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2008年7月25日 (金)

魂の訓練と歓喜

 生長の家では、人間はそのままで完全円満である(自性円満)、ということを説いているが、その自性円満ということと、「魂の訓練」ということとの間には、どのような関係があるのだろうか。

 

 つまり、生命はそのままで完全円満であるのにかかわらず、なぜ「魂の訓練」が必要なのかということである。
 そのことへの回答が、以下の文章には表現されている。

 

 

 

人間の魂が唯一代の地上誕生で、その魂の訓練が終了しないことは、一見まことに、もどかしい事ではあるけれども、かくの如き事は神が“神の子”を愛し給うところの摂理のあらわれであり、魂の訓練に終了はないからこそ、われわれの寿量も無限であって、常に新しき体験の中に進み行き、無限進歩を経験しつつ、魂の歓喜に終止符を打つことはないのである。この尊き真理を訓え給いし事を神に感謝し奉る。
(『続 真理の吟唱』263ページ)

 

 

 

 このご文章によれば、「魂の訓練」とは即ち、「無限進歩」であり、それは終止符を打つことなき「魂の歓喜」だというのである。

 

 魂の訓練とは、現象の側から見れば、これから完全円満になるための過程であるかのように思えてしまうのである。しかしそれは、実相ということを知らない間の見方にすぎないのである。

 

 現象を去った無私の地点から見れば、この人生とは、完全円満(自性円満)なる生命(光り)が、その完全なる全容(本質)を展開する場だったということに気が付くのである。

 

 つまり自性円満なる「因(光)」が、新しき体験という「縁(光)」と出合うことで、無限進歩(無限生長)という「果」(光)となって輝くのである。つまり、完全円満なる光りが、光りと出合い、さらに荘厳なる光りを放つのである。これが無限創造、無限生長の姿である。

 

 魂の訓練に終了がないのは、神の創造が無限であり、その歓喜が無尽蔵であるからである。つまり人間の本質とは、創造そのもの、歓喜そのものなのである。

 

 

 久都間 繁

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コメント

合掌ありがとうございます。
昨日先生のご講和で質問させていただきました森田と申します。
先生その節は誠にありがとうございます。

「魂の訓練と歓喜」読ませていただきました。

実は以前から「人間は、魂の生長の為に生まれてきた」とか聞いていたので、「魂の生長」とはいったい何なのか、気になっていたのです。
魂とは実相なのか現象なのか?
完全円満な実相なら生長は必要なのだろうか?
と思っていたからです。

ご文章を読ませていただき、やはり魂は実相に属しているのかと思いました。

しかし、そうすると少し疑問が生じました。
そもそも、現象の世界で実相の魂を生長させることなど出来るのであろうか?
ということです。

「現象の世界」などは本来無いものだから、「現象の世界」に住んでいるということその事が迷いであり、今「実相の世界」に住んで生きているということのみが事実であり、今実相のに属する魂も実相において生長しているということなのでしょうか?


私達人間は何故実相の世界に生まれたのでしょうか?
神の自己実現として、現象でなく実相に生まれた意味は何なのでしょうか?
実相でも何か表現しているのでしょうか?
実相の世界のみが本当なのですから、本当だけで生きられないのでしょうか?
生きられるはずだと思うのですが、実践できません。

三正行、特に神想観をしていればいつか「実相」のみで生きられるかと思ってはいるのですが、先生「実相」のみで生きられるように成りますでしょうか?

投稿: 森田 | 2008年7月27日 (日) 13時38分

 森田様

 本部会館での聖典講義では、いつも熱心に聴講してくださり、ありがとうございます。返信はブログの方にアップしました。
 3日ほど実家に墓参に帰りますので、追加の質問にお応えするのはその後になりますが、気になることがあれば遠慮せずにご質問ください。

投稿: 久都間 繁 | 2008年7月29日 (火) 16時41分

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