魂の「進歩」について
昨日の朝、拝読した『続 真理の吟唱』(谷口雅春先生著)に次のような一節があった。
進歩というのは、人間生命の無限内容を隠覆していた被服の如き、濃厚なる物質的波動が希薄となりて剥落して“神の子”たる実相の内容が一層ゆたかに光彩を放つに至ることである。(同書、261頁)
魂の「進歩」と、生物の「進化」とは異なるのである。
「進化」とは、生物が種や属を超えて別種のものへと変化することであるが、魂の進歩とは、はじめのはじめから在った“神の子”の無限内容が顕わとなる、つまり本質がそのまま露見することなのだ。
「無限内容」の情報とは、即ち「光り」である。
人間・神の子、“そのまま円満完全”なる大光明をよろこぶことで、物質への執着が希薄となり、現象への執着が剥落するにしたがって、神の無限内容が光りを放つのである。
十方世界光明遍照、吾が全身光明遍照である。
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コメント
合掌、ありがとうございます。
私は先生が引用されたご文章を『生命の實相』で読んだ記憶があります。
魂の“進歩”と生物(人間も含むのでしょうか?)の“進化”は異なる事を初めて知りました。
生物の進化もその時代、その時の環境の対応等によって勝ち得た神の御計らいだと思っていました。今でもそう思っている節はあります。
昨日、今日と誌友会におきましてキーワードとなったのが“両親”“父母に感謝”でした。
私の両親は今も尚、親としての責務を全うし、夫婦仲睦まじく、私たち兄妹に善きお手本となっています。
しかし自己の現象状態を鑑みると、至らないところが多々あり、両親に対して、感謝半分・申し訳なさ半分です。
“もっと彼らの子としてちゃんと生きたい”“神の子を完全に表現する=両親に対する最大最高の親孝行”という方程式を完成させたいという気持ちが沸々と出てきます。またその図式は一体どのようなものであるのか考えたりもします。
>人間・神の子、“そのまま円満完全”なる大光明をよろこぶことで、物質への執着が希薄となり、現象への執着が剥落するにしたがって、神の無限内容が光りを放つのである。十方世界光明遍照、吾が全身光明遍照である。
そのような本物の神の子が、その父母に感謝するとは一体どういうことなのでしょうか?
一つ言えることは“今、このままで善い”ということは無いと思います。
ありがとうございました。
投稿: 山崎 | 2008年6月27日 (金) 02時42分
山崎さん
合掌、ありがとうございます。
いつもフレッシュな質問をありがとう。
やや長文になりましたので、返信はブログの方にアップしました
投稿: 久都間 繁 | 2008年6月28日 (土) 09時27分