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2008年9月 5日 (金)

アンナ・カレーニナ②

トルストイの『アンナ・カレーニナ』の再読を始めて約半月、ようやく遠大な物語が終わろうとしている。

 

 この物語に登場するさまざまな人物は、目に見えぬ因果律の律動そのままに、大作家の手によって各自が担わされた運命を「心の法則」のままに粛々と実現していくのであるが、彼らの心に浮かぶ一瞬のひらめき、惑い、そして煉獄のような不安、天にも昇るような喜び、その、どのような心の揺れも見逃されることなく、作者に見据えられ、細部に渡って描かれ、最後のレーヴィンの思索に見事に集約されて、物語に永遠の生命が授けられている。

 

 20代のころ、解決の目途の立たないどうしようもない不安を抱え、餓(かつ)えるように祈り、『生命の實相』を紐解き、トルストイとドストエフスキーの作品に耽溺した時期があった。
 作品に登場する主人公とともに、彼らがつぶさに経験する地獄と天国とをさまようような激しい振幅のなかを、彼らの内に密む神のような純真さだけを唯一の頼りに、一緒に頸木(くびき)を担い、何週も何カ月も歩調をともにさせてただいたことで、どれだけ魂の煩悶から救われたことだろう。
 ドストエフスキーの『罪と罰』『死の家の記録』『白痴』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』、トルストイの『戦争と平和』『復活』、そして『アンナ・カレーニナ』。
 今回、『アンナ・カレーニナ』の再読を通して、いろいろなことが思い出されて来るのであるが、これらの物語に登場する主人公たちは、未だ私の傍らにいて、静かに、これまでずっと、なにごとかを語り続けていたような気がする。

 

 毒をもって毒を制すという言葉がある。安易な解決法など望むべくもないが、随縁の説法は至る所にあり、真の救いの慈手は、どのような業火に苦しむ魂にも、遍く差しのべられている。ロシアの偉大な作家たちの遺作は、私にとってもう一つの重要な魂の道場になっていたように思う。

 

 過剰な毒としか見えなかった魂に深く食い込んだ棘(トゲ)が、いつの間にか聖なる「使命」へと転じていることの不思議と、「唯神実相」(実相独在)、「三界唯心」(現象本来無し)という生長の家のみ教えの深さと荘厳とを、あらためて思うのである。 


 

  久都間 繁

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