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2006年6月15日 (木)

 「イスラーム神学」―ガザーリーにおける理性と信仰(1)

   信仰とは悟性の彼岸にあるもの

『イスラーム思想史』中の井筒氏の記述から、スーフィズム以外のイスラム神学からも、一人の重要な人物についてふれさせていただく。

 イスラーム神学において超宗教的な地平を開いた人物にアル・ガザーリー(一〇五八~一一一一)がいる。同書では、「ガザーリーが出て後のイスラームは、彼が出る前のイスラームとは全く違った姿をとって現れるのである」と、彼のイスラム思想に及ぼした影響について紹介している。

 ガザーリーは、法学、イスラム哲学、特にアリストテレス学派の思想を研究した後に、一〇九一年、弱冠三十三歳の時に当時バグダッドの最高学府であるニザーミーヤ(ニザーム学園)教授となり、名実共に哲学、神学の最高権威となった。

 しかし彼は、一〇九五年、三十七歳のときに一切の官職を辞し、それまで講述してきた哲学や神学とは似ても似つかぬ世界に踏み込み、真理を求めて彷徨の生活に入った。

 そのなかで彼が確信したものは、瞑想によって神に直接触れるのでなければ決して真の救いは得られない、ということだった。

 次にその折のガザーリーの言葉を引用する。

〈汝は自分が何であるか、汝はいずこより来り、いずこへ去り行くのであるか。また、なぜ汝はここへ来たのであるか、何のために汝は創造されたのであるか。これらのことを汝は知っているであろうか。これを知るためには汝は汝をして本当に汝たらしめている所のもの、汝の本質を知らねばならないのである。自分の幸福は何処にあり、自分の不幸は何処にあるか、何が幸福で、何が不幸であるか。また汝の中には野獣のような性質も、悪魔のような性質も、天使のような性質も渾然として認められるであろうが、その中で、どれが一体、真に汝自身のものなのであるか。こういうことを知らずしては、汝は自己の幸福を求めることはできないのである〉(『イスラーム思想史』一三六頁)

 この問いは、時代を超えて求道者たちに探求されてきた永遠のテーマではないだろうか。

 やがてガザーリーは、「認識の根拠とは何か」という哲学上の根本的な問題に逢着する。

 彼は、認識の名にふさわしいものとして、①感性的知覚(感覚野)と②論理的数学的公理(知性野)とを、候補として挙げるが、前者は人間のみならず獣類も持っているものであり取るに足らぬものとして否定し、後者における悟性的認識こそが、人間のみに与えられたものであると結論する。

 さらに思索を重ねることで彼は、悟性的認識における「知」(哲学)が〈悟性の領域――知性野〉であるのに対して、「信仰」は〈信の領域―超越野〉であることを明確に認識するようになった。

 そして「信仰」とは、人間の精神に内在する神(実在)を認識するものであり、これは〈信の領域〉であると規定した。

 さらに「知」については、厳密な証明によって一分の隙もなく論理的に構成された世界のみを〈悟性の領域―知性野〉として限定した。

 具体的には、五+七=十二であるとか、「同一の物体は同時に二つの場所を占めることはできぬ」というような数学的な、論理学的な普遍妥当性のある命題しか含まないようにした。

 したがって、「知」の世界はあくまで「知」の世界であり、「信」の世界はあくまで「信」の世界であるとしたことで、普遍妥当性のない仮説、異論、憶測による神の秘儀や、霊魂の不滅、彼岸の生活、さらに錬金術、占星術、魔術の類、これら民族思想の影響を受けて構成された神学や形而上学は、ガザーリーによってついに悟性的認識の領域である「知」の世界に入ることはできなくなった。

 一般にガザーリーは哲学を否定した、とされているが、要は彼の認識論の確かさは、同時代の学者たちの比ではなかった、ということである。否定されたのは哲学ではなく、神学・哲学の仮面を被った民族思想と、そこから現れた諸説のことだったのである。

 つまりガザーリーは、悟性の領域を明確にしたことで、神(実在)への認識は、「信」によることをハッキリさせたのである。

〈世の神学者や哲学者は明らかに二つを混同している。そこに彼らの救い難い欠陥が存するのである。神学者は思惟をこね廻して、思惟されたものと、信仰とが何とかして辻褄の合うようにしようと努力しているし、哲学者は予言によって啓示されたもの、コーランの章句を悟性的に理解し説明しようとしている。彼らのしていることは「耳で視ようとし、目で聴こうとしている」(Munqidh)ようなものだ。
 啓示されたものを理性によって判断しようとするのは全然、知と信との区別を識らないからである。のみならず、そのような努力をするものは全て、正真正銘の異端者である。信仰を悟性によって把握しようとしてはならないし、またしようとしても絶対にできるものではない。何とならば、信仰とは正に悟性の彼岸にあるものに関わる事柄であるから。〉               (同書、一四二~一四三頁)

 ガザーリーにとっては、信仰と悟性との違いが明らかになったことで、これまで自身がたどってきた思弁哲学は、「耳で視ようとし、目で聴こうとしている」ものであり、これこそ「正真正銘の異端」だったことがよく分かった。

 そして信仰とは、「悟性の彼岸」に関わる事柄であることが疑いようのないものとなったとき、彼自身もスーフィーの偉人たちが踏み込んだ領域へと、すでに歩を運んでいたのかもしれない。

 しかし、ガザーリーの目指したところはスーフィズムではなく、かつてイエス・キリストがたどったのと同じ、道に迷う一般大衆を教化するという博愛的な方向であった。

 そこに、ガザーリーが出た後のイスラームは、彼が出る前のイスラームとは全く違った姿をとって現れるのである、と言われるような比類のない神学となって復活したのである。

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