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2008年8月

2008年8月23日 (土)

真・善・美の展開

「実相世界に舞い遊ぶ」ことについて、山埼さんから頂いた質問への回答をアップします。

 

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>>実相完全円満世界からのみ光を、この常変なる現象界に直に照らすにはどうしたらよいのでしょうか。
先生の仰る、実相世界を舞い遊ぶということも具体的にはどういうことなのでしょうか。
先生ご自身は日常の生活において、この真理をどういうふうに実践されていますか。


 

 

 昨夜ようやく「聖使命」の編集が終り、山崎さんの質問のタイミングの良さに驚いています。

 

 先ほどは聖典講義にお越し下さり、ありがとうございました。

 

 徹夜明けで、今ひとつ乗りが悪かったかもしれませんが、何とか今日のお役目を果たすことができました。

 

 お話したように「実相世界に舞い遊ぶ」というのは、神想観の“中身”のことです。

 

「実相世界」は、真・善・美に満ちた世界である、ということは、山崎さんも聖典の言葉や、副総裁先生のご講習会などで聴かれたことでしょう。

 

 この「実相」の真・善・美は、人類の営む一切の行為となって現れ、四季折々の自然となり、天地の万物、森羅万象となって、無尽蔵にこの世に間断なく出現しています。
 つまり、実相宇宙全体の働きが大いなる光明化運動そのものなのです。

 

「三界は唯心の所現」ですから、神想観を通して真・善・美の源泉である実相世界の扉を開き、そこで舞い遊ぶことは、人類光明化運動の(神の子としての)基本的な働きではないかと思って、楽しんでやっています。


 

  久都間 繁



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2008年8月16日 (土)

アンナ・カレーニナ

 過日、地元の青梅市にあるBOOK OFF(古書店) に行ったら、トルストイの『アンナ・カレーニナ』(河出書房版 中村白葉訳)が並んでいた。

 

 この長編小説は、今から四半世紀前の20代前半に新潮社版のものを夢中になって読んだことがあった。

 

 書店で背表紙を見て、懐かしさに駆られて手にとって開いてみると、物語に登場するさまざまな人物が未だそこに存在していて、私の奥深くに仕舞いこんでいた世界を垣間見るように、紙背から次々とよみがえってくるのを感じた。

 

 

 先週だったか、映画監督の宮崎駿さんが『崖の上のポニョ』を制作するまでの300日間を、NHKで取材したドキュメンタリー番組を、録画で見た。

 

 その中で、宮崎さんが、トトロに登場していたサツキやメイは、あのときも、そして今もこの世にしっかり存在していて、その後も成長してそれぞれの人生を送っている。もうお母さんになって、子供も出来ているかもしれない、私の中ではそういうふうに今でもしっかり生きているのです、という意味の言葉を語っていた。

 

 

『アンナ・カレーニナ』を読み始めてみると、レーヴィンも、オブロンスキイも、キティーも、カレーニンも、アンナもウロンスキイも、私の裡で再びそれぞれの人生を紡ぎ始めた。

 

 懐かしい物語の世界にどっぷり浸かりながらも、最初に読んだ時には主要な登場人物のほとんどが自分より年上だったのが、今では逆に自分が(たぶん)カレーニンよりも年長になっている事実に気が付いた(^^;

 

 そんなことをよそに、物語の中では、相変わらずレーヴィンに共鳴し、アンナに魅せられ、皆の運命の成り行きをハラハラと見守りながらも、トルストイの筆による人物や自然描写の美しさが切ないほど胸に迫り、その大河のような世界に、ただただ圧倒されるにまかせているのが、シンフォニーを聴くように心地よい。

 

 ドストエフスキーの諸作品にただよう厳冬のような激しさに対して、広大なロシアの大地で織りなされる春から秋にかけての伸びやかな季節感と安心感が、この時期のトルストイにはある。
 

 

 この小説が出版されたのが1887年というから、かれこれ120年近くの歳月が流れている。にも関わらず、国家や社会の時流を超えて、その時々の世界の人々を魅了し続けてきたこの壮大な物語には、後にロシア正教会を破門されても動ずることのなかった、彼の見出した神への堅信からくる、深く切実なリアリズムが貫かれていることを、慧眼の読者は観ずることであろう。

 

 

『戦争と平和』にしても『アンナ・カレーニナ』にしても、トルストイの作品を読むことは、壮大なるシンフォニーを聴くことにも似ている。

 

 ただしそこで鳴り響いているものは、同胞のチャイコフスキーやカリンニコフたちが表現した世界をも包摂する、民族と宗教とを超えた者からの荘厳なメッセージのようでもある。ロシアで、トルストイとまったく異なる道からこれを展開したのがドストエフスキーだ。

 

  双方の諸作品に貫かれた神への信仰が、時代を超えて、物語に永遠の生命を与えているが、それは、神話のように、永遠に古くならない性質のものなのである。

 

 折をみて、懐かしいアリョーシャ(『カラマーゾフの兄弟』)にも会いに出かけてみよう。

 

 

 

  久都間 繁

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2008年8月11日 (月)

光明世界に舞い遊ぶこと

この世界を「現実」に於いてではなく、「実相」に於いて観なければならない。自分自身を「現実」に於いてではなく「実相」に於いて観なければならないのである。
         (谷口雅春著『新版 善と福との実現』12頁より)

 

 

「現実」とは、即ち現象である。

 

 私たちが生活の中で体験する「現実」において、どれほど完全で円満と見えるものが現れ、またどれほど羞悪で不完全と見えるものが現れていたとしても、それは現れているだけであって「実在」ではない。

 

「実在」するものは、ただ「実相」のみである。

 

 ときには現れ、ときには変化し、ときに消えていくようなものは、はじめから無いのである。

 

 この無い現象のみを見て、自己を評価してはならない。評価すべきものは、ただ自己の本質であるところの「実相」のみである。

 

 無い現象にとらわれなければ、人間は「そのまま」で、「実相」神の子なのである。これ以上、何も付け足す必要はないのである。

 

「現実」に、不足しているところがあるように見えるならば、それは不足しているのではなく、現象ばかり見て、「実相」を観ていなかったことの反映にすぎないのである。

 

「三界は唯心の所現」である。

 

「実相」を観れば、「実相」さながらの大調和した世界が現じ、現象にとらわれれば、不足の世界が現ずるのである。

 

 しかし現れたものは天国であれ地獄であれ、ことごとく非実在なのである。実在するものは、そのままで完全で健康で神の子で円満なる「実相」のみなのである。

 

 心の影であるところの「現実」は、私たちが「実相」を静観し、光明世界に舞い遊ぶことによって、どこどこまでも天国的状態へと変化させることが出来るのである。

 

 

 

 久都間 繁

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2008年8月10日 (日)

ザリガニのポニョ

 8月7日の木曜日、わが家から山を一つ越えたところにある映画館に出かけて、宮崎駿監督の『崖の上のポニョ』を、家族で観てきた。

 

 主人公は宗介くんという5歳の少年と、魚の子のポニョという女の子だった。

 

 映画の最中、前列に陣取った末っ子で幼稚園児の次男は、三回トイレに立ち、そのつど家内が付き添ったが、私の隣に座っていた小学三年の長男は、なんとか最後まで集中を切らさないで見ていた。

 

 作品そのものは、宮崎さんの世界を極印したような映像が随所にあふれ、ありえないような自然をモデルにした不思議な歓喜が画面の中で何度も爆発していた。

 

 ありえない世界でありながら、ありえてほしい憧憬と、天地がひっくり返るような驚きと、登場人物たちの静かなやりとりとが繰り広げられ、見ていてとても爽快だった。

 

 その帰路、一歩屋外に出ると、8月の猛暑と蝉しぐれがいちめんに降り注いでいた。

 

 6年生の次女の発案で、映画館の近くを流れる秋川(あきる野市)に立ち寄った。

 

 子どもたちと水遊びをしていると、長男が思い掛けずザリガニを発見して二匹捕獲し、続いて次男も一匹見つけて、大喜びだった。

 

 映画パンフの入っていたビニール袋に水を入れ、その中にザリガニを入れてみたら、数カ所からシャワーのように水が漏れ出した。

 

 帰り際、次男が、「もう一匹ほしい」と言って泣き出した。

 

「また、ここに必ずとりに来るからね」と家内と説得して、家へと引き上げた。

 

 

 空きやになっていたプラスチックケースの虫かごやバケツに、持って帰ったザリガニを入れ、溜め置きしていた雨水を注いだ。

 

 子供たちが、赤いザリガニをのぞき込むその姿は、先ほど観たばかりの映画の主人公そのものだった。

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2008年8月 2日 (土)

無条件の救い

  故 吉田國太郎講師は、「絶対感謝」という言葉を、そのご著書『常楽への道』の中でたびたび述べておられたが、人生の折節に「絶対感謝」という言葉に導かれ、内なる神の国(実相世界)に目覚められた方も少なからずいることと思う。

 

「絶対感謝」とは、感謝のほかにない世界に誕生するということである。

 

 釈迦は発句経の中で、

 

「実にこの世においては、怨(うら)みに報いるに怨みを持ってしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である」(中村元訳)

 

 と説いているが、この「怨みをすてる」とは、憎んでいる相手、怨んでいる自分を、心底から赦すということである。

 

 さらに生長の家では、赦すだけではなく、大嫌いな相手や、できれば生涯避けて通りたい問題ほど、「感謝せよ」「和解せよ」と、説いている。

 

 相手を真に赦し、相手(や問題)に感謝するためには、「無条件の赦し」に徹しなければならない。

 

「無条件の赦し」とは、「現象無し!」ということである。

 

 絶対感謝(実相独在)ということである。これに徹したとき、あらゆる問題が解決していくのである。

 

「無条件の赦し」とは、憎い相手も、怨んでいる自分も、自分たちを取り巻く天地一切の現象を「無し!」と根底から赦し切り、そこにそのまま実相独在の天地(善一元の世界)を拝むのである。

 

 不完全な相手も無ければ、不完全な自分も本来無い。

 

「大調和の神示」には、「その感謝の念の中にこそ汝はわが姿を見、わが救を受けるであろう」と説かれている。

 

「わが姿」とは、神(仏)のことである。

 

 現象の不完全がどんなに激しく、救い難い状態に現れていようとも、絶対感謝に帰るとき、そこにそのまま観世音菩薩の救いが、神の愛のみが厳然と存在している事実が拝めてくるのである。

 

「無条件」にすべてを赦したとき、「無条件」にすべてが救われている世界に誕生するのである。

 

 

 

 久都間 繁

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