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2007年12月

2007年12月22日 (土)

巨大ショッピングセンター

 私の住んでいる青梅市から山一つ越えた町に、巨大なショッピングセンターが出現した。2007年末のことだ。

 ショッピングセンター周辺には日の出町、武蔵五日市市、あきる野市などがあり、これらの町を貫通してJR武蔵五日市線が走っている。終点の武蔵五日市駅周辺は、山に囲まれた市街と寄り添うように、街道には昔ながらの風情ある商店が立ち並び、長い時間を経て築かれたであろう地方都市の美しく完結した姿が見てとれる。

 しかし巨大ショッピングセンターの出現は、否応なく、これら古くからある地元の商店街に影響を及ぼすことであろう。

 わが家には中学生を筆頭に5歳の幼稚園児まで4人の子供がいる。家の近くのバス停には、客があまり寄りつかない小さな酒店があり、そこには夏も冬もアイスクリームのボックスが置いてある。近所の子供たちはそこの常連さんで、わが家の5歳の子までが、小銭を握りしめて1人でアイスを買いに出かけて、ちゃんと売買を成立させている。酒屋のジイさんともなじみとなり、いつぞやは定価に数十円足りないにもかかわらずちゃんとアイスを買ってきていた。

 そんな光景を見ていると、かつて私が小学生だったころの風景が脳裏に浮かんできた。私は静岡県の山間の村に育ったが、そんな場所でも子どもが足を運べる数キロ四方の範囲に4~5軒の駄菓子屋があった。

 店には大きさや味や値段の違う自家製のおでん、景品の並んだ1回5円也のクジ、紙袋にささやかな玩具を入れたサグリ、王冠の裏をめくったら当たり外れが出てくる炭酸飲料。今では見かけないものばかりだが、駄菓子屋周辺は子どものたまり場となり、親からもらったささやかな小遣いの使い道は、当時小学校低学年だった私たちの脳裏を駈けめぐり、生活の重要な領域を占めていた。

 ある日、クジの景品で陳列されていた拳銃が無性に欲しくなり、何日も挑戦してみたが、なけなしの小遣いは空しく消えていった。意を決して親の財布からお金をくすね、景品欲しさに駄菓子屋に勝負に出かけたことがあった。小箱に盛られた切手大のクジを一枚一枚めくり、さあ当たるぞ、もう当たるぞ、これで当たるぞ、とめくっていったが、最後の一枚をめくり終えても、とうとう当たりは出てこなかった。呆然としていると、なんとも言えない汚れた悲しみがこみ上げてきた。後日、その景品の拳銃が商品として売られていたのを見て、忸怩(じくじ)たる思いをしながらもすべてを了解した。

 ふり返ってみれば、駄菓子屋のさまざまなタイプのおばさんたちと触れあうことで、かつての子どもたちは小さなヤケド、思わぬ行幸などを繰り返し経験しながら、人間の多様な側面を見せられつつ渡世のいろはを学んでいたのである。

 ショッピングセンターやコンビニの出現は、大人にとって便利である反面、子どもから、重要な社会教育の「場」を奪っているのかもしれない。もったいないことである。

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2007年12月14日 (金)

落ち葉について

 12月のある日、青梅市内に住む漆器作家ご夫妻の工房(朱文筵工房)兼ご自宅を、家内と二人で訪問して歓談させていただいた。その折、工房の通路に降り積もった落ち葉のことが話題になった。

 ご夫妻が語るには、土の上に散った落ち葉はいいが、アスファルトやコンクリートの上に落ちたものはなぜか調和を欠くとのこと。

 私はその話を聞いているとき、作曲家のベラ・バルトークが、落ち葉の降り積もる音を聞いたという話を思い出していた。

 それは、現在目の前で散っているものだけではなく、何年も何百年も降り積もって土と化した落ち葉たちが、時を超えて降り積もるその〝音〟が、今も聞こえているのだという。

 バルトークの聞いたそれは、五感の耳が感受した〝音〟ではないことは明らかである。が、では彼の所有するどの様な感官に、それが鳴り響いていたのであろうか――。

 落ち葉は、やがて時を経て土となる。そしてその土が肥やしとなって、樹木が養われる。つまり土と樹木と落ち葉とは有機的に繋がっているのだが、「美」とは、その〝連続性〟の由来を伝える何ものかではないだろうか。そんな着想が浮かんできた。

 たとえば、漆器などは樹木で作られた素材としての椀と、その表面に繰り返し手作業で塗布された漆の樹液などによって構成されているが、そこにはプラスチックなどの石油化学製品の椀とは質を異にする、奥深い「美」が表現されている。さらにそこには、落ち葉と地面と樹木との関係ような、椀と漆と人間との有機的で質的な〝連続性〟が現れているように見える。

 私たち人間が「美」を感ずる背景には、私たちが有機体であるということに由来した、深い理由があるのかもしれない。それは、「美」と「生命」とが、同一のものの異なる側面であり、人間はそれを無尽蔵に感受し、評価し、表現することのできる、おそらく唯一の存在であるというところに、あらゆる種類の芸術が生まれ、数多の宗教が生まれた由縁があるように思う。

 それを確認し、豊かに味わうためにも、私たちは大量生産、大量消費された軽薄な製品から、再び、私たちの生命との〝連続性〟を感じさせる有機的な製品に回帰する時期が来ているのかもしれない。

 地球環境問題は、そのことを雄弁に語っている。無機的なものを、地球環境が消化することができないのは、地球が有機的な生命体だからである。

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