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2005年10月29日 (土)

ヒンドゥー教(1)

(1) ウパニッシャド「お前は、それである」

 ヒンドゥーという名称は、かつて大英帝国側がインドを植民地としていた時代に、インド土着の民族宗教を包括的に示す名称として、古代ペルシアで呼ばれていたヒンドゥー〈インダス側流域で対岸(シンドの反対側)に住む人々〉という言葉を採用したことから広く普及した。

 したがって、ヒンドゥー教という名前の宗教が初めから存在していたわけではない。

 ヒンドゥー教はおよそ5千年もの長期にわたり、インドに発生した宗教を吸収して同化しつつ、複合体として発展してきた教えである。

 したがって、ヒンドゥー教には、キリスト教やイスラム教のように開祖となる人物は存在しない。また、その聖典としては、「ヴェーダ」「ウパニッシャド」「バガヴァッド・ギーター」「マハーバーラタ」「プラーナ」などが存在しているが、これらは何れも、教義に関する宗教的な論争などが発生した際に、キリスト教の『聖書』や、イスラム教の『コーラン』のような、“よりどころ”となる、唯一絶対の聖典とはならない。

 しかし、ヒンドゥー教思想においても各派を貫いて共通する基本的な思想があり、たとえば前800年ごろに成立した「ウパニッシャド」には、ブラフマンBrahman(梵)とアートマンAtman(真我)という概念が説かれ、これをめぐっての教説がヒンドゥー思想の基本概念を形成している。

 たとえば、ブラフマンとは宇宙に遍在する「神」であり、またアートマンは「個我」を意味している。ウパニッシャドでは、ブラフマンとアートマンとは同一であるという同一説(梵我一如説)が説かれ、

「最高実在はすべての霊魂のなかに自己を顕現する」

とされ、これを端的に「お前は、それである。(tat tvam asi)」と、表現している。

 最高実在であるブラフマンとは、即ち「究極的実在(実在者)」のことである。

 たとえばインド史上最高の哲学者ともいわれているシャンカラ(700頃~750頃)は、宇宙にはブラフマンのみが存在し、それは各個人の内なるアートマンとまったく同一(不二)であり、アートマンから展開している現象世界は幻影(マーヤー maya)であって実在ではない、という「不二一元論」の哲学にまで高めた。

 この哲学は仏教における「三界唯心所現」の哲学と符号するところが多く、考察の対象としても資するところの多い思想であるが、本稿での紹介はこのくらいにして、「不二一元論」についての詳細は井筒俊彦氏が遺された画期的な論文「マーヤー的世界認識―不二一元論的ヴェーダーンタの思惟構造をめぐって」(『超越のことば―イスラーム・ユダヤ哲学における神と人』岩波書店刊に収録)を参考にしていただきたい。

 さて、ヒンドゥー教の思想を概観すると、このブラフマンに至るには、およそ三つの道が開かれている。

 一つは、瞑想や思索による①「知識による道(ジュニャーナ・マールガ)」。

 もう一つは、祭式などによる②「行為による道(カルマ・マールガ)」。

 そして、ひたむきに信仰を捧げる③「信愛の道(バクティ・マールガ)」である。

 シャンカラの思想に連なる哲学的学派は①ジュニャーナ・マールガであり、本稿で紹介させていただくのは③バクティ・マールガの系譜である。

 ブラフマンにいたる三つの道について、インドの宗教史・精神史研究の権威でタゴール国際大学学長を務めたクシティ・モーハン・セーン(1880~1960)は、著書『ヒンドゥー教―インド3000年の生き方・考え方』の中で次のように説明している。

『神を礼拝するさまざまな方法が併存しているために、ヒンドゥー教は多神教であるとする、ヨーロッパでよくみられる誤解が生じた。もしブラフマンの教義の理解を欠いていたとすれば、これは確かに陥りやすい誤解である。というのは、一般に行われているヒンドゥー教では、神はさまざまな姿で礼拝されるからである。ヒンドゥー教徒は、自分の属する階層の社会的伝統に従って神話のなかのある特定の神に特別な愛着を示し、それを通して真なる神を礼拝する。この「名もなきもの」「形なきもの」は種々の名で呼ばれ、さまざまな姿が与えられる。しかし、彼が「唯一者」であることを忘れてはならないのである。(同書、23頁)』

 ヒンドゥー教では、自分たちの属するカーストの社会的伝統に由来する神様(ヴィシュヌ神、シヴァ神など)を通して、「真なる神」である「唯一者」(ブラフマン)を礼拝するという。つまりヒンドゥー教では、一般の民衆レベルでも、ブラフマンを究極的実在(実在者)として認識していた、ということであろう。

 考えてみれば、私たち日本人も、神社での初詣などを通して、はじめからこの「名もなきもの」を礼拝していたのではなかったか。ただし、ヒンドゥー教にしても日本の祭事にしても、庶民における神観念が、どこまで正確に「究極的実在」を捉えていたのかは定かではないが―。

引用文献

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