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2006年7月 6日 (木)

神を観るということ ~唯神実相の信仰~(1)

「神を観るということ ~唯神実相の信仰~」というテーマで、何回かにわたってご説明したいと思います。

 この「神を観る」とはいったいどういうことなのかといいますと、たとえば「観る」という意味は、文字で表現すると「観(かん)」と言う文字に当たります。

 これは風光明媚な景色を見る場合の「観光」や、演劇などを見る場合の「観劇」などに使う「観」です。

 この「観」というコトバは、肉眼で見るのではなく、心の眼で“観ずる”という意味を持っています。

 たとえば密教などでは、阿字観や止観という、一種の瞑想を実修しますが、この場合も同じ「観」という字を使っています。

 同じような修行方法では、西洋におけるメディテーション(meditation)などもこれに含まれます。

 生長の家でも、この「瞑想」の一種である「神想観」という行を実修します。

 これは「神」を「想い」「観ずる」と書きます。

 「神想観」では、肉眼で神や仏をとらえるのではなく、心の眼(まなこ)を開いて、神様の創られたままの世界に入っていきます。

 ではあらためて、「神を観る」とは、いったいどういうことなのか、私が生長の家に触れた折の体験などを紹介しながら、順を追って話を進めていきましょう。

 今から30年ほど前、私は静岡県藤枝市にある田舎の中学校に通っていました。

 当時は超能力者と呼ばれていたユリゲラーが来日してテレビに出演し、大きな反響を呼んでいたころです。

 書籍では「ノストラダムスの大予言」という本がベストセラーになり、書店には超能力や霊界を扱った様々な書籍が並び、多くの人たちが神秘的な世界に関心を寄せる、いわゆる「オカルト・ブーム」が到来していました。

 中学生だった私も、これらの神秘的な世界に興味を抱いて、このオカルトの分野を科学的に解説した橋本健という学者の書いた単行本などを何冊か読んだりしました。

 私が中学1年生から2年生にかけての春休みでしたが、父の友人の息子さんで、当時、獣医師をしていた沢口わたるという20代後半の人物を紹介されました。

 父の話では、彼は大学生のころから『生命の實相』という生長の家の本を熱心に読んでいて、神秘的な世界に精通しているらしいとのことでした。

 さっそく私は、自転車で1時間ほどかけて、その方が働いている山の中にある牧場に出かけて行きました。

 テーブルをはさんで対面すると、沢口さんは私に、「シゲル君は神様や仏様は、どこにいると思いますか」と問いかけてきました。

 私は、

「神様は神社に、仏様はお寺にいるのではないでしょうか」

 と答えると、彼はテーブルに置いてあった何気ない品物を手にとって、

「繁君、これが神だよ」

 と言いつつ、意外なことを語り始めたのです。

「神様や仏様はね、神社やお寺にだけいるのではないんですよ」

「では、どこにいるのでしょうか」尋ねると、

「神様はね、宇宙に満ちているんですよ、そして繁君、本当は君も神様なんだよ!」

 と、彼は語るのでした。

 私が訪問した目的は、超能力のことや、死後に行くと伝えられる霊界のことについて話をうかがうことでしたが、気がつけば、ここで主題となっているテーマは、より本質的な、哲学でいうところの「存在」や「実在」という領域に踏み込んでいたのです。

 中学生にとっては、とても高度な内容の話にもかかわらず、「本当は君も神様なんだよ!」という言葉に、私はぐいぐい引きつけられて、意外で不思議な感じと、“やっぱりそうなのかもしれない”といった期待と開放感とが入り交じったような悦びが湧いてくるのを感じていました。

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