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2008年9月24日 (水)

「作品」と「作者」

 お彼岸の中日が過ぎた。

 

 まるで、砂浜に音もなく潮が満ちて来たときのように、辺りいちめんに秋の澄んだ空気が充ち始めているのを感じる。

 

 昨日、生長の家本部会館で「生長の家物故者秋季慰霊祭」が行われたが、副総裁・谷口雅宣先生は、ご挨拶の中で、「作品は作者の表現物ではあっても、作者そのものではない」ということをおっしゃっていた。

 

 以下は、そのお言葉に触発されて書き記した感想である。
 

 

「作品」(現象)とは、有形無形を問わず私たちが人生で生み出したところの一切の産物である。

 

「作者」とは、その人生をも生み出したところの描き手であると同時に主人公である。

 

「作品」が主体か、それとも「作者」が主体であるか、その判断の違いが地獄と天国の分かれ目であり、物質を中心とした生活と、神・仏中心の信仰生活との境目ともなるのである。

 

「作品」(現象)を中心にして、「作者」を従わせようとするところに、実生活における、あらゆる無明(まよい)が発生するのである。

 

 つまり作品とは、肉体、土地、遺産、仕事の成果、人間関係などであるが、それが自分の精進努力で生み出したものにせよ、先祖から伝えられたものにせよ、これらはあくまでも「作品」(現象)であって、それがどんなに尊い、掛け替えのないものであったとしても、「主体」となることはできないのである。それは、「現象」が「実相」になることができないのと、まったく同じ道理である。

 

「主体」であり、「作者」となるのは完全円満なる神・仏のほかにはないのである。

 

「作品」が不完全なのは、「作者」が悪いからではないのである。

 

「作者」が、作品である現象のみに心奪われて、完全円満なるその自性を見失ったが故に、不完全な「作品」が現れているだけに過ぎないのである。しかし、依然として作者は、そのまま自性円満なる神である。

 

 だから、「作品」(現象)のみを見て、「作者」を評価してはならないのである。
「作品」とは、それがどんなに高価で尊いものであれ、ことごとく現象である。「作者」とは、神以外の何ものでもないのであり、真に尊いものは神のほかにはないのである。

 

「作者」とは、未だ生まれたこともなく、死ぬこともない、久遠不滅の実相である。
 その“真の作者”なる実相に目覚めたとき、「作品」は自ずからその完全性を具現するに至るのである。

 

 何度も繰り返すが、完全性を具現した後に実相が成就するのではない。すでに成就している実相を認めて喜んだとき、完全性が具現するのである。これが三界唯心所現の法則である。

 

 健康の回復も、経済問題の完全なる解決も、仕事や人間関係の大調和も、この真の「作者」である実相に目覚めたとき、自性円満なる実相が自ずから展開してくるのである。

 

「唯神実相」の世界である光明一元の世界に舞い遊ぶ(つまり実相を喜びまくる(^^;)こと。 これが地上に、実生活に、天国を成就する秘訣である。 

 

 

 

   久都間 繁

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コメント

合掌、ありがとうございます。


毎回、先生のご文章には感激し、色々と考える事を与えてくれます。


「作者」と「作品」のお話は秀逸でした。

私はこのご文章を読ませて頂きながら、男女のパートナーシップの関係性が頭に浮かんで来ました。

作者である吾々は既に、今、この瞬間に実相円満完全なる神の子であります。
なのになぜ男女がパートナーを選ぶ時に、色々と種々の条件を相手に対して付けるのでしょうか?

宗教的見解(特定の宗教ではなく)を持ち出してこの事を説くと、こちらは相手に対して種々の条件を付けてはならない。それは相手を“愛”しているのではなく、相手にただ“恋”をしているに過ぎない。こちらは選んではならないが、相手に選ばれる時はそれ相応の準備を事前にし、条件を備えなければならない。ましてや相手がこちらにとって“高嶺の花”であるならば益々そうしなければならない・・・・・。

選ばれる方は何時まで、どれくらい自己を高めておけばよいのでしょうか。
私が即答するのであれば“無限永遠生長志向という態度を堅持せよ”と答えるでしょう。しかしそのような事を言っていると、寿命が来、肉体が滅び、現象界からいなくなってしまいます。

この矛盾は何なのでしょう。どこから来るのでしょうか。
こちらが選ぶ時には相手の外的・内的なもの(=作品)を見ずに、相手という作者(=相手の実相円満完全性)を観る事に専念し、その反対に自己を観てもらう時には、そのままの自己の実相円満完全性を汲み取ってもらうのではなく、善きところは更に伸ばし、足らない・至らない不完全なところを修正・修理し、克服し、常に“条件”付きで生長をしなければなりません。

そうであるならば、こちらにとって、あちらは“全身全霊”でありますが、あちらにとって、こちらは何時まで経っても“半身半霊”であります。

しかしながら、それらを掴まず、放ち、超克することが神の子・人間の本然とした、取るべき態度なのでしょうか。

まだまだ座標軸が、現象(=作品)に主体(=作者)がシフトしがちな私の恣意的な質問かもしれませんが、特に若い世代の人達にはぜひ参考になると思いまして、このような質問をしました。

またご返答のほうを宜しくお願い致します。


ありがとうございました。

山崎拝


投稿: 山崎 | 2008年9月25日 (木) 00時10分

山崎さん、これは恋愛についてのご質問ですね(*^^*)

回答は、本文にアップさせていただきました。

投稿: ashikabi | 2008年9月26日 (金) 19時55分

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