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2006年7月

2006年7月15日 (土)

神を観るということ ~唯神実相の信仰~(3)

 最近こんなことがありました。

 わが家の今年、小学4年生になる次女が、駅まで用事があって出かけたのですが、帰りにバス代が無いことに気が付いたそうです。

 しぶしぶ歩いて帰ろうとして、ふと上着のポケットに手を入れてみると、バスカードが出てきたとのことで、悦んでバスに乗って帰ってきました。

 このように、すでに持ってはいても、それを知らない間は、バスのカードですら使うことができないものです。

 夏に美しい花を咲かす朝顔の種は、外見からその姿を判断したかぎりでは、石ころとあまり区別がつきませんが、その種子の内には、双葉や伸びやかなツルや瑞々しい葉、そして美しい花を咲かせる理念が宿っています。

 それと同じように、人間の内には、朝顔とは比較にならないほどの、無限の価値が宿っているのです。

 このことを生長の家では、「人間は神の子」であると説いています。

 私たちの内にある「無尽蔵の宝」は、五感の感覚ではとらえることはできません。

 しかし、これらの宝はすでに私たちの内に「実在」していて、これを観じて悦ぶだけで、宝庫は無尽蔵に開かれて、私たちの人生を豊かに潤(うるお)すことになります。

 親鸞上人は、浄土和讃のなかで、

「信心喜ぶその人を、如来とひとしと説き給う。大信心は仏性なり、仏性すなわち如来なり」

 と説かれています。

 神様の創られたままの「完全円満なる世界」を悦ぶことで、私たちが実生活を送っている現象世界にも、神の国・仏の国さながらの悦びが実現してまいります。

 私たちは、これから「神の子」になるのではありません。

 今すでに、そのままで、光りであり神の子なのです。すでにはじめから、完全円満なる、神の子なのです。

 皆さん、さっそく今から、私たちは神の子であり、完全円満であり、そのまま光りであることを、悦ぼうではありませんか。

 悦べば、悦んだだけ、あなたの周りに素晴らしい世界が現れてくるのです。

 なぜなら、心の眼で見れば、光りの子である神の子と、それをとります悦びの世界、光明の世界のみが、そのまま今ここに現成しているのですから。

 今まで、それが現れて来なかったのは、ただ悦ぶことを忘れていただけのことなのですから。

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2006年7月 9日 (日)

神を観るということ ~唯神実相の信仰~(2)

 前回の続きです。

 さて、私は帰りしな、沢口さんから『白鳩』という、「生長の家」の月刊誌を数冊手渡されました。

 ワクワクしながら家に帰り、頂いた『白鳩』誌を一冊持って自宅の裏山に登りました。

 小さな尾根の切り株に座り、谷口雅春先生の書かれた文章を読み進んでいると、私の目に、次の言葉が飛び込んできました。

「ただよへる雲の彼方にまん丸に 澄み切る月ぞ吾が姿なり」

 この和歌の解説として、おおよそ次のような意味の言葉が表現されていました。

 空がどんなに曇っていたとしても、また雲の下が土砂降りであったとしても、その背後にはまん丸い月が煌々と照っている。

 それと同じように、現象の貴方がどんなに病んでいても、経済的に苦しかったとしても、それは雲のような仮の姿であって、本当の貴方自身ではありません。

 本当のあなたは、一度も曇ったことも欠けたこともない、玲瓏玉の如き完全円満な、澄み切った満月である。

 未だかつて一度も病んだことも、苦しんだこともないもの、それが、神の創られたままの、あなたの本当の姿であり、それがあなたの實相だ!

 この言葉が示している世界を観じたとき、脊髄に稲妻が落ちたような感動が走り、同時に今まで私のうちで眠っていた何ものかが目を覚ましたようでした。

 ふと眼を上げると、木々の葉が午後の柔らかな太陽の光を浴びて、何とも言いようのない霊々妙々とした瑞々しい美しい光りを湛えて輝いているのが私の眼に飛び込んできました。

 まるで、生まれて初めてこの世界に触れたような気がしました。

 感動につつまれながら自宅に帰り、『白鳩』誌に再び目を通しながら裏表紙を見ると、そこには現白鳩会総裁の谷口恵美子先生がお書きになられた新刊で、『光の中をあゆむ』というタイトルのご本が紹介されていました。

 そのタイトルのコトバが目に入ると、私自身が先ほど味わったばかりの深い世界がふたたび蘇り、ご本の著者が神の祝福に満ちた光の中をあゆんでいる光景が彷彿として脳裏にひらめくのでした。

 すべての人々が、今そのまま「光の中をあゆんでいる」のだという、神が創られたままの世界を「観じ」て拝んでいる著者の“想い”が、メッセージとして伝わってくるのを観じました。

 それは、これから神様の造られたままの「光明に満ちた世界」に入るのではなく、神様の世界は今ここに、完全円満なる神は、そのまま「今ここに実在しているのだ」という、大いなる発見と喜びに満ちたものでした。

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2006年7月 6日 (木)

神を観るということ ~唯神実相の信仰~(1)

「神を観るということ ~唯神実相の信仰~」というテーマで、何回かにわたってご説明したいと思います。

 この「神を観る」とはいったいどういうことなのかといいますと、たとえば「観る」という意味は、文字で表現すると「観(かん)」と言う文字に当たります。

 これは風光明媚な景色を見る場合の「観光」や、演劇などを見る場合の「観劇」などに使う「観」です。

 この「観」というコトバは、肉眼で見るのではなく、心の眼で“観ずる”という意味を持っています。

 たとえば密教などでは、阿字観や止観という、一種の瞑想を実修しますが、この場合も同じ「観」という字を使っています。

 同じような修行方法では、西洋におけるメディテーション(meditation)などもこれに含まれます。

 生長の家でも、この「瞑想」の一種である「神想観」という行を実修します。

 これは「神」を「想い」「観ずる」と書きます。

 「神想観」では、肉眼で神や仏をとらえるのではなく、心の眼(まなこ)を開いて、神様の創られたままの世界に入っていきます。

 ではあらためて、「神を観る」とは、いったいどういうことなのか、私が生長の家に触れた折の体験などを紹介しながら、順を追って話を進めていきましょう。

 今から30年ほど前、私は静岡県藤枝市にある田舎の中学校に通っていました。

 当時は超能力者と呼ばれていたユリゲラーが来日してテレビに出演し、大きな反響を呼んでいたころです。

 書籍では「ノストラダムスの大予言」という本がベストセラーになり、書店には超能力や霊界を扱った様々な書籍が並び、多くの人たちが神秘的な世界に関心を寄せる、いわゆる「オカルト・ブーム」が到来していました。

 中学生だった私も、これらの神秘的な世界に興味を抱いて、このオカルトの分野を科学的に解説した橋本健という学者の書いた単行本などを何冊か読んだりしました。

 私が中学1年生から2年生にかけての春休みでしたが、父の友人の息子さんで、当時、獣医師をしていた沢口わたるという20代後半の人物を紹介されました。

 父の話では、彼は大学生のころから『生命の實相』という生長の家の本を熱心に読んでいて、神秘的な世界に精通しているらしいとのことでした。

 さっそく私は、自転車で1時間ほどかけて、その方が働いている山の中にある牧場に出かけて行きました。

 テーブルをはさんで対面すると、沢口さんは私に、「シゲル君は神様や仏様は、どこにいると思いますか」と問いかけてきました。

 私は、

「神様は神社に、仏様はお寺にいるのではないでしょうか」

 と答えると、彼はテーブルに置いてあった何気ない品物を手にとって、

「繁君、これが神だよ」

 と言いつつ、意外なことを語り始めたのです。

「神様や仏様はね、神社やお寺にだけいるのではないんですよ」

「では、どこにいるのでしょうか」尋ねると、

「神様はね、宇宙に満ちているんですよ、そして繁君、本当は君も神様なんだよ!」

 と、彼は語るのでした。

 私が訪問した目的は、超能力のことや、死後に行くと伝えられる霊界のことについて話をうかがうことでしたが、気がつけば、ここで主題となっているテーマは、より本質的な、哲学でいうところの「存在」や「実在」という領域に踏み込んでいたのです。

 中学生にとっては、とても高度な内容の話にもかかわらず、「本当は君も神様なんだよ!」という言葉に、私はぐいぐい引きつけられて、意外で不思議な感じと、“やっぱりそうなのかもしれない”といった期待と開放感とが入り交じったような悦びが湧いてくるのを感じていました。

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2006年7月 3日 (月)

思った通りになる世界(3)

 谷口清超先生は、ご著書『生長の家の信仰について』の57頁から、生長の家創始者・谷口雅春先生の書かれた『新講「甘露の法雨」解釈』というご著書の一節を紹介されています。

 それは、蛇が蛙を呑んでいる光景を見ていた青年が、「実相の世界」を観ずることで、大調和した状態が現れたことを取り上げていますが、私が「実相」を観ることによって健康を回復した原理について、とても分かりやすく説かれていますので、少し長くなりますがここを引用させていただきます。

「蛇と蛙とは争って、食い合っているように見えているけれども、それは唯“心の影”である。実相は蛇と蛙とは、共に神の子であるから、互いに相食む事なく仲良くしているのが実相であって、実相の他は何もないのである。現象は仮の姿であって、仮の姿は虚の姿であって、そう見えているけれども、そんなものは無いのである。無いものは如何に見えてもないのである。既に蛇と蛙とは完全に仲直りして仲良く生活しておって、互いに傷つけ合うという事は無いのである。すべての生物は互いに生かし合いであって、それのみが実相である。実相のみが実在である・・・・・・」

 現象の否定と実相の肯定と
 大体このように、じっと二十分間ほど念じられたのであります。その念じ方は、肉眼の目をもって見ないので、心の目でその有様をじーっと観じるのであります。こういう念じ方は覚えて置いていただくといいですね。これはもう蛇と蛙だけの争いを直す事だけではなく、病人を癒すのでも同じ事であります。それには「現象の存在の否定」「実相のみの存在の肯定」とが使われていることに注意していただきたいのであります。「黴菌と人間とは互いに食い合うように見えておるけれども、そんなものは現象であって、現象は仮の姿である。虚の姿は在るように見えても無いのである」――というように念ずるのが「現象の否定」であります。そして「ただ在るものは“実相”だけである。“実相”は神の子である。黴菌も神の子である。人間も神の子である。神の子と神の子とは仲良くもう互いに冒すことなく、既に仲良く生活しているのである。これが本当の姿である」、こういうような意味を深く念じてその有様を心に描いてじーっと心の眼で見つめるのであります。これが「実相のみの存在の肯定」であります。

 
 この文章では、蛇が蛙を食べてしまうような不完全な世界は、「仮の姿」が現れているのであって、本当は「無い」のである。 本当にあるもの、つまり神様の造られたままの完全なる大調和した世界のみが「実在」であり、その「実在」のみを深く観ずることの大切さが説かれています。

 このように、本当にある世界、つまり「実相」を観ずることによって、仮の姿である不完全な「現象」が消えてしまうのです。

 これは病気を治す場合も、家庭に調和をもたらす場合も、経済問題を解決する場合もまったく同じです。

 なぜなら、すべての現象は「心の影」であり、私たちの「心」によって自由に創り変えることができるからです。

 また、「実相」は神様の造られたままの完全円満なる世界であり、それは初めのはじめから「在り」続けているのです。

 私たちは、ただそれを「観」じて「悦ぶ」ことで、あらゆる人生の難問に、解決の道を開くことができるのです。

 皆さん、それは、今すぐにでも始めることができます。

 お金は一銭もかかりませんし、なにも難しいことは何もありません。

 今日一日、自分を取りまく人や、物や、事がそのまま神の「いのち」であり、神の「光り」であることを観じて、ひたすら「ありがとうございます、ありがとうございます」と感謝し、悦んでみてください。

 あなたが実相を観て悦べば、あなたの運命や環境も悦びあふれるものとなり、あなたの人生が光り輝くものとなることでしょう。

 それは、これから光りになるのではありません。

 初めから「光り」だったことに、気が付くだけのことなのです。

引用文献

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2006年7月 1日 (土)

思った通りになる世界(2)

 今から20数年前のことですが、私は父の経営する建設会社に勤務していました。

 夏が過ぎたころ、以前から悪かった私の体調が思わしくなくなり、九月ごろから仕事も休みがちとなり、次第に床に就くようになりました。

 私は小学校低学年のころから「アレルギー性気管支炎」の発作にたびたび見舞われ、入退院を繰り返していましたが、その時は医者に行くと「気管支喘息」と診断されました。

 安静にしていても、薬を服用しても一向に病状は回復せず、ついに病床に伏してしまいました。そのような私の状態を見るに見かねた生長の家の先輩が、長崎県の生長の家総本山で行われている練成会に参加することを勧めてくれました。

 息も絶え絶えのなか、駅の階段の手すりにつかまりながらホームに移動して、友人に見送られつつ、寝台列車に乗って出発。翌日の午前中に長崎駅に着き、さらにバスに揺られて生長の家総本山に到着しました。

 当時の総本山では、泉英樹・本部講師が練成部長として講話を担当されていました。

 練成道場に行っても私の体調は一向に回復しませんでしたが、せっかくここまで来たのだからと、早朝に行われる神想観(お祈り)、お経の拝読、そして境内地の整備や農作業などの肉体労働を通して奉仕する献労など、体調はどんなに悪くても行事を一つも休むことなく、それこそ死んだ気持ちになって受け入れていました。

 そして三日目あたりの講話で、泉講師が「実相」と「現象」についての話をしてくださいました。
 それは、肉体に現れた病気などの「症状」は、あるように見えても本当は存在しないこと。これを「現象」と言い、その「現象」は私たちの「心」によって絶えず変化していること。

 そして「現象」の背後には完全円満な「実相」があり、それこそが私たちの本体であること。私たちはこの「実相」を観ずることによって、肉体という「現象」にも完全なる健康状態をもたらすことができるということ。

 したがって私たちは、絶えず完全円満なる実相の大調和した世界のみを「心」で観ずることがとても大切である、おおよそこのようなことを教えていただきました。

 さらに道場でお経を読む時間に、『続々甘露の法雨』という現代のコトバで書かれた生長の家のお経を読む行事がありましたが、そのお経の中で、

 汝ら今、生命(いのち)あることを悦べ、

 今、生きてあるその『今』を悦ぶべし。

 汝の悦びは汝の病を癒すべし。

 という一節があり、「今、生きてあるその『今』を悦ぶべし」というコトバが強く印象に残りました。

 翌日の午後、献労の時間に農作業をしながら、私は完全円満なる実相世界を観ずるべく、ひたすらコトバで、

「ありがとうございます、ありがとうございます」

 と、一心に唱えながら、内なる実相を見つめて与えられた仕事に励んでいました。

 農作業を終えて、他の参加者と一緒にクワなどの農機具を片づけているときに、ふと次のような想いが私の脳裏を巡りました。

「私の体は今どんなに病んでいるように見えても、それは現象であって実在ではない。私の本当の姿は、完全円満で健康なる神の命そのままだ!」

 ということが、忽念と分かってきたのです。
 そのときに、お経に書かれていた、「『今』を悦ぶべし」という、その『今』とは、実は「本当に存在する完全円満なる世界」のことであり、それこそが永遠に変わらざるところの『今』であり、それは「歓喜」そのもの、「悦び」そのものであることがハッキリと観じられました。

 それ以来、「今」完全円満であるその「今」を、ただただ「ありがとうございます、ありがとうございます」と祝福し、ただただ悦んでいました。

 翌朝、目を覚ますと、咳とともに大きな痰の固まりがひょっこりと出てきました。

 さらに咳をする度に痰の固まりが一緒に出てきて、その度に呼吸が楽になっていきました。

 やがて、さわやかなそよ風のようなものが躰をめぐるように感じられ、全身が軽やかになるにつれて、病気の症状もきれいに消えて行きました。

「実相」の完全円満なる『今』を無心に悦ぶことで、「実相」さながらの健康状態が肉体にも現れたのです。

 また、練成会の7日目か8日目には、ちょうど佐世保で、谷口清超先生ご指導の講習会があるとのことで、練成会の参加者全員が道場からバスに乗って会場に行き、終日受講させていただくことになりました。私は、もちろん一番前の席で聴講させていただきました。

 私の心の眼が開けたことで、私を取り巻く世界が次第に光りあふれるものへと変わっていくのを、そのときに感じていたことをよく覚えています。

参考文献

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