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2005年9月20日 (火)

ニューソート(4)

(4) ニューソートの原理の宣言

 さて、少し遠回りをしてしまったが、『ニューソート その系譜と現代的意義』の著者ラーソンは、ニューソートの教会や各派によって出版された、手に入るすべての信仰宣言を研究した結果、彼らの思想と行動の基盤に大きな共通性のあることを見出し、それを「ニューソートの原理の宣言」として次のように要約した。

 一読すると、それがいかに生長の家の光明思想と共通したものであり、世界の各宗教における「共通部分」にみられたような、「究極的実在(実在者)」を中心とした普遍的な視座に立脚していることに気づかれることであろう。ドグマから解放された教えは、すべては「善なる神」において、一つなる真理に帰するようである。

「人間は、分離不可能の一なるものにおける神の本質の、個別化された表現である。したがって人間は、その身体、感情、そしてすべての活動において、完全になるための無限の可能性をもつ。
   すべての人間がこの神の本質の一部であるからには、彼らは普遍的兄弟関係を構成しており、相互に平和に調和して生きることを学ぶべきであり、またそれが可能である。
 この神の本質は人類において健康、智慧、生命、真理、美、喜び、幸福、繁栄として自分自身を表現する。
 一人ひとりの人間は神の本質が具体化したものであるから、各人は自己を大いに価値ある存在と見做すべきである。」 (『ニューソート―その系譜と現代的意義』521頁)

 ニューソートでは、神の本質とは、「健康、智慧、生命、真理、美、喜び、幸福、繁栄」であり、人間は神の本質が具体化したものであるから、そのままで価値ある存在であるという。また、人間は、「神の本質」を表現すること(つまり愛すること)がその本来の役割であるとするなど、これらの言葉は、生長の家の「人間は神の子である」との教えと、同質の真理を語っていると言えよう。

「キリストは万人のためにある普遍的な力であり、誰でも自分がそうすることに専念する度合いに応じてこの力に与ることができる。
  イエスは、このキリストの霊を途方もなく多く吸収した、偉大なる「道を示す者」にして模範者であった。それゆえイエスは彼の使命、すなわち人類に豊かな人生への道を示す力を与えられた。
 これがイエスの使命であったのだから、各人は今ここで健康、幸福、繁栄を達成することにおいて、その偉大なる善を探求すべきである。」 (同書、520~521頁)

 キリスト教の「ヨハネ黙示録」に、イエス・キリストの再臨ということが記述されているが、ニューソートでは、それは単にイエスが肉体的に蘇生することを意味するのではなく、万人の内に「神の本質が具体化」すること、つまり万人の内にキリスト(実在者)が再臨することを意味している。

 たとえばディヴァイン・サイエンスでは、キリストの「再臨」について次のように説明している。「(再臨とは)つねに存在するものが露わになるという『救済』そのものなのである。二度目の出現ないし来臨とは遍在する生命、愛、叡智、実体を求めることである・・・・。人間が、自分が真理であり、神が肉となって顕れているということを見出すとき、人間は自分がキリストであることを、またキリストが再臨したことを知るのである」(同書、331頁)。つまりキリストは、私たち一人ひとりの内に、すでに「再臨」しているのである。

 またニューソートでは、キリストとは、それは単なる固有名詞ではなく、「万人のためにある普遍的力」と定義している。これは正統な教会に所属しなければ救済されない、あるいはキリスト信徒でなければ救われない、といったような、キリスト教の伝統的な教義を超えたところに、キリスト(実在者)をとらえている、ということである。

 さらにイエスとは、この普遍的力(キリスト)の体現者であり、偉大なる「道を示す者」であるとするなど、メタファーとしてイエスの存在が認識されているため、彼らの思想は「原理主義」とは完全に一線を画しているといえよう。

「われわれは、それが見出されうるところではどこででも、真理を探究すべきである。われわれは差し出されたさまざまな「真理」を吟味・分析し、個人的要求を充たし、われわれ自身のガイドとして役立つもののみを受け入れるべきである。」   (同書、522頁)                   

「それが見出されうる」ところの「それ」とは、キリスト(実在者)のことである。ニューソートでは、宗派や教派にこだわることなく、さまざまな「真理」を吟味・分析して、キリスト(実在者)に至るためのガイドとして役立てることが推奨されている。つまり、「真理」とは、キリスト(実在者)に至るための、「ガイド」にすぎないのであり、それが見出されるのであればどこででも真理を探究せよ、大切なのはその教えがわれわれ自身の「ガイドとして役立つ」か否かということであり、「真理」の字面そのものに価値があるのではない、という極めて実践的な求道のスタイルなのである。

「神の本質から、人間と全被造物への神的流入があり、それは普遍的幸福の基礎としての役割を果たす。
 この神的流入ないし知性は、宇宙のあらゆる部分にわたって、いっさいの物質的、また霊的顕現の中に現存する。
 聖書は神の聖言であるが、霊的解釈をとおしてのみ正しく理解されうる。」(同書、522頁)

「人間と全被造物への神的流入」とは、イスラム教のバスターミーの体感した「神の愛」、ユダヤ教のクレカサスが説いた「最高の善性たる神と流出せる善性としての世界」、そしてヒンドゥー教のダードゥーが説いた、神の「喜びの流出」と符合している。これらは、それぞれの宗教に現れた、一つなる神の〝共通部分〟なのである。

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