神を観るということ ~唯神実相の信仰~(2)
前回の続きです。
さて、私は帰りしな、沢口さんから『白鳩』という、「生長の家」の月刊誌を数冊手渡されました。
ワクワクしながら家に帰り、頂いた『白鳩』誌を一冊持って自宅の裏山に登りました。
小さな尾根の切り株に座り、谷口雅春先生の書かれた文章を読み進んでいると、私の目に、次の言葉が飛び込んできました。
「ただよへる雲の彼方にまん丸に 澄み切る月ぞ吾が姿なり」
この和歌の解説として、おおよそ次のような意味の言葉が表現されていました。
空がどんなに曇っていたとしても、また雲の下が土砂降りであったとしても、その背後にはまん丸い月が煌々と照っている。
それと同じように、現象の貴方がどんなに病んでいても、経済的に苦しかったとしても、それは雲のような仮の姿であって、本当の貴方自身ではありません。
本当のあなたは、一度も曇ったことも欠けたこともない、玲瓏玉の如き完全円満な、澄み切った満月である。
未だかつて一度も病んだことも、苦しんだこともないもの、それが、神の創られたままの、あなたの本当の姿であり、それがあなたの實相だ!
この言葉が示している世界を観じたとき、脊髄に稲妻が落ちたような感動が走り、同時に今まで私のうちで眠っていた何ものかが目を覚ましたようでした。
ふと眼を上げると、木々の葉が午後の柔らかな太陽の光を浴びて、何とも言いようのない霊々妙々とした瑞々しい美しい光りを湛えて輝いているのが私の眼に飛び込んできました。
まるで、生まれて初めてこの世界に触れたような気がしました。
感動につつまれながら自宅に帰り、『白鳩』誌に再び目を通しながら裏表紙を見ると、そこには現白鳩会総裁の谷口恵美子先生がお書きになられた新刊で、『光の中をあゆむ』というタイトルのご本が紹介されていました。
そのタイトルのコトバが目に入ると、私自身が先ほど味わったばかりの深い世界がふたたび蘇り、ご本の著者が神の祝福に満ちた光の中をあゆんでいる光景が彷彿として脳裏にひらめくのでした。
すべての人々が、今そのまま「光の中をあゆんでいる」のだという、神が創られたままの世界を「観じ」て拝んでいる著者の“想い”が、メッセージとして伝わってくるのを観じました。
それは、これから神様の造られたままの「光明に満ちた世界」に入るのではなく、神様の世界は今ここに、完全円満なる神は、そのまま「今ここに実在しているのだ」という、大いなる発見と喜びに満ちたものでした。
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