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2008年6月20日 (金)

私の治病体験

  今から25年以上前のことです。

 私は生長の家青年会の活動をしながら、父が経営する建設会社に勤務していました。
 ある年の夏が過ぎたころ、以前から悪かった私の体調が思わしくなくなり、次第に床に就くようになりました。
 私は小学校低学年のころから入退院を繰り返していましたが、生長の家に触れて一時は良くなっていたものの、その時は呼吸器疾患で苦しみ、医者に行っても、薬を服用しても一向に病気は回復せず、ついに病床に伏してしまいました。

 そのような私の状態を見るに見かねた生長の家の先輩が、長崎にある生長の家総本山での練成会に参加することを勧めてくれました。

 私は生長の家の教えに触れて以来、教えの本も良く読み、活動もしていましたが、そのときはまだ、知識だけの生長の家だったのです。

 つまり、神様のことを、生長の家の講師の話を聞き、本などを読んで学問的に理解することも大切ですが、それだけではまだ信仰が確信にまで至っていない場合が多いのです。

 したがって、心で描いた通り、信じたとおりの不安定な世界が現れて、病気ともなるのです。

 神様を本当に深く知り、信仰にまで達するためには、神想観の実修を通して、ダイレクトに神様の世界に飛び込んでしまう、そういう霊的修行が重要となります。

 つまりそのころの私は、まだ神想観をたまにしか実修せず、そのために、現象を超えたところにある神様の世界の真の悦びが分からなかったのです。
 つまり生長の家の活動はしていても、心の底では罪や、病気や、貧乏の存在を認め、どっぷりと現象の世界に住んでいたわけです。

 さて、総本山で練成会を受けることを決めた私は、病気で衰弱した体を引きずるようにして歩き、呼吸困難に陥りながらも駅の階段の手すりにつかまり、ゆっくりホームに移動して、親しい友人に見送られつつ、夜行列車で生長の家総本山へと出発しました。翌日の午前中に長崎駅に着き、さらにバスに揺られ、ようやく練成道場に到着しました。

 当時の総本山では、泉英樹・本部講師が練成部長として講話を担当されていました。
 練成道場に着いても、私の体調は一向に回復する兆しはありませんでした。

 しかし、せっかくここまで来たのだからと、早朝に行われる神想観、聖経『甘露の法雨』の拝読、そして農作業などの肉体労働の献労など、身体の調子がどんなに悪くても、行事を一つも休むことなく、生長の家の教えをただただ信じて、死んだ気持ちになって一つ一つの行事に参加していました。

 そして4日目あたりの講話で、泉講師が「実相」と「現象」についての話をしてくださいました。
 それは、肉体に現れた病気などの「症状」は、あるように見えても本当は存在しないこと。
 これを「現象」と言い、その「現象」は私たちの「心」によって絶えず変化していること。
 そして「現象」の背後には完全円満な「実相」があり、それこそが私たちの本体であること。
 私たちはこの「実相」を観ずることによって、肉体という「現象」にも完全なる健康状態をもたらすことができるということ。
 したがって私たちは、絶えず実相世界を観ずるように努め、完全円満なる大調和した世界のみを観じ続けることがとても重要である、おおよそこのようなことを教えていただきました。
 つまり現象の世界を去って、実相世界に入るための重要な筋道を教えていただいていたのです。

 さらにその後で、『続々甘露の法雨』というお経を読む行事がありましたが、そのお経の一節に次のような言葉が書かれていました。

「汝ら今、生命(いのち)あることを悦べ、
 今、生きてあるその『今』を悦ぶべし。
 汝の悦びは汝の病を癒すべし。」

 ここにある、「今、生きてあるその『今』を悦ぶべし」というコトバが強く魂に響き、深く印象に残りました。

 この「今」とは、過去・現在・未来という時間の流れのなかの「現在」における「今」ということではありません。

 イエス・キリストは、「アブラハムの生まれぬ前より吾はあるなり」と語っていますが、この「アブラハムの生まれる前」というのは、時間・空間を超越したの世界のことです。

「今」を悦ぶべしの、その「今」も、やはり、この時間・空間を超越した世界のことなのです。
 つまり「今」を悦ぶとは、時間・空間発生以前の「実相世界」を悦ぶ、ということなのですね。

 翌日の午後、献労の時間に農作業をしながら、私は実相世界を観ずるために、心の中でで「ありがとうございます、ありがとうございます、実相円満完全、実相円満完全」と、一心に内なる完全円満な世界を観じながら、与えられた仕事に励んでいました。

 夕方となり、その日の農作業を終えて、他の参加者と一緒にクワなどの農機具を片づけているときに、ふと次のような直観が私の脳裏にひらめきました。

「私の体は今どんな病気をしていても、それは現象であって実在ではない。本当に存在しているのは、神様の造られたままの完全円満な実相世界だけだったのだ!」
 ということが、忽念と分かってきたのです。

 そのときに、『続々甘露の法雨』に書かれていた、「『今』を悦ぶべし」という、その『今』とは、病気という現象を超えたところにある善一元の大調和した世界であり、それこそが久遠不滅の『今』であり、それは「歓喜」そのもの、「悦び」そのものであることがハッキリと観じられたのです。

 私たちは、神様が造られたままの“そのままの世界”つまり「善一元の世界」を悦ぶだけでよかったのです。

 つまり、神様の世界には、「罪」という現象は無いのです。
 神様の世界には、病気という辛い現象も無かったのです。
 神様の世界には、貧乏という不完全な現象も無かったのです。

 実在するものは、ただ善に満ち、喜びに溢れた、完全円満なる世界だけだったのです。

 それ以来、私は、完全円満な「今」を、ただ「ありがとうございます、ありがとうございます」と感謝し、ただただ神様の造られたままの世界を観て喜んでいました。

 イエス・キリストは、福音書のなかで「十字架を背負いてわれに従え」と語っていますが、十字架を背負うとは、時間・空間の世界に現れた不完全な現象の一切ををなげうって、ただ善一元・光一元の神に従う! ということなのです。
 それが、「今」を生きる、ということなのです。

 さて、私の身体の症状ですが、翌朝、目を覚ますと、咳とともに大きな痰の固まりがドカっと出てきました。さらに咳をする度に痰の固まりが一緒に出てきて、その度に呼吸が楽になっていきました。

 やがて、さわやかなそよ風のようなものが躰中をめぐるように感じられ、全身が軽やかになるにつれて、病気の症状もきれいに消えてしまったのです。

 神様が造られたままの完全な世界のみを見つめ、無心に悦ぶことで、神の国さながらの円満な、喜びに充ちた健康状態が、肉体にも現れてきたのです。

 また、練成会の7日目には、ちょうど総本山の近くにある佐世保市で、谷口清超先生ご指導の講習会があるとのことで、練成会の参加者全員と一緒に道場からバスに乗って会場に行き、私は一番前の席で終日聴講させていただきました。

 私の心境が変化したことで、私を取り巻く世界がどんどん光りあふれるものへと変貌していくのを感じました。
 心が神様の世界に振り向けば、神様の完全円満なる世界が、この現象界にも現れて来るのです。

 ですから、個人の病気や経済問題を解決するにとどまらず、世界平和を実現するためにも、私たち一人一人が、神様の世界にすでに成就している完全円満な世界を観じ、それを心から喜ぶことが大切なのです。
 喜ぶことによって、その人の住む世界が天国極楽浄土へと変貌するのです。 

 生長の家の聖経『甘露の法雨』には、次のような一節があります。

創造の神は
五感を超越している、
六感も超越している、

 つまり、私たちの五感や六感の感覚にふれるものは、「現象」であって、それは神の真の相(すがた)ではない、ということですね。

「現象」とは、「現れているだけ」の仮の存在であって、本当は「無い」のです。無いからさまざまな姿に現れるのです。
 ですから、あるときは病気や紛争などの不完全な姿に現れ、またあるときには天国的な状態があらわれる。

 これも「現れている」だけであって、「実在」ではないのです。
 争いも、病気も、貧乏も、あるいはラッキーな出来事でさえも、現象世界にあるものは全て実在ではないのです。
 私たちの五感に触れるものの全ては「現れている」だけであって本来無いのです。
 私たちの肉体も、私たちの「心」すらも、現れては消える現象です。

 ですから生長の家では、肉体の背後に、現象の背後に、肉体を表現し、現象を表現しているところの「唯一絶対の神」が存在し、その「唯一絶対の神」のみが実在であり、その神の世界は“善一元の世界”であり、完全円満な世界であると説きます。

 また現象界は、「現れているだけ」の世界だからこそ、私たちが「善一元の世界」に心を振り向けることによって、先ほど申し上げたように、神様の完全円満なる世界を自在に現すことができるのです。ですから真の宗教は、魂のみならず、実際の生活をも救うことができるのです。

 また、聖経『甘露の法雨』の別のところには、

「実在は五官を超越し 第六感さえも超越して 人々の感覚に映ずることなし」

 と説かれています。

 この意味は、人々が五感、六感で見たり聞いたりしているのは「現象」であって、実在ではない。「実在」すなわち「神」は、感覚に映ずることはないから、キリスト教では祈り、あるいは瞑想を行い、禅宗では坐禅を組み、生長の家では神想観を実修して、物質を超え、肉体を超え、一切の現象を超えて、すでに初めのはじめから成就している神様の世界に帰り、完全円満なる神の子の自覚を深めるのです。

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