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2008年6月

2008年6月28日 (土)

魂の「進歩」をめぐって

 山崎さんから頂いたコメントへの返信が、やや長文になりましたので、こちらにアップすることにしました。

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>生物の進化もその時代、その時の環境の対応等によって勝ち得た神の御計らいだと思っていました。今でもそう思っている節はあります。

 私もかつて、優勝劣敗の法則が支配しているかに見える現象世界の営みと、「大調和の神示」に説かれた世界との矛盾について思索していた時期があります。

 生長の家では、「実相」(実在)と「現象」(非実在)という言葉を使用して唯神実相の哲学を説いていますが、「実相」という言葉が指し示しているものは、真に実在するものは“そのままで完全円満である(自性円満)”という善一元の世界観です。

 その実相哲学から、生物の進化という広大な歴史現象を捉え直してみると、進化における“突然変異”とは、実相世界に在る無限内容が、環境や条件に応じて次々と時間・空間というスクリーン上に展開しているすがたと観ることができます。

 いわゆる私たちが学校で学んだような、生命は「進化」することによって発達し、やがて(無限時間後の可能性として)完全な状態に至ると見るのは、生命を現象面からのみ捉えた考え方(一面観)に過ぎません。私が先の文章で否定したのは、世の通念となっているこのような意味での「進化」のことです。

 つまり生物の進化は、現象面からは、貴方が感じたように「その時の環境の対応等によって勝ち得た神の御計らい」と見ることもできますが、実相の視点から観れば、一切の生物は「これから進化して完全円満になる」のではなく、神の世界に既にある(完全円満なる)無限内容が、現象世界の時間・空間を通して表現されつつある――
 つまり唯一絶対の神の生命(光り)が、全宇宙的に同時展開している。そう観るのが、「無明縁起説」を脱却した、生長の家の「光明縁起説」から観た世界観です。

 また、現象世界という時間・空間というスクリーン上に映し出された世界は、神と対抗できるような厳然と存在する世界ではありません。
 私たちの心に従って、敵が在る、と観れば敵が現れ(偽象)、現象なし! 実相独在、と観れば大調和の世界(真象)が現れるのです。
 偽象、真象ともに、現れたものは“実在そのもの”ではありません。
 
 実在するものは、完全円満なる(光明一元・善一元の)神のみなのです。

>“もっと彼らの子としてちゃんと生きたい”“神の子を完全に表現する=両親に対する最大最高の親孝行”という方程式を完成させたいという気持ちが沸々と出てきます。またその図式は一体どのようなものであるのか考えたりもします。
>そのような本物の神の子が、その父母に感謝するとは一体どういうことなのでしょうか?
>一つ言えることは“今、このままで善い”ということは無いと思います。

 

 貴方が明るく楽しく伸び伸びと生きていることが、最大の親孝行ではないでしょうか。

 神の子の“そのまま”とは、現象面に映し出された“そのまま”ということではありません。
 神の子は「神」ですから、そのまま内に無限内容を蔵しているのです。私たちの“本質”である無尽蔵の宝(智慧・愛・生命)は、そのままで最高に尊いのです。が、さらにそれを豊かに実現させることこそが私たちがこの世に生まれてきた目的であり、その“本質”を表現できたときに限りない悦びを感じるのです。

 生長の家は、現象の暗黒面(自分や他者の不完全)を認めて相手にするところではありません。

「真象」の現れである光明面のみを観て、それを讃え、悦び感謝して生きる。三界唯心の所現によって、さらにその悦びが喜びを呼び、光りが、さらに光りを増幅してこの世に光りあふれる地上天国が現れるのです。それが、生長の家が進めている「日時計主義」の生き方なのです。 

久都間 繁

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2008年6月26日 (木)

魂の「進歩」について

 昨日の朝、拝読した『続 真理の吟唱』(谷口雅春先生著)に次のような一節があった。

進歩というのは、人間生命の無限内容を隠覆していた被服の如き、濃厚なる物質的波動が希薄となりて剥落して“神の子”たる実相の内容が一層ゆたかに光彩を放つに至ることである。(同書、261頁)

 魂の「進歩」と、生物の「進化」とは異なるのである。

「進化」とは、生物が種や属を超えて別種のものへと変化することであるが、魂の進歩とは、はじめのはじめから在った“神の子”の無限内容が顕わとなる、つまり本質がそのまま露見することなのだ。

「無限内容」の情報とは、即ち「光り」である。

 人間・神の子、“そのまま円満完全”なる大光明をよろこぶことで、物質への執着が希薄となり、現象への執着が剥落するにしたがって、神の無限内容が光りを放つのである。

 十方世界光明遍照、吾が全身光明遍照である。

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2008年6月22日 (日)

「秋葉原事件」について

 昨夜、久しぶりに早く帰ってみると、6年生の次女を座長に3年生の長男、年長組の次男の3人が、カードゲーム「UNO」なるものに遊び興じていた。
 
 目下の弟どものことを知悉している座長(次女)は、彼らを後目に軽妙な舌戦を仕掛けながら、今このカードを切ったらこの子は泣いちゃって遊べなくなるな、ここで自分だけ上がってしまったらケンカになるぞ、など相手の顔色や心理を読みつつ、嬉々としてゲームを進めていた。

 私は、「この子はマージャンに向いているかもしれない」などと感心しながら徳利を傾けていたが、ふと「秋葉原無差別殺傷事件」の加害者は、子供の頃どのような遊びをしていたのだろうかと思った。

 スポーツをはじめ「UNO」やトランプなど、人間同士が直接野外や卓上で遊ぶゲームには必ず喜怒哀楽が伴い、そこに知識や技術を超えたゲームの奥深さや味わいが生まれる。

 わが家では、テレビゲームは学習用ソフトを除いて基本的に禁止しているが、人間が直接ふれ合うことで成立するリアルなゲームと、プログラムを相手にするテレビゲームとの違いとは何だろうか。

 ただ一つ言えることは、テレビゲームに登場する相手(キャラクター)は、喜怒哀楽が完全に欠落しているということだ。

 どの勝負であれ人間同士の対戦では、①「知能」②「技術」③「感情」、この三つの要素が複雑に加わることでゲームの勝敗が決するのではないだろうか。

 なま身の人間と対戦しないテレビゲームでは、参加する人間の側にのみ①「知能」②「技術」③「感情」の三要素が成立しているが、相手となるキャラクターの側には①「知能」②「技術」しか存在しない。

 勝負とは、つまり①「知能」戦、②「技術」戦、③「感情」戦を、双方向的な遣り取りを通して総合力で競うのが本来であるが、ゲームに登場するキャラクターとの対戦では、③「感情」戦については、相手からの反応を得ることができないため、相手の喜びも怒りも悲しみも楽しみも嘆きも、こちらに伝わって来ることはない。

 通勤途中の電車の中で、猟奇的なゲームソフトの宣伝が、広告用の液晶画面に流れることがある。そこでは、大刀を持った武者のような主人公が、数え切れないほどのサムライや怪物を、バッサバッサと切り捨てるシーンが目に飛び込んでくる。

 テレビゲームでは、なぜこれほどまでに「死」が軽んじられているのか。なぜ、これほどたくさんの生き物を殺すことが出来るのか。
 それは、相手に「感情」が存在していないことが明白だからであろう。「感情」が存在していなければ、それは“生き物”ではなく、ただの「もの」に過ぎないわけであるが、バーチャル空間の場合は「者」であることも、「物」であることすらも成立しない。つまりスイッチ一つ、リセットひとつで現れたり消えたりする対象に、いちいちそんなやっかいな“思い”を抱くことができないのは当然のことであろう。「感情」のやりとりのないところに、「思いやり」や「優しさ」が成り立たないのも当たり前の道理である。徹底的に痛めつけたとしても、その対象からは微塵も「人格」や「痛み」や「悲しみ」を感じることはできないのだから――。

 リアル(現実)の世界での「知能」、「技術」、「感情」による遊びを十分に経験していない子供が、一人バーチャル(仮想空間)で、「感情」の完全に欠落した、「者」でも「物」でも、そして「モノ」でもない“相手”と遊ぶ。

 努めて想像してみてほしい。

「無差別殺傷事件」が、なぜあのような場所で発生したのか。
 防止するには、どのようにすればいいのか。

 そして、子供にふさわしい“遊び”とは、何なのかということを。

 政治やイデオロギーや思想を越えて、それぞれの家庭や地域で取り組まなくてはならないことがたくさん見えてこないだろうか。

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2008年6月20日 (金)

神の「無条件の愛」について

 生長の家の『甘露の法雨』には、次のような一節があります。


至上
無限
宇宙を貫く心
宇宙を貫く生命
宇宙を貫く法則
真理
光明
智慧
絶対の愛。

 この「絶対の愛」こそが、「唯一絶対の神」の愛です。
 この「絶対の愛」は、この人は良い人間だから愛するけれども、この人は罪人だから愛さない、といった相対的な偏った愛ではありません。
「絶対の愛」を言い換えてみれば、「無条件の愛」ということです。

 それは、信仰を持っている人にも、神を否定している無神論者にも、盗人にも、人を殺したような罪人にも、まったく平等に、無条件に、しかも無限に降り注いでいる太陽のような「愛」のことです。

 その愛は、これから降り注ぐのではありません。また、過去に降り注いでいたのでもありません。
 その愛は、今すでに、ここに降り注いでいるのです。

 また、生長の家の『甘露の法雨』の劈頭にある「大調和の神示」には、次のような一節があります。

「汝ら天地一切のものと和解せよ。天地一切のものとの和解が成立するとき、天地一切のものは汝の味方である」。

「天地一切のもの」とは、自分を取り巻く総てのもののことです。同時に私たち自身のことも含みます。つまり、天地一切のものである、私と私を取り巻く全てのものと和解するとは、それら全てのものの背後にある、「神」と“ひとつ”になりましょう、ということなのです。

 それは、「神」と、「私」と別れていたものが、これから“ひとつ”になる、ということではありません。
「神」と「私」「天地の万物」とは、初めから“ひとつの命”だからこそ、「無条件の愛」によって結ばれているです。

 神様の世界では、天地の全てのものが、既に初めのはじめから愛し合っているのです。
 その実相を観て喜び祝福しなさい、ということが「天地一切のものに感謝せよ」ということなのです。

 また、天地一切のものが無限に愛し合い、感謝しあっている実相を私たちが観て悦ぶとき、実相において“ひとつ”である天地一切のものも歓喜して、その完全円満な大調和の姿が現れるのです。それが「天地一切のものは汝の味方である」という意味です。

 ですから、「大調和の神示」は次のように続いています。

「その感謝の念の中にこそ汝はわが姿を見、わが救いを受けるであろう。われは全ての総てであるからすべてと和解したものの中にのみわれはいる」

 私たちが神想観を実修して、神様の無条件の愛の世界に飛び込んだとき、天地一切のものは「味方」つまり、「神」となるのです。

 ですから私たちが、まだ自分のことを嫌っていたり、誰かを恨んだり、憎んでいるとしたら、その人間の「現れ」だけを見ているのですから、不完全な相しか見えないのは当たり前のことなのです。

「現象」というニセモノを見ていたのでは、自分とも、その人とも、永遠に和解することも感謝することも、調和することもできません。なぜなら、本当の人間そのものである実相と出合っていないからです。

 ソクラテスは、アテネのデルフォイの神殿に刻まれていた、「汝自身を知れ」という言葉を読んで実行したそうですが、私たちも、「汝自身」である人間・神の子に目覚め、大調和の実相世界に飛び込み、“無条件の愛”の大海原へと漕ぎだそうではありませんか。
 生長の家では、神想観で現象を否定して、その“無条件の愛”の中に飛び込んでしまうのです。

 この世界には犯した罪もなければ犯された罪も存在しません。そんなものはみな現象です。私たちが現象を放ってしまえば、人類の「原罪」は一切存在しないのです。
「原罪」と感じられたものは、ただの現象であり、それは本来無いのです。

「現象無し」「実相独在」に徹することで、もう貴方はこの世に恐れるものはなくなり、“無原罪の神の子”つまり“天下無敵”となることができます。

「生長の家信徒行持要目」のなかに、「常に必勝を信じて人生を邁進すべし」という言葉があります。
「必勝」とは、先ほど紹介した聖経『甘露の法雨』にある、「宇宙を貫く心 宇宙を貫く生命 宇宙を貫く法則 真理 光明 智慧 絶対の愛」のことです。

 たとえ現象的に「負けた」と見えたとしても、神を生きる者は常に「必勝」なのです。私たちは“久遠生き通しの命”なのです。
 現象は、初めから負けているのです。負けているどころか「現象は無い」のです。

 私たちは、ますます“無原罪の神の子”の実相を喜び、この「罪なし」「病なし」「死なし」の真理を、神とともに、聖なる光となって、より多くの人に伝えていきたいと思います。

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私の治病体験

  今から25年以上前のことです。

 私は生長の家青年会の活動をしながら、父が経営する建設会社に勤務していました。
 ある年の夏が過ぎたころ、以前から悪かった私の体調が思わしくなくなり、次第に床に就くようになりました。
 私は小学校低学年のころから入退院を繰り返していましたが、生長の家に触れて一時は良くなっていたものの、その時は呼吸器疾患で苦しみ、医者に行っても、薬を服用しても一向に病気は回復せず、ついに病床に伏してしまいました。

 そのような私の状態を見るに見かねた生長の家の先輩が、長崎にある生長の家総本山での練成会に参加することを勧めてくれました。

 私は生長の家の教えに触れて以来、教えの本も良く読み、活動もしていましたが、そのときはまだ、知識だけの生長の家だったのです。

 つまり、神様のことを、生長の家の講師の話を聞き、本などを読んで学問的に理解することも大切ですが、それだけではまだ信仰が確信にまで至っていない場合が多いのです。

 したがって、心で描いた通り、信じたとおりの不安定な世界が現れて、病気ともなるのです。

 神様を本当に深く知り、信仰にまで達するためには、神想観の実修を通して、ダイレクトに神様の世界に飛び込んでしまう、そういう霊的修行が重要となります。

 つまりそのころの私は、まだ神想観をたまにしか実修せず、そのために、現象を超えたところにある神様の世界の真の悦びが分からなかったのです。
 つまり生長の家の活動はしていても、心の底では罪や、病気や、貧乏の存在を認め、どっぷりと現象の世界に住んでいたわけです。

 さて、総本山で練成会を受けることを決めた私は、病気で衰弱した体を引きずるようにして歩き、呼吸困難に陥りながらも駅の階段の手すりにつかまり、ゆっくりホームに移動して、親しい友人に見送られつつ、夜行列車で生長の家総本山へと出発しました。翌日の午前中に長崎駅に着き、さらにバスに揺られ、ようやく練成道場に到着しました。

 当時の総本山では、泉英樹・本部講師が練成部長として講話を担当されていました。
 練成道場に着いても、私の体調は一向に回復する兆しはありませんでした。

 しかし、せっかくここまで来たのだからと、早朝に行われる神想観、聖経『甘露の法雨』の拝読、そして農作業などの肉体労働の献労など、身体の調子がどんなに悪くても、行事を一つも休むことなく、生長の家の教えをただただ信じて、死んだ気持ちになって一つ一つの行事に参加していました。

 そして4日目あたりの講話で、泉講師が「実相」と「現象」についての話をしてくださいました。
 それは、肉体に現れた病気などの「症状」は、あるように見えても本当は存在しないこと。
 これを「現象」と言い、その「現象」は私たちの「心」によって絶えず変化していること。
 そして「現象」の背後には完全円満な「実相」があり、それこそが私たちの本体であること。
 私たちはこの「実相」を観ずることによって、肉体という「現象」にも完全なる健康状態をもたらすことができるということ。
 したがって私たちは、絶えず実相世界を観ずるように努め、完全円満なる大調和した世界のみを観じ続けることがとても重要である、おおよそこのようなことを教えていただきました。
 つまり現象の世界を去って、実相世界に入るための重要な筋道を教えていただいていたのです。

 さらにその後で、『続々甘露の法雨』というお経を読む行事がありましたが、そのお経の一節に次のような言葉が書かれていました。

「汝ら今、生命(いのち)あることを悦べ、
 今、生きてあるその『今』を悦ぶべし。
 汝の悦びは汝の病を癒すべし。」

 ここにある、「今、生きてあるその『今』を悦ぶべし」というコトバが強く魂に響き、深く印象に残りました。

 この「今」とは、過去・現在・未来という時間の流れのなかの「現在」における「今」ということではありません。

 イエス・キリストは、「アブラハムの生まれぬ前より吾はあるなり」と語っていますが、この「アブラハムの生まれる前」というのは、時間・空間を超越したの世界のことです。

「今」を悦ぶべしの、その「今」も、やはり、この時間・空間を超越した世界のことなのです。
 つまり「今」を悦ぶとは、時間・空間発生以前の「実相世界」を悦ぶ、ということなのですね。

 翌日の午後、献労の時間に農作業をしながら、私は実相世界を観ずるために、心の中でで「ありがとうございます、ありがとうございます、実相円満完全、実相円満完全」と、一心に内なる完全円満な世界を観じながら、与えられた仕事に励んでいました。

 夕方となり、その日の農作業を終えて、他の参加者と一緒にクワなどの農機具を片づけているときに、ふと次のような直観が私の脳裏にひらめきました。

「私の体は今どんな病気をしていても、それは現象であって実在ではない。本当に存在しているのは、神様の造られたままの完全円満な実相世界だけだったのだ!」
 ということが、忽念と分かってきたのです。

 そのときに、『続々甘露の法雨』に書かれていた、「『今』を悦ぶべし」という、その『今』とは、病気という現象を超えたところにある善一元の大調和した世界であり、それこそが久遠不滅の『今』であり、それは「歓喜」そのもの、「悦び」そのものであることがハッキリと観じられたのです。

 私たちは、神様が造られたままの“そのままの世界”つまり「善一元の世界」を悦ぶだけでよかったのです。

 つまり、神様の世界には、「罪」という現象は無いのです。
 神様の世界には、病気という辛い現象も無かったのです。
 神様の世界には、貧乏という不完全な現象も無かったのです。

 実在するものは、ただ善に満ち、喜びに溢れた、完全円満なる世界だけだったのです。

 それ以来、私は、完全円満な「今」を、ただ「ありがとうございます、ありがとうございます」と感謝し、ただただ神様の造られたままの世界を観て喜んでいました。

 イエス・キリストは、福音書のなかで「十字架を背負いてわれに従え」と語っていますが、十字架を背負うとは、時間・空間の世界に現れた不完全な現象の一切ををなげうって、ただ善一元・光一元の神に従う! ということなのです。
 それが、「今」を生きる、ということなのです。

 さて、私の身体の症状ですが、翌朝、目を覚ますと、咳とともに大きな痰の固まりがドカっと出てきました。さらに咳をする度に痰の固まりが一緒に出てきて、その度に呼吸が楽になっていきました。

 やがて、さわやかなそよ風のようなものが躰中をめぐるように感じられ、全身が軽やかになるにつれて、病気の症状もきれいに消えてしまったのです。

 神様が造られたままの完全な世界のみを見つめ、無心に悦ぶことで、神の国さながらの円満な、喜びに充ちた健康状態が、肉体にも現れてきたのです。

 また、練成会の7日目には、ちょうど総本山の近くにある佐世保市で、谷口清超先生ご指導の講習会があるとのことで、練成会の参加者全員と一緒に道場からバスに乗って会場に行き、私は一番前の席で終日聴講させていただきました。

 私の心境が変化したことで、私を取り巻く世界がどんどん光りあふれるものへと変貌していくのを感じました。
 心が神様の世界に振り向けば、神様の完全円満なる世界が、この現象界にも現れて来るのです。

 ですから、個人の病気や経済問題を解決するにとどまらず、世界平和を実現するためにも、私たち一人一人が、神様の世界にすでに成就している完全円満な世界を観じ、それを心から喜ぶことが大切なのです。
 喜ぶことによって、その人の住む世界が天国極楽浄土へと変貌するのです。 

 生長の家の聖経『甘露の法雨』には、次のような一節があります。

創造の神は
五感を超越している、
六感も超越している、

 つまり、私たちの五感や六感の感覚にふれるものは、「現象」であって、それは神の真の相(すがた)ではない、ということですね。

「現象」とは、「現れているだけ」の仮の存在であって、本当は「無い」のです。無いからさまざまな姿に現れるのです。
 ですから、あるときは病気や紛争などの不完全な姿に現れ、またあるときには天国的な状態があらわれる。

 これも「現れている」だけであって、「実在」ではないのです。
 争いも、病気も、貧乏も、あるいはラッキーな出来事でさえも、現象世界にあるものは全て実在ではないのです。
 私たちの五感に触れるものの全ては「現れている」だけであって本来無いのです。
 私たちの肉体も、私たちの「心」すらも、現れては消える現象です。

 ですから生長の家では、肉体の背後に、現象の背後に、肉体を表現し、現象を表現しているところの「唯一絶対の神」が存在し、その「唯一絶対の神」のみが実在であり、その神の世界は“善一元の世界”であり、完全円満な世界であると説きます。

 また現象界は、「現れているだけ」の世界だからこそ、私たちが「善一元の世界」に心を振り向けることによって、先ほど申し上げたように、神様の完全円満なる世界を自在に現すことができるのです。ですから真の宗教は、魂のみならず、実際の生活をも救うことができるのです。

 また、聖経『甘露の法雨』の別のところには、

「実在は五官を超越し 第六感さえも超越して 人々の感覚に映ずることなし」

 と説かれています。

 この意味は、人々が五感、六感で見たり聞いたりしているのは「現象」であって、実在ではない。「実在」すなわち「神」は、感覚に映ずることはないから、キリスト教では祈り、あるいは瞑想を行い、禅宗では坐禅を組み、生長の家では神想観を実修して、物質を超え、肉体を超え、一切の現象を超えて、すでに初めのはじめから成就している神様の世界に帰り、完全円満なる神の子の自覚を深めるのです。

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