「イスラーム神学」―ガザーリーにおける理性と信仰(3)
ガザーリーにおける「神への愛」
ガザーリーの章をまとめるにあたり、彼の「神への愛」の説を紹介しなければならない。
〈人間は彼が回教徒であるかキリスト教徒であるか、ユダヤ教徒であるかバラモン教徒であるかによってではなく、ただ彼が人間であるその一事をもって宗教的存在なのである。人間の内部には野獣的なものや悪魔的なものがあると同時に、また神的なものも存在している。この神と人間に一脈通ずるものがなくて、どうして宗教があり得ようか。〉 (『イスラーム思想史』一五五頁)
要約すれば、信仰とは、「神と人間に一脈通ずる」ものを信じるということである。これは、いかなる宗派も、またいかなる時代をも超えて変わることのない、基本的な信仰のスタイルである。
〈ここまで考えてくると、人は自分が心の限りを尽くして神を愛さねばならないことを悟るであろう。人は神のみを愛さなくてはならぬ。全ての人間を、全ての物を、神において、神を通して愛さねばならぬ。いや、寧ろ我々は、自分の子供、親類、友人、全て善いもの、美しいもの、完全なるものに対する我々の愛の心を、神への愛として体験しなければならないのである。人間は、このような至高の愛においてのみ、全てのものを限りなく愛することができる。〉 (同書、一五六頁)
私たちの周りにある全てのものを「神への愛として体験」するとは、裏返せば、全てが神であり、全てが神の愛の表れである、ということである。ガザーリーは、このようなところに「至高の愛」なるものを見出していた。
日本語に「もったいない」という言葉があるが、生長の家の教えでは、このことの意味を「物体はない」つまり、万物は「物質ではない」と教えていただいている。
つまりこの世には、物質のような死物などひとつもなく、全ては仏物である、つまり全てのものは仏の慈愛、神の愛のあらわれである、ということである。
このようなことに思いめぐらせていると、一千年も前に登場したガザーリーというムスリムが見出していた「神」と、私たちが見出している「神」とが、実は共通の「神的実在」を指さしていたことが理解できるのではないだろうか。
〈もし我々が金銭や名声のような現世的なものに心を奪われることなく、我々の全精神を傾倒して神のみを完全に愛するならば、この愛はその神以外のものに対する排他性の故に、正にその故に神に属する全てのもの、神によって創られたあらゆるものを偏愛することになるのである。我々は神のみを純粋に愛することによって、全てのものを、全ては神の被造物なるが故に愛することができるのである。〉(同書、一五六頁)
「神以外のものに対する排他性」とは、平たく言えば、神以外のものは「非実在」であり、神のみが唯一の「実在」である、ということである。
故に、神のみを愛することは、同時に神のお創りになった天地の全てのものを愛する、ということである。
ここで想起されるのは、『新約聖書』のマタイ伝において、イエス・キリストが、『「なんじ心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして主なる汝の神を愛すべし」これは大いにして第一の悈命に拠るなり』(マタイ伝二二・三七―三八)と説いたそのお言葉である。
イエスが語った「神への愛」と、ガザーリーの語る「神への愛」とは、宗派という「概念図式」を超えて、同じ一つの神に差し向けられた「愛」ではないだろうか。
彼らが把握していた神は、私たちが日々の祈りの折に観じている内なる神と一つのものであり、その神は、究極的実在(実在者)の、多元的な現れに他ならないのである。
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