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2008年6月20日 (金)

神の「無条件の愛」について

 生長の家の『甘露の法雨』には、次のような一節があります。


至上
無限
宇宙を貫く心
宇宙を貫く生命
宇宙を貫く法則
真理
光明
智慧
絶対の愛。

 この「絶対の愛」こそが、「唯一絶対の神」の愛です。
 この「絶対の愛」は、この人は良い人間だから愛するけれども、この人は罪人だから愛さない、といった相対的な偏った愛ではありません。
「絶対の愛」を言い換えてみれば、「無条件の愛」ということです。

 それは、信仰を持っている人にも、神を否定している無神論者にも、盗人にも、人を殺したような罪人にも、まったく平等に、無条件に、しかも無限に降り注いでいる太陽のような「愛」のことです。

 その愛は、これから降り注ぐのではありません。また、過去に降り注いでいたのでもありません。
 その愛は、今すでに、ここに降り注いでいるのです。

 また、生長の家の『甘露の法雨』の劈頭にある「大調和の神示」には、次のような一節があります。

「汝ら天地一切のものと和解せよ。天地一切のものとの和解が成立するとき、天地一切のものは汝の味方である」。

「天地一切のもの」とは、自分を取り巻く総てのもののことです。同時に私たち自身のことも含みます。つまり、天地一切のものである、私と私を取り巻く全てのものと和解するとは、それら全てのものの背後にある、「神」と“ひとつ”になりましょう、ということなのです。

 それは、「神」と、「私」と別れていたものが、これから“ひとつ”になる、ということではありません。
「神」と「私」「天地の万物」とは、初めから“ひとつの命”だからこそ、「無条件の愛」によって結ばれているです。

 神様の世界では、天地の全てのものが、既に初めのはじめから愛し合っているのです。
 その実相を観て喜び祝福しなさい、ということが「天地一切のものに感謝せよ」ということなのです。

 また、天地一切のものが無限に愛し合い、感謝しあっている実相を私たちが観て悦ぶとき、実相において“ひとつ”である天地一切のものも歓喜して、その完全円満な大調和の姿が現れるのです。それが「天地一切のものは汝の味方である」という意味です。

 ですから、「大調和の神示」は次のように続いています。

「その感謝の念の中にこそ汝はわが姿を見、わが救いを受けるであろう。われは全ての総てであるからすべてと和解したものの中にのみわれはいる」

 私たちが神想観を実修して、神様の無条件の愛の世界に飛び込んだとき、天地一切のものは「味方」つまり、「神」となるのです。

 ですから私たちが、まだ自分のことを嫌っていたり、誰かを恨んだり、憎んでいるとしたら、その人間の「現れ」だけを見ているのですから、不完全な相しか見えないのは当たり前のことなのです。

「現象」というニセモノを見ていたのでは、自分とも、その人とも、永遠に和解することも感謝することも、調和することもできません。なぜなら、本当の人間そのものである実相と出合っていないからです。

 ソクラテスは、アテネのデルフォイの神殿に刻まれていた、「汝自身を知れ」という言葉を読んで実行したそうですが、私たちも、「汝自身」である人間・神の子に目覚め、大調和の実相世界に飛び込み、“無条件の愛”の大海原へと漕ぎだそうではありませんか。
 生長の家では、神想観で現象を否定して、その“無条件の愛”の中に飛び込んでしまうのです。

 この世界には犯した罪もなければ犯された罪も存在しません。そんなものはみな現象です。私たちが現象を放ってしまえば、人類の「原罪」は一切存在しないのです。
「原罪」と感じられたものは、ただの現象であり、それは本来無いのです。

「現象無し」「実相独在」に徹することで、もう貴方はこの世に恐れるものはなくなり、“無原罪の神の子”つまり“天下無敵”となることができます。

「生長の家信徒行持要目」のなかに、「常に必勝を信じて人生を邁進すべし」という言葉があります。
「必勝」とは、先ほど紹介した聖経『甘露の法雨』にある、「宇宙を貫く心 宇宙を貫く生命 宇宙を貫く法則 真理 光明 智慧 絶対の愛」のことです。

 たとえ現象的に「負けた」と見えたとしても、神を生きる者は常に「必勝」なのです。私たちは“久遠生き通しの命”なのです。
 現象は、初めから負けているのです。負けているどころか「現象は無い」のです。

 私たちは、ますます“無原罪の神の子”の実相を喜び、この「罪なし」「病なし」「死なし」の真理を、神とともに、聖なる光となって、より多くの人に伝えていきたいと思います。

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コメント

合掌、ありがとうございます。

ご文書を拝見いたしました。


人間・神の子・唯神実相。
これしかなく、これ以上も以下も無いと思います。


しかし私は未だに信仰生活というものに対して“足し算的”感覚を持っています。

ある日ある時に、自己の思考・言動・行動が反神的なものとして現れた時に、“しまった!! また振り出しだ!!”と、いかにも『神への道=神聖なる日々の営みの積み重ね』という風に思い違いをしてしまいます。

私にはよく思い出し、考えさせられる格言にパスカルの「あぁ、神を知ることから、神を愛するまではなんと程遠いのだろう」(パンセより)があります。

人生はともすれば、自己と神との間の溝(その深さは千差万別)を埋める修復作業という大覚の場だと思ってしまうことも度々あります。

現象の世界という“無い”世界に生きる者としては、やはり一歩一歩邁進していく過程、時間の経過、待機ということも大切なのでしょうか。


既に吾々は救われ済みで、幸福である。

そのような神と完全一体なる神の子が、現象界において日々を営む姿は愛の霊光で燦然と輝き続けていると思います。

小学生の時に理科の実験で虫眼鏡を使い、紙に太陽光を直に当て火を点けたように、心のレンズの上に積もり積もった“醜我”という塵や埃を振り払い、そして清らかなレンズの上に、神という光(=智慧・愛・生命・供給・悦び・調和など)を全く屈折させずに、直射神光で、現象界においても完全に神を表現し顕現させていきたい所存です。


先生の相変わらずの素晴らしいご文書に毎回感銘しております。

ただただ感謝です^^


ありがとうございます。


投稿: 山崎 | 2008年6月23日 (月) 19時02分

 山崎 様

 合掌、ありがとうございます。

>人生はともすれば、自己と神との間の溝(その深さは千差万別)を埋める修復作業という大覚の場だと思ってしまうことも度々あります。

 
 かつて、私も20代のころ、そのように感じていたことがあります。
 しかし、神想観を日々繰り返し実修しているうちに、いつの頃からか「神」と「自己」との“差”というものが消えて、自己の背後に神を感じるようになっていました。

 それは「自己と神との溝を埋める」というよりも、「自己の中に神が(実在が)復活する」という感じでしょうか。それは神想観から、じわじわと体感していったたように思います。

 妥協することなく道を求めていれば、山崎さんにも、必ず成熟する時期が訪れることでしょう。

 分からないことがあったら、いつでもここの扉を叩いてください。訪問する皆さまの参考にもなると思いますので。

投稿: 久都間 繁 | 2008年6月24日 (火) 19時11分

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