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2005年10月30日 (日)

ヒンドゥー教(2)

(2) ヒンドゥー教のメッセージ――神への道は多数ある

 セーンの著した『ヒンドゥー教』によると、ブラフマンという唯一神にいたるためのアプローチの仕方は、同教では形式や教義にとらわれない多様性にみちたものであることが紹介されている。

 ヒンドゥー教の特徴を的確に捉えた一節を紹介しよう。

『 神の礼拝に関するかぎり、ヒンドゥー教はまったく自由である。信徒は、行為(カルマ)、瞑想と知識(ジュニャーナ)、信愛(バクティ)のいずれによって神に近づいてもよく、すべて等しく正しいとされる。儀礼の実施の細かい点も、ちょうど信仰の細部が人によって違っているように互いに違っている。ヒンドゥー教は、神への唯一の道をもたないからそれも当然のことである。(中略)

  神についての観念が一見矛盾しているようにみえるのは、実は同じ最高実在が無限な姿をもっているということを意味することにほかならない。ヒンドゥー教は、宗派の間の形而上学的教義の相違が、すでに認められている根本的な行動規範の発展を少しも妨げるものではないと言明している。ヒンドゥー教を信じている人間にとって重要なことは、必ずしも彼の宗教ではなく、彼のダルマである。(『ヒンドゥー教』52~53頁)』

「同じ最高実在が無限な姿をもっている」という宗教観をもつヒンドゥーの人々にとって、「宗派」「教義」といった形態は必ずしも重要なものではなく、彼らの心の眼差しはそれぞれの「ダルマ」そのものへと向けられているのだ。

 ダルマとは、仏教的な表現をとれば、仏陀の悟った絶対かつ普遍の真理のことを意味している。

 キリスト教、イスラム教、ユダヤ教など「啓典の民」といわれている世界宗教が、「宗派の間の形而上学的教義の相違」が原因で、これまでの歴史を通じておびただしい血を流してきたことはニューソートのところで紹介したが、記録に残された〝神の言葉〟とされる「教義」を唯一の真理とこだわるが故に、啓典の宗教は必然的に「原理主義」へと発展する可能性を持つのである。

 そもそも「啓典」とは、ある時代に文字盤や書物に記された文字による記録なのである。どのような尊いものであったとしても、形(現象)に捉われれば、敬虔なる信仰が“聖なる憎悪”へと姿を変えることを、彼らの歴史は教えているのではないだろうか。

 一方、ヒンドゥー教にとって重要なものは「聖典」ではなく、目に見えない「真理(法)」なのである。

 彼らの伝統は、このような「原理主義」的問題の扱い方を、5千年という途方もない宗教経験の中で心得てきたのかもしれない。

 すでに述べたように、ヒンドゥー教には、よりどころとなる「唯一絶対の『聖典』」というものがない。また、達磨大師によってインドから中国そして日本へともたらされた禅宗も、「不立文字」として現象的な信仰対象の一切を「無!」と際断している。

 東洋の最良の叡智が、さまざまな時代に泉のように湧出して、再評価される所以もここにあるといえよう。

 信仰とは、書物に記された「教義」を盲目的に信奉することではなく、実在するものと、実在せざるもの(非実在)とを、生きた智慧の眼をもって見極めることだと、ヒンドゥーの智慧は語っているようである。

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