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2008年8月16日 (土)

アンナ・カレーニナ

 過日、地元の青梅市にあるBOOK OFF(古書店) に行ったら、トルストイの『アンナ・カレーニナ』(河出書房版 中村白葉訳)が並んでいた。

 

 この長編小説は、今から四半世紀前の20代前半に新潮社版のものを夢中になって読んだことがあった。

 

 書店で背表紙を見て、懐かしさに駆られて手にとって開いてみると、物語に登場するさまざまな人物が未だそこに存在していて、私の奥深くに仕舞いこんでいた世界を垣間見るように、紙背から次々とよみがえってくるのを感じた。

 

 

 先週だったか、映画監督の宮崎駿さんが『崖の上のポニョ』を制作するまでの300日間を、NHKで取材したドキュメンタリー番組を、録画で見た。

 

 その中で、宮崎さんが、トトロに登場していたサツキやメイは、あのときも、そして今もこの世にしっかり存在していて、その後も成長してそれぞれの人生を送っている。もうお母さんになって、子供も出来ているかもしれない、私の中ではそういうふうに今でもしっかり生きているのです、という意味の言葉を語っていた。

 

 

『アンナ・カレーニナ』を読み始めてみると、レーヴィンも、オブロンスキイも、キティーも、カレーニンも、アンナもウロンスキイも、私の裡で再びそれぞれの人生を紡ぎ始めた。

 

 懐かしい物語の世界にどっぷり浸かりながらも、最初に読んだ時には主要な登場人物のほとんどが自分より年上だったのが、今では逆に自分が(たぶん)カレーニンよりも年長になっている事実に気が付いた(^^;

 

 そんなことをよそに、物語の中では、相変わらずレーヴィンに共鳴し、アンナに魅せられ、皆の運命の成り行きをハラハラと見守りながらも、トルストイの筆による人物や自然描写の美しさが切ないほど胸に迫り、その大河のような世界に、ただただ圧倒されるにまかせているのが、シンフォニーを聴くように心地よい。

 

 ドストエフスキーの諸作品にただよう厳冬のような激しさに対して、広大なロシアの大地で織りなされる春から秋にかけての伸びやかな季節感と安心感が、この時期のトルストイにはある。
 

 

 この小説が出版されたのが1887年というから、かれこれ120年近くの歳月が流れている。にも関わらず、国家や社会の時流を超えて、その時々の世界の人々を魅了し続けてきたこの壮大な物語には、後にロシア正教会を破門されても動ずることのなかった、彼の見出した神への堅信からくる、深く切実なリアリズムが貫かれていることを、慧眼の読者は観ずることであろう。

 

 

『戦争と平和』にしても『アンナ・カレーニナ』にしても、トルストイの作品を読むことは、壮大なるシンフォニーを聴くことにも似ている。

 

 ただしそこで鳴り響いているものは、同胞のチャイコフスキーやカリンニコフたちが表現した世界をも包摂する、民族と宗教とを超えた者からの荘厳なメッセージのようでもある。ロシアで、トルストイとまったく異なる道からこれを展開したのがドストエフスキーだ。

 

  双方の諸作品に貫かれた神への信仰が、時代を超えて、物語に永遠の生命を与えているが、それは、神話のように、永遠に古くならない性質のものなのである。

 

 折をみて、懐かしいアリョーシャ(『カラマーゾフの兄弟』)にも会いに出かけてみよう。

 

 

 

  久都間 繁

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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