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2008年9月

2008年9月26日 (金)

恋愛と結婚

 山崎さんから、恋愛と結婚についての質問をいただきました。
「若い世代の人達にはぜひ参考になると思いまして、このような質問をしました」とのことでしたので、こちらにアップします。若くない人にも(^^; 参考になるように書かせていただきました。

 

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>>作者である吾々は既に、今、この瞬間に実相円満完全なる神の子であります。
なのになぜ男女がパートナーを選ぶ時に、色々と種々の条件を相手に対して付けるのでしょうか?
宗教的見解(特定の宗教ではなく)を持ち出してこの事を説くと、こちらは相手に対して種々の条件を付けてはならない。それは相手を“愛”しているのではなく、相手にただ“恋”をしているに過ぎない。こちらは選んではならないが、相手に選ばれる時はそれ相応の準備を事前にし、条件を備えなければならない。ましてや相手がこちらにとって“高嶺の花”であるならば益々そうしなければならない・・・・・。
選ばれる方は何時まで、どれくらい自己を高めておけばよいのでしょうか。

 

 生涯を共にするパートナーを選ぶときの「条件」というのは、一人ひとりの個性が異なるように、人によって千差万別です。しかし、恋愛感情のもたらす基本的な経験や、それが人生に与える効果などは、古今東西を問わず共通していて、それは限りなく美しく、そして尊いものなのです。

 

 条件を満たしている相手というのは、いわば貴方の「内なる理想」を、彼女の中に見出しているということでもありますが、相手が素晴しい相手であればあるほど、それに相応しい高みへと自分も達しようと精進努力する、これこそが恋愛感情のもたらす最高の成長の機会でもあるのです。

 

 特に貴方のように、人生を真摯に生きようとされている方は、これを疎かにしていては、せっかくの成長の機会を失うことにもなりますので、厳しい言い方ですが、このご質問については、「とことん、精進努力してください!」というよりほかはありません。

 

 この努力を持続することで、やがて秋になると栗や稲穂が熟してくるように、内なる充実感に導かれて自然と相手へのアプローチの機が熟してくるものです。それから、満を持して一歩踏み込む。そこから先は神のみぞ知る世界です。
 叶うも良し、叶わぬも良し。相手の方は、まぎれもない観世音菩薩様なので、間違いなく貴方を実相世界へと導いてくださっているのです。

 

 >>こちらが選ぶ時には相手の外的・内的なもの(=作品)を見ずに、相手という作者(=相手の実相円満完全性)を観る事に専念し、その反対に自己を観てもらう時には、そのままの自己の実相円満完全性を汲み取ってもらうのではなく、善きところは更に伸ばし、足らない・至らない不完全なところを修正・修理し、克服し、常に“条件”付きで生長をしなければなりません。
そうであるならば、こちらにとって、あちらは“全身全霊”でありますが、あちらにとって、こちらは何時まで経っても“半身半霊”であります。

 

 結婚が、現象的な「条件」によって結ばれるのであるという考え方は、いわば商取引に類似した価値観です。このような生き方に安住している間は、その(現象的な)価値観の影響下に生活することになります。

 

「条件」とは、現象上のものですから、絶対の価値ではありません。能力でも健康でも美貌でもお金でも、そして命(寿命)でも、それがどんなに圧倒的に良いもの、尊いものであったとしても、必ず消えていく宿命の上に成り立っているのです。仏教ではこれを「諸行無常」と呼んでいます。

 

 したがって、例えば「良い条件」という関係のみによって成立した結婚生活は、より「良い条件」を持つ相手が出現した場合や、これまで見えなかった(隠していた(^^;)「悪い条件」が結婚後の相手に続出したときには、関係が簡単に壊れてしまうことにもなります。
 これは「相手」と結魂したのではなく、「条件」と結婚したが故の結末なのです。

 

 条件と結婚するのではなく、その魂の絶対価値(つまり神・仏・実相)を、相手の内に見出し、それを礼拝し感謝し、はじめのはじめから一つであったことを再発見することこそが「結魂」なのです。

 

 ですから、最初は「条件」によって結婚した夫婦であったとしても、生長の家の教えにふれて、相手の内に絶対価値(完全円満なる神・仏・実相)を見出すことで、永遠の夫婦関係に入ることができるのです。

 

 なぜ「永遠」なのかといえば、それは「神」と「神」との関係であり、「完全なるもの」と「完全なるもの」との関係だからです。これは、夫婦だけではなく、親子でも、友人でも、師弟関係でも同じことが言えると思います。

 

 ですから、“半身半霊”などという考え方は、「条件」という現象に捉われた、ただの妄想に過ぎません。

 

 円満完全なるがゆえに、人生の一切の営みが“全身全霊”であり、結婚も、友人も、兄弟も、師弟も、“神(全身全霊)”と“神(全身全霊)”とが出会い、「仏(光)」と「仏(光)」とが結ばれ、人生を、世界を荘厳するのです。

 

 神想観の如意宝珠観にある、「十方世界光明遍照、わが全身光明遍照」とは、このことの一端を伝えているように思います。

 

  久都間 繁

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2008年9月24日 (水)

「作品」と「作者」

 お彼岸の中日が過ぎた。

 

 まるで、砂浜に音もなく潮が満ちて来たときのように、辺りいちめんに秋の澄んだ空気が充ち始めているのを感じる。

 

 昨日、生長の家本部会館で「生長の家物故者秋季慰霊祭」が行われたが、副総裁・谷口雅宣先生は、ご挨拶の中で、「作品は作者の表現物ではあっても、作者そのものではない」ということをおっしゃっていた。

 

 以下は、そのお言葉に触発されて書き記した感想である。
 

 

「作品」(現象)とは、有形無形を問わず私たちが人生で生み出したところの一切の産物である。

 

「作者」とは、その人生をも生み出したところの描き手であると同時に主人公である。

 

「作品」が主体か、それとも「作者」が主体であるか、その判断の違いが地獄と天国の分かれ目であり、物質を中心とした生活と、神・仏中心の信仰生活との境目ともなるのである。

 

「作品」(現象)を中心にして、「作者」を従わせようとするところに、実生活における、あらゆる無明(まよい)が発生するのである。

 

 つまり作品とは、肉体、土地、遺産、仕事の成果、人間関係などであるが、それが自分の精進努力で生み出したものにせよ、先祖から伝えられたものにせよ、これらはあくまでも「作品」(現象)であって、それがどんなに尊い、掛け替えのないものであったとしても、「主体」となることはできないのである。それは、「現象」が「実相」になることができないのと、まったく同じ道理である。

 

「主体」であり、「作者」となるのは完全円満なる神・仏のほかにはないのである。

 

「作品」が不完全なのは、「作者」が悪いからではないのである。

 

「作者」が、作品である現象のみに心奪われて、完全円満なるその自性を見失ったが故に、不完全な「作品」が現れているだけに過ぎないのである。しかし、依然として作者は、そのまま自性円満なる神である。

 

 だから、「作品」(現象)のみを見て、「作者」を評価してはならないのである。
「作品」とは、それがどんなに高価で尊いものであれ、ことごとく現象である。「作者」とは、神以外の何ものでもないのであり、真に尊いものは神のほかにはないのである。

 

「作者」とは、未だ生まれたこともなく、死ぬこともない、久遠不滅の実相である。
 その“真の作者”なる実相に目覚めたとき、「作品」は自ずからその完全性を具現するに至るのである。

 

 何度も繰り返すが、完全性を具現した後に実相が成就するのではない。すでに成就している実相を認めて喜んだとき、完全性が具現するのである。これが三界唯心所現の法則である。

 

 健康の回復も、経済問題の完全なる解決も、仕事や人間関係の大調和も、この真の「作者」である実相に目覚めたとき、自性円満なる実相が自ずから展開してくるのである。

 

「唯神実相」の世界である光明一元の世界に舞い遊ぶ(つまり実相を喜びまくる(^^;)こと。 これが地上に、実生活に、天国を成就する秘訣である。 

 

 

 

   久都間 繁

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2008年9月18日 (木)

神想観は歓喜の行③(シコク嫁さまへ)

>> ああ、そうだ。
主人も宮本先生も、参加者のみなさまも、みんなみんな神だった。 在るものは神のみだった。
>>不都合など無かった。
デイケアでお年寄りと居るから、義父がすぐに主人の世話を焼くから、私に仕事があるから、出講で出かけるから・・・と等々、私は、そういうこと全てを主人が立ち上がれない理由にしていたんだ。
(ブログ「いろどりひかる☆」より)

 

 

 宇治本山で総務をされていた藤原敏之先生は、「困ったことがなくなるのが生長の家じゃ」と、よくおっしゃっていました。

 

 唯神実相の信仰は、天地一切の人やものや事を「在るものは神のみだ」と、その背後に実在する実相のみを観て「ありがたい!」と拝む、究極の日時計主義の生活です。

 

 このような信仰生活は、合理主義的な常識の物差しで計ることができないので、神想観を生活の中心に置かない限りは、なかなか信じられない方もいることでしょう。

 

 しかし神は、現象の原因結果の法則に左右されることなく、“無原因”に存在している「久遠の実在」であり、これを把握するためには、「現象無し!」の一転語によって、現在立っている現象の大地を去って、実相の天地へと飛躍する必要があるのです。

 

 たとえば「うれしい、楽しい、ありがたい」という言葉も、この神一元、善一元、光明一元の実相世界を直示したものであり、現象という「影の世界」を良くしようとするための自己暗示の言葉などではないのです。
 実相覚から観れば、「うれしい」も“実在”であり、「楽しい」も“実相”であり、「ありがたい」も“神そのもの”なのです。これらの言葉を心で唱えることは、実相世界そのものが鳴り響くことでもあります。

 

 また、その結果として自ずから現象世界が調ってくる、これが「三界唯心所現」の横の真理であって、第一義とすべきなのは、現象を見て「この問題をなんとかしてやろう」と現象をこねくりまわす前に、先ず「うれしい、楽しい、ありがたい」と、実相を観てよろこぶことにあるのです。

 

 

 

――シコク嫁さまがブログで素晴らしいご心境を語られていたので、それに感激して感想を書かせていただきました。

 

 

 久都間 繁

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2008年9月14日 (日)

神想観は歓喜の行②

 山埼さんから「神想観は歓喜の行」について、素晴らしいコメントをいただきました。
これは、「救い」や「原罪」という宗教における深いテーマにふれる問題なので、返信をこちらにアップすることにしました。

 

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 コメントをありがとうございました。

 

>>神は神ご自身を充足させ、幸福感に満たされる為に、勿論100%与えきりという土台の上において人間をお創りになったのかもしれません。

 

 よくよくお考えいただきたいのですが、山埼さんがおっしゃるように、神がご自身を充足させ、幸福感に満たされるために、神が人間をお創りになったということであれば、神の自性円満(そのままで完全円満なこと)を否定することになりはしませんでしょうか。

 

 神と人間との間に、もし寸分でも「差」とか“分離感”というものがあれば、その中から生まれてくる喜びは、純粋な神の子のよろこびと言うわけにはいきません。

 

 神は自性円満なるが故に、(太陽のように)100%与えっぱなし、放ち続けている愛なのです。
 み教えで説く「人間は神の子である」ということは、人間の実相は100%神の生命そのものである、ということなのです。つまり、人間のよろこびは、即ち神の喜びそのものなのです。神と人間とは“ひとつ”命なのです。

 

 
>>実相直視の習慣化がされると、しだいに心が調い、心で物事のピントを合すのがスムーズになり、ふと気付くと自己を含め周り全てが『Made in God』だと大悟するでしょう。

 

 かつての私自身がそうでしたが、神と人間との間に、少しでも「差」(分離感)を抱いている間は、どんなに実相直視や、心でのピントを合わせのために祈り続けていても、どうしても自分自身を赦すことができませんでした。
 それは、心の奥底で「罪の意識」が払拭されていなかったためです。

 

 神と人間との間の“分離感”の正体とは、まさに「罪の意識」にほかなりません。
 これはキリスト教では「原罪」と呼んでいますが、生長の家で説く「現象無し!」とは、「原罪無し!」ということまで徹底したものなのです。

 

「心」をコントロールすることによって人生を光明化する道は、初心者の方に説く場合もありますし、最近では様々なセミナーでも説かれていますので、あえて生長の家の教えに依らなくても耳にするようになりましたが、生長の家で説いている「唯神実相論」では、神想観によって「心」をも否定してしまうのです。

 

 聖経『甘露の法雨』に、「神こそ渾ての渾て」と説かれていますように、心を整えてから大悟するのではなく、人間とは、はじめのはじめから大悟(神・仏・無原罪)そのものだ! というのが「唯神実相」の教えです。

 

 その神であり、仏であることを喜ぶのが神想観なのです。神想観をしてから悟るのではありません。

 

   久都間 繁
 

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2008年9月12日 (金)

神想観は歓喜の行

 先月の聖典講義が終わった後で、7人の方々に個人指導をさせていただいたが、その内の5人が霊的な悩みについてのご相談だった。

 

 生長の家では、「天地一切のものと和解せよ」ということを説いている。
 この根拠は何かといえば、天地一切のものは、現象的にはどのような現れ方をしていたとしても、その実相は、完全円満なる神(仏)であるということである。

 

 生長の家で、「実相」と「現象」を説くのは、「実相」のみが実在であって、「現象」は心の影に過ぎない、ということを説くためなのである。
 
「実相」とは、私たちがどんなに否定しても、否定や肯定などという心の作用を超えて、久遠に実在するもののことである。

 

 また「現象」とは、ただ現れているだけであって、一度たりとも実在したことのないもののことである。だから、現象は無常であり、非実在であり、み教えは「現象無し!」と一刀両断するのである。

 

 霊的な問題と、実相・実在との間に、“関係”などは本来ないのである。
 霊界、現界ともに「現象」であり、それは心の影に過ぎない。一方、実相・実在は、はじめのはじめから円満完全に在り続けているのである。
 したがって現界や霊界に生じた不完全な現象は、私たちが五感・六感を通して観た世界が投影しているだけであって、実相・実在とは“無”関係なのである。現象の雲を突き抜けて、完全なる実相を直視しなければならないのである。

 

 無いものは、改善も改悪もない。完全円満なる神・仏のみが在るのだ。その無いものを善くしようと、現界・霊界の土俵に立ち続けて相撲をとってみたところで、完全なる世界は永遠に現象界に投影されることはないのである。「三界唯心所現」を成就する道は、実相直視以外にないのである。

 

 もし、映しの世界である霊界、現界の問題を解決しようと欲するならば、現象の土俵から下りて、ただ実相・実在の完全円満なる世界の荘厳のみを観て、それをよろこび生きたときに、天地が開け、泥中に蓮華が咲き、百花繚乱の春が訪れるのである。
  
「天地の万物(すべてのもの)に感謝せよ」とは、天地の全てのものの実相は、そのまま神であり完全円満であるから、現象の一切から去って、実相なる光明の天地に飛び込み喜べ! ということなのである。

 

 ここから、生長の家の神想観が苦行などではなく、歓喜の行であることが体感できるのである。

 

 一跳躍入如来地である。

 

  久都間 繁

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2008年9月 5日 (金)

アンナ・カレーニナ②

トルストイの『アンナ・カレーニナ』の再読を始めて約半月、ようやく遠大な物語が終わろうとしている。

 

 この物語に登場するさまざまな人物は、目に見えぬ因果律の律動そのままに、大作家の手によって各自が担わされた運命を「心の法則」のままに粛々と実現していくのであるが、彼らの心に浮かぶ一瞬のひらめき、惑い、そして煉獄のような不安、天にも昇るような喜び、その、どのような心の揺れも見逃されることなく、作者に見据えられ、細部に渡って描かれ、最後のレーヴィンの思索に見事に集約されて、物語に永遠の生命が授けられている。

 

 20代のころ、解決の目途の立たないどうしようもない不安を抱え、餓(かつ)えるように祈り、『生命の實相』を紐解き、トルストイとドストエフスキーの作品に耽溺した時期があった。
 作品に登場する主人公とともに、彼らがつぶさに経験する地獄と天国とをさまようような激しい振幅のなかを、彼らの内に密む神のような純真さだけを唯一の頼りに、一緒に頸木(くびき)を担い、何週も何カ月も歩調をともにさせてただいたことで、どれだけ魂の煩悶から救われたことだろう。
 ドストエフスキーの『罪と罰』『死の家の記録』『白痴』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』、トルストイの『戦争と平和』『復活』、そして『アンナ・カレーニナ』。
 今回、『アンナ・カレーニナ』の再読を通して、いろいろなことが思い出されて来るのであるが、これらの物語に登場する主人公たちは、未だ私の傍らにいて、静かに、これまでずっと、なにごとかを語り続けていたような気がする。

 

 毒をもって毒を制すという言葉がある。安易な解決法など望むべくもないが、随縁の説法は至る所にあり、真の救いの慈手は、どのような業火に苦しむ魂にも、遍く差しのべられている。ロシアの偉大な作家たちの遺作は、私にとってもう一つの重要な魂の道場になっていたように思う。

 

 過剰な毒としか見えなかった魂に深く食い込んだ棘(トゲ)が、いつの間にか聖なる「使命」へと転じていることの不思議と、「唯神実相」(実相独在)、「三界唯心」(現象本来無し)という生長の家のみ教えの深さと荘厳とを、あらためて思うのである。 


 

  久都間 繁

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