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2008年2月

2008年2月15日 (金)

「大満足」の世界

「足るを知る」という言葉がある。

 この言葉が強く印象に残ったのは、15年ほど前に京都で聞いた稲盛和夫氏(京セラ・第二電電〈現KDDI〉創業者)の講演会だった。

 お話の中で同氏は、当時の第二電電株式会社(DDI)を立ち上げた折のエピソードを語っておられたが、それまでに自身の心の中を、「動機善なりや、私心なかりしか」と、数カ月間にわたって真摯に内観し、得心がいった後にようやく起業されたということだった。

「会社を立ち上げる」ことと、「足るを知る」ことの間に、一切の矛盾撞着のない生き方。そこに出家者として企業経営に携わる稲盛氏の信仰が貫かれている。

「足るを知る」とは、単純に「現状に満足せよ」ということではない。「足るを知る」とは、「〝私心〟なく生きる」ということであり、それは同時に「仏心」を生きる、ということである。

「足るを知る」の「足る」とは、満足の「足(ゾク)」である。「足る」を知るとは即ち、「大満足」と出会うということである。仏(神)と出合ったとき、私たちは「大満足」を得るのである。

 神や仏の世界に入るためには、まず「足りていない」世界に住むことをやめて、「大満足」世界へと〝心の眼〟を転じなければならないのである。では、「大満足」の世界は、どこにあるのか。

 それは今、ここ、にあるのだ。はじめから足元にあるが故に、「足る」と表記しているのである。「足りない」と思っていたのは、今、ここに在る「大満足」の世界を見ていなかったからである。足元を見ずに、余所(よそ)ばかり追い求めていたが故に、「足る」ことができなかったのである。

 すでに「満ち足りて」いる世界。すでに円満に成就している大満足の世界。それは「今、ここ」にあるのだ。

「足りていない」と見えたのは、足りていない世界に固執しているから、足りない世界しか見えてこないだけのことである。足りないと見える世界は、はじめから存在していないから、〝無〟であり不完全であり欠乏しか感じられないのである。このような現象の世界は永遠に「足りる」ことはないのである。

 そんな「足りていない」世界(現象世界)しか見ることのできない〝私心〟を本来の「無」へとお返ししたとき、はじめのはじめから在る世界がそこに厳然とあることが分かるのである。百尺竿頭進一歩である。そこに〝私心〟(我)をまったく必要としない、「大満足」の世界、完全円満なる世界が存在しているのである。

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2008年2月 9日 (土)

変わるものと変わらないもの

 過日、生長の家本部会館での私の聖典講義に、度々参加している大学生からメールで質問をいただいた。普遍的で、哲学的な質問なので、私の応答を含めて紹介させていただくことにする。

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 合掌、ありがとうございます。
 以下がご質問への返信です。

【質問】
>1.人間の中に、“絶対”に変わらない何かがあるとすれば、それは何でしょうか?

【回答】
「変わる」ものは“絶対”でもなければ、“真の人間”でもありません。
「変わる」ものを現象といいます。
変わらないもののみが、「実在」です。
この「実在」が、“真の人間”であり、「神」であり「仏性」です。

【質問】
2.もしその“絶対”があるとすれば、それは真っ先に知られているはずです。なぜそれを知らされず、または知ることを求めずに人は時間を過ごし、死を迎えるのでしょうか。 抽象的な質問ですが、ご返答いただければ幸いです。宜しくお願い致します。

【回答】

「変わる」ものしか見ていなければ、「変わらない」ものを観ることはできません。
“絶対”のみが“絶対”を知り、「変わらない」もののみが、「変わらない」ものを観ることができます。「時間」は現象(変わるもの)であり、「時間・空間」上で展開される「死」もまた現象です。

「現象」の上に立っていては、永遠に“絶対”(変わらないもの)と出合うことはありません。
“絶対”とは、生じることもなく去ることもなく、出合うことも分かれることもなく、久遠に存在しているもののことで、これを生長の家では「神」と呼んでいます。

>また聖典講義等でお目に掛かりたいです。

 どうぞ、いつでもお越しください。

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