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2008年6月22日 (日)

「秋葉原事件」について

 昨夜、久しぶりに早く帰ってみると、6年生の次女を座長に3年生の長男、年長組の次男の3人が、カードゲーム「UNO」なるものに遊び興じていた。
 
 目下の弟どものことを知悉している座長(次女)は、彼らを後目に軽妙な舌戦を仕掛けながら、今このカードを切ったらこの子は泣いちゃって遊べなくなるな、ここで自分だけ上がってしまったらケンカになるぞ、など相手の顔色や心理を読みつつ、嬉々としてゲームを進めていた。

 私は、「この子はマージャンに向いているかもしれない」などと感心しながら徳利を傾けていたが、ふと「秋葉原無差別殺傷事件」の加害者は、子供の頃どのような遊びをしていたのだろうかと思った。

 スポーツをはじめ「UNO」やトランプなど、人間同士が直接野外や卓上で遊ぶゲームには必ず喜怒哀楽が伴い、そこに知識や技術を超えたゲームの奥深さや味わいが生まれる。

 わが家では、テレビゲームは学習用ソフトを除いて基本的に禁止しているが、人間が直接ふれ合うことで成立するリアルなゲームと、プログラムを相手にするテレビゲームとの違いとは何だろうか。

 ただ一つ言えることは、テレビゲームに登場する相手(キャラクター)は、喜怒哀楽が完全に欠落しているということだ。

 どの勝負であれ人間同士の対戦では、①「知能」②「技術」③「感情」、この三つの要素が複雑に加わることでゲームの勝敗が決するのではないだろうか。

 なま身の人間と対戦しないテレビゲームでは、参加する人間の側にのみ①「知能」②「技術」③「感情」の三要素が成立しているが、相手となるキャラクターの側には①「知能」②「技術」しか存在しない。

 勝負とは、つまり①「知能」戦、②「技術」戦、③「感情」戦を、双方向的な遣り取りを通して総合力で競うのが本来であるが、ゲームに登場するキャラクターとの対戦では、③「感情」戦については、相手からの反応を得ることができないため、相手の喜びも怒りも悲しみも楽しみも嘆きも、こちらに伝わって来ることはない。

 通勤途中の電車の中で、猟奇的なゲームソフトの宣伝が、広告用の液晶画面に流れることがある。そこでは、大刀を持った武者のような主人公が、数え切れないほどのサムライや怪物を、バッサバッサと切り捨てるシーンが目に飛び込んでくる。

 テレビゲームでは、なぜこれほどまでに「死」が軽んじられているのか。なぜ、これほどたくさんの生き物を殺すことが出来るのか。
 それは、相手に「感情」が存在していないことが明白だからであろう。「感情」が存在していなければ、それは“生き物”ではなく、ただの「もの」に過ぎないわけであるが、バーチャル空間の場合は「者」であることも、「物」であることすらも成立しない。つまりスイッチ一つ、リセットひとつで現れたり消えたりする対象に、いちいちそんなやっかいな“思い”を抱くことができないのは当然のことであろう。「感情」のやりとりのないところに、「思いやり」や「優しさ」が成り立たないのも当たり前の道理である。徹底的に痛めつけたとしても、その対象からは微塵も「人格」や「痛み」や「悲しみ」を感じることはできないのだから――。

 リアル(現実)の世界での「知能」、「技術」、「感情」による遊びを十分に経験していない子供が、一人バーチャル(仮想空間)で、「感情」の完全に欠落した、「者」でも「物」でも、そして「モノ」でもない“相手”と遊ぶ。

 努めて想像してみてほしい。

「無差別殺傷事件」が、なぜあのような場所で発生したのか。
 防止するには、どのようにすればいいのか。

 そして、子供にふさわしい“遊び”とは、何なのかということを。

 政治やイデオロギーや思想を越えて、それぞれの家庭や地域で取り組まなくてはならないことがたくさん見えてこないだろうか。

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コメント

合掌、ありがとうございます。


前回の項に関するご意見ありがとうございました。

先生のお言葉に甘え、再び扉を叩きました。


私も今回の事件はびっくりしました。東京第一教化部におきまして相愛・白鳩・青年合同の大誌友会から帰ってきてテレビをつけるとその事件の報道をしていました。


私は全く同じ世代を生き、思春期を過ごした者の一人です。


私の家庭は全て何もかもが自由でした。もちろん家庭用ゲーム機を所有し、どんな内容のゲームも許可をされていたと思います。
しかし私はゲーム関係の方は疎く、生まれ育った所は自然豊かな所でしたので、山を探検したり、基地を作ったり、外で様々な球技やゲーム、ミニ四駆という電池で動く自動車模型を作って競争したりして遊んでいました。また少年野球と少林寺拳法を習っていましたので時間が無かったとも言えるかもしれません。

と言ってもゲームには一様の興味はありました。
そして私はゲーム機を手に入れましたが、周りの友人は次世代ゲーム機に移行していました。ゲームがどんどんいわゆる“リアル”になり始め、ゲーム業界がその街道を驀進していました。またゲームセンターのゲームもそれ以上の迫力とリアルを提供してくれていました。ゲームの得意な友人の後ろでそれを興じているのを見て、“凄いな。上手だな。”と感心していました。ある日、友人がゲームセンターのゲームの迫力をそのままに近いものを提供した家庭用ゲーム機を購入したというので、どんな感じなのか早速見に行きました。確かに迫力満点で自宅でもこのような臨場感を楽しめるんだとワクワクしたことを覚えています。知らないうちによりリアルなものを私たちの世代は求めていたのかもしれません。

また私はシュミレーションゲームを通して三国志や日本の歴史、特に戦国時代に興味を持ち、社会科や歴史の授業にそれが反映されていました。


今回の事件はいわゆる格差社会の底辺にいるように見られる人間の犯罪行為でしたが、その頂点に君臨するような高級官僚、聖職者、公に務める者や経済のトップに至るまで、様々な種類の人間が様々な罪を犯している報道をよく見聞きします。

なので私が思うにゲームをし過ぎた為、またはそういう環境に自己を埋没させた為にああいう人格形成・人間に成ってしまったのか、またはそういう犯罪を犯す可能性を元々内在に秘めていたのが、ある時ある瞬間に現れ出てきたのか、もちろん様々な要因があると思います。しかし私は後者の方だと思います。どのような環境で生まれ育ち、どのような社会的ポジションにいようとも犯罪を犯す人間はそうすると思います。


今回の事件の犯人の悲観的衝動が本人の自己方向(内なる世界)に向わず、他人の方(外の世界)へ向ってしまったのが残念でなりません。

私にとってあの事件は絶句の一言です。ことばになりません。

神は“ことば在りき”です。ことばにより様々なものを創造しました。ことばでないものは実相圏内のものではありません。

今回の犯人の行為はただの“反神的”なものではなく“無神的”を完全に顕現させたものでした。

今一度、個々人・社会全体が今回の事件を通して省みることも必要ではないかと思います。


真の宗教・哲学の重要性、必要性が本当に求められているとつくづく痛感します。


ありがとうございました。

投稿: 山崎 | 2008年6月24日 (火) 22時03分

>そういう犯罪を犯す可能性を元々内在に秘めていたのが、ある時ある瞬間に現れ出てきたのか、もちろん様々な要因があると思います。しかし私は後者の方だと思います。どのような環境で生まれ育ち、どのような社会的ポジションにいようとも犯罪を犯す人間はそうすると思います。

 
「犯罪を犯す可能性」とは、仏教でいうところの「業(ごう)」にあたります。「業」とは、平たく云えば「心の習慣」に過ぎません。

 宗教の重要な役割の一つは、「業」という“心の習慣”を、より善きものへと導くことであることは、すでに生長の家のみ教えに触れている山崎さんは、よくご存じのことと思います。

 つまり「業」とは、現れては消える現象の一形態にすぎないがゆえに、悪しき習慣(悪業)を、善き習慣(善業)へと、自在に転じることができるのです。これが宗教上の、ひとつの“救い”となります。

 人間は一人一人が神の子であり、運命の主人公なのですから、本当は「業」に運命を引きずられてしまうような弱い存在ではないのです。
 なぜなら人間の本質とは、神と同質の無限の力であり、それは「善性」そのものなのですから。
 
ただし、現象界という人生の舞台(「心」の投影された世界)では、主役である本人自身の心が、演出家となり、脚本家ともなります。これが三界は唯心の所現となって自分自身の人生に展開します。

 子供時代の生活習慣は、善きにつけ、悪しきにつけ、ことごとく“心の習慣”としてその人の人格の基礎を形成することでしょう。

 はじめから「犯罪を犯す可能性」を内在させている、そのような人は、実は一人もいないのです。
 
 私たちが、人生の中の善きことを観るように努め(日時計主義)、善きコトバを語り(善き運命の創造)、善き想いを抱くこと(善一元の信仰)を広める運動を推進しているのは、人間が「業」を自在に「善業」へと転じることのできる“運命の主人公(神の子)”であることを、より多くの人々に自覚していただくためなのです。

投稿: 久都間 繁 | 2008年6月25日 (水) 17時29分

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