万教帰一の哲学と世界平和
3月の中旬、ドイツのノイシュタットという場所で開催された、「生長の家ヨーロッパ幹部研修会」に出講してきました。
会場には、開催国のドイツをはじめ、フランス、イギリス、オーストリア、スイスなどから、欧州の幹部の皆さんが参集してくださいました。
そこでお話させていただいた講話のなかで、ブログで紹介できるような内容のものを選んで公開させていただきます。
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私は生長の家の本部講師、久都間 繁(くつま・しげる)と申します。
これから3日間、皆さんと一緒に生長の家の教えを研鑽させていただきます。
私は20代のころ、日本の京都にある「生長の家宇治別格本山」という生長の家の練成道場で修行していました。
そこで私は、何人もの素晴らしい本部講師と出会い、生長の家の教えについて研鑽させていただきました。
当時70歳代で、今は故人となった本部講師で、私が尊敬していた方に小嶋博という講師がいましたが、彼は、生長の家の講話について次のようなことを語っていました。
「生長の家の講話は、講演とは違う。それは講師と聴衆との、命(いのち)と命の遣り取りだ!」と。
ですから私は皆さんに、この研修会でのお話を通して、ただ単に「知識」だけを伝えるために来たのではありません。
祈りを通して、信仰を通して、生長の家が伝えようとしている神と、その世界観について、皆さんと一緒に学びながら、お話ししたいと考えていますので、どうぞよろしくお願いいたします。
先ず、私が生長の家に触れたきっかけについてお話させていただきます。
私は日本の静岡県というところで生まれました。そこは日本列島のちょうど真ん中あたりに位置する県で、そこには有名な富士山もあります。
私は生長の家の教えに出合う前は身体がとても弱く、小学校低学年のころから14歳ごろまで、病院への入退院を繰り返すような日々を送っていました。ですから、一つの学期を休まずに通学したことがありませんでした。
自分の思うようにならない病気の身体をかかえ、医者や薬に頼らなければ生きていけないような弱い体に生まれついたことを、私も両親も嘆いていました。
そんな生活が何年も続き、しかも入院するたびに、学校の授業の方はどんどん先に進んでいきましたので、私はまるで、自分一人だけこの世から取り残されたような気持ちになっていきました。
やがて自分のような不完全な者など、この世に必要ないのだから、「死んでしまいたい」と思うようになりました。
そうなってみると、「死んだら、どこに行くのか」ということがとても気になりました。
そのころ中学生になっていた私は、死後の世界について興味を抱くようになり、この分野を科学的に解説した書籍などを何冊も読んだりして研究するようになりました。
私が中学2年生になったばかりの春休みのこと、14歳ぐらいのときですが、私の父の知り合いで、当時、獣医師をしていた沢口わたるという20代後半の人物を紹介されました。
父の話では、彼は大学生のころから『生命の實相』という生長の家の本を熱心に読んでいて、神秘的な世界に精通しているらしいとのことでした。
さっそく私は、自転車で1時間ほどかけて、その方が働いている山の中の牧場に出かけて行きました。
テーブルをはさんで対面すると、沢口さんは私に、「シゲル君は神様や仏様は、どこにいると思いますか」と問いかけてきました。
私は、「神様は教会や神社に、仏様はお寺にいるのではないでしょうか」と答えると、彼は、「シゲル君、神様や仏様はね、教会やお寺にだけいるのではないんですよ。」と答えるのです。
さらに彼は、「神様はね、宇宙に満ちているのです。そしてシゲル君、本当は君も神様なんだよ!」と語っていました。
私が訪問した目的は、超能力のことや、死後に行くと伝えられる霊界のことについて話をうかがうことでした。
気がつけば、ここで主題となっているテーマは、より本質的な、哲学でいうところの「存在」や「実在」という領域に踏み込んでいたのです。
中学生にとっては、とても高度な内容の話にもかかわらず、彼の語る「本当は君も神様なんだよ!」という言葉に、私の魂はぐいぐい引きつけられていきました。
そして、これまでの私の世界観がガラリっと変わっていくような不思議な感じと、“やっぱりそうなのかもしれない!”といった期待と開放感とが入り交じったような悦びが湧いてくるのでした。
私は、思いつく限りの、ありとあらゆる疑問を、彼に投げかけてみました。彼からは実に愛情に充ちた、理路整然とした、しかも霊的な刺激に満ちた言葉が返ってくるのでした。
帰るとき、『白鳩』という、当時は生長の家を創始された谷口雅春先生が中心になって執筆されていた「生長の家」の月刊誌をいただきました。
ワクワクしながら自転車のペダルを踏んで家に帰り、頂いた『白鳩』誌を一冊持って自宅の裏山に登りました。
小さな尾根の切り株に座り、谷口雅春先生のご文章を読み進んでいると、私の目に、次の和歌が飛び込んできました。
「ただよへる雲の彼方にまん丸に 澄み切る月ぞ吾が姿なり」
この和歌の解説として、谷口先生は、おおよそ次のような意味の言葉を書かれていました。
空がどんなに曇っていたとしても、また雲の下が土砂降りであったとしても、その背後には、いつでもまん丸い月が煌々と照っている。
それと同じように、現象の貴方がどんなに病気をしていても、経済的に貧乏で生活が苦しかったとしても、また、どんな罪を犯してしまったとしても、そのような不完全な姿は、過ぎ去っていく雲のような仮の姿であって、本当の貴方自身ではありません。
本当のあなたは、一度も曇ったことも欠けたこともない、完全円満な美しい満月のような存在です。
未だかつて一度も病気したことも、罪を犯したことも、汚れたこともないもの、それが、神の創られたままの、あなたの本当の姿であり、それがあなたの實相だ!
この言葉が示している世界を観じたとき、脊髄に百万ボルトの稲妻が落ちたような感動が走り、同時に今まで私のうちで眠っていた本質的な何者かが目を覚ましたようでした。
ふと眼を上げると、木々の葉が、午後の柔らかな太陽の光を浴びて、何とも言いようのない霊々妙々とした瑞々しい美しい光りを湛えて輝いているのが、私の眼に飛び込んできました。
まるで、生まれて初めてこの世界に触れたような気がしました。
感動につつまれながら自宅に帰り、『白鳩』誌に再び目を通しながら裏表紙を見ると、そこには、当時、白鳩会副総裁をされていた谷口恵美子先生がお書きになった新刊で、『光の中をあゆむ』というタイトルのご本が紹介されていました。
そのタイトルのコトバが目に入ると、私自身が先ほど味わったばかりの光に包まれた荘厳な世界がふたたび蘇り、ご本の著者が、神の祝福に満ちた光の中をあゆんでいる光景が彷彿として脳裏に浮かんでくるのでした。
すべての人々が、今そのまま「光の中をあゆんでいる」という、神が創られたままの世界を素直に「観じ」て、天地のすべてのものを拝んでいる谷口恵美子先生の“想い”が、その本のタイトルからメッセージとして伝わってくるのを観じました。
それは、これから神様の造られたままの「光明に満ちた世界」に入るのではなく、神様の世界は今ここに、はじめのはじめから、完全円満なる神は、そのまま「実在しているのだ」という、大いなる発見と喜びに満ちたものでした。
これが私と、生長の家との出会いでした。
☆世界の宗教に現れた神と「万教帰一」の哲学
さて、本日の講話のタイトルである「万教帰一」の哲学についてお話させていただきましょう。
皆さん、世界にはキリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教などさまざまな宗教がありますね。
また、それぞれの宗教には、その宗教で崇拝するところの目に見えない崇高な存在があり、それは、旧約聖書ではヤハウェという名で表現され、イスラム教ではアッラーと呼んでいます。またインドのヒンドゥ教ではシバやブラフマンとも呼んでいます。
中国の道教ではタオ(道)などと呼び、日本で広く信仰されている仏教では、仏とも呼び、真如と呼んでいます。
このように、世界にはさまざまな宗教と、さまざまな神が存在していることがお分かりになると思いますが、ではなぜ、こんなにもたくさんの神がこの世界には現れているのでしょう。
それはちょうど、世界には160以上の国々があり、それ以上の民族、人種が存在していることと、よく似ているのです。
肌の色ひとつとっても、白い肌の人、黒い肌の人、黄色い肌の人いろいろいますし、髪の毛の色もさまざまですね。
さらに言語も、この会場だけみても私のように日本語を母国語とする人、ドイツ語の人、ポルトガル語の人、英語圏で生まれ育った人など、地球上には本当に多様な文化的背景を持つ人々が存在しています。同じ、Homo sapiensでありながら、実に多様性に満ちていますね。
さて、そのその地球上の国々の空を、毎日「太陽」がめぐって照らしています。太陽は一つですが、その同じ「太陽」のことを、160の国々があれば、それぞれの言語や伝統の中で、「太陽」を指し示す〝呼び名〟が、きっとたくさんあることでしょう。
日本語では「太陽」と呼びますが、英語では「sun」ですね。ドイツ語やポルトガル語では何と呼ぶのでしょうか?
このように、たとえば1000の言語や伝統があれば、太陽の名前も1000通りの呼び名が出現していることでしょう。
これと同じように、たとえば神様が一つだったとしても、1000の民族や言語がそれを把握すれば、神様の名前も1000通りの呼び名が現れる。そういうことになりませんか。
この神様のことを、別のたとえをもって表現してみましょう。皆さんは、自分の母親のことを「お母さん」と呼んでいることと思いますが、その同じ女性が、お父さんから見れば「妻」であり、祖父母からみれば「娘」であり、母のきょうだいから見れば「姉」や「妹」ですね。
また、友人から見れば誰々さんである、といったように、同じ1人の女性が、見る人の立場が異なるにしたがって、呼び方が変わるのです。
つまり一つの神、それは「究極的実在」とでも呼ぶべきものが、様々な時代に、さまざまな教祖を通して現れれば、別々の宗教の姿で現れるのです。
ですからキリスト教やイスラーム、仏教など、世界に出現した偉大な宗教は、「唯一絶対の神」という究極的実在が、それぞれの地域の言葉の違いによって別々の名前で呼ばれ、異なる伝統文化のなかで、それぞれの文化の文脈に織り込まれて信仰されているのです。
ですから、キリスト教も、イスラム教も、ヒンドゥー教も、それぞれ別の宗教のように見えていますが、実は一つの「究極的実在」が、様々な時代に、様々な民族に現れている姿なのです。
キリスト教もその本質は「唯一絶対の神」の現れであり、イスラームもその本質は「唯一絶対の神」の現れであり、ヒンドゥー教の本質も「唯一絶対の神」の現れなのです。
ただし、それぞれの時代に出現し、それぞれの伝統の文脈に織り込まれているうちに、その本質から離れ、迷いの要素が混入した教えもたくさんあります。
迷いの度合いが深まった結果が、今日の宗教的な対立や紛争となって現れているのです。
全人類が、迷いを去って「唯一絶対の神」に目覚め、それぞれの伝統的な宗教を通して「唯一絶対の神」を信仰するようになれば、対立や紛争はなくなり、世界に平和が実現するのです。
このように全ての宗教の本質を明らかにして、その本質を礼拝するのが、生長の家の「万教帰一」の教えです。
そして、「唯一絶対の神」を、現代において歪みなく正確にお伝えする運動が、生長の家の国際平和信仰運動なのです。
では、この「唯一絶対の神」とはどのような存在なのかということが気になりますね。この「唯一絶対の神」とは、世界の偉大な宗教を生み出した本源のことです。いわゆる人格神ではありません。
日本の生長の家では、拠点や道場などに「実相」と書いた額などを掲げ、神想観を実修する際に礼拝していますが、この「実相」とは、「実相世界」の象徴です。
「唯一絶対の神」とは、「実相世界」と言い換えることができます。
この「実相世界」について、生長の家の聖典である『生命の實相』第21巻(教典篇 27ページ~28ページ)には、次のように書かれています。
「この実相の無限荘厳世界は大調和の極の極の世界であって、神の無限の智慧、無限の愛、無限の生命によって出来上がった秩序整然たる世界が厳存するのであります。この実相を知ることが肝腎なのであります。(中略)
この世界を神霊の実現せる「光の世界」だと知りますと、光明無量の美しき世界が現実にあらわれてくるのであります。」
生長の家では、実相は完全円満であり、無限の智慧であり、無限の愛であり、無限の生命であると説きます。
この実相のことを、仏教では「尽十方無碍光如来」とも呼んでいますが、その意味するところは、究極的実在は宇宙に充ち満ちている光である、ということです。
この光とは、実在する智慧・愛・生命の象徴です。そして、実在宇宙には善きもののみが充満しており、不完全な現象は一切無い。そして私たち人間の本当のすがたも、実在の光そのものである、というのが生長の家で説いている「人間・神の子」の教えです。
ですから、道場や誌友会場などで「実相」という額の前で神想観を実修しますが、それは自分の外にあるものを拝んでいるのではありません。
「実相」は、私たち一人一人の内にあるのです。私たちの内にあり同時に宇宙に充ち満ちている。その「実相世界」と一体であるとの自覚を深める行事、それが神想観なのです。
私たちは、この「実相世界」を観じて、神の智慧・愛・生命と一体となることによって、この地上にも「実相世界」の大調和した状態を実現することができるのです。
イエス・キリストも語っていますね。
「御意(みこころ)の天に成るが如く 地にも成らせ給え」(マタイ伝)と。
神様の御心は、すでに天に(つまり実相世界)に成就しているのです。
だから私たちは、その既に成就している世界を深々と観じ、喜ぶことで、地(つまり現象界)にも、神の国の完全円満な状態を実現することができるのです。
これが生長の家の信仰生活の基本です。
日本の大乗仏教の宗祖の一人である親鸞上人は、次のような言葉を残しています。
信心よろこぶその人を 如来と等しと説き給う
大信心は仏性なり 仏性すなわち如来なり
この歌の意味するところは、神様を観じて喜ぶその人は、実は神様そのものなのです。喜びのなかにすでに神様の世界が実現しているのです。その信仰の喜びが神であり、実在の光なのです。といった意味になるかと思います。
皆さんは、最初から神の子なのです。それは実相世界に、すでに久遠の昔から、光と喜びに満ちて成就しているのです。その実相を観じて喜ぶことが、生長の家の信仰生活であり、地上に天国を実現する道なのです。
ご静聴ありがとうございました。
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コメント
合掌、ありがとうございます。
既に吾々は神そのままであり、真の神の子であります。
しかし日常において五感・五官だけを頼りに生きていこうとすると、自我・偽我の境に至り易くなります。
吾々はそこから生まれる様々なマイナス因や不完全な現象の現れを全て払拭しようと試みますが、結果はその当初よりも複雑で厄介なものになりがちです。まさに“負”の底なし沼です。
私はそういう時は力ずくでそういった想念を押さえ込んでみたり、プラスの事、マイナスとは真逆のことに意識を集中してみたりしますが、谷口 雅春先生が表現されたように、この"暴れ馬"を乗りこなすことは容易ではありません。やはり"想い"や"心"も現象なんですね。
やはりそれらをさらに超え、実相世界に常に"在る"為には『神想観』をし、それを習慣化させることが近道だと思います。
いつも私の頭の片隅には"地上(現象界)に天国を築けないのに、本当の国(実相界)に天国を築くことなど出来るわけがない。"とキリスト教的二元論が存在します。
しかし先生が仰るとおり、吾々は最初から神の子であり、それは実相世界に、既に久遠の昔から、光と喜びに満ちて成就しているんですよね。
神が想像し、創造した有りのままの神の子として、この永遠生き通しの幸福の旅を続けていきたい所存です。
ありがとうございました。
投稿: 山崎 | 2008年5月27日 (火) 21時00分
山崎様
コメントの中にある、
"地上(現象界)に天国を築けないのに、本当の国(実相界)に天国を築くことなど出来るわけがない"
という考え方、意外と多くの方が抱いているのかもしれませんね。
言い換えますと、「肉体に健康を実現できないのに、実相身に健康を実現することなど出来るわけはない」ということになるでしょうか。
昨日、休みだったので友人たちと歓談していた折、ある病に罹った共通の友人のことが話題に上りました。
参加していた一人の女性が「その人が自分のことを責めるのは、自分のことを愛していないからではないでしょうか」と語っていました。
自分のことを「肉体存在」としか見ることができなかったら、その人の魂が純粋であればあるほど、(自分のことを)「愛する」ことが難しくなるかもしれません。
この世(世界)についても同じことが言えると思います。
「実在」するものと、現れているだけの「現象」とを峻別することは、とりもなおさず、本ものの自分と、ニセモノの自分とを明らかにすることでもあります。
本ものの自分とは、「神」以外の何ものでもありません。
神とは、「愛」そのものですから、まず、その「愛」なる自分を認め、「愛」そのものであることを喜ぶことから、現象界にも真象(本ものの完全円満なすがた)が、そのまま現れてくる、それが「三界唯心所現」という横の真理です。
ですから生長の家の教えでは、「唯神実相」ということと、「唯心所現」ということとが表裏一体をなしている。三正行を通して「唯神実相」の世界を悦び生きる、それがこの世に「地上天国」をもたらす大いなる秘訣なのです。
投稿: 久都間 繁 | 2008年5月31日 (土) 14時42分
全く素晴らしいですね。久都間さんは子供の頃、ご苦労されたのですね。初めて知りました。それで生長の家に導かれたのですね。僕は何となく生長の家は知っているという感じでしたので、雷に打たれた様な衝撃は生長の家を知っていてもありませんでした。
僕が生長の家の本質に触れられたて、手の舞い足の踏むところを知らずという状態になったのは榎本先生にお会いしてからです。そして、幽齋殿で「本当の信仰についての神示」を拝読した事が決定的でした。
ところでこんなに素晴らしい生長の家の真理の神髄を拝聴出来たドイツの人は幸せですね。また、僕の長年の夢は生長の家の神髄を外国人に説いて回るという事ですから、うらやましい限りです。
投稿: 堀 浩二 | 2008年6月13日 (金) 17時42分
堀 浩二 様
コメントをありがとうございました。
5日ほど前にあなた宛に返信を書いたのですが、情報を登録し忘れていたので、アップされることなくどこかに消えてしまったようです。(私も何を書いたのか忘れてしまいました(^^;)
最近、生長の家の「光明縁起説」を説き明かすことの重要性を強く感じています。
谷口雅春先生が、『碧巌録解釈』(後編)の第九十則の中で、仏教の「無明縁起説」と生長の家の「光明縁起説」とを対比させてお説きくださっている箇所があります。現象の不完全と見える世界を超えて、光明一元(善一元)の世界に躍入して運動を展開するためには、この教えの基礎論的なところをハッキリさせて、私たち一人一人が、何ものにも汚されることのない「光り(荘厳なる実在)」であることを鮮明にしておく必要があるなあと、そんなことを観じています。
また、私たちが宇治の研修生だったときに、榎本先生が最も情熱を傾けて直指されていたことの一つが、この生長の家「光明縁起説」であることが、最近になってようやく分かりかけてきました。
またそれは、副総裁先生が提唱され、今日の運動で展開されている「日時計主義」の生き方や、芸術的感覚を活かした誌友会などの諸活動の基礎となる大切なところ(哲学)ではないかと、日夜考えを巡らせています。
投稿: 久都間 繁 | 2008年6月18日 (水) 13時40分