2022年11月26日 (土)

“声なき声”を聴く (2022,12)

 親鸞(しんらん)の言行を記した『歎異抄(たんにしょう)』の中に、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という文言がある。この言葉は、悪人や罪人こそ、まさしく阿弥陀仏(尽十方無礙光如来の大慈悲)に救われるべき対象だ、という意味である。人生を渡るなかで、自身で担い切ることのできない大きな罪業に苛(さいな)まれた者にとって、この言葉は地獄の桎梏(しっこく)から救われるような光明をもたらしたことだろう。


 生長の家の「観世音菩薩を称うる祈り」の中に、「観世音菩薩は、私たちの周囲の人々の姿となって私たちに真理の説法を常になし給うのである」と記されている。人生を顧みて、たとえば物事が思い通りに運ばなかったり、不如意な事が起こっているように見えたならば、それは周囲や自身が発している”声なき声”に、心の耳を傾けていなかったことの裏返しだったのかもしれない。


「心の法則」について説かれたこの祈りの言葉の背後には、人間の実相は“宇宙大生命”と一体であり、全ての生きとし生けるものと繋がっているという宗教的な世界観がある。では観世音菩薩は、私たちの「周囲の人々の姿」となって、いったいなにを語り続けているのだろうか。これは不思議なことだが、私たちがこの”声”に耳傾けることで、これまで膠着(こうちゃく)していた問題や、立ちすくむほかなかった難題を解決するための鍵が、意外なところから回り始めるのを多くの人が経験している。


“聴く”という受動的なことが、諸問題を解決する鍵となるのは、これまで顧みなかったものたちの”声なき声”を通して、私たちの心が天地一切のものと向き合い”いのちの繋がり”という大切な真実に目覚めるからである。これまで人生の難題を解決するために、私たちが懸命に努め励んでも一向に解決の道が開けない場合があったのは、それは”声”を聴くことのない一方的なアプローチだったからではないだろうか。


 観世音菩薩の説法に耳傾けるとは、神想観を実修して、宇宙大生命に、問題も不安も疑念も悩みも苦しみも悲しみも願いもすべて委(ゆだ)ね切って、大安心の気持ちで全托して祈ることである。一休禅師は、「闇の夜に鳴かぬ鴉(からす)の声きけば 生まれぬ先の父ぞ恋しき」と詠んだが、闇の夜の扉をひらく唯一の鍵は、大安心の全托の中から生じる”無条件の感謝”である。その大安心の感謝の中に、観世音菩薩の慈悲喜捨が語りはじめるのだ。「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という親鸞の言葉は、この全托の中から聴こえてきた、観世音菩薩が衆生の苦悩を照らし給う大慈悲の光りなのである。


 観世音菩薩は、常に真理の説法を語り給うている。私たちは、周りで語り続けるいと小さき者たちの”声なき声”に耳傾けることから、漆黒(しっこく)の闇の夜に智慧の光りを灯すことができるのだ。声なき声を”聴く”ことで、悪人と見えていた不完全な現象が消え去り、そこに一切衆生の実相を根底から蘇がえらす仏のいのちが復活するのである。

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2022年11月 1日 (火)

“ご恩”について (2022,11)

 コロナがいったん収束したおかげで、各地で講演会などの諸行事を開催できるようになった。教区に赴任して数年を経たが、いずれの会場も半数ほどは初対面の方ばかりである。巡講させていただいてありがたいことは、新たな“ご縁”を通して亡き恩師たちへのご恩返しの幾分かを果たせることだ。私たちが信仰の世界に入ったのは、知人の影響かもしれないし、家族の助言だったかもしれないが、ここに至るまでに、どれほど多くの人たちの“愛念”と祈りによって生かされてきたことだろう。


 私もその一人だが、親しい方から頂いたご恩のことは“当たり前のこと”と思って忘れてしまうのであるが、それは水や空気のように自然で、自己主張をしない“無償の愛”だからである。しかし、これほど私たちを根底から生かし、私を私ならしめてくれたものはないのだ。


 多くの人は、現在の地位や能力を“自分の努力のたまもの”ぐらいに思っているのであるが、自分に才能や能力を授け、学ぶ機会を提供し、食べ物や住む場所を用意してくれた無数の人たちのことは念頭から消えていることが多い。家族であれ、恩師や友人であれ、もし、その人との出会いがなければ、別の人生を歩んでいたであろうし、もしかしたらどこかで野垂れ死にしていたかもしれない。


 実りの秋の時節に、あらためてこの“ご恩”を顧みることも決して無駄ではあるまい。たとえば、もし皆さんの身近な誰かが、これまで注いだ愛情のことを一向に顧みてくれないように見えるならば、それは私たち自身が、これまでお世話になり、導いてくださった方たちの愛念をちゃんと受け止め切れていないからであり、目先の利害損得に心奪われ、あらぬ方向ばかり見てきたからではないだろうか。『大調和の神示』に「顧みて和解せよ」と説かれているのは、かつて自分に注がれ、今はどこかに置き忘れてきたその所在も知れぬ“愛念”のことを想い出し、よくよく「脚下照顧」してみることを教えているのである。


“無償の愛”を注いでくれた方たちの“想い”は、私たちがその“掛け替えのなさ”に気づき感謝したとき、初めて成就する。つまり、隠れていた“ご恩”が日の目を見て輝き始めるのだ。そのとき私たちは、初めてその愛念を受けたときの自分に立ち帰り、そして、そのときと同じ目線に立って誰かをお世話し、導くためのコトバや智慧がここからひらけてくるのである。


 そのためには、先ず行動に移してみよう。先方は、もうすっかりお忘れになっているかもしれないが、ご存命であれば訪ねて行き、お礼と感謝の言葉をあらためて伝えることである。また、すでに故人となっているなど、逢えない事情があるのであれば、神想観の折に繰り返し想い出して、感謝の祈りをどこどこまでも捧げさせていただくことである。そこから、かつて自身に降り注いでいた慈悲の光りが、これからの往くべき道を煌々と照らしはじめることだろう。

 

 

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2022年10月 3日 (月)

“ご縁”に感謝する (2022,10)

 川越に住み始めて三度目の秋を迎えた。借家の庭を開墾した畑では、春にはキュウリ、トマト、ナス、ゴーヤ、ピーマン、シシトウなどの夏野菜を栽培して、盛夏をすぎたら、いつも手つかずのまま日々の忙しさに紛れて放ったらかしていたのだ。が、今秋は心機一転、九月中旬に収穫後の残骸を片付け、冬に向けて白菜、ノラボウ、レタス、カリフラワー、キャベツなどの苗を植えてみた。


 生長の家に、「一切の人に物に事に行き届くべし」という言葉がある。「一切の人に物に事に」とは、私たちが日常の中で出合う“ご縁”のことだ。人との出会いも、物や事との出合いも、すべて偶然のようにも見える“ご縁”に導かれて進展してゆく。そのご縁に感謝し、光明面に着目して育んでいれば“ムスビの働き”によってそこから尽きることのない新価値が生まれてくる。一方、自分の都合を優先して、惜しい欲しいと執着し、心が暗黒面に捉われていれば、どんな良縁も悪縁となって見えてくるのである。


 生長の家は「天地一切のもの」との“ご縁”を神の現れとして拝み感謝する教えである。そして、天地の渾(すべ)てのものは観世音菩薩の現れであると教えていただいている。仮にもし不完全な姿が現れていれば、それは過去の迷いの想念が消える浄めの相(すがた)であり、相手の実相を拝んで感謝していれば万事は必ず好転するのである。


 宗教学者の島薗進氏が、『愛国と信仰の構造』(集英社新書)という中島岳志氏との共著で、自然災害からの復興をめぐって印象深い言葉を語っていた。それは、誰かをお世話させていただくときは、「相手が求めているものに応じて、即興的に発揮できるものを探していく。このこと自身が自分にとっても大きな学びになる」というもので“ご縁”を生かすことの深い洞察が伝わってくる。


「相手が求めているものに応じて、即興的に発揮できるものを探していく」とは、私たちが、仏の四無量心や神の愛を行じさせていただくときの姿勢そのものと重なる。それは、すべての“ご縁”を観世音菩薩の導きとして拝み、大切に育てていく慈悲の姿であり、私たちも多くの先達から、このような“お世話”を頂いたおかげで信仰生活へと導かれ、人間・神の子に目覚めさせていただいたのである。そして「このこと自身が自分にとっても大きな学びになる」とは、信仰生活の無限生長の喜びに他ならない。


 仏の四無量心は、喜怒哀楽を越えた“絶対他力”の深い感情である。私たちはその光りに生かされて生きている。その慈悲喜捨の無量の心は、在りとしあらゆるものを生かす無償の愛であり、それに生かされていることに気づいたとき、人間・神の子として新生する。そんな皆さんの往くところ、ご縁ある全ての物を活かすクラフトが生まれ、家族を活かすエシカルな料理が食卓に並び、大地や植物や人を活かす豊かな収穫となり、それぞれに授けられた人生の一隅を照らすのである。

 

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2022年8月23日 (火)

灯火親しむ季節に (2022,9)

 苦海と見えていた人生で、読書を通して一条の光明を見い出された方も多かろう。秋の夜長は本に親しむ時節でもある。ということで、最近読んだ中から目からうろこが落ちる体験のできる(と思われる)お勧めの本を何点か紹介したい。

 先ず、新書大賞を受賞した『人(ひと)新世の「資本論」』(斎藤幸平著 集英社新書1,130円)。人の営みによって都市はコンクリートに覆われ、海は酸性化とプラスチックに汚染され、大気中には大量のCO2が溢れて地球温暖化が進んだ。そんな、自然を大きく改変した地質学上の時代区分のことを「人新世」と呼ぶそうだ。本書は、それを〝滅亡の遺跡〟としないための処方箋である。

「風が吹けば桶屋(おけや)が儲かる」という諺がある。環境問題を解決するための基本は、環境破壊が発生する構造を理解して、それを好転させる鍵を見出すこと、そして鍵を回すことである。本書は、そのための知見を、人類の過去の経験や思想、そして世界各地で進めている有効な取り組みを紹介して明らかにする。内容の深さに相違して、環境問題のメカニズムについてこれほど分かりやすく書かれた本もまれだ。これまで皆さんが学んで来た知識や情報が、読むだけで整理できるだろう。私たちが目指している〝新しい文明〟の一つの方向性が見えてくる一冊だ。

 次は『親鸞と日本主義』(中島岳志著 新潮選書1,540円)。ロシアとウクライナの戦争を機に、日本でも歴史を振り返り検証しはじめた「愛国と信仰」の問題について、これほど思想的に踏み込んだ研究は珍しい。明治維新以降、伝統的な宗教や国学、そして著名な思想家が説いてきた「日本主義」「国体」「聖戦」などの言葉が、ときに民衆の心を扇動し、ときに国策に迎合して戦争に突き進み、イデオロギーとして人心を振り回してきた歴史が浮き彫りになる。「中心帰一」といい「大御心」といい「絶対他力」といい、同じ言葉を使っていても、それが神の無限の愛や仏の慈悲喜捨から発したものなのか、それともただの観念が頭に宿って鳴り響いた付和雷同なのか。それがどんなに尊い言葉で表現され、そこに理想と見える世界があるように思えたとしても、深く検証もせず現象を妄信すれば、「外にこれを追い求むる者は(略)永遠に神の国を得る事能わず」であり、万行空(ばんぎょうむな)しく施すことになる。

 本書をたどりながら、過去の歴史を通じて説かれた〝似て非なるもの〟を厳密に検証することで、生長の家が説く「中心帰一」との〝違い〟が見えてくるだろう。真意を探る中から、あらためて「仏の四無量心」が、国を超え、民族を超え、時代を超えて生きとし生けるものに働きかけ、観世音菩薩の大慈悲が生長の家の運動となって顕れていることに注目してほしい。

 ほかにも紹介したい本は数多(あまた)あるが、紙幅が尽きる前に一冊挙げれば、『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(米原万里著 角川文庫616円)も意外な一冊だ。異文化コミュニケーションがもたらす豊かな実りと、国や民族を異にする親友たちへの〝想い〟が切々と胸に迫る。今は亡き著者が振り返る、わくわくドキドキの自伝的ノンフィクションだ。

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2022年8月13日 (土)

コロナ禍で開花した運動の多様性 (2022,8.15)

 生長の家栄える会の機関紙『七宝の塔』8月号に寄稿したものをブログに採録しておく。(なお、機関紙には久都間のふりがなを誤って「つくま」と誤植されていたが、「くつま」が正しい表記である)

 

  2020年の春、ご縁あって、新型コロナウイルスが蔓延する最中(さなか)に埼玉教区と群馬教区に赴任させていただいた。同年3月、前教区で推進していた生長の家講習会が中止。4月以降、赴任先で計画していた各地の講演会をはじめ、練成会、誌友会など全ての行事が中止となり、着任早々「コロナ禍での教化活動」という大きな宿題を頂いた。この折の事を、栄える会の諸氏に披瀝することで、依頼を頂いた寄稿の任を果たそうと思う。

 着任して脳裏に浮かんだのは、対面を必要としないFacebookグループとzoomの活用だった。既に埼玉教区と群馬教区を結ぶ会員限定のネットワークがあり、数年前に東京第二教区でも同様のグループを立ち上げていた経験から、当面の運動の軸をここに据えることにした。

 しかし、当時このグループの参加メンバーは会員の18%に充たない数で、非対面型の運動の軸とするには、信徒間で話題になるようなコンテンツを充実させ、参加者を増やすことが不可欠だった。

 先ず教化部スタッフに、教化部を〝放送局〟にする構想を伝え、赴任2日目からzoomとFacebookを活用した神想観の先導とミニ講話のライブ配信をスタートした。放送内容は、午後0時半から「四無量心を行ずる神想観」を実修し、1時から教化部長のミニ講話と質疑応答の時間を設け、これを毎日欠かさず配信した。さらに4カ月目からは、地方講師の皆さんにも加わっていただき、神想観先導と信仰体験を交代で担当してもらった。

 その目的は、①魅力的なコンテンツ(神想観・講話や体験談)配信によるネット利用者の増加。②地方講師の皆さんの教化力の維持。③PBS活動に参加していただくための一里塚。この仕組みを軸に、あらゆる対面行事のデジタル化を模索した。

◇ネットが利用できない人のために

 合わせて着手したのは、埼玉、群馬の各教区で発行していた機関紙の充実だった。一見、ペーパレスの時代に逆行しているようにも見えるが、コロナ禍でのコミュニケーション不足を補い、PBSを軸にした運動を咀嚼(そしゃく)して伝え、誌友の手元に生きた情報を届けるには、暫定的ではあるが紙媒体の「教区機関紙」が最適な手段となった。埼玉では、それまでA4版2ページの紙面を、群馬の機関紙と共に一挙にA4版8ページへと拡大。

 紙面はそれぞれの教区で編集して、毎回1面にPBS諸活動の特集を、2面以降は白・相・青はじめ各組織からのメッセージを、さらに「教化部長の信仰随想」、故人となった諸先達を顕彰する地方講師によるリレー随想、各地で実施したPBSトピックス、翌月開催する各種ネットフォーラムの宣伝広告、最後の8面に「行事(ネット配信含)予定表」などを掲載したことで、コロナ禍でも生長の家の運動を血液のように巡らせる、動脈としての働きを紙面に託した。

 さらに、インターネットの双方向の特徴を活かした試みとして、従来の「地方講師研修会」をはじめ、練成会等で行っていた諸行事なども試験的に実施してみるなど、こんな時期でなければできない実験を重ねさせていただいた。また、総裁先生ご夫妻が「九折スタジオ」を開設されたことから、全てのネット行事で同スタジオの視聴時間を組み込んで視聴。コロナ禍にも関わらず、総裁先生方からご指導いただく機会が従来と比較にならないほど身近なものとなり、教区の信徒の皆さんの信仰の大きな糧とさせていただくことができた。おかげで2021年の立教記念日の式典の本部褒賞では、埼玉教区が普及誌購読者数増加数・増加率ともに第1位のほか「質の高い運動実践賞(白鳩会)」、「地域貢献活動優秀賞(相愛会)」、群馬教区は「社会貢献賞(栄える会)」を受賞させていただき、次第にスマホに切り替える人々も増え、現在はSNS利用者も4割を超えた。すべては、技術面で支えてくれた教化部スタッフ、そして運営面で活躍された教区幹部の皆さんの尽力あればこそである。

 ◇紫陽花のように

 かつて梅雨の時期にガクアジサイをスケッチしたとき、その構造が、まるで宇宙に浮かぶきら星のように、無数の細かな花や蕾みの集合だったことに気がついた。対面行事が解禁となった梅雨以降、担当しているペア教区でも、満を持して教化部長が教区各地へ出向いての講演と「教化部長・先祖供養祭」そして誌友会等の対面行事をスタートした。

 すでに群馬の桐生市、埼玉の上尾市など5会場で開催し、コロナが蔓延しなければペア教区全総連の二十数会場を回る予定だが、各会場ではzoomで〝顔見知り〟の方もいれば、まったくの初対面の方が半数以上もいることに深い感慨を覚える。赴任して3年目、コロナ禍でなければ既に3巡目に入っていたことだろう。

 また、講演会や先祖供養祭では、講話の後で必ず質疑応答の時間を設けているが、ある会場で「世界平和の祈り」ニューバージョンについて、こんなご質問を頂いた。それは、「ロシアの人のために祈るのは誤解を招くのでは?」というもので、その趣旨を尋ねると、ロシアを悪と見る〝世間の目〟に生長の家も合わせるべきではないか、という配慮であることが判った。

 ご存じのように、私たち生長の家は観世音菩薩の大慈悲の運動である。その展開であるみ教えは天下無敵を説き、敵と見える者の中に神や仏の実相を拝むのである。道元禅師は、「道心の中に衣食あり、衣食の中に道心なし」という言葉を説かれたが、道心とはすべてを生かす仏心を生きること。一方、衣食とは、今風に云えば世に蔓延した経済至上主義の生き方のこと。前者は感謝と和解の道であり、後者は競争と奪い合いと環境破壊へと進む隘路(あいろ)である。

 神さまから観れば、神の子に人種や民族の違いも無ければ、国の違いもない。たとえ世間がどのように見ようとも、慈悲喜捨の四無量心は、微塵もゆらぐことなく天地を貫いて万物を生かすのである。その大慈悲を生きることの中に、私たち生長の家の菩薩行があり、それを実践することから衣食が、世界平和が、次世代への愛の行為が満ちてくるのだ。それは紫陽花のような多様性に富んだ〝新しい文明〟を花咲かせる道である。

 

 

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2022年8月 1日 (月)

丸貰いの丸儲け (2022,8)

 不思議な時代が到来したものだ。スマホが普及したおかげで、今生では再び会うことは無かったであろう遠方に住む旧友とも、再会できる窓が開いていた。つい最近のことだが、共に四十年ほど前に宇治で修行して、その後み教えから離れていた友人から、メッセンジャーで次のような質問が寄せられた。

「久都間さんにお聞きしたいことがあります。生長の家で一番大切なことは何でしょうか? 私は最近纏めた本で、自分が〝光であること〟と記しました。ところが先日、古参の生長の家誌友の方から〝それは感謝だ〟といわれました。が、私は〝光り〟のなかには〝既に感謝できている自分〟がいるから、それで正しいと思っていましたが、いかがでしょうか。それでも感謝することが第一なのでしょうか? 教えてください」。

 生長の家で一番大切なこと、という質問は、彼なりに人生を賭けた問いと思われた。私はスマホを手に、次のように答えていた。

「人間はみな神の子です。外界はすべて現象であり、非実在です。しかし現象は、宇宙大生命の働きである観世音菩薩(観自在の原理)によって現れた世界ですから、その人の心境に応じて、救いの機縁となるものが百人百様に現れるのです。だからあなたの云う〝光〟も一番大切であり、誌友の語る〝感謝〟も一番大切なのです。

 生長の家で『天地一切のものと和解せよ』と説くのは、仏の四無量心を行ずる私たちの慈悲喜捨こそが、一切の無明を照らす智慧の光であり、衆生の苦悩を癒やす愛の光だからです。日々の神想観を通して、随所で慈悲と愛を行じさせていただくのが生長の家の信仰生活です」。

 梅雨が明けて八月が近づくと、宇治本山で総務を務めておられた藤原敏之講師の語っていた「救いの根本行は、ただ〝有り難う〟と感謝すること。善くても有難く、悪くても有難いのです」「自分の力によるものは一つもない、ことごとく頂きもの、丸貰いの丸儲けと分かれば感謝以外にはない」という言葉が蘇って来る。

 〝丸貰いの丸儲け〟とは、すべては神からの授かりものということである。〝自分のもの〟と思っていた家族も、自身の能力も、身体も、信仰する力も、実は自分のものなど一つもなくて、すべては神の愛、仏の大慈悲が家族となり、師や友人となり、同僚となり、土地や財産や私たちを取り巻く山河となって現れていたのである。

 唯神実相の信仰は、運動の根底に脈々と流れ、その慈悲の光に触れた人々を救いへと導く。役員改選で新たな使命が天降った方、一念発起して信仰に本腰を入れはじめた方、ともに私たちの住む世界は〝丸貰いの丸儲け〟宇宙まるごと神さまからの恵みであり、授かりものである。そして何よりも神の子であるあなたの存在こそが、神がこの世にもたらした最高の贈りもの、世の人々を照らす慈悲の光に他ならないのである。

 

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2022年6月25日 (土)

紫陽花の咲くとき (2022,7)

 十年ほど前の梅雨のこと。紫陽花(あじさい)をスケッチしたとき、その構造が、まるで宇宙に浮かぶきら星のように、無数の細かな花や蕾みの集合だったことに初めて気がついた。以来、紫陽花が咲く度に、かの天体は色や形そして星雲の形態まで種によって微妙に異なることが見えてきた。そんな世界の不思議に触れる悦びは、神想観での宗教的な発見にも似ている。

 コロナ禍で、誌友会などの対面行事が開催できない期間が二年以上続いたが、梅雨入りとともに群馬と埼玉の各地を巡る「教化部長講演会」と「先祖供養祭」をスタートした。先ず群馬では桐生市、埼玉では上尾市と吉川市と越谷市を回らせていただいた。各会場ではzoom(ズーム)で〝顔見知り〟の方もいらっしゃれば、まったくの初対面の方も半数以上もいることに深い感慨を覚える。
 すでに両教区に赴任して二年以上の時を経ていることを思えば、本来なら教区の各地を二巡ほど回り、三巡目に入っていたことだろう。

 それでもコロナ禍の間、教区で出来る精一杯の活動として、インターネットを活用しての日々の神想観と講話、そして地方講師の皆さんによる体験談をたゆみなく教化部から配信させていただいた。感染症蔓延という初めての状況下で、どれだけの教化活動が出来るのか実践と試行錯誤の連続だったが、ともあれ対面行事が可能となった今は、従来型の誌友会などアナログの運動も復活させ、コロナ渦中で展開したデジタルの利点をも生かしながら、柔軟に活動を進めていく予定だ。

 講演会と先祖供養祭では、講話の後で必ず質疑応答の時間を設けて皆さんとの対話を楽しみにしているが、ある会場で「世界平和の祈り」ニューバージョンについてのご質問を頂いた。それは、「ロシアの人々のために祈るのは、生長の家でない人から見て誤解を招くのでは?」というもので、その趣旨をさらに聴いてみると、ロシアを〝排除すべき敵〟と見る世間の目に合わせるべきではないか、という配慮であることが判った。

 ご存じのように、生長の家の本源は大慈大悲の観世音菩薩である。その大慈悲の展開である生長の家では、天下無敵を説き、敵と見える者の中に神や仏の実相の姿を拝むのである。仏教に「道心の中に衣食あり、衣食の中に道心なし」という言葉があるが、道心とはすべてを生かす仏心を生きること。一方、衣食とは、世に蔓延した経済優先の生き方のこと。前者は感謝と和解の道であり、後者は競争と奪い合いと紛争へと通じる隘路(あいろ)である。

 神さまから観れば、神の子に人種や民族の違いも無ければ、国の違いもない。世間がどのように見ようとも、慈悲喜捨の四無量心は、微塵もゆらぐことなく天地を貫いて万物を生かすのである。その大慈悲を生きることの中に、私たちの菩薩行があり、そこから衣食が、世界平和が、次世代への愛行が満ちてくるのだ。それは紫陽花のような多様性に富んだ〝新しい文明〟を花咲かせる道である。

 

 

 

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2022年6月 1日 (水)

“愛の行者”楠本加美野先生のこと(2022,6)

 この三月、楠本加美野先生が彼岸へと旅立った。振り返れば、楠本先生を通して神さまから幸(さきは)えられた恩恵は計り知れない。私もその恵みを戴いた一人である。

 先生との出会いは四十数年前、富士河口湖道場での一般練成会だった。当時の先生は〝愛の行者〟そのものといった印象で、たとえば道場の廊下で合掌してすれ違うとき、演壇で穏やかに講話されているとき、湯船に浸かって瞑目合掌されているとき、先生の雰囲気から、日々唱えている聖句の言葉が光を放ち、一挙手一投足に中心帰一の誠意が滲み出ているようだった。

 その年の暮れ、青年会の仲間たちと車二台に乗り合わせ新春練成会に参加した。練成中の早朝、楠本先生の先導で地元の浅間神社に参拝して神想観を実修した。辺りは雪が積もり、火の気の全くない極寒の境内は深閑としていた。先生は毎朝ここで祈っているとのことだった。

 数年後、先生は本部練成道場(飛田給)に異動され、一九八七年からは宇治別格本山の総務を拝命された。そこで再び楠本先生と出会い、二〇〇〇年に私が本部に転勤するまで仕えさせていただいた。
 ある日、楠本先生に、「本部講師補の試験を受けたいのですが」とお伝えすると、思いがけないことに進学することを勧められた。まだ若く視野が狭かった私は、気が遠くなるほど長い遠回りをするような印象を受けた。が、仕事の傍ら勉強を重ね、立命館大学の哲学科に合格して学び、神や西洋思想についてより深く研鑽させていただいたおかげで、後に真理の書を正確に読み解く〝読解力〟や、思想を鍛錬し、それを言葉で表現する力を培うための掛け替えのない時間となった。

 先生が一人ひとりの魂を的確に見抜き、目先の判断を越えた適切な指導ができたのは、偏りのない、峻厳な「実相直視」の愛あればこそだったと思う。

 一九九八年の冬、私が肺炎を発症して入院したことがあった。お見舞いに来られた楠本先生は、ベッドの傍らで静かに聖経読誦を始められたのである。狭い大部屋だったので他の入院患者の注目を浴びることになったが、先生は人目など気にすることなく、ただ黙々とご自身の使命と信ずることを素直に行じておられた。退院して先生のところに行き、未熟な信仰と、休んだことのお詫びに伺うと、「いよいよ次は本部講師だな」と、再び思いがけない言葉で励ましてくださった。

 これは、当時同僚だった女性職員から直接聴いた話だが、早起きが苦手だった彼女は、その日は早朝行事の開始時間を過ぎても起床できず、布団に包まり眠っていたそうだ。すると、夢枕に楠本先生が現れ、足元に立って、じっと合掌して自分のことを拝んでくださっていたという。「いっぺんに目が覚めて、大拝殿に飛んでいきました」と、驚きとも悦びともつかぬ興奮した声を響かせて明るく語っていたのを思い出すのである。

 楠本先生にまつわる温かなエピソードは、ご縁のあった人の数だけあり、それぞれが人生を光明生活へと好転させた物語を持ち合わせておられることだろう。先生は、それだけ皆のために祈り、ご縁あったひとり一人を愛して菩薩の道へと導き、神さまの使徒として人類光明化運動に身を捧げられたのだ。
 享年百歳。愛の行者としての荘厳なご生涯を、今さらながらに想うのである。

 

 

 

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2022年5月 1日 (日)

“業の連鎖”を断ち切るために (2022,5)

 治水の歴史は、私たちの生活と深く関わっている。昨今は水害ばかり注目されているが、「水」は計り知れない恩恵を人々の暮らしにもたらしてきたのだ。
 関東地方の水源の一つである八ッ場(やんば)ダムの歴史について、群馬県ご出身の茂木則江講師が環境教育勉強会(zoom開催)で発表された。それは建設に至るまでの経緯に加え、地域の自然や流域の人々に与えた影響について、ダムがもたらしたものと失われたものへの愛情あふれる視点からの研究で、Facebook「おムスビ」にアクセスできる方はぜひ、この自然と人間の物語に触れていただきたい。(トピックから視聴可)

 私たちは生長の家の活動を通して〝自然と人間の大調和〟というテーマを掘り下げ、環境問題について学んできたが、改めて見つめてみたいのは、何の疑いも抱かずにその渦中で生きてきた「人間中心主義」の文明と、その人間のいとなみを見えないところで支え続けてきた「自然」と、その狭間に立った先人たちの苦悩の歴史についてである。〝新しい文明〟を開くための智慧は、このような過去の足跡を振り返ることから見出すことができるのであり、同時にそれは、次世代にどのような地球を手渡すのか、ということを、私たち自身に真摯に問い掛けることでもあるのだ。

 これは東日本大震災以来、東北の太平洋沿岸で進められてきた津波対策とも重なるテーマである。古来からの美しい景観や砂浜を破壊した防潮堤をコンクリートで築き上げ、自然界を遮断することで人間社会を守っていくのか。それとも新たな防災・減災システムの研究や津波石などの故事から謙虚に学ぶことで、自然との生かし合いの道を開くのか。

 このことは新型コロナウイルス対策においても同様で、某国のように大量の消毒液を撒いてウイルスを完全に撲滅させるまで戦い続けるのか。それともウィズ・コロナを模索しながら共に生きる道を探るのか。
 対称性と非対称性の狭間で揺れ動く私たち人間のふるまいは、そのまま、今日のウクライナとロシアの戦いにも極端な姿で現れている。ダムも防潮堤もコロナ撲滅も戦争も、その背後に潜んで対立を深めているのは「人間中心主義」や「経済至上主義」という無明(まよい)である。それが自然と人間との調和を破壊し、数多(あまた)の人々に犠牲を強いる〝迷いの文明〟を生み出している。そのシワ寄せは、すべて自然界と弱者と次世代に回されているのだ。

『声字即実相の神示』には、「神が戦いをさせているのではない。迷いと迷いとが相搏(あいう)って自壊するのだ」と説かれている。戦いや環境破壊の背後にあるのは、正義ではなく、愚かな「迷い」である。このような人類の〝業の連鎖〟を断ち切る道は、私たちが日々実修している世界平和の祈りと、倫理的な生き方の実践であるPBS活動が、無明の暗を照射する光となるのだ。その信仰生活に共感した人々の心に真理の火が灯り、仏の慈悲喜捨と神の愛を生きることから〝新しい文明〟は開けて来るのである。

 

 

 

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2022年4月 1日 (金)

静的工夫と動的工夫 (2022,4)

 東日本大震災から十一年目を迎えた朝、聖経を拝読していると〝呂律(ろれつ)が廻らなくなっている〟と家内に指摘された。事の次第に気がつき、家内の運転で病院に行ってMRIで詳細な画像を撮ってもらった。
 医師から、「脳梗塞ですね。右側の、この白い点がそれです」と診断された。
 懸念されたのは、教化活動に支障をきたすことだった。〝これで私も店じまいかな〟と思った瞬間、十代の頃に観た映画の一コマが脳裏に浮かんできた。

 それは、登山家の長谷川恒男氏(1947-1991)が、スイス・アルプスの「冬季アイガー北壁初登頂」に挑んだ時の記録で、かつて数多(あまた)の登山家がこれに挑戦して失敗し、これまで数十本もの指が凍傷で失われていたのだ。同氏が登頂後のインタビューでこの話題に答えて、「手足の指先にまで意識を通わせてたおかげで、凍傷にはなりませんでした」と語っていた。

 長谷川氏の言葉をヒントに、数日間、真理の研鑽と神想観での深い祈りに沈潜した。招神歌(かみよびうた)を唱え、神想観の姿勢に入ると、いつになく生命の生かす力が何処からともなく湧いてくるのを感じた。生長の家ではこれを「天地を貫きて生くる祖神(みおや)の権能(ちから)」とも「癒力」とも呼んでいるが、それは「自我」の活動が静まるに従って聴こえてくる〝声なき声〟である。これに心を澄ませ身を委ねることで、その神癒の力は全心身を充たしていった。

 医師から入院を勧められ、クスリも処方されていたが、これから入院してそれを服用し続ければ、仕事への復帰は数ヶ月先となることだろう。そして何よりも、この神からの霊妙な感覚である「癒力」(癒やす働き)の邪魔をしてしまうことは明かなように思えた。熟慮の末、医師にも率直に私の考えを伝えて通院をやめ、以後は“内なる声”に従って自然治癒に専念させていただくことにした。

 そんな日々を過ごした三日目、招神歌や聖経読誦の言葉が、だんだんハッキリしてきた。そして発症して五日後、埼玉教区での月次祭でなんとか祝詞(のりと)を唱えることができた。まだ途上であるが、これも皆さんの深い祈りのおかげと思う。

 さて、『誰でもできる「石上げの行」』(宗教法人「生長の家」)という冊子が刊行された。歴史を振り返ると、かつて日本の各地で、石に願いをこめて奉納していた記録がある。私が育った静岡でも、かつて疫病(えきびょう)や飢饉(ききん)が発生して多くの民衆が苦しんでいたとき、明山鯨海(げいかい)和尚という僧侶が駿河湾で石を拾い、それにお経を書いて菩提山に収めたという伝承があり、実際に足を運んでみると、今でも十五センチ以上の平たい石が山頂に無数に散在している。
 また、お隣の山梨県の鳳凰(ほうおう)三山(南アルプス)には地蔵岳(2.764m)があり、その山頂にはたくさんの石地蔵が奉納されている。これは子どもに恵まれなかった夫婦が子宝を祈願して登拝し、無事に子どもが誕生するとお礼に石地蔵を刻み、それを背に担いで運び上げたものだという。

 生長の家が説く〝神癒〟には、自力の働く余地は微塵(みじん)もなく、ただただ神の絶対他力によるもので、それは神想観の静的工夫によって顕著に発現する。その癒力は、古来「石上げの行」などの動的工夫を通しても祈られ、〝ムスビの働き〟として各時代に顕現していたのだ。その衆生救済の働きは、肉体を超え、時代を超え、国境を越えた神の愛・仏の四無量心から発している。
 今はウクライナの平和と、次世代の安寧(あんねい)を祈り、共に現し身に授けられた聖使命の火を高く灯すときである。


 
 

 

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2022年3月 1日 (火)

彩り豊かな人生を (2022,3)

 これは東京第二教区で教化部長をしていたときの話だが、教化部会館の二階に、ちょっとした講話や会議ができる多目的室があった。その部屋には一枚の油彩画が架かっていたが、一見すると凡庸な作品で、作者のサインを見ても素人目には判然とせず、誰も気にとめることもなく、壁紙のように部屋に溶けていたのだ。

 ある日の夕方、この部屋で教区生教会(生長の家教育者連盟)の会議を終えて雑談していたとき、生芸連(生長の家芸術家連盟)委員長をされていた布井剛さんが、「この絵は洋画界の重鎮だったT画伯の作品だな。教区には生長の家に触れていた芸術家が何人もいたから、たぶん教化部に寄贈されたのだろう」と教えてくれた。

〝ロンドンの霧は、詩人がこれを歌ったとき存在に入った〟とは、聖典に紹介されたオスカー・ワイルドの言葉だが、以来この作品が、皆の心に入ってきたのだ。

 すると、各組織の会議で部屋を使用する度に、絵のことが少しずつ語られるようになった。しげしげと作品を眺める人、美点を見て語る人、絵に表現された世界が皆の認識に入り、波紋のように静かに広がっていった。「言葉」で由来を讃えただけで、皆の記憶から忘れ去られていた作品が、豊かな味わいを増して人々の心に蘇ってきたのだ。

 神は真・善・美となって顕れると教えていただいているが、それを引き出すのは「言葉」である。言葉は〝意味〟や〝物語〟を宿すと「言霊(ことだま)」となるのだ。たとえば、既製品や大量生産された工業製品などのモノたちは、彼らを支える〝物語〟が希薄なことから、流行が去ると簡単に使い捨てられてしまう。しかし皆さんが手がけたクラフト作品や手料理のように、そこに誰かの〝手〟や〝想い〟が加わるだけで、その〝物〟は言霊(ことだま)を宿し、そこから様々な物語が生まれ、もはや物は、単なるモノではなくなる。

 小さな「物語」にこそ注目してみよう。たとえば、身近な世界の深層に一歩踏み込み〝意味〟や由来を学ぶことで、言霊(ことだま)に満ちた人や物や風土の真っただ中に生かされていることが、次第に観えてくるのだ。そこに光を当て感謝することで、人生がどんなに彩り豊かなものへと変貌することだろう。

 いわんや、一人ひとりの人間をやである。私たちは人間・神の子についても物語を事あるごとに伝え、ご先祖や父母や家族、そして           恩師や先達を顕彰することを、遠慮していてはいけないのである。

『正法眼蔵』に「一切衆生、悉有(しつう)仏性」という釈迦の言葉がある。一切衆生とは生きとし生けるもの、悉有(しつう)とは、ありとしあらゆるもののことだが、それらことごとくが円満完全な仏の命の鳴り響きであると、釈迦は宇宙の本当の姿(実相)を観抜いたのである。
 
 それは決して余所事(よそごと)ではなく、私たちのいのちがその光であり、その〝自性円満な神の子を悦びましょう!〟との真理を現代に蘇らせたのが生長の家だ。そんな私たちの使命は、仏のいのち鳴り響く人や物や事の光を拝み、その本当の姿(実相)を言葉で語り伝えることにほかならないのだ。


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2022年2月 1日 (火)

自性円満を悦ぶこと (2022,2)

 今から四十年ほど前の話だが、私が宇治別格本山で研修生をしていたとき、一緒に修行していた仲間の間で、『無門関解釈』(谷口雅春先生著)の公案の一節、「倶胝堅指(ぐていじゅし)」について語り合ったことがある。この内容は、み教えを生活に生かす宗教的な智慧を提供していると思われるので、想い出すままに綴ってみたい。

 唐代の禅僧、倶胝(ぐてい)和尚は求道者に教えを請われると、いつも指を一本竪(た)てて仏性を示していた。和尚が不在の時、弟子の小僧は訪問者から「お前の師匠はどんなことを説かれるのか?」と問われると、師の形を真似して指を一本立てていたという。それを聞いた和尚は、小僧を呼び止め「仏性」を問うと、小僧はすかさず指を竪てて示した。すると和尚は、小僧を捕まえてハサミで指をちょん切ってしまったという。痛さと怖さで逃げる小僧に、和尚は「小僧待て!」と呼び止めると、間髪を入れず、すっと指を一本竪てて示した。それを見た瞬間、小僧は深い悟りを得たという。

 さて、研修生たちの結論は、和尚の竪(た)てた指は、「無原因にして竪つ指だ」ということだった。それは形に依(よ)らず、因縁によらず、現象的な諸条件に依らずに竪つ仏性のことである。カタチや方法や知識など、真似ごとだけの真理では、肝心の指を切られたら小僧のように竪てるモノがなくなる。これはちょうど、生長の家の教えのことは「頭では分かって」いるが、実際問題に当たると、手も足も出なくなるのと同じである。

 たとえば、自身やご家族の誰かが、病気や引き籠もりで悩み苦しんでいるとき、習い覚えた知識や方法を、あの手この手と駆使しても一向に解決に至らず、途方に暮れた方もいらっしゃることだろう。それは教えが悪いのではなく、み教えに照らしてみれば、もっと実相を観て〝悦びなさい!〟ということなのである。つまり悦び方が足りないのである。

 そのころ、宇治別格本山で総務をされていた藤原敏之講師は、「現象がどんな最悪な状況にあったとしても実相を悦べるのが生長の家の信仰だ」と語っていた。それは、肉体や環境が整ったり崩れたり、願いが成就したり自壊したりする現象の上に建てられた〝おかげ信仰〟ではダメだ、ということである。「実相を悦ぶ」とは、久遠生き通しの実相を把握して一つに鳴り響いて生きることである。その深い悦びは、人間を物質と見、肉体と見ていたこれまでのおかげ信仰を、神の子・人間の荘厳な自覚へと一変させることだろう。

 生長の家は、「自性円満」の教えである。「自性」とは、そのままである。物質人間がこの世に生まれたと見る唯物思想では、この「自性」を理解することは出来ない。「自性円満」とは、宇宙大生命そのものがそこに顕れた、ということである。その大生命は円満完全なる神である。その自性を悦ぶのが生長の家の信仰であり、その悦びの光りは、全てのものを癒やし、全ての願いを成就するのである。

 

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2021年12月30日 (木)

一隅を射照らす (2022,1)

 ある朝ふと、『常楽への道』(吉田國太郎著 日本教文社)を開くと、「行き詰まりというものは人間知が行き詰まるのであって神は行き詰まらない」とあり、さらに、生長の家では「八方塞がりでも天は空いている」と書かれていた。これは、私たちの内にある無礙自在な神の智慧が開けば、尽十方に道が開くことを伝えているのだ。


 以前ある友人が「神さまを信仰しているのに、理由もなく心が〝暗黒面〟に引き寄せられる」と、言い知れぬ苦悩について語ってくれたことがある。多くの方は〝心の傾向〟のことなど気にも留めずに生活しているのであるが、私たちが過去の辛い出来事に縛られ、自身を責め続けていると、わずかと見えるその痛みが雲のように集積され、やがて人との対立や事故や病気などの「行き詰まり」となって現れるのである。


「行き詰まる」ことで人は初めて自身の〝心の障壁〟に気付く。このような時期に宗教の門を叩き、先達の言葉を素直に「はいッ」と受けて祈り、求道し、愛を行い、人生の光明面を見る「日時計主義」の生活を続けた者は、再び行き詰まっても、その度に自らを省みる好機として患難を光に変えるだろう。さらに行じていれば、やがて〝天の扉〟は十方に開いていることが分かるのである。その一方、自分の都合を中心に、様々な理屈をつけて狎(な)れ親しんだ現象の闇に執着している者は、いつまでも同じ〝自我〟の障壁が「八方塞がり」となって現れて、無い過去に苛(さいな)まれるのである。


〝自我〟中心から、神を中心にした信仰へ切り替えは、本で読み、頭では理解していても、一向に神の子の自覚が深まらないのは〝自我〟を殺し終えていないからである。「常に自我を死に切るべし」との信徒行持要目の言葉は、利己的信仰への鉄槌であり、肉体・人間の自覚を徹底的に葬り去り、神の無尽蔵の世界をひらくための〝無の門関〟である。

 

 新年を迎えるに当たり、日々顧みたいことは、『続々甘露の法雨』に説かれた、「人間・神の子」の自覚より「神の子・人間」の自覚に入るべし、という教えである。私たちは人生で多少なりとも財や名声を得て、自らの人生を全うできたように見えたとしても、心に空いた穴に啾々(しゅうしゅう)とした虚ろな風が吹いていたとしたら、それは自我だけが納得しているのであって、内なる神は頷(うなず)いていないのである。


 自我を死に切り、随所で主(神の子)となり、家庭で、職場で、組織で、至る所で日時計主義の真理の光を灯し、周りの人の心を明るく照らす人の境涯は、どれほど安らかな充足感に満ちたものとなるだろう。


 気付いたときが、出発の時である。いつでも「今」が神の子の進一歩となる。そこに起ち上がるのは自我ではなく、仏の四無量心が起ち、神のいのちが起つのである。そこから「神の子・人間」への〝新生の時〟が始まる。それは自我が歓ぶ境涯ではなく、草や木や人や動植物や天地一切のものと心を通わせ、神と共に歩む厳かな生活が始まるのである。そして愛と慈悲を灯したその光が、あなたのその足元を射照(いて)らすのである。

 

(生長の家埼玉教区・群馬教区の機関紙から転載)

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2021年12月 6日 (月)

聖使命のこと (2021,12)

 11月、埼玉・群馬のペア教区で「聖使命研修ネットフォーラム」を開催させていただいた。生長の家では、人間は神の子であり、その実相は円満なる宇宙大生命であり、智慧と愛と生命に満ちていると教えていただいている。聖使命とは〝聖なる使命〟すなわち、神の無限の愛、仏の四無量心を全力で生きて、この世界を光明化する働きのことである。


『生命の實相』第一巻の「實相篇」には、「自性円満を自覚すれば大生命の癒力(ゆりょく)が働いてメタフィジカル・ヒーリング(神癒(しんゆ))となります」と説かれており、「自性円満」という言葉には「そのままで円満完全なこと」との注釈が添えられている。そのままとは、はじめから、ということである。それは、「神の子」に成るために長い時間をかけて精進努力した後にそこに達するのではなく、そのままで自性(実相)は完全円満であり、ハイッとそれを受けて歓喜し生活していれば、本来の実相が顕れる、ということである。


 かれこれ四十年ほど前のこと、宇治練成会で「聖使命」の講話を担当していた講師が、「皆さん、そのまま円満完全な神の子であり光りである! という実相を悦びたくない人は、聖使命会に入ってはいけませんよッ!」と冗談めかしく説かれていたが、講話の後、初めて練成に参加したと思われる何人もの方が入会されていたことを思い出すのである。


 今回の聖使命研修では、冒頭で埼玉教区相愛会の冨田敏夫会長が挨拶され、『到彼岸の神示』(谷口雅春著)の一節を引用して、「神さまの教えをひろめるためには〝純粋な献身〟が要求される」ことを紹介されていた。続いて三名の方が体験発表をされたが、彼らに共通していたことは、幼な児の信仰と純粋な献身である。生長の家の運動は数知れぬ先達の〝純粋な献身〟のおかげで、私たちの元に人間・神の子の〝真理の火〟が届けられ、その光りに照らされて人生の桎梏(しっこく)と見えていた人間苦、経済苦、病苦から解放されたのである。そこに点ぜられた「火」とは、「自性円満」の真理であり、そこから生じた喜びが人類光明化運動・国際平和信仰運動となって溢れてきたのである。


『新版 真理』悟入篇には、聖使命菩薩について「すべての人を救いとろうと、いとも広大なる救いの手を拡げられた(中略)、観世音菩薩の千本の手の一本一本が衆生済度の聖使命を感得された皆さんであります」と説かれている。聖使命に入会するとは、先達の言葉を借りれば、「そのまま円満完全な神の子であり光りである!」その実相を悦び生きることに他ならない。それは同時に神の無限供給の扉を開くことでもあるのだ。


 その鍵は、はじめから私たちの内にあって、この世に持参して生まれてきた〝如意宝珠(神の命)〟の働きに秘められているのである。「聖使命」とは、使命を生きる悦びの灯火を随所で点じて光明化することであり、それが潮干(しおひる)の珠(たま)(現象無し)と潮満(しおみつ)の珠(たま)(唯神実相)の働きである。聖使命菩薩の生きて歩むところ、至る所に浄土が湧出するのである。

 

(生長の家埼玉教区・群馬教区の機関紙から転載)

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2021年11月 3日 (水)

魂の成熟について (2021,11)

 この秋、結婚して十月に誕生日を迎えた二女にラインで「人生に豊かな実りと魂の成熟を」とお祝いの言葉を贈ると、「魂の成熟」ってどんな意味? と訊いてきた。確かに、二十代には馴染みのない言葉である。果実や肉体の成熟は分かりやすいが「魂の成熟」となると、?・・ということになるのだろう。同じ頃、おムスビネットフォーラムで「NPO法人 見沼ファーム21」の徳野英夫さんを招聘して~次世代に繋ごう食と自然~のテーマでお話を聴かせていただいたが、朴訥(ぼくとつ)と語る彼の言葉の中に、静かに成熟を遂げた一つの魂を見る思いがした。

 徳野さんらが取り組んでいる「無農薬による米作り」は、古い伝統を踏まえた新しい試みだ。都市化によって地域のコミニティが崩壊した今の時代に、県から委託された広大な「見沼田んぼ」を舞台にして「地域の自然」と核家族化した人たちとをムスビ、手間暇(ひま)かかる「無農薬の米作り」を実践して次世代へと繋ぐ試みは、私たちの運動とも重なる部分が多くあった。

 徳野さんは、かつて東芝に勤めた後に行政の仕事にも携わるなど、お堅い「縦割り」社会の中で生きてきたが、地元「見沼田んぼ」で〝横の繋がり〟に携ってみると、そこには学歴も職業も性別も年齢も越えた人々の笑顔と絆があった。さらに無農薬の有機栽培で植物や昆虫や魚たちと繋がると、今度は汚染されたどぶ川が澄んできて、鮎まで遡上してきた。そこに、自然と共に生き、仲間たちと齢(よわい)を重ねることの悦びを見いだされたようだ。

 彼らの組織運営の特徴はトップダウンではなく合議制である。この運営形態は、価値観や社会構造が多様化する中で、私心の無い善きリーダーに恵まれれば柔軟で有効な対応ができるシステムになるように思われた。徳野さんらが取り組んできた大規模水田での無農薬有機栽培という、大きな責任を担ったチャレンジや、仲間たちとの試行錯誤について振り返る言葉からは、衆知を集めて運営することの苦労と、そこで生まれる驚きと喜びが伝わってきた。

 合議制でのリーダーの役割は、捉われのない視座から適切な助言を伝えることなのだろう。決定はあくまでもメンバーの総意であり、そこでは参加者一人ひとりの発想や智慧が豊かに引き出され、組織活動に携わることがそのまま〝吾がごと化〟して、次世代を担う人材が育成される。ここにも、生長の家が舵を切った〝フラットな組織〟の一つの〝ひな形〟が垣間(かいま)見える思いがした。

「無限供給」とは、必要なときに、必要な人や物や事が集まることである。これは〝利他行〟という愛の実践の中にWin-Winのムスビの姿で現れる。逆説的だが、他のために生きるとき、日々の生活に愛と感謝と喜びが満ちてくるのだ。「与えよ、さらば与えられん」とイエスが語ったごとく、慈悲喜捨の四無量心が地域社会に実践されるとき、そこに〝新しい文明〟が形成される。そこでの経験は、季節の深まりが果実を稔らせるように、人々の魂を豊かに成熟させるのである。

 
(生長の家埼玉教区・群馬教区の機関紙から転載)

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2021年9月25日 (土)

慈愛の言葉は光りのバトン (2021,10)

 私たちが信仰の道を歩むようになった最初の切っ掛けは、普及誌や聖典に書かれた言葉だったかもしれないし、先輩や友人のアドバイスや、父母の導きだったかもしれない。いずれにしてもそのカギとなるのは「言葉」である。そしてその言葉は、間違いなく慈悲や愛から発したものであったことは、その後それぞれの人生にもたらされた無量無数の恩恵のことを思えば得心がいくことだろう。

 田舎に住む友人が、畑に簡単な作業スペースを作り、誌友や地元の人々が気軽に集まる〝場〟を設ける計画を伝えてくれた。そこでは、共に野菜を育てたり、廃材や雑草を利用してクラフトや雑貨を作ったり、野草でお茶を煎(せん)じたり、PBS活動を展開しながら聖典の輪読や、メンタルサイエンスの話などをして、『凡庸の唄』のリアルな世界を実践してみるそうである。

 各地区にこのような開かれたコミュニケーションの〝場〟が実現したらどんなに楽しいことだろう。時々その場所に誌友が集まり、畑の世話をしたり、ネットで講話ビデオを見たり、愛行の打合せや真理の話や雑談に花が咲く。いわゆる青空誌友会場である。ときには畑で穫れたサツマイモなどをたき火して頬張り、畑の季節の巡りと連動しながら仲間と共に齢(よわい)を重ねていく。そんな〝場〟が各地にできたら〝新しい文明〟を形成する光りの拠点となり、生長の家の活動は着実に伸びていくことだろう。

 これらがウィズコロナ(コロナとの共存・共生)時代の運動の一つの姿となるだろう。自宅の土地があればそこを活用し、なければ畑を借りてそこを〝光りの拠点〟とするのだ。「畑」という光明化運動のフィールドは、自然と人間との〝対話の場〟であると同時に〝ムスビの場〟でもある。無農薬で行う野菜作りを通して一人ひとりの工夫が施され、アイディアが花開き、畑には、昆虫や微生物や様々な「種」が集まるだけでなく、人や情報や智慧がムスビ合う生命(いのち)の十字路として、豊穣なる世界が展開する。自然と人間が交わる畑は、神性を開発する新時代の道場となり、種を蒔き、育て、収穫して祝う〝祭りの場〟であると同時に〝新価値創造の場〟となるだろう。

 この秋、埼玉・群馬の自転車部の皆さんがイエローフラッグリレーの復路(浦和から高崎へ)を予定していたが、コロナ禍でリアルな実現が困難になった。そこで新たな試みとして、おムスビネットを舞台に〝居住地の自然と文化を顕彰するリレー〟を実施するらしい。それは自転車だけでなく、徒歩や公共の交通機関も利用して、それぞれの居住地の文化的史跡や自然に光りを当て、過去に生きた人たちと、現代を生きる私たちと、次世代の人々とをムスビ、各地の自然や史跡を紹介しながら〝想い〟のバトンを繋ぐという生長の家ならではのイベントである。ここでもカギとなるのは「言葉」である。神の愛と仏の慈悲から発したコトバは、ご縁のあるものすべてに〝感謝の光り〟を当てずにはおかないだろう。

 

 (生長の家埼玉教区・群馬教区の機関紙から転載)

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2021年8月24日 (火)

生命の舞台 (2021,9)

  八月のお盆に「奉納八木節ネットフォーラム」を群馬県教化部で開催して、唄と笛、太鼓、鼓、鉦(カネ)の生演奏と踊りをリモート配信させていただいた。これは亡き人々への供養であると同時に神界・霊界という不可視の世界への捧げ物であり感謝でもある。何に感謝するのかといえば、宇宙すべてのもの、天地一切のものが神のいのちのさきはえとして歓びの光明を放ち給う、そのことへの礼拝であり感謝である。その神の光りは、私たちの日々のなりわいに、それぞれが授けられたお勤めの一つひとつに、家族や友人・知人との語らいの中に静かに輝き渡り、世界を内側から照らしているのである。

 盆踊りの前日、埼玉県教化部から『正法眼蔵を読む』をテキストに「真理勉強会」を配信したが、参加していた四十代の男性から、道元禅師が説いた「仏向上」についての質問をいただいた。仏向上とは、悟りを越えて無限生長する生命の姿である。なぜ生命は「悟り」をも越えるのかと云えば、悟りは生命の一時的な状態であり、生命そのものは無限生長を持続して絶えず新生し、よみがえり、新価値を生み出す〝いきもの〟だからである。

 谷口清超先生は同書で、「仏を越えて無限に向上する境涯が展開される」(弁道話)とお説きくださっている。「仏を越える」とは、仏と現れ、神と現れ、菩薩として現れたもの、あるいは悟りを得て仏となり、神となり、菩薩の境涯に至ったとしても、それは真実存在(生命の実相)の一時的な相(すがた)であって、そのような現象に安住し留まっていたのでは、そこは天人五衰の境涯にすぎないことを伝えているのだ。

 私たちの生命は、日々の小さな〝悟り〟を土台に生長する。白隠禅師は「大悟十八回、小悟数知れず」と語ったが、昆虫が脱皮を繰り返して生長するように、日々の悟りは日々の生長であり、三正行やPBS活動の光りを放ちながら、生命は豊かに伸びゆくのである。

 日時計主義とは、日々の発見(小さければ小さいほど善い)に光を当てる生き方である。それは〝気づき〟ということであり、〝気づか〟なければそこに何も見いだすことはできず〝気づき〟さえすれば、今ここは紛(まご)うことなき天国である、と思われる要素はいっぱい発見できるのだ。そのための鍵言葉が「感謝」である。感謝は、「今」を観て味わう眼であると同時に、「今」を掛け替えのないいのちの舞台として観る眼でもある。

 世の中に過ぎ去らないものなどなく、時は留まることなく展開してゆく。二度と繰り返すことのない掛け替えのなさを前に私たちは、今できる精一杯のことをして生きる。それが、やがて滅するであろう行為や作業であったとしても、私たちは繰り返しそこに生命を刻まずにはいられない。それがPBSの活動であり、次世代のことを想い〝倫理的に生きる〟ということである。その生命の舞台として神はこの宇宙を、地球を創造し給い、全てを人間に托された。それが全責任を担う〝一切者〟としての「人間・神の子」という言葉の真意である。

 

 (生長の家埼玉教区・群馬教区の機関紙から一部転載)

 

 

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2021年8月 1日 (日)

木下闇について (2021,8)

 梅雨の間、毎晩のようにシューマンの交響曲(シンフォニー)を聴いていた。うっとうしいはずの季節になぜか神の恩寵(おんちょう)を感じて、降り注ぐ雨が、たまに差す陽の光が、楽しげに呼び交わす小鳥の囀(さえずり)りが、目に見えぬ世界からの祝福だったことに気付かされ〝当たり前〟のことのありがたさに、心の眼がひらかれる思いがした。同氏の曲のタイトルは「春」を始め、欧州を流れる「ライン」川など自然を題材としたものが多く、それだけ彼の音楽は自然と深く寄り添い、そこから生まれた歓びを奏でているのであろう。

 齢(とし)若い頃、わたしの心の目にシューマンの音楽は、とても凡庸で、退屈で、ただの感覚美を追求した過去の作曲家としてしか映らなかった。が、かつて恩師が、生前にシューマンのシンフォニーについて讃えていたことを思い出したのを機に、自宅にあった三番、四番が収められたCDを聴いてみると、妙に心に響いてきて、以来、そこに奏でられた生命が踊る歓びや、寂寥感(せきりょうかん)に充ちた滅びゆく悲しみ、人間と自然界との深い共感や、生命と生命が豊かに交わる様が、音楽の中から美しい像をムスビはじめたのである。齢を重ねることは、決して悪しき事ばかりではなく、豊かな魂の稔りと意識の拡大をもたらすようである。

 このような発見をさせていただけたのも、生長の家のPBS活動に触れたおかげである。それまで、凡庸でつまらぬものとしか見えなかった家庭菜園や、手間のかかるクラフトや、自転車で野や街を走る素朴なよろこびの背後に、人がこの世に生まれ、成長し、次世代へといのちを繋(つな)ぐことの、切なく掛け替えのない人生のいとなみがあることが見えてきたのである。そこには、信仰によって宇宙大生命とつながり生きる安らかな喜びが充ちているのだ。そんな発見を、この活動に参加した人たちが笑顔で語るのを、聴かれた方も多かろうと思う。

 いよいよ梅雨も明け、盛夏を迎える。その眩(まぶ)しい日差しの背後に密(ひ)そむ世界のことを、俳句の季語で「木下闇(こしたやみ)」と呼んでいる。『歳時記』の一節には、「木下闇は昼なお暗く、暑さから逃れられる別天地のようなところ」とある。この言葉は、決して現象に現れることのない、深い真実の世界が沈黙とともに闇の中に潜んでいて、この世界を見えないところで支えていることを伝えているのだ。

 このようなことも若いころには思い及ばぬことで、意識の深化も人生の齢(よわい)を重ねるという切実な経験と関係しているようである。四季の著しい変化を経て万物が生長するように、癒やし難いと見えていた悩みも悲しみも、やがて底知れぬ慈しみの歳月を経て、そこに失せることのない生命の光が、闇と見えるものの奥底にひそんでいることを知るのである。そんな真実の姿は、魂の成熟をもって初めて見えもし、音となって聴こえても来るのである。

 

 (生長の家埼玉教区・群馬教区の機関紙から)

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2021年7月 1日 (木)

「すべてを担う」ことから (2021,7)

 川越に引っ越して二年目の夏を迎えている。なにを隠そう昨年は、群馬と埼玉での日々が始まり、春に植えたキュウリもゴーヤもルッコラも、気がつけば伸び放題のトマトの枝と雑草に覆(おお)われ、畑は鳥や虫たちの楽園と化していた。ナスを収穫するため茂みに分け入ると、ヤブ蚊が襲来する野生の王国が出現していたのだ。

 そして今春、決意も新たに心も入れ替え、キュウリネットを張り、夏野菜の苗を植え、誌友から頂いた大豆も畑に蒔いた。そんな折、ネットフォーラムに参加していた方が「畑から元気を頂いている」と発表していた。畑の世話をすることで、潜在していた思考回路や肉体の機能が豊かに働き始めるのであろう。畑で浮かんだアイディアを一つ一つ形にしていくと、いつしか自然と自分とが溶け合い、意識が伸び広がり、心と肉体がひとつに統合されて自由になるようだ。畑という小宇宙は、自然と人間とがムスビ合うための〝場〟でもあるのだ。

「全托」とは、神に委(ゆだ)ねることと教えられているが、それは〝めんどくさい〟問題を避けて通ることではない。まずその問題を、自分でしっかり担(にな)わなければ、神に委ねることなど出来ないのである。課題や問題を自ら背負って初めて、その重要さ、複雑さ、入り組んだ構造が細部にわたり見えて来る。その詳細が把握できた分だけ、解決への道が開けるのである。だから神への「全托」とは、課題から逃げることでも避けて通ることでもなく、それを〝観世音菩薩の声〟として向き合い総身で受け止めることであり、そこから全托の祈りが始まるのだ。この「すべてを担う」ことを生長の家では、〝自己を一切者とする自覚〟と呼んでいる。ここに立つことで、初めて紛糾(ふんきゅう)していた難題が溶け始め、天地が開け、新価値が生まれるのである。

 畑はスケッチの作業とよく似ている。自宅のある青梅でも、かれこれ二十年ほど生ゴミとEM菌を利用した無農薬栽培を試みてきたが、プランを描き、畑に出てささやかな経験と感覚に委ねた手作業がはじまり、そこにアマチュア農園ならではの実験や悦びや失敗もあるのだが、失敗も大切な学習となるのがオーガニック菜園部ならではの楽しみでもある。

 しかし、気軽に無農薬栽培に踏み込むことができないのが専業農家であろう。『奇跡のリンゴ』の著者の木村秋則さんは、農薬を一切使わないリンゴの自然栽培に取り組んだ当初、五年ほどバイトの掛け持ちで家族を養っていたというから身命を賭しての実験だったようだ。同氏によると、自宅用に種から栽培する野菜も稲作も、無農薬で豊かに収穫できたが、農薬に慣らされたリンゴで成功させるには、弛(たゆ)まぬ工夫と長い時間を要したという。これは薬剤に慣らされた私たちの身心や、浅い情報に慣れた心が、深い真理を学ぶ場合も同様かもしれない。実相が現象に現れるには、辛抱して「待つ」時期が必要であり、その待ち時間は浄めのときであり、新生のときでもあるのだ。

 (生長の家埼玉教区・群馬教区の機関紙から)

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2021年6月 1日 (火)

“学ぶ”ことについて (2021,6)

 コロナ禍は、令和の御代に大きな変化をもたらしている。それは人々の生活を変え、社会や組織の仕組みを変え、私たちの運動にも深い影響を与えている。そんな渦中埼玉・群馬の「おムスビネットフォーラム」では、田中明憲(あきのり)講師を招聘(しょうへい)して『ムスビの概念の普遍性を学ぶ』と題して、同名の書籍をテキストに〝ムスビの働き〟とユング心理学についてお話しいただいた。

 田中講師は、同心理学における「アニマとアニムス」について解説してくれたが、この学びを深めていくことは、私たちが抱える諸問題を解決するための一助になることだろう。聞き慣れない言葉だがアニマとは、男性の無意識の中にある〝女性的な面〟のこと。一方のアニムスは、女性の無意識の中にある〝男性的な面〟のことであり、私たちは例外なく、それらを内に蔵しているのだ。

 観世音菩薩は〝両性具有〟といわれている。生長の家でも〝人間は神の子〟で「自性円満」と説いているように、私たちの内には未開発の彩り豊かな無尽蔵の神性が内在しているのである。つまり男性的な面も女性的な面も具有していればこそ、ある過去生では女性として慈愛の人生を経験し、ある生涯では男性となって人格を鍛錬し、次第に神の子としての全容をこの宇宙に開花させているのである。

 生長の家と深層心理学との関係は深く、昭和二七年(1952)には、日本教文社から『フロイト選集』が刊行され、昭和三〇年(1955)には『ユング著作集』を刊行。しかも前者はフロイトの弟子である古沢平作が、後者は当時のドイツ文学の第一人者である高橋義孝らが翻訳を担当しており、戦後の混乱の中、生長の家が日本の五〇年、百年後の未来を見据えながら人類光明化運動を展開していたことが、このような事蹟から見えてくるのである。半世紀以上を経て、生長の家が再び深層心理学に、そして古事記等に説かれた〝ムスビの働き〟に光を当てていることについての深い意味を想うのである。

 さて、田中講師は前掲書の中で、「男性は自分のアニマを外的世界の女性に投影し、一方の女性は、自分のアニムスを外的世界の男性に投影する。(中略)それらのイメージを通して相手を見る」(62頁)と紹介している。生長の家でも、私たちを取り巻く人や物や事は、観自在の原理によって現れた「心のカゲ」であると説いているが、心の世界を扱う宗教と心理学とは、コインの裏表のように共通する部分が多いのである。

 アニマやアニムスのことをユング心理学では「原型(archetype)」と呼び、それは世界各地の神話など、意識の深層に共通して現れるという。このほか原型には「自己」「老賢者」「グレートマザー」「影」などが挙げられており、これら精神分析の知見は、紛れもない人類救済の働きであり、仏の四無量心に豊かな表現の地平を開くことだろう。それは世代や民族を超えて、ともに人間の実相を克明に解き明かしていくことであり、そこに〝学ぶ〟ことの深い意味があるのだ。

 (生長の家埼玉教区・群馬教区の機関紙から)

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2021年5月 1日 (土)

啐啄(そったく)の機について (2021,5)

 野に陽春を告げるヒバリの囀(さえず)りに呼応して、花が咲き、草木が生い茂り、人も衣替えの時節である。禅宗に「啐(そっ)啄(たく)同時」という言葉がある。啐(そっ)はひな鳥が内側から卵の殻を突(つつ)くこと、啄(たく)は親鳥が外から突くことで、これが同時に行われることをいう。「完成の燈台の神示」に、「時が来た。今すべての病人は起つことが出来るのである」と説かれているが、この「時が来た」とは啐啄の機が到来して、内と外が一つに動くことである。

 外ばかり見ていたのでは眼前の現象に振り回される、内ばかり向いていたのでは永遠に殻(から)の中である。啐啄同時とは、内と外が〝ひとつ〟になっていのちが躍動することである。それは自他一如の世界に入り〝いのちの世界〟に遊ぶことである。これを生長の家では如意自在の生活といい、私たちの心境がこの境地に入る修行が、日々重ねる三正行である。

 たとえば私たちの体内の心臓や、肺や胃や膀胱(ぼうこう)など内蔵の働きも、すべてこれ意識せずとも啐啄同時に全体が働いていることは決して〝当たり前〟なことではないのだ。それはアイコンタクトどころの話ではなく、見えず聞こえず五官で感じなくとも、いのちは全体を大調和裡(り)に生かしているのである。この不思議な神秘な力に委ねることが全托である。

 宇宙大生命は、大きくは星雲の運行から、小さくは素粒子の微少な世界に至るまで〝ひとつ〟のいのちの働きとして天地の渾(すべ)てに渡って営み給い、この天地に充ちる働きは、私たちの人生に観世音菩薩の摂理の手となって現れるのである。

 四苦といわれる生老病死は、避けようもなく私たちの人生に巡り来るように見える。しかし不要な経験などこの世にはなく、全ては大生命の不可思議の摂理によって巡り来るのであり、それぞれの出来事は最も善い時節に現れるのが唯心所現の世界である。その摂理の手を無視して、利己的な都合の良いことばかり得ようとしてもそうは問屋が卸(おろ)さない。受けるべきものは受け、耐えるべきものは耐え、倒れる時節には倒れても、神の子のいのちは、そこから何度でも起ち上がる無限の力を秘めているのである。そして一歩ずつ〝善きこと〟の三正行を、一つまた一つと積み重ねていく。その善行の中から、必ず一切の〝善きこと〟が天地の全てとなってめぐって来るのである。

 過去の業や因縁を浄化する道は、神のいのちの中に幼子のように飛び込むことである。これを大懺悔(ざんげ)といい、その過程で、過去生の業因が自壊してくるように見える場合もあるが、その度に起ち上がり、真理の火を灯すのだ。

 黙々とした祈りの中から、やがて霧が晴れ光明が差し初める。その光源は、どこか他の所にあるのではなく、あなたが内に灯し続けた光がそれであったことに、やがて気付くときがくるのである。私たち一人ひとりが祈りの火を灯す、そのささやかな光こそが神の子の証(あかし)であり、灯を掲げ続けることによってのみ、人生に、世界に、光り輝く夜明けがもたらされるのである。

 (生長の家埼玉教区・群馬教区の機関紙から)

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2021年4月 1日 (木)

時間は神のいのちである (2021,4)

「一月往(い)ぬる二月逃げる三月去る」といわれているが、駆け抜けるような早春の時間感覚は、私たちのいのちの営みと深く連動しているように思えてならない。それは、真冬から晩春にかけて咲く花や、大地に芽吹いた自然の変化が、思いのほか深く心に刻まれ、それが生活のリズムとなり糧となって暦(こよみ)を駆け足で運んでいるではないだろうか。静まりかえった極寒にあらわれる春の微かな兆しに、自然との絆が響き合い、咲く花とともに人のいのちも開き、花爛漫の時の中にいつしか自然と一つに溶け合うのである。

 時間は不思議である。あり余って見えるときには実に詰まらぬ消費をするものだが、わずかしか持ち合わせがないときには、これまた驚くような密度をもって生きられ、そこに豊穣な実りをもたらすことは皆さんもご経験されていることだろう。だから、どんなときでも〝忙しい〟ことを心から祝福し感謝しよう。その 忙しさこそが神からの最大の恩寵(おんちょう)であり、その“多忙”と見える時こそが、私たちの人生における最良の時間なのである。

 時間は、何かに夢中になっているときには矢のように過ぎ去る。しかし齢(よわい)を重ねてみると、私たちが深い悦びと満足感をもって夢中になった時を持ちえたことは、人生の“黄金の時間”だったことに気付くのである。

 成長期には流行や欲望を追求することも糧となる場合もあるが、ある時期からこの世における逃れ難い借財が、背後からひたりひたりと返済を迫ってくるのである。それは数多(あまた)のご先祖から受けたご恩、先達や恩師から托された想い、天地の万物から頂いた恵み、それらすべてが潮が満ちてくるように、共に他のために尽くし、身を捧げ尽くして生きることを迫ってくるのだ。真の菩薩行は、すでに恵みの真(まっ)ただ中に生かされていることに気付いたところから始まるのである。

 来し方を顧みると、人生には神の摂理(せつり)というものがあり、わたしたちはそれに導かれて今ここに生きていることに気付くのである。摂理に感謝して努力する者は運命から愛され、己が運命を誰かの責任にして他を憎み赦(ゆる)さぬ者は、いつまでもその桎梏(しっこく)から逃れることはできない。問題となるのは、その〝負の〟心の習慣が、罪のない子々孫々にまで受け継がれることである。「陰徳」というコトバがあるが、これは摂理に感謝し、天地の万物に感謝する〝善き心の習慣”のことであり、一切は吾が責任であり、〝絶対感謝〟の生活に徹することから道が開けてくるのである。

 私たちの頭の中では、なにが最善の選択で、何がそうでないかは分からない。しかし、摂理や運命を愛する者には、すべての出来事が「絶対善の世界」へと運んで行くのだ。見えない摂理の慈手を、損得勘定によって取捨選択していたのでは、どれほど巧みに立ち回ってみても「運命」から愛される機は訪れない。すべての出来事は観世音菩薩の導きであり、摂理の手は愛と慈悲に満ちており、それがこの人生であり世界であることに気付いたとき、それは十善の恵みとなって眼前に満ちて来るのである。

 (生長の家埼玉教区・群馬教区の機関紙から)

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2021年3月 1日 (月)

“文明転換”のとき (2021,3)

「建国記念の日祝賀式」に高崎の生長の家群馬県教化部から参列して、式辞を教化部から配信させていただいた帰路、家内と榛名(はるな)神社に初めてお詣りした。参道には奇岩列石が連なり、ゴウゴウと風の鳴る巨木の谷間を歩いていると、自然の中に神を観た古代の人たちの心が、時を超えて語りかけてくるのを感じた。

 そこには、数億年という自然界の途轍(とてつ)もない歳月が、あらわな岩石のすがたでさらけ出されていたのであるが、日常とかけ離れた峨々たる景観は、この神域が、軽はずみに仕出かすであろう人類の〝開発〟という名の破壊から、結界によって護られてきたことを伝えていた。

 参拝後、榛名湖まで足を伸ばすと湖面の全域が凍結し、吹く風は地吹雪のように粉雪を舞い上げていた。湖上に榛名富士が聳える光景を見たとき、五十数年前に初めて父に連れられて来たときの記憶が蘇ってきた。当時小学生だった私は、伊香保温泉が榛名湖畔にあって宿泊したと思いこんでいたが、甘酒を飲みに立ち寄った茶店のおかみさんに聴くと、「伊香保はここから二〇分ほど離れた場所だ」と教えてくれた。十代に満たぬ子どもの脳裏は、山と湖の神秘な光景に圧倒され、そのことで意識がすっかり覆い尽くされていたのだろう。

 子どもの柔軟な心は、自然界と容易に溶け合い、そして響き合う。そんな彼らの意識の深層は、生涯にわたって蓄えられる記憶の土壌となり、五官六感に触れるあらゆる情報を豊かに吸収して精神の基礎を形成する。近年は親の意向で習い事や学習塾などを掛け持ちして能力開発に余念がないが、長い目でみれば〝自然〟に繰り返し触れることこそが子どもの神性を伸ばすカギとなり、自在な発想や意表を突くアイディアもその経験から生まれるのだ。自然と出合った幼い魂は、眼前に広がる多様性に満ちた世界に誘(いざな)われて、未知なるものや、神秘なるものへの探求を、自らスタートするのである。

 将来ある若い世代が、心の病に陥るのは、自然と心を通わす機会が少なすぎたことも理由の一つであろう。朝の陽光や小鳥の囀りに心を傾け、夕焼けの荘厳や微妙な色彩の移ろいを愛で、雨の恵みに季節の変化を感じ、生かされている歓びを豊かに味わう生活を、どこかに置き忘れてきたのが現代の文明の姿である。多くの大人たちがが目の前の利害損得に振り回されて、人間社会を巧みに生きぬくことのみに躍起になってきたのだ。

 そんなことより、何万倍も大切なことがある。その一つは、時の谷間に埋もれていた自然と深く繋がる生き方を〝今ここ〟に蘇らせることである。それは、この世界を深く豊かに味わい生きるための智慧や技術や伝統を復活させ、さらにグローバルな新価値を加えて〝文明転換〟を図ることである。無垢な魂たちの行く先は、文明の袋小路などではない。森や、悠(はる)かな過去や、自然の中に帰ることから、すべてのものが新生するのだ。

 (生長の家埼玉教区・群馬教区の機関紙から)

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2021年2月 1日 (月)

食がひらく“新しい文明” (2021,2)

 伝統的な「食べもの」には温かな家族の〝想い〟が宿っている。それは家族の歴史であり、父母や嫁ぎ先から受け継いだ遺産でもある。夫婦でも出身地が異なれば、同じ呼び名の料理も素材や味付けが異なり、決して一筋縄ではいかないところは、かの〝遺伝子〟と同じで、そこには〝ムスビ〟という深い意味が秘められているのだ。

 現代は、国や地域を越えて人や食が行き交う時代である。食は〝生きる糧〟であることから「おふくろの味」などとも呼ばれ、人それぞれの強いコダワリもあり、食べ慣れないものがマレに食膳に上るなら珍重もされるが、所帯をもった夫婦の食習慣が異なれば、深刻な問題にも発展しかねないのである。振り返ればわが家でも、わずかな食の違い(静岡と鹿児島)がいつしか針小棒大問題となったことに呆然としたが、事の次第を悟り、互いの食文化の背景をしみじみ味わい直すことで、大事に至らずに今日に至っている。

 さて、生長の家では菜食中心の食生活を推奨している。肉食忌避(きひ)は、生命を敬う者のささやかな抵抗であるが、殺される動物たちの悲しみや、地球環境の問題がそれだけで消えるわけではない。生長の家のPBSオーガニック菜園部の活動は、ノーミートから、犠牲のない新たな食文化を創造する取り組みでもある。そのためのヒントは、かつて伝統料理の主流を占めていた自然と人間が調和した食生活の中にあるのだ。それは、今日の料理から肉を差し引くだけという消極的なものではなく、肉を食べないがゆえに可能となる、繊細で豊かな菜食の世界を蘇らせ、さらに〝新価値〟を加えて現代の魅力的な食文明を開くことである。

 過日、埼玉・群馬おムスビネットフォーラム(zoomとFacebook)で開催された、各家庭で作られたおせち料理や、寒い季節の伝統料理がオーガニック菜園部の皆さんによって紹介された。実家で食べていたもの、嫁ぎ先や移り住んだ地域で習い覚えたものなど、その一つひとつに、受け継いだ〝想い〟や土地の伝統が宿り、料理は、私たちの人生を深いところで支えていることを伝えていた。その味は、子や孫へと受け継がれて、また新たな家族を温めることだろう。

 わが家でも秋から冬にかけての伝統料理がある。それは静岡名物のとろろ汁で、私が子どものころは山に入って自然薯(じねんじょ)を掘ることが、田舎少年の通過儀礼となっていた。収穫のため自身の躰(からだ)が入るほど深く穴を掘るのだが、それは苦役などではなく、内に眠る原初的な底知れぬ力が、森の中で密かに覚醒するイニシエーションでもあった。森では、地元で語り継がれてきた神さまの話や神秘的なシキタリや植物の名前などが伝えられ、自然の中での〝教養〟を身につける機会でもあった。置き忘れてきた文化の中に、自然と共生するための智慧があふれている。環境破壊が深刻さを増すこの時代に、先人たちの声なき声が、いにしえの物語が全国各地で蘇ろうとしている。そこから〝新しい文明〟を築くための豊穣(ほうじょう)な智慧が、生長の家のPBS活動を通して蘇るのである。 

 (生長の家埼玉教区・群馬教区の機関紙から)

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2021年1月 1日 (金)

随所に主となる (2021,1)

 生長の家では「人間・神の子」を生きる秘訣として「随所に主となる」ことを説いている。これは臨済禅師の「随処に主となれば立処(りっしょ)皆真(みなしん)なり」に由来した言葉で、随所とは「いたる所で」といった意味である。が、その言葉をちょっと履き違えると、ときに無理を重ね、ときに自我を突っ張らせて要らぬ対立を招く場合がある。しかし、神のいのちは、はじめから宇宙に充ち満ちているのであり、周りを支配した後に主となるのではなく、父母未生(みしょう)以前から神の子は〝主人公〟なのである。その深い自覚に立ち、一切者としてのすべての責任を負い、一切のもののために尽くして生きること、それが「随所に主となる」ことの真意である。

 令和も三年目を迎えたが、昭和も平成の御代も〝久遠を流るるいのち〟が展開した相であり、久遠実成の天地が現象の背後にあることを生長の家では拝むのである。私たちが先達から受け継いで一隅を照らし続けてきた人類光明化運動・国際平和信仰運動の歩みも、すべては仏の四無量心の展開としての深い営みであり、慈悲喜捨の生涯を全うした菩薩たちがバトンを引き継がれ、そのお一人おひとりの〝想い〟や〝祈り〟や〝愛行〟が今、あなたとなって花開いているのだ。

 総裁先生は、代表者ネットフォーラムでのお言葉「居住地の自然と文化を顕彰(けんしょう)する」の中で、「固有の自然の恵みと、その自然と調和した文化的伝統に感謝することが、私たちの『自然と調和する』ライフスタイルの拡大と、地球社会への貢献になる」とお説きくださっている。その居住地の自然や文化を顕彰する行事が、インタープリテーションであり、PBS活動である。それは、かつて私たちの身近に在った「自然の営みと調和した文化的伝統」を深く味わい、そして感謝することから始まるのである。そこから、忘れ去られていた暮らしや、今ここに生きていることの意味が、一つひとつ紐解かれていくことだろう。この活動は、自然と調和して生きていた人々の〝智慧〟に学び、新価値を加えて後世にバトンをつなぐことでもある。

 これから二月にかけて、一年で最も寒い季節を迎える。この時期、華やかな季節には気付かなかった風土に深く刻まれた隠れた世界を、私たちの身近なものとして蘇らせ、不可視のものに想いを馳せるときである。はるかな過去と向き合うことは、より豊かな未来を創るための扉を叩くことでもある。わたしたちに何が托され、何をつなぐ使命があるのか。欲すると欲せざるとにかかわらず、今ここに生きる者はそれを担い、過去と未来とを繋ぐ架け橋でもあるのだ。

「随所で主となる」とは、過去・現在・未来の人々をムスビ、自然や文化的伝統の中にある豊かな恵みや智恵を、今ここに復活させることである。そのとき、数多(あまた)の先人によって生きられた無量の〝想い〟と〝祈り〟と〝愛行〟が、新たなユニバーサルな新価値を加えて〝新しい文明〟としてよみがえるのである。

(生長の家埼玉教区・群馬教区の機関紙より)

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2020年11月30日 (月)

練成会と神癒──忘れ得ぬ総本山での思い出

 生長の家総本山の機関誌『顕斎』の編集者から寄稿を打診され、真っ先に脳裏に浮かんだことは、四十年以上前に受けた練成会の思い出である。十代だった昭和五十六年ごろ、体調を崩して何週間も病床に臥したことがあった。小康を得て青年会の先輩宅を訪ねたとき、その先輩から、「思い切って総本山の一般練成会に参加したらどうか」と勧められたのだ。呼吸器系の病気だったため、息も絶え絶えの状態だったが、当時まだ総本山にいらっしゃった谷口雅春先生のご指導を仰ぎたいとの願いもあり、意を決して参加することにした。

 

 ◆「実相」と「現象」と神癒

 数日後、青年会の仲間に見送られ、夜行列車とバスを乗り継ぎ総本山に到着した。龍宮住吉本宮が落成してまだ二年、練成道場も現在の半分の規模で、一般練成会には、北海道から沖縄まで老若男女さまざまな世代が参加していた。


 当時、練成部長をされていた泉英樹講師が毎日演壇に立ち、唯神実相の真理を順々と説かれていたが、ある日「実相と現象」についてのお話があった。「肉体はどんなに病み、不完全な姿に見えていても、実相ははじめから円満完全で健康である。現象は“心のカゲ”だから本来無い!」。講師が「実相」と「現象」とを明確に分けて説明してくれたおかげで、わたしがこの練成会で体得しなければならないことのポイントが、雲間から光が差すように見えてくるのを感じた。
 そんな翌日、『続々甘露の法雨』を読誦しているとき、

 汝ら今、生命あることを悦べ、
 今、生きてあるその『今』を悦ぶべし

──という言葉が、ずんと、魂に響いてきた。ここに説かれた「今」とは、講師が説かれた「実相」であることが直感され、それは現象を超えた「実在」であるから、病気の肉体のことは放っておいて、その「今」の中へ飛び込んでしまおう! そんなことが脳裏にひらめいた。


 その日の午後、献労があった。「現象なし」を学んだ私は、病気のことは一切表に出さず、鍬を手に山を耕す作業を買って出た。もはや一つひとつのことが命がけだった。すべてを神に托し、実相の「今」を観じ「ありがとうございます。ありがとうございます」と、呼吸困難で遠のく意識の底から感謝の言葉を繰り返し唱えていると、次第に実相の「今」が、時間も空間も病気もない「今」が、ここにありありと在ることが観えてきた。病気は苦しいままだったが、「今」を観つめることの中から底知れぬ歓喜がこんこんと湧いてくるのだった。気がつけば辛かった献労も、いつのまにか後片付けの時間になっていた。


 翌朝、ゴホンと咳をすると、胸の奥から見たこともないタンの固形化した塊が出てきた。そんな症状がしばらく続き、昼までにはそれもすっかり治まり、躰は雲のように軽くなっていた。顕斎殿と神饌田の間を流れる「いのちの川」を整備する献労では、ずぶ濡れになって働き、どんな激しい作業をしても〝手の舞い足の踏むところを知らず〟の状態で、このとき詠んだわたしの歌――

 流れゆく いのちの川に踊りいで
  遊戯三昧に 献労楽しや


 総本山での忘れ得ぬ思い出である。

 

 ◆“ムスビの働き”とPBS活動

 練成会八日目ごろ、佐世保で谷口清超先生ご指導の講習会があった。最前列に座り聴講させていただくと、先生はご講話の中で、「死んで霊界に往くというのは、ちょうど更衣室に入るようなもの。また新たな衣装を着て、人生の舞台に登場するのです」と語っておられた。


 あれから四十余年、多くの先輩や恩師、そして友人の幾人かは霊界へと旅立ったが、必ずまたどこかで出逢い、同じ時を過ごし、ともに神さまの運動に舞い遊ぶときがくると信じている。その出逢いの“場”が生長の家である。それは総本山や宇治や教化部や誌友会であり、コロナ禍でも、どんな状況下でもそれは変わらない。今は、ネットフォーラムやPBS活動という新たな“場”を通して、誌友信徒がどんどん繋がり始めている。


 この運動は、世代を超え、組織を越え、地域を越えた“ムスビの働き”で、次世代との新たな出逢いを必ずもたらすことだろう。そして、“新しい文明”へと私たちを運ぶのである。

 

 (総本山総合情報誌『顕斎』329号(2020年10月号)「総本山と私」より)

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コロナ禍での一年を振り返る (2020,12)

 フェイスブックの“おムスビ”で講話の配信がスタートして九カ月。わたしが楽しみにしているのは十一月から始まった地方講師の皆さまの体験談で、そのお一人おひとりのみ教えとの出合いや、神に導かれ信仰が次第に深まりゆくエピソードは、四季の著しい変化を肌身で感じるような深い味わいがある。

 子育ての奮戦記、死を覚悟した病苦からの解放、どん底の経済苦・人間関係からみ教えに光明を見いだしての復活など、過去をつぶさに振り返りながら淡々と語られる信仰体験が、埼玉と群馬の両教化部からFacebookのグループ〝おむすび〟に配信され、毎日のように家々に届けられるのは画期的なことで、すでに十一月には登録メンバーが組織会員だけで四七〇人を越える大所帯となり、五〇〇人の大台も目前である。

 この一年を振り返ってみると、新型コロナウイルスが世の中に与えた影響は計り知れない。しかしその背後には、深い摂理が働いているように思えてならないのである。昨年の今ごろ、誰が今日のようにスマホで総裁先生や各本部講師の講話を拝聴し、地方講師の生々しい体験談を好きな時間に視聴できることを想像しただろうか。そして練成会や誌友会に代わるネットフォーラムや、自宅に居ながら参加できるテレビ電話のような会議に、当たり前のように参加していることを誰が予測できたろうか。新しい時代の扉は、着実に開いたのである。これは推進してくださった皆さんの尽力とともに、コロナ禍がもたらした全世界的なリモート化の潮流に、総裁先生を先頭に生長の家の運動が棹さした結果である。

 さて、十一月は「自然の恵みフェスタ」に代わる行事として“おムスビ”でPBS関連の行事や報告が毎日のように配信された。その一環として、コロナの終息を祈念して群馬と埼玉の両教化部を自転車でつなぐ「イエローフラッグ・リレー」や、「ウッドガス・ストーブ」を活用した諸行事と、ノーミート料理や非常食などのレシピ公開に加え、信徒の皆さんの農園でのライブ中継まで行われた。

 インターネットと宗教的な祈りとは、その働きが本質的な部分で重なっているように思える。ともに時空を越えて繋がり、共鳴し、連動するのであるが、光明化運動の核となるのは、仏の四無量心であり、神の無限の愛である。それは、わたしたちが純粋に神さまの手足となって御心のままに生きたとき具体化する。

 世界はまだまだ大きな変化の渦中にある。過去には戻れないし、戻る必要もない。地方から、足元から、ささやかな草の根のような私たちの日々の生活から、それは古代の人びとが山野を焼き払った場所に蕎麦の種を蒔いて生活を始めたように、過ぎ去った過去のすべての悲しみ苦しみの一切を“光り”に変えて、いのちのいとなみを始める時である。それがコロナ禍での生きとし生けるものへの愛行であり、生長の家のPBS活動である。 

 (生長の家埼玉教区・群馬教区の機関紙12月号より)

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2020年10月30日 (金)

久遠に輝く光 (2020,11)

 修業時代、真理をより深く理解するために、聖典の言葉を毎晩ノートに書き写していた時期がある。黙々と文字を書き続けていたある夜のこと、真理のコトバが、魂にリアルに響いてきて、その文字の背後にある光輝く世界が湧出してきた。古来から「写経」は大切な宗教行として尊ばれてきたが、一見めんどくさいことだが〝正確にコトバを読み味わう〟ことを通して、「教え」が自家薬籠中のものとなり、住む世界が変わってくるのである。

 生長の家では、仏典や聖書の言葉を引用する場合が多いが、歴史の中に埋もれていた言葉が、み教えの光を当てることで〝不滅の輝き〟をもって生きていることが観えてくるのである。「正法眼蔵」然(しか)り、「聖書」然りである。たとえば、谷口清超先生が度々引用されていた「ヨハネ伝」の言葉、「然(しか)れども見ゆという汝らの罪は残れり」もその一つである。「見ゆ」とは、現象を認識することである。現象を見ることは決して罪でもなければ悪しきことでもないが、見えたもの(カゲにすぎないもの)に捉われ、それ(消えていくもの)を握り執着するところに苦しみが生じるのは、いつの世にも現れる私たちの無明である。これについて『甘露の法雨』には「外にこれを追い求むる者は夢を追いて走る者にして永遠に神の国を得ること能わず」と説かれている。

  潜在意識を浄めることや、霊界を浄めることを、生長の家では大切な宗教行として実施しているが、意識の浄化も、霊界浄化も、そのカギとなるのは「四無量心」の実践であり、執着を解き放つことである。執着は、非実在(ないもの)を実在(ある)と思い違えたところに生ずる無明のことだが、これに捉われた魂が、求めても得られず、執着しても永遠に対象から遠ざかる苦悩から、過剰な物欲・色欲・食欲を生じて悩み苦しむ。このような病苦、経済苦、はたまた怨憎会苦(おんぞうえく)などから救われる道は、物質の非実在を悟り、人間・神の子の真理に目覚めることである。そのための慈・悲・喜・捨の働きが先祖供養であり、神想観であり、身近な人への和顔・愛語・讃嘆の愛行である。

 神示にある「完成(ななつ)の灯台の点灯者」とは、生長の家のわたしたちのことである。その〝真理の火〟を灯すのが神想観などの「行」であり、誌友会であり、プロジェクト型組織(PBS)の愛行である。コロナ禍でこれまで通りの生活が難しくなり、世の中が混沌としている今こそ、あなたの内にある無尽蔵の〝愛の光〟を掲げるときである。真理の火は、あなたから遠く離れたところに点(とも)っているのではない。あなたの内に、あなたでしか灯(とも)すことのできない火があり、それを待ち望んでいる人がいるのだ。その最たるものが家族であり、あなたが近づいてくれるのを待っている人たちである。実相世界は、遠くにあるのではない。神に祈り、愛の光を灯した一隅(いちぐう)に、久遠に輝く光が湧出して九族を照らすのである。

(生長の家埼玉教区・群馬教区の機関紙より)

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2020年9月29日 (火)

次世代のための自然エネルギー (2020.10)

 わが家では、三年前に電力が自由化されて以来、家で使う電気を東京電力から「みんな電力」に切り替えて自然エネルギーを利用している。これは太陽光発電や風力発電などの小さな発電所が二〇〇カ所ほど集まって出来た電力会社で〝お気に入りの発電所〟を選べる仕組みになっている。私は千葉で太陽光発電している農家と契約したので、昨年は「継続して二年間使ったお礼に」と、畑で採れたサツマイモを頂くなど、電気を作る人の〝顔が見える〟のが特徴である。

 日本で電力が自由化されたのは三年前の二〇一七年四月。一つの切っ掛けとなったのは二〇一一年に発生した東日本大震災と東電の福島第一原発事故である。かつては電力会社を自由に選ぶことができなかったため、二酸化炭素を大量に発生させる火力発電や、放射性廃棄物を出す原子力発電に由来する〝負の電気〟を使わざるをえなかった。しかし世界では、すでにドイツが一九九八年に、米国とフランスが二〇〇〇年に、韓国が二〇〇一年に次々と電力自由化を実現して、電気を選べる社会になっていた。が、日本だけが取り残された状況だった。

 電力自由化とは、①誰でも電力供給事業者になることができる(発電の自由化)、そして②どの供給事業者からでも電力を買えるようにする(小売の自由化)、さらに③誰でもどこへでも既設の送・配電網を使って電気を送・配電できるようにする(送・配電の自由化)である。これとともに太陽光など「電力源の多様化」が実現した。

   以降、雨後の竹の子のように電力会社が登場したが、ほとんどの企業は「安さ」を宣伝するが中身は旧来通りで、未来世代のこと、地球環境のこと、脱原発のことを本気で考えるエシカルな会社は一握りしかなかった。しかもスタートしたばかりの自然エネルギーは、まだ需要も少なく割高だった。

 先般、群馬県教化部の電気を自然エネルギーに切り替えるため、事務局から電力会社数社に見積もりをとったところ、意外なことに「自然電力」や「みんな電力」などの自然エネルギーの電気が、現在契約している会社(エネオス)より数万円も安価になっていることが判明した。これは、少しずつではあるが心ある人たちが未来世代のことを考えて、自然エネルギーを選択して需要が増えてきたおかげである。

 東電などの深夜電力が、原発の電気を使っていることはご存じだろうか。電気を自由に選べる時代は、すでに三年前に到来しているのだ。これは選挙の投票と同じで「めんどくさいからこのままで」というのでは、化石燃料や原発を推進する〝旧い文明〟を応援していることに気づいてほしい。〝負の遺産〟を未来世代に先送りしていたのでは、仏教で説くところの「知らずに犯す罪」を犯し続けることにもなろう。新電力への切り替えの手続きはネットで申し込むだけで完了する。皆さんも、次世代のためにぜひ地球を汚さないキレイな電気を契約してほしい。

 (生長の家埼玉教区・群馬教区の機関紙より)
  

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2020年9月 4日 (金)

より善く生きる (2020.9)

 天平時代の話で、行基(ぎょうき)が聖武天皇の大御心をうけて東大寺の大仏建立に尽力し、特に貧しい村々を托鉢(たくはつ)して廻った逸話はよく知られている。彼が学んだ唯識思想では「心外無別法(しんげむべっぽう)」すべては自分の心が作りだした現象であり、貧しさは、与えていなかったが故の結果であり、徳積み(慈悲喜捨)を忘れた人々を救済するために菩薩行に励んだようだが、『続日本紀(しょくにほんぎ)』に記された行基の「多くの人々が教化を慕った」という菩薩としての姿は、時代を超えた光明を放っているように想えるのである。

 たとえば『無門関解釈』(谷口雅春著)に「趙州狗子(でうしうくし)」という公案がある。雅春先生は、「狗子(犬ころ)の中に仏性が入り込んで生きているというような『仏性』というものはない(中略)狗子は狗子そのままで正法現前である」とお説きくださっている。その意味は、天地に満ちる仏性を生きていない者には、ただの狗子(いぬころ)にしか見えないが、「肉体は無い、物質は無い、因縁は無い、そんなものを全部否定したときに、この世界がこのまま神一元、ここがこの世のこのまま極楽、天国じゃという真理が解る」と〝一切衆生悉有仏性〟の世界を説かれている。この視座から、行基が、一切衆生に何を拝んでいたかが観えてくるのである。

 貧しい民衆も、飢え病み、死にかけた人々も、行基の肉体の目には映っていても、心の眼は生と死という現象を越えて神一元なる〝仏のいのち〟を拝んでいたのである。衆生の内に眠っている〝仏のいのち〟を鳴り響かせてあげれば、そこに天国極楽が湧出することが分かっていればこそ、彼は貧しい、現象的には素寒貧(すかんぴん)としか見えない村々ばかりを巡っていたのだ。貧しく見えている衆生は、仏性であることに無自覚な〝仏のいのち〟であり、彼はただその仏性を托鉢と〝喜捨(きしゃ)〟を通して引き出したのである。天平時代の大仏建立という華やかな歴史の裏で、当時の記録によると激しい地震が何度も見舞い、まるで地獄の様相を呈していたであろう寒村を前に、そこにただただ〝仏のいのち〟を観て礼拝し托鉢する、行基の菩薩としてのすがたが拝察できるのである。

 谷口純子先生が、コロナ給付金の一部を世の中のために寄付することを呼びかけられたが、それは持てる者から持たざる者への富の循環をということだけではなく、純子先生は私たちの「神の子・人間」の実相を深く礼拝されていればこそ、現代の喜捨である寄付をお勧めになられたのである。その寄付によって生かされるお金は、世の中を着実に善き方向へと変えていく。あらゆるものが急激に変化しているコロナ禍の中で、私たちがどのような生き方を選択するかによって、これからの世界が決定される。あなたはその岐路に立ち、神の子として〝新しい文明〟を創る責任を担っていることを忘れてはならない。すべては、私たちの日々の選択と行動とが発端となり、そこから全てが始まるのだ。より善く生きたところに、より善い世界が現れるのである。

 (生長の家埼玉教区・群馬教区の機関紙より)   

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«「もの」から「こと」へ (2020.8)