落ち葉について
12月のある日、青梅市内に住む漆器作家ご夫妻の工房(朱文筵工房)兼ご自宅を、家内と二人で訪問して歓談させていただいた。その折、工房の通路に降り積もった落ち葉のことが話題になった。
ご夫妻が語るには、土の上に散った落ち葉はいいが、アスファルトやコンクリートの上に落ちたものはなぜか調和を欠くとのこと。
私はその話を聞いているとき、作曲家のベラ・バルトークが、落ち葉の降り積もる音を聞いたという話を思い出していた。
それは、現在目の前で散っているものだけではなく、何年も何百年も降り積もって土と化した落ち葉たちが、時を超えて降り積もるその〝音〟が、今も聞こえているのだという。
バルトークの聞いたそれは、五感の耳が感受した〝音〟ではないことは明らかである。が、では彼の所有するどの様な感官に、それが鳴り響いていたのであろうか――。
落ち葉は、やがて時を経て土となる。そしてその土が肥やしとなって、樹木が養われる。つまり土と樹木と落ち葉とは有機的に繋がっているのだが、「美」とは、その〝連続性〟の由来を伝える何ものかではないだろうか。そんな着想が浮かんできた。
たとえば、漆器などは樹木で作られた素材としての椀と、その表面に繰り返し手作業で塗布された漆の樹液などによって構成されているが、そこにはプラスチックなどの石油化学製品の椀とは質を異にする、奥深い「美」が表現されている。さらにそこには、落ち葉と地面と樹木との関係ような、椀と漆と人間との有機的で質的な〝連続性〟が現れているように見える。
私たち人間が「美」を感ずる背景には、私たちが有機体であるということに由来した、深い理由があるのかもしれない。それは、「美」と「生命」とが、同一のものの異なる側面であり、人間はそれを無尽蔵に感受し、評価し、表現することのできる、おそらく唯一の存在であるというところに、あらゆる種類の芸術が生まれ、数多の宗教が生まれた由縁があるように思う。
それを確認し、豊かに味わうためにも、私たちは大量生産、大量消費された軽薄な製品から、再び、私たちの生命との〝連続性〟を感じさせる有機的な製品に回帰する時期が来ているのかもしれない。
地球環境問題は、そのことを雄弁に語っている。無機的なものを、地球環境が消化することができないのは、地球が有機的な生命体だからである。
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