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2006年6月16日 (金)

 「イスラーム神学」―ガザーリーにおける理性と信仰(2)

 「外面的」信仰を超えて

 ガザーリーは、若い頃から、社会的に固定した、伝統的な宗教に対して疑問を抱いていた。

 たとえばイスラム教徒の子供がイスラム教徒になるのは、その子が選んでそうなるのではなく、物心つかぬうちから周りの環境によってそうなるのであり、このことはユダヤ教にしてもキリスト教にしても全く同じことだという。また、これらの信仰者は父母から伝えられ教えられたことをそのまま鵜呑みにして満足しているが、これは外から来たものであって、その人の意志で自発的に見出したものではないから、それは本当の信仰ではない、というのである。

 これについて井筒氏は次のように述べている。

〈一般の人々は、自分の父や母やその他教師の権威を疑わないので、それらの者が教えてくれたことをそのまま信じるのである。この種の信仰は極めて強力である。が、その強さは決して信仰そのものの強さではなくて、全て権威をもって上から臨む者に対する盲目的従順の一徹な頑固さから来るものに過ぎぬ。それは外面から押しつけられた信仰である。その信仰は、自己の無力の絶壁に立たせられた絶体絶命の精神が一挙にして飛入する法悦の宗教的体験とは非常に縁の遠い世界である。このようなものは誰でもその環境に生まれさえすれば足りる信仰であって、絶対不動の信仰とは称し難い。大衆の信仰はこれでよい。しかしそれは飽くまで、真の信仰ではないのである。〉 (『イスラーム思想史』一四七~一四八頁)

 ガザーリーにおいては、宗教における「中心的真理」と、民族思想の影響を受けた「周縁的部分」との違いが、鮮やかに分けられていたようである。

 神ならざる民族思想によってつくられた権威を盲信する信仰、それがどんなに一徹で頑固なものであったとしても、このような「外面的」な信仰は「真の信仰ではない」と退けている。

 同時にこの矛先は、そのまま当時の神学者(や過去の自分の思想)に対しても向けられる。

 井筒氏の叙述を引用しよう。
 

〈弁証にもとづく思弁神学による信仰もまた、外面的である点において、大衆の盲目的信仰と何ら選ぶところはないのである。論理的な証明は決して人間をその根源から揺り動かし、突如として全く新しい人間を誕生させるあの絶対的な体験の如く内面的なものではない。勿論、合理的に受容されたものは、大衆の信仰のように単に偉い人がこう言ったからこうに違いないという盲従的性質のものであるのと比較すれば、強力ではあるかもしれないが、しかも信仰の性質においては少しも違わないのである。(中略)
「通常信仰と称しているものは実は二種類あって、一は大衆の信仰、すなわち他人から聞いたままを信じ、これに固執するものであり、もう一方は胸が拡がることによって始めて生ずる主観的信仰である」。この胸の拡がる(inshirah al-qalb)ことによってのみ得られる信仰こそ、真の信仰なのである。〉  (同書、一四八~一四九頁)

 なぜ外面的であることがいけないのか。

 外面的とは、「信」の根拠を、現象界においた信仰であるからである。

 現象界に表現された形式や概念には「実在者」なる神は存在しない。現象への盲信が深まれば深まるほど、「実在者」への道はどんどん遠ざかる。ガザーリーにおいては、このような信仰の構造が明確に捉えられていたといえよう。

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