光明世界に舞い遊ぶこと
この世界を「現実」に於いてではなく、「実相」に於いて観なければならない。自分自身を「現実」に於いてではなく「実相」に於いて観なければならないのである。
(谷口雅春著『新版 善と福との実現』12頁より)
「現実」とは、即ち現象である。
私たちが生活の中で体験する「現実」において、どれほど完全で円満と見えるものが現れ、またどれほど羞悪で不完全と見えるものが現れていたとしても、それは現れているだけであって「実在」ではない。
「実在」するものは、ただ「実相」のみである。
ときには現れ、ときには変化し、ときに消えていくようなものは、はじめから無いのである。
この無い現象のみを見て、自己を評価してはならない。評価すべきものは、ただ自己の本質であるところの「実相」のみである。
無い現象にとらわれなければ、人間は「そのまま」で、「実相」神の子なのである。これ以上、何も付け足す必要はないのである。
「現実」に、不足しているところがあるように見えるならば、それは不足しているのではなく、現象ばかり見て、「実相」を観ていなかったことの反映にすぎないのである。
「三界は唯心の所現」である。
「実相」を観れば、「実相」さながらの大調和した世界が現じ、現象にとらわれれば、不足の世界が現ずるのである。
しかし現れたものは天国であれ地獄であれ、ことごとく非実在なのである。実在するものは、そのままで完全で健康で神の子で円満なる「実相」のみなのである。
心の影であるところの「現実」は、私たちが「実相」を静観し、光明世界に舞い遊ぶことによって、どこどこまでも天国的状態へと変化させることが出来るのである。
久都間 繁
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コメント
ありがとうございます。ドキドキしながらの初コメントです。
いろどりひかる☆改めシコク嫁です。
毎回「素晴らしいなぁ〜〜〜〜」と感動しながら拝見しております。
この>>光明世界に舞い遊ぶこと。。。素晴らしいですねぇ。思わずため息が出ております。
何かに行き詰まると、すぐに「何が足りなかったのだろう??」と考えてしまっていた私ですが、この
>>無い現象にとらわれなければ、人間は「そのまま」で、「実相」神の子なのである。これ以上、何も付け足す必要はないのである。。。に、ああ、そうだったなぁ〜と実感しております。
ありがとうございます。
また、リンクも貼ってくださってありがとうございます。
ご迷惑でなければ、私のブログにもashikabi blogさんを張らせていただきたいと思っております。宜しくおねがいいたします。
投稿: シコク | 2008年8月14日 (木) 11時39分
いろどりひかる☆改めシコク嫁さま
コメントをありがとう。
ブログでも拝見しましたが、ハンドルネームを変更されたのですね。
前者のネームは、それはそれで素晴らしいネーミングではないかと思っています。
多くの皆さんにも知れ渡って(^^; いる(ひかりあふれる)お名前なので、本名と併用されてみるのもいいかもしれませんよ。
リンクはどうぞお張りください。
光明思想のブログのリンクは、まさに光のネットワークになりますね。
投稿: 久都間 繁 | 2008年8月15日 (金) 10時43分
リンクの件、ありがとうございました。さっそく貼らせていただきました。
前のネームもお誉めくださってありがとうございます。そうですね〜久都間先生のおっしゃるとおり、本名と併用する、というのも良いかもしれませんね。
また考えてまいります。ありがとうございました。
投稿: シコク嫁 | 2008年8月15日 (金) 23時49分
合掌、ありがとうございます。
少し涼しくなりましたね。そのような中いかがお過ごしでしょうか。
人は現象界に映し出された自己を本物と錯覚してしまいがちであります。それにより自己を評価し、自己に課題を与えます。
愚かかな、現象の現状結果が実相の久遠独在に勝利したり、自己の内部の殆どを占拠してしまいます。
実相完全円満世界からのみ光を、この常変なる現象界に直に照らすにはどうしたらよいのでしょうか。
先生の仰る、実相世界を舞い遊ぶということも具体的にはどういうことなのでしょうか。
先生ご自身は日常の生活において、この真理をどういうふうに実践されていますか。
また宜しくお願い致します。
ありがとうございました。
山崎拝
投稿: 山崎 | 2008年8月23日 (土) 09時53分
山崎様
回答はブログに移動しました。
素晴らしい質問をありがとうございました。
投稿: 久都間 繁 | 2008年8月23日 (土) 17時51分