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2008年7月 2日 (水)

そのまま神であるということ

 畏友、堀浩二さんがブログ「悦びの広場」で、次の言葉を綴っていた。素晴らしい内容であり、幽界に旅立たれた榎本恵吾先生の謦咳に触れた思いがしたので、以下に感想を書かせていただいた。

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>私は榎本恵吾先生に特にきつく言われたのは人間は神の子であるという事は自分は神であると言う事だと言う事であり、それは取りも直さず、自分の人生の一挙手一投足、思想も全て、何時如何なる時もそのままで神であったという事である。この時は神でなかった、間違っていたなんて事は無いのである。それが実相を悟り、正しく認識するという事である。間違っていた、罪を犯したなんて言う風に自分に自分の人生が感じられるのは自分の心のレンズが歪んでいてそう感じられるに過ぎないのである。
 それが分かった時、吾等は自分は神に百%生かされていたと分かる。その時、真に感謝と悦びが湧いて来る。

「何時如何なる時もそのままで神であった」ということは、私たちは、どんな時も、そのままで完全円満なる「光り」だったということである。
 自分の過去を振り返ってみて、神として、光りとして拝めないところがあったとしたら、それは、神であり、光りであることを自覚していなかった過去の残像を見ているのである。「唯神実相」「三界唯心」を説くみ教えに触れたる者、この残像に捉われることなかれ。
 そのまま神、そのまま光りである。私たちの一挙手、一投足が「光り」の現成であり、実相・実在の鳴り響きである。

 たとえ、私たちが、過去にどのような悲惨で取り返しのつかない出来事をしでかしていたとしても、取り返しのつかないようなものなど、この世には存在しないのである。なぜなら、完全円満なる神(仏)のほかに、この三千大千世界に存在するようなものなど無いからである。
 天地の初めから「光り」のみであり、それ以外のものは残像(つまり無)にすぎなかったということは、信仰者として自らの内でいよいよハッキリさせなければならない事実(実相)なのである。

 仏教で云う「同行二人」とはこのことである。二人と云っても、神と自分と別れているものが同行しているという意味ではない。『甘露の法雨』には、「人間は神より出たる光なり」と記されているように、それは完全円満なる神と光りが法輪を転ずる姿であり、それのみが過去、現在、未来を貫いているのである。
 
 誌友会もまた、完全円満なる光りが主催して、完全円満なる光りが集うのである。それは完全と完全とが照らし合う荘厳なる姿であり、そこで開催される諸行事も光りであり、制作された諸作品も光りであり、これ全て生長の家「光明縁起説」より観たる光りの展開であり、実相・実在が展開する消息である。

※「光明縁起説」については、『生長の家』誌の昭和55年6月号に掲載された「碧巌録解釈」の中で、谷口雅春先生が展開されています。現在は、『碧巌録解釈』後編(谷口雅春先生著)の第九十則に掲載されていますので参考にしてください。

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コメント

合掌、ありがとうございます。


先生のご友人のご文書も素晴らしい内容ですね。


私も最近では自他共に色々な地区の誌友会に参加をさせて頂いております。
この間は、ご講話の後に和歌・俳句を皆さんで愉しみました
まさしく『技能と芸術的感覚を生かした誌友会』でした。


>「唯神実相」「三界唯心」を説くみ教えに触れたる者、この残像に捉われることなかれ。

私は以前、別の宗教で学んでおりましたが、その時に聞いたお話に、「み教えに触れた者は神の愛をはじめ、全てを享受したのでありますから、その責任は大なるものであります。(み教えを)知って悪さをするのと、知らずに悪さをするのとでは、前者のほうが罪深いです。」と仰っていました。

生長の家ではその反対に、“知らずに悪さをするほうが悪い”ということを聞いたことがあります。

赤子は悪さをしても許されますが(意識の未熟さ・無知)、もし大人(特に真理・み教えに触れたる者)がすると、それは確信犯的に解釈をされます。


単純で平凡な質問ですが、ご回答のほうを宜しくお願いします。


ありがとうございました。

投稿: 山崎 | 2008年7月 3日 (木) 15時38分

「知って犯した罪よりも、知らずに犯した罪の方が重い」というのは、宗教上の重要なテーマです。
 ドストエフスキーも『罪と罰』の中で、ラスコーリニコフを通してこの問題を扱っています。
 また、このテーマを熟知することで、秋葉原事件の構造も、キリスト、生長の家、双方の視点から読み解くことが可能となります。

 生長の家では、「焼け火箸」の例えで、この教えを説明する場合があります。つまり、「焼け火箸と知って触れれば、軽いやけどですむが、知らずに握ってしまうと大やけどをする」と。

 しかし、このような深い問題について、表面的な知識として理解したところで、実生活を活かす智慧に至ることは難しいことでしょう。

 山崎さん、生長の家の教えを本気で学ばれるのであれば、先ず『生命の実相』全巻を、日々の生活の中で読み進める必要があります。

 日々の喜怒哀楽の中で祈りながら、生長の家の哲学を実地で体験する。
 私はこれを「『生命の実相』体験」と呼んでいますが、真剣に道を求めるのであれば、そこが出発点であるということを知っておいてください。

投稿: 久都間 繁 | 2008年7月 4日 (金) 14時17分

合掌、ありがとうございます。


ご回答、ありがとうございました。

平易な質問をしたつもりでしたが、このテーマは宗教上、重要なテーマなんですね。

「焼け火箸」の例えも先生のご掲載のおかげで、思い出しました。


確かに、真理や智慧を実生活にまで本当に浸透させることは難しいです。


先生のご指摘の通り、自分が本当に真理を求めているのか、それがただ表面だけに過ぎないのか、よく自分を省みてみます。


神想観を日々、静かに実践し、『生命の實相』もさらにさらに読み進めていきたい所存です。


善き機会を与えて下さってありがとうございました。


ありがとうございました。

投稿: 山崎 | 2008年7月 5日 (土) 00時29分

合掌、ありがとうございます。
 初めてコメントさせていただきます。
教修会でお会い出来て嬉しかったです。
 今日も早朝行事で神想観の実修を終久都間さんのブログを拝見し、「自分の一挙手一頭足、思想も全て何時如何なる時もそのまま神であったという事である」のところを読まして頂き、つい現象観をしてしまう自分を裁いていましたがこの言葉で<始めから光りであった>と再認識させて頂きました。まさに<はじめのはじめ>ですね!!感謝
                      再拝

投稿: 山内 彰 | 2008年7月14日 (月) 08時15分

 山内様

 合掌、ありがとうございます。

 山内さんからコメントを頂き、まるで住吉大神からメッセージをいただいた気分です!

 また折に触れ、気軽に感想をお聞かせください。

投稿: 久都間 繁 | 2008年7月14日 (月) 16時40分

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