2009年12月 2日 (水)

「霊界についての質問」に答えて

 読者のKさんという女性の方から、近況報告とともに「霊界についての質問」をメールで頂きました。同じような信仰上の問題を抱えている方の参考になるかもしれませんので、いただいた質問と、私の回答を公開します。

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【霊界についての質問】
 これからが本題です。霊界についての質問です。ご多用なことは十分存じておりますので、急いでおりませんから、いつかお返事頂ければ幸いです。
(質問:霊界)
 霊界に移って目が覚めて、「自分は病気だった」ことを思い出すと、亡くなる前の病状が霊体に現れ、苦しいので、自分の家族や親しい人を呼ぶ、と学んでおりますが、霊界にも医者がいるのに(ベティ・シャインの『スピリチュアル・ヒーリング』)どうして医者を訪問せずに苦しむのでしょうか?この世では一般に病気になるとすぐ医者に行きますよね。この世の習慣が残っていれば、すぐ「医者に行こう」と考え付くと思うのですが。また霊界ではご先祖様が、亡くなる子孫を「霊界への出産」として待ち受けて下さっているのに、どうしてご先祖様が「霊界に出産した子孫」をすぐ(約50日間以後に)助ける力がないのでしょうか?

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【質問への回答】

「現象」は本来無いのであり、病気は「心の影」である、ということは、信仰歴の長い貴方はよくご存じのことと思います。
 また、医者は治療の手助けはしても、医者が病気を治すのでないことは、現界も霊界も変わりありません。

 さらに言えば、人間は神の子で円満完全であり、未だかつて病気に罹ったことはことは無い! それが「唯神実相」の教えに照らした回答となります。「自性円満の自覚」が、「神癒」となって現れるのです。

 また、貴方のお考えの中にある「亡くなる前の病状が霊体に現れる」「霊界の医者が直す」「ご先祖様や神さまが助ける」というのは、差別心(現象)から観て分かりやすく方便的に説かれた霊界の消息です。

 実相(絶対心)から観れば、はじめから完全なる神の子と、神の創り給うた円満なる世界のみが実在しているのです。

 完全円満なる神には、これ以上付け足さなければならないものなど、一つもないのです。

 霊界に移行した親族のみならず、身近な家族を「苦悩」から解放する道は、み教えに触れた子孫なり縁者なりが、完全円満なる神の子の実相を説いた聖経・聖典などを拝読して(諸霊には仏前や神前で読誦)、「自性円満」の神の子の喜びを自覚して日々生活していれば、現象の不完全を見て生じた彼らの病念が消え、現界・霊界とを問わず実相さながらの調和した世界が現れるのです。

 さらに言えば、彼らがみ教えに直接触れることがなくても、私たちが「実相」を観て歓喜の生活を送っていれば、「三界唯心所現」の法則によって周りが救われるのです。つまり「一人だけ」で、実相浄土の扉を開くことができるのです。仏教で、「一人出家すれば九族天に生まる」とはこのことです。

 現象がある、病気がある、霊界でも医者が病気を治す、と見るのは、「心の法則」に照らしてみれば、「神も人間も不完全である」ことを前提として見ていることになりますから、その通りに現象は展開するのです。
 でもそれは、「唯神実相」を信じているのではなく、「現象」を信じているのです。信じた通りの世界が忠実に現れているだけのことなのです。これは、生長の家とはほど遠い信仰です。

 繰り返しますが、生長の家は、「神の創り給うた世界は円満完全である」(唯神実相)、「現象は心の影である」(三界唯心)、「罪なし、病なし、迷いなし」(現象は無い!)という教えであり、この信仰に至れば、人生に(六道輪廻のどこにいても)行き詰まりが無くなるのです。

 せっかく生長の家の教えに触れても、「心の影」にすぎない現象を、神さまと同等かそれ以上に信じていたのでは、その信仰から生まれる果実は、推して知るべしです。

「実相」と「現象」とが混在したようなどっちつかずの信仰を卒業して、無限愛なる神のみ懐に飛び込み、光明一元・善一元の実相を信じる大安心の信仰生活にお入りください。

 これは私の生長の家の恩師から教えていただいたことですが、「実相」と「現象」を二つに切っていたのでは、どっちつかずの信仰から抜け出すことはできません。「実相独在」と一つに切る! そこに実相世界さながらの天国極楽浄土が開けてくるのです。


 久都間 繁


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2009年11月20日 (金)

ほったらかし農園「秋の花」篇

 ほったらかし農園は、見ようによっては「ほったらかし花園」にも見える不思議な一面を持っています。
 今回は、その一旦をご紹介しましょう。
 
 写真は、先週の11月15日に撮影したもので、冬になる前にアップすることができました(^^;
 


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このバラは、今から7年ほど前に母と植えたものです。
名前は忘れてしまいましたが、春と秋にピンクの花が咲き、辺りに芳しい匂いを放ちます。
わが家での母親教室の折にも、ときどきこの花を飾ります。


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ムラサキツユクサ。
この花は、いつまにか生えてきたものです。
子どもたちが、どこからか種をもらってきて植えたのかもしれません。

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イヌタデの群落もあります!
といってもタライか洗面器ほどの規模ですが(^^;

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こちらはクジャクソウ。
拡大してみると、アリが蜜を吸っています。
開花時期のピークはすぎても、この季節によく似合う花の一つです。


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これはアスパラの花。
昨年の秋に苗をいただき、畑に植えてからちょうど1年が経ちました。
来春にはわが家の食卓にデビューする予定です。

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トマトの花。
この季節になっても、まだまだ受粉して実をつけているのが不思議です。


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これはなんと、ホタルブクロまで秋の風に揺れていました!

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2009年11月14日 (土)

読者からの質問に答えて②

 先月このブログで、Yさんという主婦の方から頂いた質問への回答「読者からの質問に答えて」を公開しましたが、数日前によろこびの礼状をいただきました。
 本人の快諾を得ましたので公開させていただきます。

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合掌ありがとうございます

お礼のメールを送るのが遅れましたこと、お詫び申し上げます
もっと早くにと思いつつ、先生のブログを見ることがあの浦島太郎の玉手箱を開ける心境で、なにかしら心が臆してしまい、なかなか勇気がなくて、開くことができませんでした。

自分の質問があまりにも自分勝手というか、唐突というか、その渦巻いている思い、苦しみを先生へぶつけてしまったような感じで、整理もしないままに、また何回も何回も同じ質問をしてしまいました。

そして2週間ぶり玉手箱を開けました。

自分の中でもやもやとしていたものが、スッー消えていく感じがしました(やはり住吉大神様の玉手箱なのですね)。
なにかしら赦されているような大きなものをいただき受けとったような、あぁなんとなく自由自在という言葉が浮かんできました。そしてゆったりと考えている自分がいました。

>>どのような複雑な鍵穴にも自在に相を変えて鍵をあわせることができること

すごいなぁ!

>>潜在意識も現象にすぎない! 
>>神の子の実相のみを相手にして悦んで生活していれば、従者である潜在意識は自然に(自動的に)光明化する(浄まる)のです。

すごい開放感!自己解放

私はひっかかりもっかかりの考え方が変えられなくて、よく生長の家のたとえ話に、お月さまが水の中に映りその姿がはっきりと見えない。
ましてかき混ぜればかき回すほどに、ほど遠くなり、私はその水面に波立つ波を自分の手で押さえなければと思っていたのでしょうね。
相手にする対象をまちがっていたのですね。

先生ありがとうございます。
とても嬉しい! 私の中でさわやかな風がとおっていて、すべてが美しく整っていくのです。
これだこれだと、私に必要な事すべてがあります。
私が私らしく少しずつですがたゆまず過ごしていけるのも、先生はじめ皆さんが力を与えてくださっているのだと思います。これはblogを見ている人すべてがそうかもしれませんが!
講師の方々は私達が必要とするものがわかっていらっしゃるのですね。

久し振りにぐっすりと眠っていました。また夢なのか現実なのか、14年前に亡くなった母と、寝ていて親子で話をしていました。内容もぜんぶ覚えているのです。
やはりいのちは永遠ということを教えにきてくださったのかも。それとも心配だったのかなぁ・・・でもそんな雰囲気ではありませんでした。ご安心ください。

お忙しい中、それにもかかわらず丁寧にわかりやすくご指導していただき、ただありがたく感謝します。

明日は輪読会です。元気に喜んでいってきます。

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2009年11月 9日 (月)

秋のほったらかし農園②


 この日は落花生に加え、トマトも収穫しました。

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 バケツの中にあるのは、アイコトマト、中玉トマト、そしていつのまにか真っ赤に色づいていたシシトウです(^^;


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 ほったらかし農園のトマトは、11月になっても、まだまだ元気に実り続けています。
 これは中玉トマト。

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 この勢いでは、今月末まで収穫できるのではないかと期待しています。
 こちらはアイコトマト。


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 まるでブドウみたいですが、これはヤブランの実です。
 美味しそうにツヤツヤ光っています。写真を拡大して見ると、トマトやゴーヤのツルなどが周りにあり、本当に「藪(ヤブ)のような農園だ!」ということが、ばればれになっています(^^;

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 写真は、わが農園に実ったユズです。
 (枝に巻き付いているのは夏に咲いていたヒルガオのツルのようです)

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 今年、地元では柚子(ユズ)が豊作です。
 市内には柚木(ゆぎ)という地名もあるくらいなので、ご近所にはユズを栽培している農家や、庭に植えている家がたくさんあります。
 11月に入ってから、町内のあちこちで、たわわに実ったユズが黄色く色づいているのが目に入るようになりました。

 もうじき新嘗祭(にいなめさい)、秋もたけなわです。

 

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2009年11月 8日 (日)

秋のほったらかし農園①

「ほったらかし農園」にも秋が訪れ、収穫の時を迎えています。

 この日(11月7日)収穫したのは、春に種を植えた落花生です。

 愛犬のハッピーが、ときどき畑に入ってゴロゴロ寝そべっていた関係で、まるで草のベッドのようになっていた落花生畑でした。

 そのような圧迫に耐え、夏の暑さと秋の雨風を越えて、地中に実った落花生がようやく日の光を浴びようとしています。

Photo


 わくわくしながら、ググゥ~っと茎(くき)を引っ張っり上げているのは、末っ子の啓(ヒロム)くんです。

 事前にスコップを地面に深く差して、地中から土をモコっと掘り起こしてあるので、収穫はあんがい簡単です。
 

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 当初予想していたより、たくさん実を付けていたのでホッとしました。
 モデルは長男の實(マコト)くん。私がポーズに注文をつけたので「早く撮って!」と、眼で催促しています(^^;

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 植えてもいないサツマイモまで収穫できました。
 これも「ほったらかし農園」ならではの光景です。

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 天日に干して、収穫が完了!


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 落花生を収穫した後の畑は、土に、生ゴミとEM菌を培養して作った堆肥を混ぜて、新たな苗床を作りました。

 ちょうど一週間ほど前に、ご近所に住む誌友から「のらぼう」という多摩地方特産の野菜(アブラナ科)の苗を頂いていたので、それを植えました。

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「のらぼう」は、来年の2月~3月に収穫できる予定です。
 無農薬でも元気に育ち、おひたしやソテーにして食べるととても美味しいので、わが家のある青梅市などの西多摩地方の田舎では、これが春先の定番メニューとなっています。

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2009年10月29日 (木)

読者からの質問に答えて

 本欄の読者から、メールで質問をいただいていました。が、仕事などの関係で回答を出すのが伸び伸びになってしまいました(^^;

 質問を2ついただいておりましたので、まとめて回答させていただきます。


質問1

 私たちのこの現象世界は表現するための世界であるといわれていますが、天国的状態を表すためにやはり人は苦行難行といわれる時期があるのではないでしょうか。よく生長の家では苦行難行はいらぬといいますが? そのために大変な努力と精進だけではなく時間もかけ命がけで求めているのです。実相が絶対的力を持って私たちを生かし愛していられるのなら、もっと端的に表現の能力を与えてくださるべきではないでしょうか? 実相があれど現れずではどうしょうもないのでは?


質問への回答

 今年になってから、私は本部会館での聖典講義で、谷口雅春先生の書かれた『幸福生活論』をテキストにお話しさせていただいていますが、ご本の中に次のご文章があります。

「人生の航路に於いて遭遇する総ての人生体験の意義は「人格」を陶冶(とうや)し向上せしめる鍛錬(たんれん)である点に存します。あらゆる見せかけの困難は、真の神の如き勝利の門に入るための入り口に設けられたる鍵穴に過ぎないのです。その鍵穴にピッタリと当てはまる鍵とならなければならない」(『幸福生活論』70ページ)

 このご文章は、さらりと読んでしまうと当たり前のことしか書かれていないように見えますが、読みようによっては実に深い意味を含んでいます。

 ここに「人格」というコトバが出てきますが、谷口先生がお説きくださっている「人格」とは、私たち一人一人となって現れた「神の子の個性」という意味に解釈してもいいのではないかと思います。

 つまり、人生体験(人生での苦労や修行)の意義は「神の子の個性」を陶冶し向上せしめる鍛錬である、ということになります。

 人間は、はじめから「神の子」なのですから、人生体験や苦労や修行によって「神の子」になるわけではありません。

 ですから生長の家から見た修行の意味とは、「私たち一人一人に授けられた神の子の個性を向上せしめる」ということであり、平たく言えば、神の顕現である「人格(神の子)」を通して、神の完全円満大調和なる真・善・美の世界を地上にも具象化する、ということになると思います。

 以前にも紹介しましたが、聖経『甘露の法雨』には、

「神があらわるれば乃ち
善となり、
義となり、
慈悲となり、
調和おのずから備わり、
一切の生物処を得て争うものなく、
相食むものなく、
病むものなく、
苦しむものなし。」

と書かれているように、私たちが、より智慧深く、愛深く、健康に、豊かに、悦びあふれ、大調和の生活を実現する、ということが、「人生の航路に於いて遭遇する総ての人生体験(修行)」の目的ということになります。


次の「質問2」の回答も、これと密接につながっています。

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質問2】

 今一番ほしいものはこころの安定と平和と「現象なし」打ち切る絶対力です。
 願望より想念のほうが強いとよく聞きますが、現在意識があってその下に潜在意識、もっと下は超在意識と、自分の心は自分でもコントロールできなくて、また習慣性がありますと言われると
、はるか遠いところへ神様が行かれていくようで、・・・苦しくなってしまいます。これは、私にとってとても重大な問題なのです。


質問への回答

 先に紹介した『幸福生活論』の一節は、次のように続いています。
 
「あらゆる見せかけの困難は、真の神の如き勝利の門に入るための入り口に設けられたる鍵穴に過ぎないのです。その鍵穴にピッタリと当てはまる鍵とならなければならない」(同書、70ページ)

 私たちが人生で遭遇する「困難」とは、谷口雅春先生によると、それは「見せかけ」のものであり、「勝利の門に入るための入り口に設けられたる鍵穴」である、ということです。

 勝利の門に入るための「鍵穴」に、鍵を入れて回すためには、私たちは「鍵穴」にピタリと入るような無碍自在な「カギ」にならなければなりません。

 「神」や「仏」は、宇宙に満ちる大生命であり、無碍自在です。神の子である私たちもまた、本来は無碍自在な生命なのです。そのような神の子は、どのような複雑な「鍵穴」にも自在に(観世音菩薩のように)相を変えて「鍵」を合わせることができるのです。

 ところが私たちが、人生のさまざまな問題に直面するとき、それを「困難」と感じるのは、私たちが「人格(神の子)」の周りに十重二十重にレッテルを貼って、「これでなければならぬ」と形や物に捉われいるから、「人格(鍵)」が「鍵穴」に入らない! それが「困難」として感じられるのであり、肉体人間には「難行苦行!」として体感されるのです。

 十重二十重に塗り固めたレッテルで生きるのをやめて、素っ裸の「人格(神の子の生命)」で生きるようにすれば、どんな鍵でも回すことができるのです。

 
 弘忍禅師が弟子の慧能(えのう)に向かって、

「米熟するや?」

と質問したことが、谷口雅春先生が書かれた『無門関解釈』「不思善悪」の中に紹介されています。
 それに答えて慧能は、

「米熟すること久し。なお篩(ふる)いをかくことあり」

と答えています。

 私たちは、修行してから「神の子・仏の子」になるのではなく、はじめから「神の子・仏の子」であり、それが「米熟すること久し」ということですが、その久遠に熟している神性・仏性こそが私たちに現存する「神の子の人格」なのです。

「篩(ふる)いをかくことあり」とは、在るものと、無いもの、とを篩いにかける、つまり「実相」と「現象」(潜在意識も現象です)とを篩いにかけて、「無い」ものを相手にせずに、「在る」もの(神性・仏性)だけを相手にして悦んで生活していれば、「神の子の実相(個性)」が、いよいよ鮮やかに光り輝いてくるのです。

 本来無いもの(潜在意識も)を有ると思って相手にしているから、いつまでも迷いが去らずに苦しむのです。迷いや症状とは、出たときが消えたとき、であり、相手にして握りさえしなければ、出た現象はどんどん消えていくのです。

 潜在意識も現象にすぎません! 潜在意識を浄めてから、神の子になるのではありません! 主体である神の子の実相のみを相手にして悦んで生活していれば、従者である潜在意識は自然に(自動的に)光明化する(浄まる)のです。それが人生の光明面を観て生きる日時計主義の生活であり、三界唯心所現の法則(横の真理)です。

 無いものを「無い!」と、ふるいに掛けて、はじめから在る「内なる光り(神性・仏性)」のみを大肯定して喜び悦んで楽しく生活することが、人生の主人公(神の子)としての絶対主権を取りもどすことであり、その絶対主権(実相)に生かされ浄められて生きるのが、生長の家の「絶対他力」の信仰です。


 久都間 繁

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2009年10月19日 (月)

悲しみの奥にある聖地

「悲しみの奥には聖地がある」とは、オスカー・ワイルドの言葉ですが、ここに紹介させていただくのは、友人で生長の家本部に勤めている竹内芳実さんという20代の女性が書き綴った「I’m here ひでちゃんのこと」というブログです。

 ひでちゃんとは、2年半ほど前、26歳の若さで天国へと旅立った、竹内さんの大切な方の愛称です。

 彼女は、ブログの冒頭で次のように紹介しています。
 

「ひでちゃんと過ごしたのはたった一年。その短い時間の中で、私たちは出会い、恋をし、ひでちゃんは何かをやり遂げてあっという間に私の前から去ってしまいました――」


 本文を読んでいると、夭折したひでちゃんの想い、寡黙な竹内さんのこれまで秘めてきた想い、そしてひでちゃんのご両親の想いなどが、手記を通して伝わってきて、胸が熱くなります。

「このまま埋もれさせてはいけない」と思い、ご本人に本欄で紹介してもいいかと打診したところ、

「ぜひ、紹介していただければと思います。彼もそれを望んでいると思いますし、喪失を経験された方の悲しみが少しでもやわらぐことをお祈りしています」


との快諾をいただいたので、つい最近公開された彼女のブログ「I’m here ひでちゃんのこと」を紹介することにしました。

 彼女の越えてきた悲しみは、愛する人を失い、癒えない悲しみを抱えている方々の糧となり、慰めともなることでしょう。
 
 また、彼らの純粋な愛の姿は、ひでちゃんから人生の門出に立つ人たちに向けて贈られた、清らかな魂の記録のようにも思えてきます。

 このブログの公開を機に、竹内さんご自身も、美しい実りある人生に向けて、新たな歩みを進めていただければと心から祈っています。


  久都間 繁

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2009年10月15日 (木)

「レッテル」について②

 今は故人となった生長の家の恩師が、「真理というものは、たとえ子供の口から出たコトバでも、もしそれが真理であれば、子供が語ろうが、誰が語っていようが、真理は厳然として真理だ!」という意味の話を、30年ほど前にして下さったことを、最近ふと思い出したことがあった。

 私はかつて、一を聞いて十を知ったようなつもりになっていたが、それもやはり、大変なレッテル化であり、ずいぶん遠回りをしていたことが、恩師の言葉を振り返ることで、身にしみて分かってきたのである。

 レッテル化とは、相手に貼り付けたラベルしか見えなくなることである。人は、一度ラベルを誰かの顔に貼り付けてしまうと、そのラベルのみに注目して、その人の「生命の本当の相(すがた)」を見なくなる傾向があるのであるが、それがレッテル化であり「現象に捉われる」ということである。

 レッテルとは、私たちが過去において人やものに対して見聞覚知したところの心の残像にすぎないのであり、そのレッテルだけを見ていたのでは、「今」躍動している生命を把握することができなくなるのは当然のことなのである。重要なのは、そのレッテルを思い切って引っ剥がしてしまうことである。しかしそのためには、自分がこれまで身に帯びてきたところの虚飾を捨て、先入観を捨て、素っ裸になってしまわなければならない。

 古事記に登場するアメノウズメノミコトのように、素っ裸になって実相をよろこべば、天照大御神が天の岩戸(レッテル)から、光り輝いて出て来るのである。

 しかし、レッテル化していることに気が付かないでいると、私たちは知らないうちにそのレッテル(仮りの相)に縛られて雁字搦(がんじがら)めとなり、さらに無意識のうちに自分を取り巻くすべてのものを次から次へとレッテル化し、挙げ句の果てにそんなもの(レッテル)ばかりに取り囲まれているのかもしれないのである。そんなことでは、生きがいも、夢も、希望も感じられなくなり、誰とも心の交流がなくなり、八方ふさがり(岩戸隠れ)となるのは当然のことだと言わなければならないのである。

 レッテル化は、年齢による影響とは全然関係ないのである。10代や20代で、あらゆる人や物や事にラベルを貼り付けて雁字搦めになって、生きがいも夢も希望も見失っている、かつての私のような人もいれば、先日(10月12日)「第31回生光展」のオープニングで挨拶した遊馬正・画伯のように、85歳を過ぎても、いよいよ希望成就のよろこびと、夢の実現に燃えながら、生涯を貫いた祈りの人生を謳歌している人もいるのである。

 レッテル化した、出口のない自縄自縛の「天の岩戸」の中でもがき苦しみ、それを求道だ、精進だ、修行だ、と努め励むことも、道を求めている人には大切な通過儀礼である場合もあるのであるが、要はレッテル化をやめ、一切の対象に貼り付けたラベルを剥がし、虚飾を捨て、先入観を捨て、丸はだかの神の子に帰ってみれば、そこに荘厳なる世界が、はじめから横たわっていたことが分かるのである。それは、木や花や風景などの自然の風物だけではなく、一人ひとりの人間も、そこに神秘なる神性・仏性が現前し、顕れよう、溢れ出よう、生長しよう、としていることが見えてくるのである。

 谷口雅宣先生が、絵手紙・絵封筒の創作を皆にお勧めになり、芸術的感覚を伸ばす誌友会をご提唱されているのも、私たちが対象をよく観察することで、これまで貼り付けていた心のラベルを剥がし、人類の通念というレッテルを外してしまい、はじめから「今、ここ」に在った神秘なる世界〈真・善・美〉と出合うことが、一つの重要な目的なのである。

 奇蹟は、病気が治ることでも、問題が解決することでもない、今、私たちを取り巻く森羅万象こそが「奇蹟」(住吉大神であり観世音菩薩)そのものであることが分かれば、「解決」への道が開け、「治癒」への道が開け、「成就」への道が開けるのである。聖経『真理の吟唱』にある、「心に耳ある者は聴け、心に眼ある者は見よ」(観世音菩薩を称うる祈り)とは、このことを語っているのである。

 繰り返すが、虚飾を捨て、先入観を捨て、素っ裸になって、アメノウズメノミコトのように実相を観てよろこんで、現象無しのカラッポになって実相遊戯三昧に生活していれば、天照大御神が天の岩戸から自ら出て来て、高天原が咲(わら)いどよめくのである。


  久都間 繁


 

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2009年10月13日 (火)

フウセンカズラの種

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 これはフウセンカズラの種です。写真をクリックしていただくと、黒地にコントラストも鮮やかなハート形の白地が見えてきます。

 数日前、台風18号の去った「ほったらかし農園」で採集し、テーブルの上に置いてキレイに並べて撮影しようとしましたが、コロコロころがって私の(大きな)手に負えなかったため、台風休暇で家にいた中学1年の娘にコーディネートと撮影を委託することにしました。


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 ハート形の模様は、おサルの顔のようにも、モダンな芸術作品のようにも、東南アジアの民芸品のようにも見えます。

 北米原産のフウセンカズラ。これが日本をはじめ世界各地に広く分布した理由のひとつに、この種の素朴で愛らしい姿形が好まれたのではないかと思います。

 このハートの種には、私たちを夢中にさせる魅力的な物語がいっぱいつまっているようにも見えます。が、実際に土に植えてみると、7月ごろから次からつぎへと小さな白い花を咲かせ、10月中旬になっても結実の勢いが止まらない大変な繁殖力を持っているところが、この「ハートマーク」の持つ呪術的なパワーなのかもしれません(^^;

「フウセンカズラにあやかりたいものだ!」なんて思っている方! メールで連絡いただければ、この種をひそかにお送りしましょう。お礼は要りませんので、来年の夏か秋にでも、皆さんのブログにスケッチか写真でもアップしていただくか、当ブログに感想でもお寄せいただければうれしいです。

 春先、プランターか庭に植えて、アサガオを育てる要領で支柱を立て、後はホッタラカシて(ときどき水をやって(^^;)おくだけで栽培できますが、食用にはならないのでもっぱら観賞用としてお楽しみください。

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2009年10月10日 (土)

神様からの授かりもの

 与えられた仕事やお役目を無事に全うするために、「失敗しないように」と思えば思うほど、気持ちばかりがあせって、自分や周りの期待に反して、うまくいかない場合があるものだ。

「失敗しないように」と私たちが願うことは、それは実は、私たちの内にある大成功が現れ出ようとしているのである。つまり内にある完全円満なる世界が、内にある黄金の人生が、自分で溢(あふ)れ出ようとしているのである。

 しかし、内なる宝庫に注目することなく、「しくじる」ことばかりに注目して、「このままではいけない、なんとかしなければ」と、より正確に、より着実に、より仲良く、などと努めれば努めるほど、ふるまいは、ますますぎこちなくなり、挙げ句の果てに癇癪(かんしゃく)などを起こしたり、自暴自棄になって途方に暮れたりするのである。なぜそうなるのかと言えば、それは外見を良くする(現象を整える)ことばかりに捉われているからである。

 良いのは外見ではない。良いのは私たちの内にある「実相」のみである。実相のみが真・善・美の宝庫なのである。そこに注目しないで、ありもしない「外見(現象)」をいつまでも握っていたのでは、「しくじらないように」と努めれば努めるほど、心の奥底で「自分は不完全だ」との認識を深めていることになり、それではいつまで経っても不安と混乱とが人生につきまとうことになるのである。


 私たちは「しくじらないように」と思う前に、その仕事や使命がどんなにつまらないものに見えたとしても、それは偶然にやってきたのではなく、今の自分に遂行できる最良のご使命がめぐって来ているのだから、内なる真・善・美をもって、誠心誠意努めさせていただけばよいのである。しくじる、しくじらないは、内なる真・善・美をもって臨むか、臨まないかに懸かっているのであり、真・善・美のまことをもって臨めば、決してしくじるようなことはないのである。「背水の陣を敷く」とは、内なる真・善・美、つまり「まこと」をもって事に当たるということである。

 今、目の前にあることに誠心誠意努めて取り組めば、そこに「実」(まこと)が顕れるのである。つまり「まこと」とは、実相のことである。「まこと」すなわち実相があらわれれば、その仕事には自ずと智慧・愛・生命・喜び・供給・調和が具現するのである。

 これは仕事だけではなく、勉強にも、対人関係にも、治病にも同じことが言えるのである。利害や打算のことを考える以前に、先ずその仕事を愛し、課題(テーマ)を愛し、相手を愛し、お預かりしている私たちの心身を愛し、これら全ての人やものや事を無条件に愛することである。なぜなら、すべては、神様からの授かりもの以外の何ものでもないからである。


 久都間 繁

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2009年9月30日 (水)

「レッテル」について

  私たちは、知らず知らずのうちに、周囲の人に対してレッテルを貼っているものである。

 そんなことを言葉にすると、「何を意外なことを」と思われる方も多いかもしれない。
 
 私も、そんなことを着想する前だったら、きっと同じように感じていたことだろう。

 しかし私たちは、自分を取り巻く人に対して、自分で勝手にレッテルを貼り付けて、そのレッテルを見てさまざまなことを判断している場合が、なきにしもあらずなのである。

 たとえば、私たちが誰かを怨み憎むまではいかなくても、誰かのことを好ましく思っていない場合があったとしたら、実はその人の顔に貼り付けたレッテルを見て、それを嫌っているだけなのかもしれないのである。

 夫や妻のこと、子供のこと、職場や組織の同僚や上役、中心者のこと、もしこの人たちのことで、自分の中に葛藤や摩擦があるならば、こじれた思いや問題を解決しようとする前に、先ず相手の顔に貼り付けていたレッテルを剥(は)がしてしまうことから始めなければならないのである。

 レッテルとは、自分がこれまで現象世界で見聞覚知してきたところの経験の残像であり、それは「心の影」なのである。実体のない「心の影」を相手にしていたのでは、そこに見ているのは自分自身の過去の心の姿であって、決して相手の「いのち」と出合っているわけではないのである。

 レッテルを貼ってしまうのは、憎み怨み好ましくないと思っている相手だけが対象なのではない。

 私たちは、あらゆる人に物に事に、五感六感から入手したあいまいな情報だけを根拠に、レッテルを貼っているのかもしれないのである。
 もしかしたら、神や仏、そして生長の家の教えにさえも、レッテルを貼っているかもしれないのである。

 これも意外に聞こえるかもしれないが、たとえば信仰熱心な人の中には、心の中で憎んだり、怨んだりしている相手に対して、心で相手のことを不完全と見ているにもかかわらず、そのレッテル(ニセモノ)の上に、さらに「感謝」や「和解」というレッテルをむりやり上塗りしようと懸命に努力している場合もあるかもしれないのである。

 しかし「実相」とは、努力して上塗りするような代物(観念)ではなく、憎み怨み毛嫌いするそれら一切のレッテルを徹底的に剥(は)がしたところに現れる、はじめからある生まれたままの本当の相(すがた)のことなのである。

 仮に、憎み怨み毛嫌いしている相手の上に、努力して別のレッテルを上塗りして、形の上で取り繕うことが出来たとしても、それがレッテルである限りにおいて、それは仮のニセモノに過ぎないのであり、そんなものは必ず剥(は)がれてしまうのである。それが剥がれないように絶えず心配して努力していなければいけないような信仰では、やがて身も心も持たなくなるのである。
 努力すればするほど、務め励めば励むほど、それでは「全托」の信仰から遠ざかるばかりである。

 レッテルなるものは、それが良きにつけ、悪しきにつけ、実相(ほんとうのすがた)とは〈無関係!〉なのである。


 実相が現れるということは、相手や自分自身に貼り付けた「病気だ!」というレッテルを剥がし、「だめな人間だ!」というレッテルを剥がし、「能力がない!」というレッテルを剥がし、「行が足りない!」というレッテルを剥がし、「不完全だ!」というレッテルを剥がしてしまうことである。そんなレッテルは、生長の家の「人間・神の子」の信仰とは無関係な、ただの現象(ニセモノ)に過ぎないのである。

 レッテルを剥がし切ったそこに、はじめのはじめから在った実相が現れるのである。

 それが「現象は無い!」ということであり、そこから、レッテルの背後にあるものへの感謝がこんこんと湧き出て来るのである。

「天地のすべてのものに感謝する」とは、天地一切のものからレッテルを剥ぎ取った実相(ほんとうのすがた)と出合うことにほかならないのである。

 レッテルという偽物(にせもの)を残したまま、ニセモノの上に「感謝」や「和解の」のレッテルを一所懸命に上塗りしていたのでは、その信仰は偶像崇拝であり、やがて物神崇拝へとつながるのである。

「花、花に非ず、これを花という」
「物質、物質に非ず、これを物質という」

「物質は無い!」「現象は無い!」と、生長の家では説いているが、これは天地の万物に対するレッテルを払拭することにほかならないのである。

 レッテルを剥がせば、天地が開ける音が、今! 聴こえてくるのであり、レッテルを貼っていた相手が、大慈大悲の観世音菩薩として大光明を放っていたことが分かるのである。


  久都間 繁

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2009年9月23日 (水)

「ほったらかし農園」ゴーヤ爆発!

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 ほったらかしていたゴーヤが、ついに爆発していました!

 ゴジラのような、ぱっくりと空いた口から、朱色の種がこぼれ落ちています。

 着ぐるみのような、黄金色に染まった衣装を惜しげもなく脱ぎ捨て、乾坤一擲(けんこんいってき)! とばかりに大地に種を吐きだしているようです。

 毎年、この光景と出合うたびに、農園に秋の到来を告げる鐘が鳴っているような気がして、季節の巡る早さに驚かされます。


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2009年9月20日 (日)

ほったらかし農園の彼岸花

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 彼岸入りした「ほったらかし農園」でも、彼岸花が満開です。

 拡大して見ると、向かって右隣にキンカン、やや後ろにネギの茎が見えます。
 ネギは何年か前に母が植えて、その後自生したもので、草に埋もれながらもたくましく生き延びています。

 農園のある青梅市では、一週間ほど前の9月12日ごろから一斉に彼岸花が咲き始めました。
 この花をしみじみ眺めていると、かつて彼岸前後に出会ったであろう、いろいろな思い出がよみがえってきます。


 秋の夕日を浴び、赤トンボが舞うなかを夢中になって従姉たちと駆け回った4、5歳の頃のこと。

 小学校の帰り道、拾った棒で、バッサバッサと切り倒した後に落ちる、露わな花の感触。

 幼かった息子と、畑のあぜ道に咲く花を眺めながら、懸命に後を追った秋祭りの山車と祭囃子(まつりばやし)の音。
 

 彼岸花は、いつのまにか現れて、深紅の花を咲かせたのもつかの間、いつの間にか消えて往きます。

 別名、曼珠沙華(まんじゅしゃげ)とも、幽霊花とも呼ばれていますが、遠い日の記憶のように出現して、諸行無常の理(ことわり)を、鮮やかな花に託して語りかけているようでもあります。

 この花が咲き、日が暮れてコオロギの音が辺り一面に降り注ぐようになると、妙に日本酒が恋しくなるのは、私だけなのでしょうか(^^; 
 

 
 
 

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2009年9月10日 (木)

「ほったらかし農園」のトマト

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 畑をほったらかしていても、それなりに収穫できるところが「ほったらかし農園」の魅力の一つです。

 たくさん採れ過ぎたたときは、ご近所にもお裾分けしています。

 トマトは、20年ほど前からプランターで生ゴミとEM菌とを使って栽培してきた経験が役だっています。

 当初は失敗することもありましたが、これも料理と同じで、すべての失敗や成功がよい経験となり、やがて自分の個性(性格や好み)、栽培条件(プランター・畑の規模)、携われる時間などを加味して、「自分ならではの」野菜作りができるようになります。

 誰でも、土とプランターと好奇心さえあれば、いつでも、どこに住んでいても始めることができます。
 

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2009年9月 8日 (火)

「ほったらかし農園」のヒョウタン

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 今年の春、小学4年の長男とキュウリの苗を買いに行ったところ、瓢箪(ヒョウタン)の小さな苗を発見しました。

「ヒョウタン!」

 思わずそのユニークな形が、電光のように脳裏を駆けぬけ、

「ためしに、育ててみようか!」

 と、息子に問い掛けると、好奇心に満ちた彼の瞳が輝き、1株だけ購入して農園のイチゴ畑の空きスペースに植えてみました。

 肥料を与えていなかったのですが、それなりに成長して、9月上旬にはこんなになりました。

 そういえば10数年前、青森県にある三内丸山遺跡を見学に行った折、5000年前の縄文時代にもかかわらず同地でアフリカ原産のヒョウタンが栽培されていたことを知り、縄文文化圏の交易範囲の広さにたいへん驚かされたことがあります。

 同遺跡では、この他にも世界最古の日本製漆器の破片や、クルミの入ったかわいい縄文ポシェットの遺物、巨大な建造物の遺構、大人と赤ちゃんの埋葬方法の違いなどの行き届いた説明を、現地のボランティアガイドの方にしていただき、この日以来、私の縄文観が一変したことを思い出します。

 さてこのヒョウタン、煮ても焼いても食えそうにありませんが、いずれこれに晩酌でも入れて、はるか往古の森で営まれていた縄文人の生活に思いを馳せながら、秋の夜長に究極の「森のオフィス」のことでも考えてみたいと思います。

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2009年9月 7日 (月)

「ほったらかし農園」のカボチャ

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 このカボチャ、実は畑の脇を流れる小川の上空に伸びた山吹に巻き付いて実っています。(山吹の花が、その重さにたえながらカボチャに何ごとかを訴えているのがご覧いただけることと思います(^^;)
 
 これは、普通の農家の畑ではお目にかかることのできない、わずかな土地を縦横に利用して野菜を栽培している「ほったらかし農園」ならではの奇観といえましょう。

 あまり実が大きくなりすぎると落下しそうなので、農園では適当な時期を見計らって収穫する計画を立てております。

 でも写真を拡大してよく見ると、これから咲こうとしているカボチャのつぼみがまだ2つほど確認できます。山吹は、このカボチャから一方的に浴びせかけられた過酷な運命を、はたしてどのような気持ちで受けとめているのだろうか。
 

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2009年9月 6日 (日)

「ほったらかし農園」のフウセンカズラ

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 子どもたちが学校から貰ってきた種を、なんでも植えてしまうところが「ほったらかし農園」のひとつの特徴でもあります。

 写真は「フウセンカズラ」というつる性の一年草です。まきひげを出して、それを他の植物などに絡ませながら成長します。これは、最近ゴーヤを収穫しているときに目の前にブラブラぶら下がっているのを偶然に発見したものですが、そういえば今年の春先、末っ子にせがまれて一緒に種を植えたことを今になって思い出している好い加減な園主です。

 学校で種を配るほどだから、「フウセンカズラ」もきっと食用になるのだろうと調査してみましたが、これはもっぱら観賞用として栽培されているようで、ネットのどこにも料理や食用に関する記事は見あたりません。 

 袋の上の方に、ちょこんと白い花が咲いているのが分かりますでしょうか。これが受粉して結実すると、下のような袋状になり、冬枯れて茶色くなると一袋に3粒だけ種ができます。種には黒地に白いハート模様の可愛いマークがくっきり浮き出ますので、私が忘れていなければまた本欄で紹介させていただきましょう。

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2009年9月 5日 (土)

「ほったらかし農園」のハーブ〈チェリーセージ〉

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 この花、サルビア・ミクロフィラ(チェリーセージ)の一品種で、ホットリップスというメキシコ原産の宿根草です。

 ご覧のように、花びらがチェリーのように真っ赤になることから、チェリーセージとも呼ばれています。

 最初は、害虫から野菜を守るためのコンパニオンプランツとして植えたものですが、可愛い花びらとは裏腹に、春になると雑草のようにたくましく次から次へと枝が伸びてきて野菜の生育の邪魔をするので、私は毎年、キュウリの苗を植える時期に剪定ばさみでバッサバッサと枝を切り払っています。それでも、彼らの勢いは一向に衰えることなく、毎年じわじわと株を広げています。

 しかし、無農薬でも野菜が元気に育っているのは、確証はできませんが、もしかしたら彼らのお陰なのかもしれません。
 春から秋にかけて、たくさんの小さな花を咲かせ、そのすゞやかな香りは好感が持てます。花瓶に活けても楽しめますが、うっかり数日放っておくと細かな花びらを一面に散らしています。

 ちなみにわが家の子どもたちは、この花の花びらを摘んで蜜を吸うのが大好きで、「とても甘い!」と語っています。


 

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2009年9月 4日 (金)

「ほったらかし農園」のハーブ〈マロウ〉

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 休日に「ほったらかし農園」でトマトを収穫していたら、その脇でひっそりとマロウが咲いていました。

 マロウは和名をウスベニアオイというハーブの一種で、ご覧のように可憐な花を咲かせます。

 この花は、数年前に母が植えたもので、調べてみたら、ハーブだけに茎や花はお茶やサラダに、葉っぱは天ぷらにして食べることができるようです。しかし、そんなことをすっかり忘れ去ったまま、今年も夏が過ぎていく「ほったらかし農園」です。
 高いポテンシャルを秘めたマロウですが、彼女は密かに蝶や蜂たちを養うことで充足しているようにもみえます。でも、天ぷらにしたら意外と美味しいのかもしれません(^^;

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2009年9月 2日 (水)

「久遠生き通し」について

  私が生長の家に触れたばかりの中学生のころ、アメリカの光明思想家ロイ・ユージン・デーヴィス博士の書かれた『人間とは何か』(日本教文社刊)という本を読んだことがあった。


 そこには、「人間は未だかつて生まれたこともなく、死することもないのである」という言葉が書かれていた。それがどういう意味をもった言葉なのか、当時の私には判然としなかったが、なぜか心の琴線にふれて、30年以上経った今でも印象に残っている。


 谷口雅春先生〈生長の家創始者〉は、「人間は未だかつて女の子宮から生まれたことはない」と、深い比喩に満ちた言葉を説かれていたが、この「生まれたことはない」というコトバは、ディーヴィス博士の「未だかつて生まれたこともなく」というコトバと、同じ内容を指し示しているように思えるのである。


 つまり両者に共通するところは、真の人間は「現象界に生まれたことはない」と、いうことではないだろうか。

 
「生まれる」とは、現象世界での時間・空間上における営みである。


「生まれた」と見れば、生・老・病・死の現象が展開すると見えるのであり、そのことを仏教では、「大夢」(だいむ)と呼んでいる。つまり、「生まれた」と見える世界は、大きな夢を見ているようなものだ、ということである。


 悟る(覚る)とは、この大きな夢から覚めることにほかならない。


 つまり、「罪」も夢であり、「病」も夢であり、「死」も夢であり、そして「生まれた」ということも、また夢なのである。


 云うまでもなく、ここで言う「夢」とは、「無い」ものの別名のことである。つまり、生まれたり、死んだりするように見えているものは、それは真実在の「人間」ではなく、借りの相(すがた)に過ぎないのである。


 私たちの実相は、未だかつて一度も「生まれた」ことはなく、久遠のはじめから生き通しているのである。


 真実在の人間は、時間・空間上に現れたり、消えたりする影のような存在ではない。


 それは、はじめのはじめから「在る」のである。


 禅宗では、これを、


「父母未生以前の本来の面目」

と表現し、これに耳を澄ますことを、


「闇の夜に 鳴かぬ烏(カラス)の声聴けば 生まれぬ先の 父ぞ恋しき」

と歌っているのである。


 父母が生まれる以前とは、先祖が発生する以前の、ということであり、人類発生以前の、ということであり、地球発生以前の、ということであり、宇宙発生以前の、ということである。それが「久遠の今」(eternal now)ということである。


 時間・空間という現象とは無関係に、はじめのはじめから在り通すところの真実在の人間は、自性円満であり、完全円満なる神の生命であり、仏性そのものなのである。


 それは父母への感謝以前から、先祖への供養以前から、自性円満なのが真実在の人間であり、そのことが分かったとき、真実在なる父母に、ご先祖に、無条件に、満腔の感謝を捧げることができるのであり、これを「天地一切のものへの感謝」というのである。


 つまり、生長の家で言うところの「天地一切のものへの感謝」「父母への感謝」とは、相対的な感謝ではなく、真実在への「絶対感謝」なのである。それは、はじめのはじめから父母と、天地一切のものと大調和しており、天地の万物と一体(ひとつのいのち)であるところの、真実在(実相)なる自己の発見、ということにほかならないのである。


 これから感謝してから、供養してから、修行してから、研鑽してから、救われるのではなく、はじめのはじめから感謝のまっただ中で救われ切っている実相・神の子が、今ここにいるのである。その実相を見出したとき、絶対感謝となり、無条件感謝となるのである。


 はじめから救われており、宇宙未生以前のはじめから大感謝の中に生き通しているもの、それが真実在の貴方であり、人間神の子ということであり、山川草木国土悉皆成仏が現成する世界の消息である。


久都間 繁


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2009年9月 1日 (火)

「ほったらかし農園」のヒマワリ

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 ヒマワリが立派な花を咲かせました。

 一緒に花をながめていた中学1年の娘が、ふと思い出したように、彼女が飼っているハムちゃん(ジャンガリアンハムスター)の餌の食べカスを、かつてこっそり畑に捨てていたことを告白しました。花びらに穴が空いているのは、ハムちゃんが種をかじった痕跡だろうか…!
 ともあれヒマワリは自分の不遇な生い立ちなど気にすることなく、たんたんと「今」を明るく生きています。


 

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畑の向こうの小川に垂れ下がったゴーヤ
(これでは緑のカーテンになりません(^^;)


 

 

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「ほったらかし農園」に自生するヤマブキ


 


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この日(8月末日)の収穫です。
ゴーヤは翌日のおかずに。


 

 

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夕方、子どもたちと散歩に出たら、栗の実が落ちていました。
秋が、もうそこまで来ているのだろうか。

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2009年8月28日 (金)

夏の「ほったらかし農園」②

  農園などというのもおこがましい、猫の額ほど小さな「ほったからし農園」ですが、ほったらかしているだけに、それなりに豊かな生物多様性が(知らないうちに)実現しています(^^;
 
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クマバチが、カボチャの花から飛び出そうとしています。花の奥深くまで潜入しては、また次の花へと、8月のガンガン照りをものともせず、たくましく働いています。
 

 
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こちらはウリハムシ。キュウリやカボチャなど、ウリ科の野菜が大好物で、彼らは「ほったらかし農園」のことを邪魔者のいない天国のように思っていることでしょう。
 

 

 
Photo_3 このトゲトゲした実は、母がどこやらから拾ってきた種を植えたところ、ほんの半年ほどで花を咲かせ、今では木のように成長して、その枝に実ったものです。名前は分かりません。(どなたかご存じの方、これは何ものなのか教えてください)
 

 
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白いつぼみはキンカンの花。
 
Photo_5 こちらはキンカンの赤ちゃん。 
年が明けたころ甘く熟しますが、寒い季節になると森からハクビシンのような動物が出てきて半分ほどは食べられてしまいます。

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2009年8月25日 (火)

天に満ち、地に満ちて

 昨夜、眠りしなに内観しているとき、天地の万物はそのまま完全円満なる光りであるということに、あらためて気付かせていただいた。

 私たちは、力むことなくそのまま素直に天地の万物を拝ませていただくだけでいいのである。

 そのまま皆、完全円満なる神の子であり、そのままはじめから救われている。
 それが天地万物の実相である。その実相を素直に拝むだけでよかったのである。

 それ以外に近道も、回り道も、寄り道もなく、どの道を通ろうとも、どの道に迷い込もうとも、そこがそのまま天国浄土であり、真理への道であり、実相世界そのものの光りの中をあゆんでいるのである。

 私たちの内なる光りは天に満ち、地に満ちて、そのまま天地万物は救われており、そのまま極楽であり、そのまま此処が高天原であり、そのまま此処が仏国土であり、職場が、学校が、組織が、家庭が、天地の森羅万象が、そのまま実相浄土の聖なる輝きを放っているのである。

 

  久都間 繁

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2009年8月17日 (月)

夏の「ほったらかし農園」

 久都間家の「ほったらかし農園」を、少し紹介します。

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 畑なのか、藪なのか、それとも、ただ雑草が生い茂っているだけのか、よく分からないところが「ほったらかし農園」たるゆえんでもあります。


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 この細長いプチトマトは、「アイコトマト」という品種です。
 果実は6月から10月まで毎日収穫することができますし、雨に強く、無農薬でも病気にもかからず、害虫にも強いのが特徴です。


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グリーンカーテンのつもりですが、アイコトマト、中玉トマト、ゴーヤ、キュウリなどが混在しているので、うっかりしていると巨大に成長したキュウリやゴーヤがぶら下がっていることに後で気が付いたりします。もっと(忘れて)放っておくと果実が熟れて種が弾けている壮麗な光景を目撃することができます。(そのうちご紹介できることでしょう(^^;)

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これはシシトウ。収穫するのを忘れて真っ赤に色づいたころに、その存在に初めて気が付いたりします。
青いうちに収穫すれば最高のビールのおつまみになりますが、青いにもかかわらずときどき途轍もなく辛いものに当たることもしばしばで、これに懲りた子どもたちは、敬遠して触手を伸ばしません。

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 これは落花生です。職場の同僚で、『日時計日記』などの書籍の制作を担当している有馬勝輝さんに進められ、春に種を分けていただいて栽培をはじめてみました。順調に行けば秋には収穫できるかもしれません。


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なぜか藪蘭(ヤブラン)が勝手に生えています。
その向こうは小川で、雨が降ったときだけ水が流れます。

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蝶とゴーヤの花(しじみさんのように撮ったつもりが…(^^;)


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この日(8月某日)の収穫。
カボチャは植えてもいないのに勝手に実っていました。

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因果律を超えて

「因果律」とは、およそ現象界に存在するものの一切は、因・縁・果という過程を経て出現しているという世界観である。

 従って因果律とは、必然的に「時間」の範疇においてのみ成立するものであり、「時間」が存在しなければ、因果律もまた成立しないのである。

「時間」とは、即ち現象である。従って因果律によって現れる世界もまた、現象なのである。

「現象は無い!」ということは、即ち「時間・空間」の否定であり、「因果律」の否定である。

 それは、人間はこれから時間・空間の中で修行して、それから救われるのでは「ない!」ということである。

「人間・神の子」とは、因果律(修行や業の浄化)をもって成就するのではない。それは、「今・ここ」において、はじめから成就しているのである。

 従って、「唯神実相」ということと、「因果律」とは、実相において、はじめから両立しないのである。

「唯神実相」とは【在る】ものであり、「因果律」によって現れる世界は現象、つまり【無い】ものなのである。


 私たちは、今現在の状況がどんなに経済的に不如意な状態であろうとも、たとえ地獄のような三角関係の渦中にあろうとも、また、家庭も会社も組織も和気あいあいと大調和した最上の関係にあろうとも、それらの一切は「現象」である。

 私たちは、「今、ここ」において、はじめから「唯神実相」即ち、完全円満なる神の子なのである。


 繰り返すが、それは既に成就しているのであって、これから時間的な経過を経て成就するものではない。


「唯神実相」とは、「時間」の助けを一切必要とせずに成就しているものの消息である。


「人間・神の子」とは、修行した後に成就するような、遠い彼方の目標なのではなく、はじめのはじめから「今、ここ」に在るのである。

 人間は、先ず「神の子」であり、先ず「完全円満」なる「光り」なのである。


 だから、まず「神の子」であり、「完全円満」であり、「光り」であることを、私たちは「無条件」に悦んでいいのである。それが「手の舞い足の踏むところをしらず」という、人間そのままの悦びの相(すがた)である。


 全てに先立って、先ず「神の子」であり、「完全円満」であり、「光り」であることを悦ぶことが、「そのまま」ということであり、「はい!」ということであり、「ありがたい!」ということであり、「うれしい!」ということなのである。

 この悦びと感謝の念の中に、現象の一切が円満に成就するのである。これが生長の家で言うところの「唯心所現」(心の法則)である。


 縦の真理「唯神実相」を悦ぶことが先であり、現象は自ずから整うというのが「唯心所現」の横の真理である。

 だから私たちは、まず「神の子」であり「完全円満」であり「光り」であることを、誰にも遠慮することなく、無条件に悦んでいいのである。

 それが、因縁果という「業」を超え、悪業を善業へと転じ、人間・神の子の実相を成就する道なのである。


 こんな事を書いていると、故郷にいた十代のころ、生長の家の地方講師の方から聴いた、次の古歌が思い出されてくる――


 よろこべば よろこびごとが よろこんで
      よろこびつれて よろこびにくる


  久都間 繁

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2009年8月12日 (水)

「放ったらかし農園」のニガウリ

20090811


 昨夜、仕事から帰宅すると、いきなりこの大きなニガウリ(ゴーヤ)をガーンと目の前に見せつけられ、びっくりしました。
 これは、わが家の畑で採れたもので、しばらく畑のことを放ったらかしていたら、こんなになっていました(^^;

 ニガウリは、かれこれ7~8年前からグリーンカーテンと食用を兼ねて栽培しています。が、こんなにデカい(長い)のを見たのは初めてです!

 ちなみに、シブイ笑顔のモデルは末っ子のヒロムくん。
 ただ今、小学校1年生で、サッカーと虫取りに夢中です!

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2009年8月 9日 (日)

「世界平和の祈り」について

 80歳代と思われる男性の方から質問の手紙を頂きましたので、以下のような文章を書いて返信させていただきました。差し支えない範囲で紹介させていただきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 合掌、ありがとうございます。

 ご質問をお寄せ下さり、ありがとうございました。

 テレビのニュースや新聞報道などの世相に現れた、経済問題、犯罪の横行、政治問題、国家問題など、さまざまなことに大きな危惧の念を抱かれていることが、頂いた文面から伝わってきました。このようなことに心を留めて日々の生活を送っていたのでは、さぞや気苦労が絶えなかったことでしょう。

 これらの諸問題について、「生長の家ではどう思っておられるのでしょうか?」とのご質問ですが、まず基本に立ち返って、これらの問題について考えてみたいと思います。

 お手紙でもご紹介いただいたように、古くからの信徒であるというあなた様は、生長の家では「現象は心の影である」と教えられていることは、よくご存じのことと思います。これを「心の法則」とも、「三界唯心所現」とも呼んでいることもご承知のことでしょう。

 私たちがニュース報道などの影響から、人生や世相の暗黒面ばかり見ていますと、心の傾向として人生の暗黒面ばかりに注目するようになり、いよいよ不安が充満し、心労を重ねることになります。

 またその心の傾向が、次なる暗黒な現象を作り出す「種」(因)となって、人生にますます暗黒で不完全な現象が現れてまいります。これが「心の法則」です。

 また、これとは逆に、生長の家の原点である「日時計主義」に立ち返り、人生の光明面のみを見て、うれしいこと、楽しいこと、美しいことを心に留め、日々喜んで生活するようになると、人生に次から次へと光明なる世界、つまり健康、繁栄、調和などに満ちた喜ばしい出来事が実現してまいります。これもまた「心の法則」なのです。

 私たちの個人生活を救うためには、このように先ず人生の光明面のみを見て生きる「日時計主義」の生き方に徹した結果として、人生が光明化することはお分かりいただけるのではないかと思います。

 では、ご心配になっているように国家的な、国際的な諸問題については、私たちはどう対処すればいいのでしょうか。

 これについて生長の家の創始者谷口雅春先生は、2年ほど前に日本教文社から再版された新版『善と福との実現』の中で、次のように説かれていますので紹介させていただきます。

吾等が集団祈祷会を催さないと云うことは信心ある人の生活ではないと思う。同志よ、吾等生長の家の家族たちよ、同時一斉に神に対して祈ろうではないか。(中略)
私は日本の全ての問題も此の集団祈祷によって解決すると信ずるものである。ただ戦時中の神社の祈祷のように神官が単に大声でノリトを唱え、参列者は頭を下げて他の事を考えているようなやり方では駄目であるし、他国の犠牲に於いて自国のみが勝とうと云うような利己的な祈りでは駄目である。黙然に心を集中すること。神の前に全然無条件に自己を投げ出して自己が全然なくなり、神の智慧と愛とが自動的に働くそれに委せ切らなくてはならぬのである。(同書、318~319ページ)

 ここで谷口先生は、「私は日本の全ての問題も此の集団祈祷によって解決すると信ずるものである」とお説きくださっていますが、このお言葉を受けて、現在も信徒である私たちが毎朝実修しているのが神想観であり、その中で念ずる「世界平和の祈り」なのです。

 私たちが信仰者として世界の平和、日本の実相顕現を希うならば、まず早朝に神想観を実修し(全国の練成道場では5時10分から実修しています)、実相の完全円満なる大調和の世界を観じるとともに、「世界平和の祈り」を実修して祈念することが、「心の法則」の側面からみても、信仰者たるものの大切な務めになることと思います。

 もちろん、神想観に続いて聖経『甘露の法雨』を読誦していただき、その功徳によって多くの人々の実相が成就することも、合わせて祈念していただければと思います。

 また今日の日本に、まがりなりにも平和が実現し、飢餓や紛争といった非常事態に巻き込まれることなく生活できているのも、天皇陛下をはじめ、神界・霊界・現界からの多くの人々の深い祈りがあればこそ、このような平安を維持できているということも、宗教的な方面から観たひとつの真理なのです。

 ですから、これまでのご精進に加え、神想観および「世界平和の祈り」を、全国の皆さまと共に実修していただければ幸甚です。


久都間 繁

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2009年7月14日 (火)

神想観こそ功徳そのもの

 横山さんから質問をいただいておりましたので、回答をこちらに掲載します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

質問1
>>心とは、思ってはいけないと思えば思うほど、考えてしまい、ひっかてしまいます。その中から抜け出ようとと思うほど、どうにもならない。こんな心なんかなければよい、そんな自分がどうにもならない。身動きできない。


【回答】

「三界唯心所現」の心の法則については、『生命の實相』頭注版 第20巻の127ページからの(肉体および物質の否定 六)に、谷口雅春先生が詳しくお説きくださっています。

 ここには引用しませんので、ぜひご熟読いただければと思います。

 そのポイントだけを申し上げますと、心が変化することによって、悟って仏となり、迷って衆生となるような、「心、仏、衆生三無差別」の心というものは本来無い。ただ初めから仏であり、神である「実相の心」があるだけである。その実相の心が展開した実相の天地があるだけである、ということが詳述されています。

 生長の家の唯神実相哲学の根本が説かれていますので、お時間があれば「自傳篇」全体を通読(再読)なさると、より一層理解が深まることと思います。


 身動きできなくなるのは、無いものを、有ると思って握ってしまうから。
 手を放してしまえば、自由自在です。


 無いもののことを「現象」と言います。
 本当に在るものは「実相」のみです。
 「実相」のみを相手にすれば、身動きできるようになります。


質問2~4
>>私たちは現象から実相を観ようとしていること、このことが一番の問題ではないか?

>>やはり神想観を真剣にやりたい。その真剣とは、自力では。


【回答】

 重要なところに気が付かれましたね。

 神想観において、「吾れ今、五感の世界を去って実相の世界に入る」とは、そのことを意味しています。

 現象は実在ではありませんから、現象の基準や尺度で実相を推し量ることは、「針の穴から天上を覗く」の喩えのようなもので、実相世界そのものを捉えることはできません。

 生長の家では、神想観という素晴らしい行法を授けられているのですから、ひたすら、うまずたゆまず毎日実修すれば、誰でも必ず実相覚が開けてきますので、ぜひお続けになってください。


 また、神想観は自力か、他力かとのことですが、生長の家の信仰は絶対他力の信仰であると教えられています。

 絶対他力の信仰とは、神の外にあるものなし、仏の外にあるものなし、つまり神のみ、仏のみが真実の実在であり、その善一元の生命のみが今ここに(全実在宇宙に満ちて)存在しているという教えです。


 今ここに、貴方となって、森羅万象となって、完全円満なる神が、仏が、活きているのであり、それが実相です。

 
 不完全に見えるのは、心の影であり、そのような現象は本来無いのです。

 神想観を通して実相のみ、神のみ、仏のみを観じるのが「縦の真理」の実践であり、実生活においては人生の光明面(真象)のみを積極的に相手にしていくのが生長の家の信仰です。

 その結果(三界唯心所現)として、一切の現象が整うというのが「横の真理」です。


 現象をキレイに整えてから実相が現れるのではなく、現象がどんなにぐずぐずに崩れていても、円満完全なる実相に飛び込んで、ひたすら(まっしぐらに実相を観じて)悦んで生きていれば、現象が成就する(真象が現れる)のです。

 これが神想観の功徳です。

 また、神想観それ自体が、実は最良の功徳(実相の体感)そのものなのです。

    久都間 繁

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2009年7月 4日 (土)

耳を傾けること

 私は結婚して今年で21年目になる。

 その間、仕事の関係で関西と東京で生活してきたが、かつて残業が続いて一週間も子どもと会話をしていないことが、ときどきあった。

 そんなとき、なんとなく子どもたちの心が離れてしまったことが分かるものだ。

 彼らの態度が妙によそよそしくなり、“お父さんなんか居てもいなくても全然関係ない”といった世界に住み始め、努めて会話を試みてはみるものの、どうも取り付く島もないような状態になってしまうものだ。

 これは多くのお父さんのみならず、忙しく働いているお母さん方も、ときに感じることがあるかもしれない。

 こんなとき、それぞれの家庭では、コミュニケーション不足を補うための、いろいろな工夫が為されていることだろうと思う。

 わが家でも、子どもが幼いころは、努めて早く帰宅して抱きしめたり一緒に風呂に入ったり、休みの日に野山を散策したり、即興でつくった物語りを聞かせて大笑いさせながら一緒に眠ったり、いろいろな工夫をして心を通わせたものだ。

 しかし子どもが中・高生になると、これらの方法が功を奏しなくなる。ことにきょうだいが多い(わが家は4人)場合は、どうしても行き届かないことも出てきたりする。

 身も心も大人へと成長しつつあるこの時期の子どもにとって、実はこれからがいよいよ大人の経験や知恵を必要とする、大切な時期なのだ。

 さて、皆さんはどのようにしてこの時期を乗り越えているのだろうか。


 放っておくことも一つの手かもしれない――


 しかし、つい先月、娘の通う中学校の生徒が、メモに親への感謝の言葉を書き遺し、誰にも告げずに、誰にも相談することなく、イジメなどのハッキリした理由もないのに自殺してしまうというショッキングな事件があった。

 子供が一人で、黙って死を選ぶ、彼にどんな孤独や、辛い思いがあったのかは、今となっては知るよしもない。が、放っておけば雑草が蔓延(はびこ)り荒れ果てるのは、人の心も同じなのかもしれない。

 この事件を機に、私は、あらためて親子間のコミュニケーションについて考えさせられた。


 もしかしたら皆さんの参考にもなるかもしれないので、わが家で始めたささやかな工夫の一つを紹介させていただこうと思う。

 それは至って簡単なことである。

「子供からの問い掛けに、耳を傾けること。そして一緒に答えを探してあげること」

 これに尽きるのではないかと思った。そして、とても大切なことは、先の言葉の前に、

「どんなに忙しいときでも――」

 という一句を添えて実践することだ。

 そうすれば、もし子どもたちが自殺したくなってたとしても、どこかでその信号をキャッチする機会が生まれるはずである。また、それ以前に、親子間の深い信頼関係を構築できることが、何よりも重要なことなのだ。

 それは、「どんなに忙しくても、あなたのことを第一に考えているんだよ!」という親から子への、明確なメッセージをもって生活することになるからだ。

 しかし簡単なことのようでいて、これを実践するには「親の側」に、意外なほどの心的努力が要る。

 ついつい、

「今、忙しいから!」
「今、仕事をしているから!」
「今はダメだから!」

と、言ってしまうのだ!

 心ならずもそんなことが何回か重なれば、もう子どもたちの脳裏にひらめいた宝石のような問い掛けは、どこか空の彼方へと消し飛んでしまうかもしれない。
(かく云う私も、どれほど宝石を扱い損ねてきたことか(^^;)

 しかし、私たちの人生の中で「子育て」の時期というのは、意外なほど短いということも忘れてはならない。

 ことに小学生から中・高生にかけての多感な時期は、彼らの長い人生の中のほんの数年にすぎず、この大切な時期を逃したら、よほどのことがない限り、彼らは私たちに対して自由に心を開いて問い掛けることを、あきらめてしまうかもしれないのだ――


 
――でもご安心いただきたい。

 たとえどんなに「手遅れになった!」と見えたとしても、

「彼らからの問い掛けに真摯に耳を傾けること。そして一緒に答えを探してあげること――」

 人生で出会う全ての人のことを祈りながら、この時の来るを待ち続けていれば、成人したわが子のみならず、どのような大人でも、やがて天来のタイミング(導きのとき)が必ず訪れるのである。

 そのときが、彼らが心を開き、彼らと心を通わせることのできる、神様に導かれた時節なのである。

 ただし子供のときと比べて、たっぷり待たされるかもしれない!


 しかし、私たちには永遠の生命が宿っているのだから、なにもあせる必要はない。

 祈りつつ、ご縁ある人たちの魂の成熟を待つ時間くらい、この広大な宇宙のいとなみと比べたら、ほんの一瞬なのだ。

 しかしその一瞬の内に、人間・神の子の神性・仏性が芽生え、生長して華を開き、やがて「実相」の実を結ぶのである。


  久都間 繁


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2009年6月27日 (土)

仏の四無量心について

 本日、本欄の読者のYさんから質問のメールをいただきました。
 回答をこちらに掲載します。

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Yさんからの質問
心という言葉は『甘露の法雨』にもたくさんでてきますが、この心をどうすることもできないのが現実の世界です。
真象であればよいが、偽象が現れた時には、やはりいろいろと迷いますし困惑もします。

そんな心をすべて無しと、打ち消したのが生長の家の教えなれば、ただ神さまの世界のみを肯定し、その実相そのものを味わうというか、悟るというか、喜ぶということも、やはり「心」ではないのでしょか?

先生の云われる歓喜とは、われわれのよろこびとはちがうのかもしれませんが。(現象的喜び)

時間空間がすぎてしまえばなくなるもの、それは、絶対的なものでもない。「肉体もなし」と打ち切っています。では「心」とは、神さまが作られたものなのでしょうか?


質問への回答


「心」についての質問をありがとうございました。
生長の家の聖経『甘露の法雨』には、


完全なる神の
『心』動き出でてコトバとなれば
一切の現象展開して万物成る。万物はこれ神の心、
万物はこれ神のコトバ、
すべてはこれ霊、
すべてはこれ心、
物質にて成るもの一つもなし。


 と書かれていますが、ここに説かれているの「心」は、「神の心」のことです。つまりそれは「実在の心」であり、完全円満なる「実相の心」とも云うべきものです。

 この「心」のことを、キリスト教の『聖書』などでは「御意(みこころ)」と表現し、仏教では「仏心」や「仏性」とも呼んでいます。

 一方、生長の家で「心も無し」と否定してしまうところの「心」とは、「現象の心」のことで、「実相の心」や「仏心」のことではありません。

 先に引用した『甘露の法雨』の文章は、次のように続いています。


物質はただ心の影、
影を見て実在と見るものはこれ迷(まよい)。
汝ら心して迷に捉わるることなかれ。


「影を見て実在と見る」それが、現象に惑わされた「心」です。
つまり、影のように現れては消える現象を、「有り」として、それを追いかけて掴んで放さない「迷いの心」のことです。

 聖経には、この心のことを「無明」と書いて、「まよい」と仮名をふって読んでいます。

 天理教祖は、この心の働きのことを次のように表現しています。

「惜しい、欲しい、可愛いと、欲と傲慢、これが埃(ほこり)や」と。

 普段私たちが「心」と認めているのは、この「迷いの心」である場合が多いのです。

 では、あらためて実相の心、真実の心、実在の心とは何かと云えば、それは、「神そのもの」の命の響き(コトバ)であり、「仏そのもの」の命のことなのです。

『観無量壽経』には、「仏の心」について、「仏心とは四無量心是なり」と説かれています。

 四無量心とは、慈、悲、喜、捨のことで、「無量」とは、「量が無い」つまり「無限である」ということです。

 衆生の悩み悲しみを見て慈しむこと無限であり、同悲の心をもって苦を除くこと無限であり、人の悦びをともに歓喜すること無限であり、執着を解き放ち一切を束縛から解放すること無限である、これが「仏心」です。

 この「仏心」こそが、私たちの「本心」(実相の心)なのです。

 ですから、現象的に金が儲かった、執着していた人や物や事が手に入った、というところから来る「求めるよろこび」と、「仏心」(実相の心)から来る「慈しみ与えるよろこび」とは、根本的に異なるのです。

 前者は「無い」よろこび、であり、後者は「実在する」よろこびなのです。

 この「仏心」そのものに生かされて生きることが、「救われる」ことに当たります。

 その「仏心」(神の御心)の中にこそ、私たちがこの世に生を受けたところの本当の「使命」があり、それを生きたとき、「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」というような真の生き甲斐やよろこびを見出すことができるのです。

 なぜなら、私たちの実相は、自性円満なる「神性」「仏性」そのものなのですから。


 
 とり急ぎ書いたので説明としては不十分かもしれませんが、質問があればブログかメールにまたお寄せください。


  久都間 繁


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