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2008年7月

2008年7月29日 (火)

無限生長の道

 森田さんからいただいたコメントへの返信が、やや長文になりましたので、こちらにアップしました。

 

 

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 本部会館での聖典講義では、いつも熱心に聴講してくださり、ありがとうございます。

 

 

>>三正行、特に神想観をしていればいつか「実相」のみで生きられるかと思ってはいるのですが、先生「実相」のみで生きられるように成りますでしょうか?

 

 

 すでに、はじめから「実相」のみが生きているのです。

 

「実相」と「私」とが、離れているのではありません。実相と私とは、はじめから一つの命なのです。

 

 貴方は「実相」(神)に、すでに全面的に活かされている。寸分も欠くことなく生かされているのです。それが、「人間・神の子」ということです。

 

 それは、これから三正行してから、神想観してから、あるいは善業を積んでから、あるいは悟ってから、実相が成就するのではありません。

 

 実相は、はじめから成就している。

 

「生長の家七つの光明宣言」(『生命の實相』第1巻)の中に次の言葉があります。

 

「吾等は生命顕現の法則を無限生長の道なりと信じ個人に宿る生命も不死なりと信ず」

 

 現象世界は、実相無限の真・善・美を表現する舞台であり、カンバスなのです。
 
 表現する主役は、即ち「実相」(本当の貴方)です。

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あしたのジョー

 土曜日、東京・中野で、ジョーと出会った。

「まだ、こんなところにいたのか…」

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2008年7月25日 (金)

魂の訓練と歓喜

 生長の家では、人間はそのままで完全円満である(自性円満)、ということを説いているが、その自性円満ということと、「魂の訓練」ということとの間には、どのような関係があるのだろうか。

 

 つまり、生命はそのままで完全円満であるのにかかわらず、なぜ「魂の訓練」が必要なのかということである。
 そのことへの回答が、以下の文章には表現されている。

 

 

 

人間の魂が唯一代の地上誕生で、その魂の訓練が終了しないことは、一見まことに、もどかしい事ではあるけれども、かくの如き事は神が“神の子”を愛し給うところの摂理のあらわれであり、魂の訓練に終了はないからこそ、われわれの寿量も無限であって、常に新しき体験の中に進み行き、無限進歩を経験しつつ、魂の歓喜に終止符を打つことはないのである。この尊き真理を訓え給いし事を神に感謝し奉る。
(『続 真理の吟唱』263ページ)

 

 

 

 このご文章によれば、「魂の訓練」とは即ち、「無限進歩」であり、それは終止符を打つことなき「魂の歓喜」だというのである。

 

 魂の訓練とは、現象の側から見れば、これから完全円満になるための過程であるかのように思えてしまうのである。しかしそれは、実相ということを知らない間の見方にすぎないのである。

 

 現象を去った無私の地点から見れば、この人生とは、完全円満(自性円満)なる生命(光り)が、その完全なる全容(本質)を展開する場だったということに気が付くのである。

 

 つまり自性円満なる「因(光)」が、新しき体験という「縁(光)」と出合うことで、無限進歩(無限生長)という「果」(光)となって輝くのである。つまり、完全円満なる光りが、光りと出合い、さらに荘厳なる光りを放つのである。これが無限創造、無限生長の姿である。

 

 魂の訓練に終了がないのは、神の創造が無限であり、その歓喜が無尽蔵であるからである。つまり人間の本質とは、創造そのもの、歓喜そのものなのである。

 

 

 久都間 繁

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2008年7月20日 (日)

ロングテールによる運動について

 これは過日の部内での打ち合わせの折に、私が作成した資料からの抜粋である。

 生長の家の運動に携わる一個人として、近未来の運動のカタチについて予測したところを、インターネットを活用されている(この予測と関係の深い)生長の家の皆さまと情報を共有しておくことも、それほど無駄なことでもあるまいと思い、差し支えない範囲で公開することにしました。ご覧ください。

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 アマゾン・ドット・コムでは、ロングテールの領域での書籍の売り上げが大きなパーセンテージ(8割)を占めている。その理由は、この領域にある本は一般書店の限られたスペースの書棚にはならんでいないが、同サイトの検索によってその存在を知った人たちが買い求めるからだそうだ。

 この「ロングテール」という現象は、インターネットという世界が具現して初めて可能になったものであり、また、ネットならではの特徴がよく現れているとも言われている。

 この現象を参考に、サイバースペース上のブログを生長の家のネット上の単位(伝道媒体)として捉え直してみると、ブログやSNSの、まさにネット上でのロングテールとしての構造が見えてこないだろうか。

 たとえば、これまでの普及誌による伝道では、性別や年齢層など、対象となる読者に向けて4種類ほどの雑誌を制作してきた。しかし、ブログやSNSの場合は、書き手一人一人の特性や個性に応じて読者対象が無限に広がるのである。つまり、性別や年齢層のみならず、職業、趣味などの専門領域や、介護、子育てなど、その人が実生活で取り組んでいるさまざまなテーマで百人いれば百様のブログが、千人いれば千様のブログで情報(光明思想)を展開することができるのだ。

 例えば、ネットに親しんでいる世代の生長の家の人たちが、数千人、あるいは数万人規模でブログを立ち上げることができれば、ウェブ上に広大な「生長の家ワールド」が出現する。

 生長の家信徒のブログやSNSとは、要するに「日時計日記」である。

 信徒の一人一人がブログやSNSを立ち上げることで、「日時計日記」が、同時に「日時計主義」のサイトとなり、これら数万の多様性に満ちたサイトがネット上に提供されることで、ウェブ上に広大な光明思想の網が構築されることになる。

 もちろん、従来のような普及誌による伝道も大切である。

 しかし、毎月消費されていく「雑誌」という形態を作るために、大量の森林資源を消費し、CO2を大量に発生させて紙に印刷し、配送し、配布する時代は、もう終焉(しゅうえん)を告げ始めているようにも思えるのだ。

 これからは、私たち一人一人が、ブログやSNSによってそれぞれのキャラクター(個性、趣味、信仰体験、仕事など)を通してみ教えを伝える時代が到来しているのではないだろうか。さらにこのブログが、リアル世界におけるAタイプ、Bタイプ双方の誌友会とも連動していくようにも思われる。

 21世紀に入ってからというもの、文字情報が流れる世界は、紙(リアル)からネット(デジタル)へと大きく変化した。つまり、はっきりと構造が転換しているのである。

 これからの運動を見直す際に、このブログやSNS、そして携帯でのメール配信などの伝道を視野に入れていなければ、その運動は人・事・処を外したものとなるかもしれない。

 さて、紙の雑誌による伝道と、ネットのブログやSNS、またはケイタイへのメール配信などの伝道と比較してみると、以下のことに気付かれることと思う。

スピード(ネットでは記事の責了と同時に配信可能。紙は印刷、校正、製本、配送などが必要、つまり時間、労力、資源、お金が掛かる)

購入価格(ネットでのほとんどの情報は無料。紙は印刷・製本・配送料などが加わる)

流動性(デジタルは、コピー、転送、再編集に加え、サイト上での本文の修正、デザイン変更などが容易)

双方向性(発信者と受信者との有意義かつ発展的な対話が可能。しかし雑誌は片方向)

二酸化炭素排出量(デジタルは微少。紙は印刷・製本・配送などの際に大量に発生)

森林資源の消費(デジタルはゼロ。紙は大量に消費)

制作コスト(上記の記述参照)

など、あらゆる面で、雑誌という媒体での伝道は、その役割が終息つつあるように思われる。

 両軸体制が発足して、今年で丁度20年目である。
 次の軸となるものを予測することも、それほど無駄なことでもあるまいと思い、あえて一歩踏み込んで言葉にしてみると、

講習会と誌友会、聖典などの書籍によるリアル世界での運動

本部サイトと数万人の信徒ブログによるネット世界(サイバースペース)での運動

 こんな表現が可能であるか否かはしらないが、「リアルとネットによる両軸体制」というような、近未来の構造が見えてくるのである。

 これをベースに、2010年以降の運動のスタイルについて、さらに踏み込んで考察してみると、(これはあくまでも予測であるが)次のような変更が求められているのかもしれない。

 それは、「数量で運動成果を換算する」(量)の運動から、「個を輝かせる」(質)の運動への転換ということである。

 これからの時代は、み教えに触れた一人一人の「個」を輝かせ、それぞれの神から授けられた個性を拝み、育てていくことに主眼を置くことが、ネット社会に則した活動となると同時に生長の家の運動を恒久的に力強く伸展させていくことに繋がるのではないだろうか。

 その結果として、一人一人の「個」が重要な光明化運動の単位(光の拠点)となり、誌友会や各人のブログを通して、それぞれが生かされている喜びを発信し、真・善・美に満ちた神様の世界への信仰を語り、それぞれの立場や状況に応じてネットで、あるいは実生活で、あるいは双方で、人類社会に貢献していく、そのような多様性に満ちた運動へと体質を転換していくことで、新たな伝道への可能性が広がるのではないだろうか。

 つまり本部や講師の役目としては、一人一人の「個」を育て、開花させ、その一人一人がもって生まれた個性を十全に地上に展開していただく、そのためのサポートにこそ本部が発行し主催する新雑誌なり、講師のブログなり、SNSなりが活用できるかもしれない。

 さらにネットを通じて、相互に智慧と愛を尽くし合い、生かし合うことのできる仕組みを考えることも、これからの大切な課題となることだろう。

 ネットの世界は、過去も、そしてこれからも、一つの重要な実験場であり、ネット世代(つまり、これからの全ての人類)に向けての大切な実践の場でもあるのだ。

 皆さんがそれぞれの立場で、それぞれの天分に応じて、それぞれの運動を考え、それぞれの命を開花していただくためのヒントぐらいになればと思い、あえてアップさせていただくことにしました。

 久都間 繁

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2008年7月18日 (金)

智慧身、光明身

 最近、毎朝の神想観の後で、『続 真理の吟唱』の何編かを声高らかに朗唱している。

自己の全身が肉身に非ず、物質身にあらずして“智慧身”であり、“光明身”であり、“普賢の智慧”がわがものであることを観ずるのである。                                         (『続 真理の吟唱』、244ページ)

 この智慧身、光明身、普賢の智慧を吾がものとする秘訣は、先ず「悦ぶ」ことである。

“智慧身”であることを悦び、“光明身”であることを悦び、“普賢の智慧”であることを底抜けに悦んだとき、“智慧身”なる実相が輝き、“光明身”なる実相が輝き、“普賢の智慧”なる実相が輝くのである。

 実相を観ずるとは、即ち「実相を悦ぶ」ことに他ならないのである。

 以前、誌友の方から、「実相が分からないのです」という質問をいただいたことがあったが、そのとき私は、「実相は“悦ぶ”ことでしか分からないのです」とお応えしたことがあった。

 私の恩師だった故榎本恵吾先生は、「先ず光りだ!」ということを、私が宇治の研修生だった二十数年前、よく語ってくださっていた。

 それは、現象がどんなにぐちゃぐちゃになって、整うどころかますます混乱して行くような状況のときでも、そのような現象そのままに、先ず「神の子」であり、先ず「光り」である實相をハッキリ認め、その事実を、つまりそのままで光りであり完全円満である實相を悦びましょう! ということだったのである。

 實相と現象とが、まだよく区別することが出来なかった当時の私は、このアドバイスの言葉によって、どれほど地獄のような悪循環(心の迷路)から、光明の世界へと導かれたことだろう。

 演壇へと向かわせていただく度に、いつもこのことを思い出すのである。

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2008年7月16日 (水)

お盆

 今日7月16日は、父の命日だ。

 身罷(みまか)ってから、ちょうど丸3年になる。

 過日は、地元でのお盆の風習に従ってお寺で法事を行い、玄関で子どもたちと迎え火を焚いた。

 最晩年には、私のこともすっかり忘れて、別の世界へ行ってしまっていた父。

 それまでずっと、父のことを忘れて人生を突っ走ってきた私。

 お盆の行事を通して、疾走してきた魂と魂とが交錯する。

 今まで流れていた時間が止まり、空間が、消える。

 父との出会いを通して、すべての、すべてなるものと再会する。

 分かれることのない出会い。

 それは、はじめのはじめから“ひとつ”だったことの確認である。

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2008年7月14日 (月)

前代未聞

 生長の家教修会が終わった。

 イスラームという世界宗教には、千年の知恵が降り積もっている。

 イスラーム、それは今日における私たちの営みを映し出し、あらゆる問題を相対化させてくれる、知恵の、広大なる沃野ではないだろうか。

「まとめのご講話」で、谷口雅宣先生は、「生長の家本部講師の教修会で、聖典や私の書いたもの以外の本アブ・エル・ファドル著『イスラームへの誤解を超えて』がテキストになるのは“前代未聞”ではないか、と思われた方も多いのではないでしょうか」という意味のことを語られていた。

 総裁・副総裁先生がご指導される集まりには、私も何度も参加させていただいて来たが、これは確かに前代未聞のことである。

 しかし現代は、環境、生命倫理、インターネット、オイルピーク、巨大地震、秋葉原事件など、それこそ“前代未聞”ともいうべき状況が到来している。

 これらの連立方程式への処方箋は、もちろんイスラームへの研究だけではどうとなるものでもない。

 しかし確実に言えることは、これからの時代の人類光明化運動を担おうとしている生長の家の人々には、それぞれの得手な分野において“前代未聞”の求道や研究や実験が、徹底的に求められている、それは組織から求められてるのではなく、全人類から求められている、ということではないだろうか。

 全人類とは、私たちの内の“内なる声”である。

 その「声」を聴き、自らの天分に応じて神の道を生きさせていただく、それが、「神想観」という神と直接つながる方法を伝授された、私たちの使命なのではないだろうか。

 

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2008年7月12日 (土)

夏あり、冬あり

 昨日、次女が学校のベランダに落ちていたという、スズメの子を拾ってきた。

 また「やっかいなものを拾ってきたものだ」と、見てみると、生まれてから、まだ数日しか経っていない様子だった。

 一夜明けて、早朝に覗いてみたら、もう、はかないものとなっていた。

 わが家には7人の人間が住んでいるが、それに比例するように飼っている動物の数も多い。

 現在は猫2匹、犬1匹、亀1匹、金魚1匹、サワガニ数匹、カブト虫3匹、さらに下の男の子2人は隠れたところで芋虫や丸虫まで飼育しているらしい。もっとも昆虫の方は季節によって種類が変化するため、来月には現在の数倍に達することだろう。

 また、動物が多い分だけ彼らの死に遭遇する機会も多い。

 その亡きがらは、家に隣接する畑に埋葬しているらしい。

 この時期、畑ではキュウリやナス、トマトなどが収穫の時期を迎え、わが家の食卓を彩っている。

 もうすぐ、長い夏休みが始まる。

 現象的には「生」あり「死」あり、夏あり、冬がある。

 現象そのままに、大生命の側から見れば、雄渾なる生のみが久遠に展開する生き通しの世界。

  生長無限、歓喜無限。暗なく、病なく、死もなく、生のみの世界なのである。

 十方世界光明遍照、吾が全身光明遍照。

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2008年7月11日 (金)

明日から教修会、テーマはイスラーム

 明日から本部講師(補)対象の「生長の家教修会」が、東京・調布市の本部練成道場で開催される。

 日本で開催されるのは2年ぶりのことだ。

 テキストとなった『イスラームへの誤解を超えて~世界平和と融和のために』(カリード・アブ・エル・ファドル著/日本教文社刊)を読み始めた。

 これまで、イスラーム関係の書籍を何冊か読ませていただいていたが、この書はちょっと趣が違っていた。

 一昨日に買い求め、最初は義務的に読み始めていつの間にか引き込まれ、今朝、第3章まで進んだが、この範囲では日本でイスラーム原理主義と呼ばれている、タリバーンやアルカイーダの思想的基盤となっているワッハーブ派についての記述が興味深かった。

 彼らの、正統的なイスラームの伝統とは異なる、「アラブ民族中心主義」による教義の成立とその歴史、正当なイスラームの教えとの矛盾、イスラーム世界に与えた暴力的な影響などについて、ここまでハッキリと書かれたものに、これまで出会ったことはなかった。

 また、サウジアラビア(カウード家)とワッハーブ派、そしてイギリスの三者連合についての記述から、厳格主義の基盤となったワッハーブ派がどのようにイスラームの正当な伝統を破壊し、なぜ今日まで生きながらえ、そして全世界に影響を与えるにいたったかということも、浮き彫りになっている。

 著者のファドル氏はクウェート出身。UCLAで、イスラーム法のほか移民法、人権法、国際および国際安全保障法などを教える教授であり、イスラーム世界の伝統を担う法学者であると同時に、一人の熱心な信仰者でもある。

 この書を読んでいると、著者がその一身に、過去1400年に及ぶイスラーム世界全体の歴史を担い、やむにやまれぬ思いで筆を執っている、その重責さが伝わってくる。

 同氏は、間違いなくイスラーム世界で、過去・現在・未来を繋ぐ重要な役割を担っている。

 のみならず、今日、全世界に蔓延しているイスラームについての偏見を解き、これからの時代に真の世界平和を実現するための“捨て石”であることに自らを位置づけるような覚悟をした人物であることが、過激派からのテロを承知の上で書かれた本書の言葉から伝わってくる。

 イスラーム研究は、生長の家にとってただの他山の石ではない。

 今日、神を信じて生きる私たちが、さまざまな状況に処してどのような判断をするか、そしていかなる姿勢で生きるのか。第一級の教えを受けた者として、その責任と覚悟が問われている。そんな気がする。

 奥付では、発売日は7月20日。アマゾンで検索しても、まだ出てこない。が、まもなく販売される予定だ。生長の家の幹部の皆さんには、ぜひ目を通していただきたいと思う。

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2008年7月 9日 (水)

『すべては音楽から始まる』について

 明日の7月10日から、「東京国際ブックフェア」が始まる。
 私は仕事柄、毎年参加しているが、今年は、初日の基調講演が茂木健一郎さんとのことなので、楽しみにしている。

 茂木さんといえば、最近『すべては音楽から生まれる (PHP新書)』という著書を読んだ。この本との出会いは、アマゾンの「なか見!検索」で立ち読みして、その内容に惹かれて購入したものだ。

 今、手元に同書がないので詳しい説明はできないが、この本を読んでいると「音楽」あるいは「音」におけるクオリアというものがよく理解できる。

 彼はこの書の、たしか冒頭で、シノーポリの指揮した『未完成』を聴いた時のシューベルト体験を克明に語っているが、クラッシックが好きな方は(そうではない方も)、この書をひもとけば、ご自身の内に眠っていたさまざまな“音楽体験”が、そのとき鳴り響いていた音となって、鮮やかによみがえるのではないだろうか。

 また、人生に音楽が織り込まれることで、どんなに美しい調べを奏で出すかということも、この書の通奏低音として響いている。生きることの奥にある深い核のような部分が、どれほど音楽的な体験と重なっているのかが伝わってきて、思わず釈然として、読んでいて愉しくなる本である。活字なのに、音楽好きには堪(こた)えられないところがまた面白い。

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2008年7月 8日 (火)

『フューチャリスト宣言』を読む

フューチャリスト宣言 (ちくま新書)』(梅田望夫/茂木健一郎共著)を読んだ。
 同書の「あとがき」で、梅田氏は、茂木氏のことを次のように評している。

 茂木は自ら描いた未来像を、自分が何を目指すべきで、いまどう生きるべきなのかという切実な問題に落とし、さらにそれを自らの生活として実践している。ここに茂木の真骨頂がある。フューチャリスト・茂木健一郎が人生を賭けてイメージした自らの専門領域をめぐる未来像は、彼の生活を規定するようになったのである。
 脳科学を専門としない私たちが茂木から学ぶべき本質はここにしかない。彼が語る「脳についての知見」を学ぶことより、彼の生き方からその本質を改めて読み直していただければ、新たな発見もあるのではないかと思う。(同書、「おわりに」より)

 梅田氏の、「改めて読み直していただければ、新たな発見もある」という言葉に、かつて小林秀雄が晩年の著作『本居宣長』の最後の部分で、同じような表現をしていたことを思い出した。

 そういえば梅田氏は、齋藤孝との共著『私塾のすすめ』の中で、ベストセラー『ウェブ進化論』のロールモデルになったのは小林秀雄の『近代絵画』だとも語っていたが、これも意外だった。

 さて、『フューチャリスト宣言』は、読んでいて胸の広がるような書である。

 どのページを開いてみても、梅田、茂木両氏が世の人々に対して、ことに若い世代に寄せる深い愛情と、先駆者としての勇気ある生き方とが伝わってくる。そのような意味で、『フューチャリスト宣言』は善意にあふれた書でもある。

 梅田氏の言葉に従って、もう一度読み返してみたが、一言一句を疎かにしない両氏の誠意あふれるスリリングな対話に、あらためて深い感銘を受けた。

 彼らは、人生を賭けるものをもっている。それが彼らの魅力である。

 それは、ソクラテス以来人類に受け継がれてきた、「智を愛し、善く生きる」という生き方の系譜に属しているもののようにも思われる。

 人生を賭けるとは、何らかの理想なり目的なりに殉じる、ということである。それが愛や善に対してである場合、かつてイエス・キリストが、「己が十字架を負いて我に従え」と語った、ゴルゴダへの道へと通じている。しかしそれは、死への道程ではなく、生死を超えた生、つまり“永遠の生”を生きることでもあるのだ。

 真のフューチャリストとは、未だ目に見えざるものを見、聞こえざる音を聞く、夢や理想に殉じる者たちのことなのだろう。

 現代のネット社会において、「善く生きる」とは如何なることであるのか、そのヒントが、この書から読み取ることができるのではないだろうか。

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2008年7月 7日 (月)

もう一つのリアルな世界②

 1995年頃、モザイクやネットスケープなどのブラウザの普及とともに、インターネットの世界が私たちの手の届くところへ降りてきた。

 同じ年、当時私が勤務していた生長の家宇治別格本山でも、何人かの同志たちとサイトの立ち上げを目論んだが、「前例がない。本部もやっていないのに時期尚早」と一蹴されてしまった(^^;

 それではと、関西の、ちょっととんがった生長の家のお仲間たちと、「アトリエ・ハッピー」という双方向で情報交換できるサイトを、自主的に立ち上げることにした。95年のことだ(※アトリエ・ハッピーは、現在は歴史的な役目を終えて閉幕しています)

 その主な目的は、到来するインターネットの時代に備えて、「ネット上での伝道方法の研究」「生長の家の世界の十字路になる」「生長の家の皆さんにインターネットの素晴らしさに目覚めていただく」というもので、意気込みと勢いだけで始めた実験だった。

 当時はまだサイト数が少なかったため、検索サイトで「生長の家」と入力すれば、私たちのサイトが必ず登場する時代だった。数カ月ほどすると、日本のみならず、一足先にネット環境が整った北米、カナダ、アラスカなど各地の生長の家の信奉者から、毎日のように掲示板にメッセージが書き込まれるようになった。やがて、インターネットの可能性に目覚めた各教区の人たちも加わり始めた。

 当時主流だったパソコン通信の閉じたコミュニティとは違った、世界に開かれたオープンな場所での画像や音声などを交えたダイナミックな情報の遣り取りは、刺激的で、大きな魅力に富んでいた。

 そのころ、不定期に運営スタッフが集まり、毎回5時間ほどのブレーン・ストーミング(とその後の飲み会(^^;)などを実施して、21世紀における人類光明化運動・国際平和信仰運動について議論を重ね、さまざまな夢を描いていた。

 つい、この間のことだと思っていたが、ふと気がつけば、あれから十数年も経っている。そういえば私も、東京に来てもう8年目の夏だ。

 今年の統計では、携帯電話の加入者数がついに1億人の大台を突破し、ブロードバンド契約世帯が2千5百を超えた。さらに現在はブログやユーチューブなどが隆盛を極めているが、これからもさらに便利ですごい仕組みが登場することだろう。

 インターネットの世界は、われわれ人類の描くあらゆる夢を具現しながら、未来の人類に向けて、果てしなく広大な遺産を築きあげているようにも見える。

 その遺産が、良貨となるか悪貨となるかは、私たちがネットという舞台で、何を演じるかにかかっているのではないだろうか。

 台本を書き、演出し、出演するのは、「今」を生きる私たち一人一人だからである。

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2008年7月 6日 (日)

もう一つのリアルな世界①

 今朝、昼食の弁当を持っていなかったので、通勤途中に新宿駅のドトールでサンドイッチを買い求めたところ、財布にお金が入っていないことに気がついた。ちょっとあわてたが、とっさにレジで「スイカ」のカードを取り出して支払った。

 考えてみれば、私たちはリアルのお金と、デジタルのお金の両方を使う世界に、いつの間にか住んでいたのである。

 そういえば、ネット上のアマゾンのサイトで本を買うようになったのは、いつからだろう。

 まだ7~8年といったところだろうが、その間、私が京都にいたころに本を買っていた「駸々堂書店」や「丸善」などの老舗をはじめ多くの書店が、街から姿を消していった。

 最近は耳にすることはないが、インターネットが出現したころ、パソコン雑誌などでネット上の世界のことを、リアル(現実)空間と対比して、バーチャル(仮想)空間などと呼んでいた時期がある。

 しかし、今では本の購入のみならず、物品や食料の調達のほか、勉強や仕事のための資料や情報の収集など、私たちの生活の重要な領域をネット上での遣り取りが占め、リアルとネットとの境目がなくなりつつある。それだけ急速に、音もなくネット空間が成長しているということだ。

 この15年ほどの間に、リアル世界とは別の、もう一つのリアルな世界(文化圏・経済圏)がネット上に構築され、さらにそれは加速度的に成長し、いつの間にか私たちは、そこに片足を半分突っ込んで生きている。

 たとえば、この「ブログ」という仕組みも、ネット上に出現したのは4~5年前である。が、企業情報センターの調査結果(国内)によると、昨年の時点で、集計対象としたブログサービス全体の昨年1年間の推定訪問者数は3527万人となり、2006年の2752万人に対して128%の伸張率を示したという。

 たった数年で、個人を主体とした双方向的な世界が、これほど成長したのである。さらにこれにミクシィなどのSNSなどを合わせれば、その数は倍増することだろう。

 2008年の時点で、インターネットがこの世に出現して、わずか15年。これが10年後の2018年には、どんな世界へと成長を遂げているのだろう。また、30年後には、70年後には、200年後は――

 それが事業であれ、運動であれ、私たちがこの世の中に対して何らかの働きかけをする場合、今までのようにリアルな世界にだけ軸足を置いて事業を展開していたのでは、街から姿を消した数々の老舗書店と、ほぼ同じ道をたどることは避けられないだろう。

(つづく)

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2008年7月 5日 (土)

巣立ち

 7月4日、わが家の玄関に住んでいたツバメのヒナたちが、一斉に巣立っていった。

 その日の午後、家内から、「いざいなくなると、ガランとして寂しいものです。  元気に飛んでくれたらいいなあと祈ります」とのメールが届いた。

 3日にブログで紹介し、写真までアップしたその翌日に巣立ちの日を迎えたというのも、不思議なことだった。

 そういえば前日の夕方、3年生になる長男が、「ツバメの親が3羽も巣に出入りしている」と語り、私もツバメが空中で遊んでいるように追いかけっこをしながら飛翔しているのを見て、“子育てで忙しいはずなのに”と奇異の感をいだいたことを思い出した。

「そうだったのか」と、昨夜になって、はたと気がついた次第であるが、旅立ちの期はすでに熟していたのである。

 ツバメの親もヒナも、ともに猫にもヘビにも襲われることなく、無事にこの日を迎えたことが嬉しかった。

 私たちも、さまざまな友人や恩人たちに支えられながら、家庭、学校、そして組織や職場など、これまで幾つの故郷から、巣立たせていただいて来たことだろう――

 ありがたいことである。 

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2008年7月 4日 (金)

庭に咲くバラ

 昨日の朝のこと、早朝の祈りの後で、6時前からブログ(「ツバメの巣」)を書き始めた。

 30分ほどして、ふと庭に目をやると、朝日を浴びた数輪のバラの花が、匂い立つような輝きを帯びて、朝の澄んだ空気の中に咲いているのが見えた。

 じっと正視していると、やがてそのバラは、形を超えた“いのち”そのものとなって、私の“いのち”の中に飛び込んできた。

 それはバラであってバラではない。「存在」そのものの純粋な形相が、顕わな極彩の色となり、私のいのちと呼吸し、いのちといのちとが融合していった。

 祈りながらブログに言葉を紡いでいるとき、それは「真象」というものを、追い寄せている時なのだろうか。

「真象」を観るということは、私たちのいのちが素っ裸(つまり“いのち”そのもの)になったときに開ける、或る視点を獲得するということなのかもしれない。

 これは一種の御祓(みそぎ)である。削がれたものは、これまで「偽象」を見ていた視点である。

“感じる”ということだけでは、だめなのであろう。それは言葉によって文章を紡ぎ、あるいは絵筆を持って美を表現するといった、真・善・美を生み出す能動的な諸活動に私たちが真摯に従事したとき、これまで「偽象」を見ていた視点が忽然と剥落し、そこにはじめから在り続けていた「真象」が姿を現す、そんなことを思うのである。

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2008年7月 3日 (木)

ツバメの巣

 今から7年ほど前、青梅に越して来た春のこと、我が家の玄関灯の上にツバメが巣を掛けた。
 つがいのツバメが毎日ひっきりなしに土を運んで巣作りをしていたが、ある日を境に、どこかへ立ち去ってしまった。

 家族中でヒナが孵(かえ)るのを楽しみにしていたが、果たして玄関灯を灯したのがいけなかったのか、猫を飼ったので警戒してしまったのか、それとも子供たちが観察しすぎたせいなのか、家内と考えを巡らせてみたものの、やがて関心は目前の子育てや生活へと移り、玄関灯の上には三分の二ほど仕上がった巣が、そのまま鎮座したまま歳月が過ぎていった。

 そして今年の春、新たなつがいがこの巣を発見し、巣作りを始めた。

200807031

 私たちも万全を期して、玄関灯のスイッチが入らないようにテープで固定し、猫に襲われないよう玄関周りをきれいに片づけた。

 1カ月ほど経った6月下旬、ついに5羽のヒナが孵った。

 ツバメのヒナは、生きている昆虫を主食としているため、彼らの親は早朝から夕暮れまで一刻も休まずに、捕獲した餌を大車輪でヒナたちに運んでいる。
 何の迷いもなく、黙々と無心に働くそこには、生命のいとなみの純粋な姿が現れていて、見ているだけで尊くなる。

 7月3日の今朝、巣を見上げてみると、ヒナたちはすでに巣からあふれそうになるほど大きく成長していた。あと一週間も経てば巣立つことであろう。

 巣の構築から、雛の巣立ちまで足かけ7年。

 一見、誰からも忘れ去られた空白と見える時間の中で、秘かに何ものかが着実に熟成を遂げ、巣立ちの時を待っていたのかもしれない。

 内なる夢の実現と、とてもよく似ているように思う。

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2008年7月 2日 (水)

そのまま神であるということ

 畏友、堀浩二さんがブログ「悦びの広場」で、次の言葉を綴っていた。素晴らしい内容であり、幽界に旅立たれた榎本恵吾先生の謦咳に触れた思いがしたので、以下に感想を書かせていただいた。

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>私は榎本恵吾先生に特にきつく言われたのは人間は神の子であるという事は自分は神であると言う事だと言う事であり、それは取りも直さず、自分の人生の一挙手一投足、思想も全て、何時如何なる時もそのままで神であったという事である。この時は神でなかった、間違っていたなんて事は無いのである。それが実相を悟り、正しく認識するという事である。間違っていた、罪を犯したなんて言う風に自分に自分の人生が感じられるのは自分の心のレンズが歪んでいてそう感じられるに過ぎないのである。
 それが分かった時、吾等は自分は神に百%生かされていたと分かる。その時、真に感謝と悦びが湧いて来る。

「何時如何なる時もそのままで神であった」ということは、私たちは、どんな時も、そのままで完全円満なる「光り」だったということである。
 自分の過去を振り返ってみて、神として、光りとして拝めないところがあったとしたら、それは、神であり、光りであることを自覚していなかった過去の残像を見ているのである。「唯神実相」「三界唯心」を説くみ教えに触れたる者、この残像に捉われることなかれ。
 そのまま神、そのまま光りである。私たちの一挙手、一投足が「光り」の現成であり、実相・実在の鳴り響きである。

 たとえ、私たちが、過去にどのような悲惨で取り返しのつかない出来事をしでかしていたとしても、取り返しのつかないようなものなど、この世には存在しないのである。なぜなら、完全円満なる神(仏)のほかに、この三千大千世界に存在するようなものなど無いからである。
 天地の初めから「光り」のみであり、それ以外のものは残像(つまり無)にすぎなかったということは、信仰者として自らの内でいよいよハッキリさせなければならない事実(実相)なのである。

 仏教で云う「同行二人」とはこのことである。二人と云っても、神と自分と別れているものが同行しているという意味ではない。『甘露の法雨』には、「人間は神より出たる光なり」と記されているように、それは完全円満なる神と光りが法輪を転ずる姿であり、それのみが過去、現在、未来を貫いているのである。
 
 誌友会もまた、完全円満なる光りが主催して、完全円満なる光りが集うのである。それは完全と完全とが照らし合う荘厳なる姿であり、そこで開催される諸行事も光りであり、制作された諸作品も光りであり、これ全て生長の家「光明縁起説」より観たる光りの展開であり、実相・実在が展開する消息である。

※「光明縁起説」については、『生長の家』誌の昭和55年6月号に掲載された「碧巌録解釈」の中で、谷口雅春先生が展開されています。現在は、『碧巌録解釈』後編(谷口雅春先生著)の第九十則に掲載されていますので参考にしてください。

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2008年7月 1日 (火)

神想観の感想(20080701)

普遍と融合している私の生命は、天地一切のものと調和した関係に於いて結ばれているのであって、決して如何なる時にも、その調和した関係が断絶するということはないのである。

                (『続 真理の吟唱』249頁)

 私たちと神(本源者)との「調和した関係」が断絶するということはあり得ないのである。なぜなら、人間の“本源”そのものが「調和」であり、神そのものであり、天地一切と初めから一つのいのちだからである。

 私たちは、自分の“本源”なる実相世界で、遊戯三昧の神想観をすることを遠慮してはならないのである。
 嬉しく楽しくありがたく、遊戯三昧なのが「人間・神子」の“本源”そのままの姿なのである。そこには、罪も病も死も無いのである。

 本源なる実相世界には、既にあらゆる夢が、願いが、希望が、余すところなく完全円満に成就して、その輝きが実在宇宙に照り渡っているのである。

 私たちの「願い」とは、即ち“光り”であり、本源から発した願い、夢、希望は“光り”となって十方世界そのものとなって鳴り響いているのである。

 十方世界光明遍照、吾が全身光明遍照である。
 

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