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2008年7月 1日 (火)

神想観の感想(20080701)

普遍と融合している私の生命は、天地一切のものと調和した関係に於いて結ばれているのであって、決して如何なる時にも、その調和した関係が断絶するということはないのである。

                (『続 真理の吟唱』249頁)

 私たちと神(本源者)との「調和した関係」が断絶するということはあり得ないのである。なぜなら、人間の“本源”そのものが「調和」であり、神そのものであり、天地一切と初めから一つのいのちだからである。

 私たちは、自分の“本源”なる実相世界で、遊戯三昧の神想観をすることを遠慮してはならないのである。
 嬉しく楽しくありがたく、遊戯三昧なのが「人間・神子」の“本源”そのままの姿なのである。そこには、罪も病も死も無いのである。

 本源なる実相世界には、既にあらゆる夢が、願いが、希望が、余すところなく完全円満に成就して、その輝きが実在宇宙に照り渡っているのである。

 私たちの「願い」とは、即ち“光り”であり、本源から発した願い、夢、希望は“光り”となって十方世界そのものとなって鳴り響いているのである。

 十方世界光明遍照、吾が全身光明遍照である。
 

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コメント

合掌、ありがとうございます。

最近、正法眼蔵入門という本を読みながら、神想観と座禅とを照応しました。

共通点が多々見受けられましたので、素人ながら解釈を試みました。

先達て、私は人間・神の子は既に悟っていると書きました。
そうすると自然と次のような疑問が出てくると思います。“では人間は修行する必要が無いのではないのか?”

その見解は修行と悟りの大事さを知らずに、そのままでよしとする無事禅や自然外道になってしまいます。

確かに悟りというものは凄くシンプルだと思います。しかし、いい加減なことでは幾ら時間をかけても無駄骨になると思います。


『唯佛與佛・乃能究盡』 仏だけが真理を理解し、仏と仏のみが諸法実相を究尽します。

しかし法ばかりを学び、知識の蓄えだけに走るのでは知と行が備わらず、法が生きてきません。

生長の家におきましても聖典拝読や各講義において知を修め、神想観をはじめとした三正行という行をし、この両翼を羽ばたかせ日々の生活を営み、現象界において神の愛や實相の光を照り輝かす必要があると思います。


悟りというものを“得た”というのでは、それは普段は無く、悟りが“来た”というのでは、それは元々どこにあったのだろうということになり、悟りに“成った”といえば、それには始まりがあることになり、もし始まりがあれば必ず“終わり”を迎える事になります。

しかしそうではなく、悟りは常に“此処”にあり、そのことに素直に気付き、本来、實相円満完全、人間・神の子を悟ればオールオッケーです。そしてその中で遊戯し生き続ける。凄くシンプルで楽しく嬉しく有り難い事なのです。

そして、悟りや修行は常に現在形で能動的であります。しかし、本来悟りがあるといっても、修行によってこの現象世界に現成させなければなりません。なぜならば、本来の悟りの手応えを得る為に、その悦びを味わう為に吾々は生を受け、誕生したといっても過言ではないからです。


それらにはもちろん限界は無く、本来悟っている上での更なる悟りを行ずるのであります。
よって釈迦如来、迦葉尊者、達磨大師、道元禅師やイエス・キリストでさえも、その道中を心のその奥の奥、底の底から楽しみながら今尚、行ぜられているのかもしれません。

彼らは本来の悟りの上での修行に受け用いられ、証上の修に引き回され、このようにして仏法は現代に至るまで尚しっかりと保たれ、だれも自己の力で頑張り(我を張り)どうこうしたのではなく、既に悟った上での修行に生かされて仏法を一貫してきたのです。

神の方から行われて、神の手となり足となって生きながら“神我”になったのであります。


こういうふうに云いますと他力的な印象を受けますが、では自己と他との境界線は一体どこにあるのでしょうか。
そういったものは元来存在せず、自己と他者は同じ本源から来ていますし、完全一体であります。人間の本性は個人的ではなく、天地万物と一体なのであります。


般若という悟りの智慧、行住坐臥という普段の立ち居振る舞い、すなわち日常生活のすべてが悟りの智慧であり、吾々は神から“何を考え、想い、行う”という完全自由を与えられていますが、ある行為が“迷い”から来ているものか、はたまた本証から出た妙修なのか、そこが大事であり、自覚することが大切であります。


『威儀即仏法・作法是宗旨』 日頃の一挙手一投足に集中し、あることをしている最中に他のことに捉われ、エネルギーを漏らさないことも大切です。


神想観を実修する際、一時でも身・口・意の三つに神の印を顕し、一心に正しく実修をすれば、現象世界の万物に【神】という刻印の入った印鑑が押されていることに気が付きます。

たとえ実修中に妄想が湧いて来ても放っておけば自然に消滅します。

そしてそのうちに、正法眼蔵では身心脱落の状態、生長の家では身心實相とでも云いえましょうか。
そうなる為には、正法眼蔵では只管打坐しかなく、生長の家では祇管神想観という方法以外ないのかもしれません。

悟り、修行、実修、すべてにおいて現象人間が介入する余地は少しもありません。
すなわち、自力ではないのです。

修行は信決定―仏作仏行―不染汚であり、努力―自力―染汚ではないのであります。

無限生長の道を歩みながら、神と自己、自己と他者との差を取り、愛を顕し施しながら、實相の上に立って、遊戯三昧の神想観(實相観)をしていきたいです。

ありがとうございました。


投稿: 山崎 | 2008年7月 2日 (水) 01時53分

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