神想観は歓喜の行②
山埼さんから「神想観は歓喜の行」について、素晴らしいコメントをいただきました。
これは、「救い」や「原罪」という宗教における深いテーマにふれる問題なので、返信をこちらにアップすることにしました。
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コメントをありがとうございました。
>>神は神ご自身を充足させ、幸福感に満たされる為に、勿論100%与えきりという土台の上において人間をお創りになったのかもしれません。
よくよくお考えいただきたいのですが、山埼さんがおっしゃるように、神がご自身を充足させ、幸福感に満たされるために、神が人間をお創りになったということであれば、神の自性円満(そのままで完全円満なこと)を否定することになりはしませんでしょうか。
神と人間との間に、もし寸分でも「差」とか“分離感”というものがあれば、その中から生まれてくる喜びは、純粋な神の子のよろこびと言うわけにはいきません。
神は自性円満なるが故に、(太陽のように)100%与えっぱなし、放ち続けている愛なのです。
み教えで説く「人間は神の子である」ということは、人間の実相は100%神の生命そのものである、ということなのです。つまり、人間のよろこびは、即ち神の喜びそのものなのです。神と人間とは“ひとつ”命なのです。
>>実相直視の習慣化がされると、しだいに心が調い、心で物事のピントを合すのがスムーズになり、ふと気付くと自己を含め周り全てが『Made in God』だと大悟するでしょう。
かつての私自身がそうでしたが、神と人間との間に、少しでも「差」(分離感)を抱いている間は、どんなに実相直視や、心でのピントを合わせのために祈り続けていても、どうしても自分自身を赦すことができませんでした。
それは、心の奥底で「罪の意識」が払拭されていなかったためです。
神と人間との間の“分離感”の正体とは、まさに「罪の意識」にほかなりません。
これはキリスト教では「原罪」と呼んでいますが、生長の家で説く「現象無し!」とは、「原罪無し!」ということまで徹底したものなのです。
「心」をコントロールすることによって人生を光明化する道は、初心者の方に説く場合もありますし、最近では様々なセミナーでも説かれていますので、あえて生長の家の教えに依らなくても耳にするようになりましたが、生長の家で説いている「唯神実相論」では、神想観によって「心」をも否定してしまうのです。
聖経『甘露の法雨』に、「神こそ渾ての渾て」と説かれていますように、心を整えてから大悟するのではなく、人間とは、はじめのはじめから大悟(神・仏・無原罪)そのものだ! というのが「唯神実相」の教えです。
その神であり、仏であることを喜ぶのが神想観なのです。神想観をしてから悟るのではありません。
久都間 繁
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コメント
合掌、ありがとうございます。
毎回、素晴らしく深淵なご回答ありがとうございます。
先生のご文章を読んでいるうちに、自分はまだまだ自分自身の事を、その奥の奥底で赦してはないのだと気付きました。
そしてこの“原罪意識”とはかなりの時間と共にお付き合いしてきたのだなと感じました。
しかし以前先生が仰ったように日々の喜怒哀楽の中で、それでもただただ神想観を実修することが大事だと思っております。
聖経続々『甘露の法雨』の一節にもあるように、“唯そのままであれ、ただ実相であれ”です。
道を歩むときも、“神の子が歩んでいるのだ!”という自覚をさらにもっていきたい所存です。
ありがとうございました。
山崎拝
投稿: 山崎 | 2008年9月14日 (日) 23時17分
合掌、ありがとうございます。
山崎さんのような率直なコメントは、たくさんんの方々が心の中でそれとなく感じていることを、コトバで表明されているのではないかと思います。
また、それへの返信は、貴方を含め求道されている人たちのヒントぐらいにはなるだろうと思って、私も精いっぱい書かせていただいていますので、これからも遠慮なさらずになんでもぶちまけてください。
投稿: 久都間 繁 | 2008年9月16日 (火) 11時28分
合掌ありがとうございます。
いつも有難く拝読しております。今日のこの記事には〜胸のつかえが取れ、心から救われました。ありがとうございます。
勝手ながらワタクシのブログに記事内リンクさせていただきました。事後承諾で申し訳ございませんが、どうぞご了承くださいませ。よろしくおねがいいたします。
投稿: シコク嫁 | 2008年9月17日 (水) 07時30分
シコク嫁さま
リンクなど、確認は要りませんのでいつでも自由にお使い下さい。
ブログ拝見しました。
よかった、よかった!
必ず渾てが好転します。
陰ながら応援していますので、まっしぐらに「真理への道」を歩んでください。
投稿: 久都間 繁 | 2008年9月17日 (水) 19時18分
ありがとうございます。
ブログを読ませていただくだけで、満足しておりましたが、(あ、実は派遣の際に引用して使わせていただいたりもしております。)あまりにも嬉しくて、コメントさせて頂きます。
>神と人間との間に、少しでも「差」(分離感)を抱いている間・・・
>神であり、仏であることを喜ぶのが神想観なのです。神想観をしてから悟るのではありません
「ああ、そうであった。私が何故かしんどく感じたり、喜べないのは、現象からみて、努力していく先に喜びがあるのだと思っていたからなんだっ!!」と、少し前にはたと気づくことができたのですが、すぐにそれを忘れ、以前の思考回路にもどっていたりします。
そんな毎日の中で、このようなお言葉に出会うと、ああ、そうだった、そうだった。ありがたいなあ。神の子だった。と、その都度ものすごく嬉しくなります。理屈でなく、感情が伴うのは、とても幸せです。
聖典とはまた違う角度から、教えていただけますこと、とても感謝しております。
人間神の子、神の子人間、書いたらどちらも5文字ですが、すごく深いのですね、「そうか!そうだったのか!」とめちゃくちゃ感動しても、いくら感動しても、終わらない。又もっと、すごいことになる。無限というのはこういうことなのかとじ~~んとしています。
投稿: うっち~まま | 2008年9月18日 (木) 13時57分
うっちーまま様
>>人間神の子、神の子人間、書いたらどちらも5文字ですが、すごく深いのですね、「そうか!そうだったのか!」とめちゃくちゃ感動しても、いくら感動しても、終わらない。又もっと、すごいことになる。無限というのはこういうことなのかとじ~~んとしています
コメントをありがとうございました。
そうですね。神想観を通して観ずる実相世界の感動というのは、本当にどこどこまでも無限なのだと思います。
仏教で、実相世界のことを尽十方無碍光如来とも表現していますが、実相は宇宙に充ち満ちている完全円満なる光ですから、宗教的な感動もまた無限なのだと思います。
わが家にも、うっちーまま家と同様に、高校への進学をひかえた中学3年(反抗期まっただ中)の長女がいますが、ときどき思い出しては、彼女のことや、祈ってあげたい人のことを、神想観中に、実相世界にすでに円満に成就している彼らの本当の使命を観じて、それが全人類を幸せにして、全宇宙に照り輝き、さらに祈っている私自身も、その荘厳なる光につつまれていることを喜んだりしています。
すると、不思議なことに、そちら(実相)の方が本当であって、いままで(現象という)夢を見ていたのではないかと思えてきたりしています。
私たちは、ふだんは五感の感覚を通して現象世界ばかり感受して生活していますので、どうしても合理的で常識的な判断が最優先されてしまいがちですが、(現象の不完全という)現実とのギャップ(^^; にめげずに、日々の神想観によって、徐々に実相(実相覚)になれることの大切さを感じています。
投稿: 久都間 繁 | 2008年9月19日 (金) 17時17分