ニューソート(2)
(2) ニューソート同盟―自発的なコペルニクス的転換
ニューソートには、クリスチャン・サイエンス、ディヴァイン・サイエンス教会、レリジャス・サイエンス、ユニティリアン派、ユニティ派、などの諸団体が知られているが、現在これらを統轄する団体が、米国アリゾナ州スコッツデールに本部をおく「国際ニューソート同盟」(International New Thought Alliance ; INTA)である。
INTAは、「国際ディヴァイン・サイエンス連合会」(1892年設立)、「国際形而上学連盟」(1900年設立)などが連合して、1915年にセント・ルイスで行われた大会で、同連盟の名称として「ニューソート」を採択して設立され、正式に法人化した。翌、1916年にINTAの最初の定期大会がサンフランシスコで開催されて以来、2回の例外を除いて、毎年定期大会が開催されている。ちなみに今年、2005年には第90回大会が、7月19日~23日にかけてアリゾナのスコッツデールで開催されてた。
INTAの趣旨を要約すると、「霊的に成熟した積極的な生き方を展開し実践することを欲する個人や団体」のための、自由な開かれた同盟ということである。またINTAは、年間を通じて活動しており、その内容は、ニューソート系の形而上学関係の学校、教会、センターが協力しあえるように援助するというもので、特定の団体の教理や、教派的儀式などに偏することなく、政治的、社会的、経済的な領域では、いずれか特定のグループを認可することもなく、1915年の設立以来、INTAは超宗教的な方針を堅持しているようだ。
ラーソンはニューソートの運動について次のように述べている。
「ニューソートとは成長、発展、永久の進歩の同義語である。それは限界を取り扱わない。それは霊魂の進歩に限界を設けない。なぜならそれは、一つ一つの霊魂の中に無限の超越的機能をみるからである。
ニューソートは一つの不変の理想、すなわち永遠の真理の探究という理想をもっている、と言えよう。ニューソートの信者は、そのうちにわれわれが生き、存在している、全能の神、内在する神を礼拝する。」 (『ニューソート―その系譜と現代的意義』506頁)
1954年にINTAが採択した同連盟の「方針の声明」には、伝統的キリスト教的ドグマから解放された喜びが、高らかに歌い上げられている。
「われわれは神と人との分離不可能の一体性を確信する。その認識は霊的直感を通してなされる。これが暗に意味するものは、人はその身体、感情、すべての外的状況において、神的な完全性を再生産しうる、ということである。
われわれは、各人が信仰に関して自由であることを確信する。
われわれは、善が至高、普遍的、永遠であることを確信する。
われわれは、天国がわれわれのうちにあること、われわれが父と一つであること、互いに愛し合い、善をもって悪に報いるべきことを確信する。
われわれは、祈りをとおして病人を癒すべきこと、「われわれの天の父が完全であるように」完全性を顕示するよう努力すべきことを確信する。
われわれは、その中でわれわれが生き、活動し、存在する普遍的な智慧、愛、生命、真理、力、平和、美、喜びとしての神への信仰を確信する。
われわれは、創造的な因果の法則によってわれわれの肯定的な精神状態が顕現し、われわれの経験となることを確信する。
われわれは、われわれをとおして自己実現をしている神性が健康、供給、智慧、愛、生命、真理、力、平和、美、喜びとしてそれ自身を顕示することを確信する。
われわれは、宇宙が神の身体であり、本質において霊的であり、物質的にみえるときでさえも実際は霊的である一つの法則をとおして神によって統治されていることを確信する。」 (同書、507~508頁)
この「方針」が宗教的確信に満ちた言葉で綴られているのは、スウェデンボルグ以来受け継がれてきた「善なる神」への堅信、人間が神と一つであることへの喜び、そして彼らが愛をもって取り組んできた数々の治病など神癒の体験が、生きた実証として表明されているといえよう。
このような生き生きとした教えを説くニューソート系の教会には、牧師としてさまざまな伝統的神学校の出身者も数多く集まっているという。その理由として挙げられるのは、伝統的キリスト教会が、彼らの霊的要求を満たすことができなかったこと、原理主義的な教義への閉塞感などが要因となり、ニューソート系教会で説かれる教えに魅力を感じて改宗へと踏み切るケースが多いようだ。
また、ニューソートの信徒となった人々も、自分たちが育った伝統的な宗教組織に失望したり、自分たちの抱いた疑問に満足な回答が得られなかった、個人的な悩みに助けが得られなかった、教会の教義による非難や罪悪感に苦しんだ、信仰への無益感、無価値感、拒絶感などが多くの入信の動機となっているという。
このことを鑑みると、ニューソートが果たしたひとつの重要な役割は、伝統的なキリスト教のドグマから、多くのキリスト教徒を解放した、ということにあるのかもしれない。
たとえば、ジョン・ヒックの提唱した「宗教多元主義」では、20世紀後半に突如として英国に到来した多くの移民たちによる多民族、多宗教、多文化という多様性に満ちた社会的状況に、キリスト教徒が誠意を持って対応する形で「宗教多元主義」の哲学が発達してきた。
これは、外的状況の変化に、やむをえず対応する形での外発的なキリスト教ドグマからの脱却というコースをたどっていた。しかし、ニューソートにおいては、まずキリスト教徒自身による内的な営みとして、それはスウェデンボルグやエマソンという偉大な先覚者たちに触発された“霊性の目覚め”による、いわば内的自覚に後押しされての、キリスト教ドグマからの自発的な脱却ということが実践されていたのである。
ヒックは、「宗教多元主義」の基本テーゼとして、伝統的なキリスト教中心のドグマから、究極的実在(実在者)中心へのコペルニクス的転換ということを説いていたが、ニューソートの指導者たちは、すでにこの地点に達したスウェデンボルグなどの先覚者に導かれた視座から、伝統的キリスト教ドグマの矛盾した相が、ありありと神の光に照らし出され崩壊していく様を見たのである。「真理は汝を自由ならしめん」というイエスの言葉があるが、ニューソートの運動は、真理をもって、キリスト教をその教義から、自由ならしめることに成功していると言えよう。
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