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2007年4月

2007年4月29日 (日)

榎本研修と『生命の實相』

 榎本恵吾先生は、昭和五十六年の後半から数年間、練成部に所属されて研修生のお世話をご担当になった時期があった。この間、何人の人々が、先生との研修生活を経験されたのであろうか。あの時代から、もう四半世紀が過ぎようとしている。しかし、私たちが先生の元で過ごした日々は、ますます光り輝くものとなり、私たちを無限に蘇らせているのである。それは永遠に瑞々しく、神想観の座が結ばれるところ、聖典『生命の實相』が紐解かれるところ、私たちのみならず誰でも、いつでも、どこでも、その光りは、久遠の泉のように湧出して、みどり児の詩(うた)を奏でずにははおかないのである。

 研修生たちに先生は、「私のお役目は、皆さんが安心して『生命の實相』を拝読し、神想観を実修していただくための座布団のようなものです」とおっしゃっていた。また、「私の原稿の言葉は、諸君が『生命の實相』のご本をますます懐かしくなり、『生命の實相』に振り向き、『生命の實相』に帰っていただくために書いているのです」とも語っておられた。先生の言われる「座布団」とは、“みどり児”なる私たちを荘厳する如意宝珠なる蓮華の宝座のことであり、先生はその研修を通して、一人ひとりが光明一元の實相の世界に座して、自性円満なる光の子として巣立っていく、ただただそのことを願い、観じ続けておられた。だから先生は、「皆さんは、宇治本山に光りを貰いにやって来たのではないのです。逆に宇治本山の方が、皆さんの内にやってきたのです。みなさんは宇治のみならず全宇宙を照らす光りなのです」とも、おっしゃっていた。

「“愛行”とは、“愛”そのものである皆さんが行ずるから“愛行”なのであり、神想観とは、はじめのはじめから“神”である皆さんが想い観ずるから“神想観”なのです。だから、これから神想観をした後に神になり、完全になるのではありません。先ず光りだ!」。先生の言葉は、私たちが慣れ親しんだ日常の言葉としての意匠を脱ぎ捨て、生きもののように実在からのメッセージを伝える。それは『生命の實相』の文字間に、實相世界の荘厳を観た者のみが発する言葉なのである。それは、同時に同書から出た光りの展開であり、その光りに触れた者はやがてそこに無限の懐かしさを抱きつつそこに帰るのである。「神想観をしてからではない」「『生命の實相』を読んでからではない」と宣言されていた先生ほど、誰よりも神想観を深く実修し、聖典の荘厳を讃え、聖経読誦や愛行を心底楽しく行じていた人はいない。それは、「先ず光り」なるものが、その自ずからなる喜びを鳴り響かせていた法爾自然のお姿だった。

 そんな先生の信仰姿勢は、そのまま私たちへの實相直視となり、一切の現象を光りへと変える一転語となり、生長の家の「基礎論」の徹底となり、研修を経験した多くの人が『生命の實相』全四十巻を、ごくあたりまえのようにして読破していったのである。それは、先生が放つ“光りの香気”のようなものが『生命の實相』の行間からあふれ、それを私たちは呼吸していた。その光りは天地いっぱいに広がり、春夏秋冬を経験するように、研修生たちは『生命の實相』という言の葉の光りの中を歩み続けていた。やがてそれは気が付いてみれば、いつの間にか光りのまっただ中へと続いていたのである。

 先生のご準備してくださった光りの座布団。今は、私たちが敷かせていただく番なのである。

       二〇〇七年四月二十九日 

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