであり、それは、如実に「実体」があるからこそ出てきたのである。
 この「実体」こそが、すべてのすべてなる「神」であり、この「実体」のことを天照大御神とも尽十方無碍光如来とも云うのである。

 その「実体」つまり、「実相」と出会うことで、すべての「願い」は成就する。イエスは、「み心の天に成る如く地にもなさせたまえ」と、「主の祈り」で称えているが、み心は、すでに「天に成る」つまり、実相世界で完全円満に光明燦然と輝きながら成就しているのである。

 その実相世界にある「実体」を観じて悦び感謝したとき、「地」つまり現象世界にもそれは実現するのである。それが、横の真理である「三界唯心所現」の法則であり、誰でも応用し実現することができる生長の家の神癒の秘訣である。

 このように「縦の真理」と「横の真理」とが完全に相俟(あいま)って、実生活も救われるのが生長の家である。

 このことを悟るためには、完全円満なる神に、既にすべてのすべてに亙って全面的に生かされているのである、という「絶対他力」の信仰に逢着しなければならない。
 

 久都間 繁

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