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2008年10月

2008年10月31日 (金)

観世音菩薩としての谷口清超先生

 2000年、宇治から本部に転勤した年の冬のこと、午後に上司と外出した折に、谷口清超先生が本部に徒歩で向かわれているところに初めて出会った。

 

 上司が急に立ち止まって黙礼され、ささやくような声で「先生です」と伝えていただけなければ分からないほど、そのお姿は、講習会や特別練成会でお見かけする姿とは異なって目に映った。

 

 寒風から身を守るため、コートの上からマフラーを深々と首に巻かれ、その中から深い慈愛そのもののような光を湛えた瞳がこちらを見つめ、軽く会釈してくださっていることに気が付いた。
 先生はお帽子をかぶり、背にはリュックを背負っていらっしゃった。

 

  その時の慈愛に満ちた眼の光りは、生涯忘れることのないほど深く印象的だった。
 演壇で拝見させていただくお姿とはまた別の、静かで密やかな先生のお姿だった。
 手に提げた袋には、道中で拾われたであろう空き缶が詰まっていた。

 

 先生は、あのような眼で世界をご覧になられて、そして自然法爾に空き缶を拾われていたのであろう。それは観世音菩薩がこの世に身をお映しになられた、そのままのお姿だったのだなあと、今さらながらに思うのである。

 

 谷口清超先生、これまでのご慈導に感謝申し上げます。
 ありがとうございました。

 

  久都間 繁

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2008年10月30日 (木)

谷口清超先生ご逝去

 生長の家総裁、谷口清超先生ご逝去。享年89歳。

 

 徹夜で出版・広報部の皆で作成した『聖使命』新聞の号外が、先ほど事務所に納品された。
 紙面の一面に掲載された、在りし日の谷口清超先生のお写真は、穏やかに優しく微笑んでいる。
 その笑顔を静かに見つめていると、いろいろなことが思い出される。

 

 初めて先生のご講話を拝聴させていただいたのは、昭和55年の初夏だった。青年会に入ったばかりの私は、いきなり先輩たちに、東京・九段会館で開催された「全国単位青年会委員長会議」に連れて行かれた。
 当時の先生は、青年会総裁として真っ白なスーツに身を包んで、たしか行事の後半に会場にお越しになられて結語を話され、最後に皆に手を振りながら会場の通路を颯爽と通って帰って行かれた。
 初夏の爽やかな風のようだった。
 
 次に聴講させていただいたのは、当時住んでいた静岡教区の講習会だった。会場が満席になったので、それまで誘導などの奉仕をしていた青年会のメンバーは順番に壇上に上って坐らせていただいた。
 その時、普段は正坐などしたこともないと思われる活動家で小太りの先輩が、一番前で、神妙な面もちで腕を組んで正坐して聴講し始めたその姿の中に、師に対する弟子としての姿勢のようなものが、しんと響いていた。共鳴した私は、痛さをこらえてガマンして一所懸命に正坐してみたものの、痛くて講話どころではなかったことだけを覚えている。

 

 その後も全国大会、講習会、宇治の特別練成会などで、幾度となくご講話を拝聴させていただいた。
 聴講を重ね、他の参加者と共にご指導を頂き、神想観を深めさせていただくうちに、いつの間にか総裁先生は、私のなかでまるで空気のようなご存在になられていた。

 

 それは、神が至る所に遍満していることと同じ感覚だった。

 

 総裁先生は、現世(うつしよ)から神去りましたが、その大慈悲は、いよいよ自由自在なお姿で、「生長の家大神――総裁・副総裁――み教え」のお言葉の通りに、顕幽を超えた世界から無尽蔵に降り注がれることであろう。


  久都間 繁

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2008年10月 9日 (木)

その場、その場が神の子の舞台

 私たちの運命に、どのような境遇が巡ってこようとも、その場、その場が、私たちが地上天国実現に携わるための“場”なのである。しかもそれは、神様から授けられたところの“場”なのであるから、それは最尊最高の人生の舞台なのである。

 

「一隅を照らす」という言葉があるが、一隅とは、広さを意味するというよりも、今、自分が置かれているところの“場”つまり「舞台」のことなのである。

 

 その「舞台」で演じられるのは、紛れもない“聖”なる物語である。
 そして主人公は、完全円満なる神の子である。それは釈迦であり、イエス・キリストであり、久遠の生長の家大神(住吉の大神)が演じるところの物語なのである。だから生長の家によって神の子・人間を教えていただいた私たち一人一人は、無限の誇りと厳かさと愛とをもって演じることができるのである。

 

 人生の舞台に割り当てられた台本が、どんなに不備なものに見えたとしても、私たちは“聖”なる主人公として、自由に台本を書き換えて演じ切る力が既に与えられているのである。

 

 たとえ私たちが、どんなに境遇に“がんじがらめ”になっていたとしても、「夢を描く自由」だけは、無限に許されているのである。

 

 三界は唯心の所現である。
「今」を悦ぶことによって、道は必ず開けるのである。

 

 その「今」を悦ぶためには、神のみが唯一の実在である! という“聖”なる世界へと超入しなければならないのである。

 

 イエスは、「富める者の天国に入るに難きこと、ラクダの針の穴を通るが如し」と語っているが、生長の家の神想観によって、針の穴でも、無の門関でも、龍宮海でも、自在に往来し、透過することが可能となるのである。

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2008年10月 8日 (水)

食事について

 食事について、ダイエットと称してカロリー計算してみたり、病気を癒すためといって食べ物を制限してみたり、無理にがまんを重ねるようなことをしている人たちがいっぱいいる。しかし、特殊な例を除いては、こんなことは皆どうでもいいことなのである。

 

 このような、食べ物をコントロールしようとするような発想は、自分を物質と見、肉体と見ていることから生じるのである。

 

 しかし人間は肉体でも物質でもないのである。

 

 現象は無い、人間は神の子であると、あれほど教えて頂いているにもかかわらず、相も変わらずこのような愚行を繰り返すのは、要するに食べ物を「神の恵み」と見ずに、「物質」として見ていることから生ずる迷いなのである。

 

 食前に並んだ食べ物を、ご飯の一粒一粒を、「神」そのものとして拝んで頂いたら、自然法爾に体調が整い、すみやかに健康が回復するのである。

 

『食事の神示』は 、生長の家が発祥して間もない昭和5年11月4日に天降っているが、それは人間生活において、食べ物を物質と見るか、神の命のさきはえとして拝んで頂くのかが、物質・人間の生活と、神の子・人間の生活との分岐点になるからである。

 

 これは聖典に書かれたご文章を拝読させていただくのも、また同様である。

 

 真理を学んで上手に世渡りしよう、なんて思って読んでいたのでは、偽我(ニセモノの自分)をのさばらせるだけであり、これではまさに豚に真珠である。

 

 聖典の言葉は、神より天降った愛そのものとして拝読してこそ、初めてその真意を読み解くことができるのである。

 

 

  久都間 繁

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