その場、その場が神の子の舞台
私たちの運命に、どのような境遇が巡ってこようとも、その場、その場が、私たちが地上天国実現に携わるための“場”なのである。しかもそれは、神様から授けられたところの“場”なのであるから、それは最尊最高の人生の舞台なのである。
「一隅を照らす」という言葉があるが、一隅とは、広さを意味するというよりも、今、自分が置かれているところの“場”つまり「舞台」のことなのである。
その「舞台」で演じられるのは、紛れもない“聖”なる物語である。
そして主人公は、完全円満なる神の子である。それは釈迦であり、イエス・キリストであり、久遠の生長の家大神(住吉の大神)が演じるところの物語なのである。だから生長の家によって神の子・人間を教えていただいた私たち一人一人は、無限の誇りと厳かさと愛とをもって演じることができるのである。
人生の舞台に割り当てられた台本が、どんなに不備なものに見えたとしても、私たちは“聖”なる主人公として、自由に台本を書き換えて演じ切る力が既に与えられているのである。
たとえ私たちが、どんなに境遇に“がんじがらめ”になっていたとしても、「夢を描く自由」だけは、無限に許されているのである。
三界は唯心の所現である。
「今」を悦ぶことによって、道は必ず開けるのである。
その「今」を悦ぶためには、神のみが唯一の実在である! という“聖”なる世界へと超入しなければならないのである。
イエスは、「富める者の天国に入るに難きこと、ラクダの針の穴を通るが如し」と語っているが、生長の家の神想観によって、針の穴でも、無の門関でも、龍宮海でも、自在に往来し、透過することが可能となるのである。
| 固定リンク
コメント
合掌、ありがとうございます。
私たちの日常は私たちが身・口・意を使い、また業の集積や宿業によってもたらされたものです。
残念ながら、殆どの人々がこの事実を知らずにもがき苦しみ、四苦八苦、悪戦苦闘しております。
そういう態度はさらなる不備な不完全な『舞台』を現出し、そこで嫌々ながらも演技をしなければなりません。
しかも生長の家のみ教えは三界は唯心の所現、神の子・人間は永遠に生き通しです。それを当初知った私は“人生が楽しくて仕方のない人には佳い知らせだけれど、そうではない不幸な人生を歩んでいる人には最悪の事実であり、負の底なし沼だな”と思い、身震いをしました。
先生のように聡明で完ったき神の子・人間を上手に演じられる神の子であればよいのですが、現実はそうではありません。様々な人間でこの世は動いております。
“今、この場が聖なる神なる場”と先生は表現されましたが、この世に一体どれほどの人間がそう観じれることでしょうか。私もあれほど行きたかった場所に行き、演じてみたかった舞台に立ったにも関わらず、そのつどそのつど“飽く”と共に、自分はこれでいいのか、ここにいていいのか、何かが違う間違っている、人生を見つめ直さないといけないのではないかと目の前の現実直視を拒否します。
過去・現在・未来でもなく、“今”を生きることが本当に大切だと思います。“今”何をするのではなく、“今”を生き、神に全託することだと思います。神様、神様と完全に全身全霊で甘えることだと思います。
そして今を悦ぶ為には絶大なる感謝です。
感謝や悦び、修行の足らない、この世の時間では到底拭い去ることの出来ないほどの泥まみれな弱き自分を、それでも愛し導いて下さる神に感謝し、大きく広大で高く聳え立つ門をいつも開けっぱなしに、全人類を歓迎し続けて下さる生長の家にも感謝です。
ありがとうございました。
山崎拝
投稿: 山崎 | 2008年10月 9日 (木) 21時09分
山崎さん
私自身も一足飛びに実相に超入できたわけではないのです。
逆に、運命から次々と押し寄せる苦しさから逃れるために神想観をしていなければ、完全に(間違いなく)自滅していました。
私はかつて、宇治本山で榎本恵吾先生に導かれたのですが、今から思えば、“死ぬ方がよっぽど楽だ”というような辛い苦しみを幾つもかかえていたがゆえに、中途半端な先達など目に入らず、どん底から教えを説いて下さる人に出会わせていただけたのだなと思っています。
ですから、
>>殆どの人々がこの事実を知らずにもがき苦しみ、四苦八苦、悪戦苦闘しております。
ということも、その人の魂にとっては決して悪しきことではないのです。
人間は久遠不滅の命ですから、たとえ死んでも、永遠に続くような苦難のまっただ中に放り込まれていたとしても、それで消えて無くなってしまうような、そんな儚い存在ではありません。
神の子には、何度でも何遍でも、必ず救いの機会が訪れるのです。
それに気が付かなかったとしたら、神以外にまだ救いがあると信じていることの裏返しですから、とことん何遍でも生まれ変わって納得のいくまでやってみたらいいのです。
心の影によって仮に現れた「底なし沼」など、そんなものは恐れるに足りません。
親鸞上人も言っているではないですか、「地獄も一定(いちじょう)すみかぞかし」と。
どんなにどん底と見える境遇にいたとしても、“聖”なる神の子は、死ぬことも汚れることもできないのです。ですから、人生のその場、その場が、神の子の命が大きく開花する最高最良の修行の「舞台」なのです。
私もみ教えと出会えたお陰で、それはそれは“点滴石をも穿つ”ような感じで、ゆっくりゆっくり心境が開けていったのです。人間は久遠生き通しなのですから、焦ることなく着々と歩を進めて行けばいいのです。
でも、ハッキリしておかなければならないことは、人間は悟ってから、神の子になるのではない、ということです。
人間の実相は、そのままで完全円満であり、釈迦やキリストと100%同じ命であり、アブラハムの生まれるより前より在るところの“聖”なる実在なのです。
「悟る」とは、つまり「神」と「自分」との“差”を取るこことであり(現象無し)、「覚る」つまり“目覚める”(現象の夢から覚める)ということなのです。
投稿: ashikabi | 2008年10月10日 (金) 19時34分
合掌、ありがとうございます。始めてコメントさせていただきます。実は私も信仰に行き詰まっていた時期がありまして、5年間苦行をいたしましたが、何も変わらず悶々と日々を過ごしておりました。私の精神はノイローゼ状態でした。しかし神は導いて下さいました。宇治別格本山の榎本一子先生とご縁があり、恵吾先生の「はなびらさんさん」という御本を頂きました。その御本を11回読み続けました。私の心は全開しました。嬉しくて嬉しくて涙が止まりませんでした。「私は素晴らしかったんだ~!」と実感し、それからは悦びいっぱいの生活に変わりました。それから3年間、私は毎日内なる神からの気づきをいただき、差を取っていっております。最近、不思議なことに、自然に神想観をするようになり、“神想観”てこんなにすごかったんだー!と感動しております。(一体何年生長の家をしてるんでしょう)榎本恵吾先生のお話が書いてあったので、とても懐かしくなってコメントさせて頂きました。
投稿: yuko | 2008年10月12日 (日) 14時59分
>>最近、不思議なことに、自然に神想観をするようになり、“神想観”てこんなにすごかったんだー!と感動しております。
yukoさん
よかった、よかった。本当によかった!
この悦びは、神想観とともに無限に生長することでしょう。
私は、榎本先生に導かれてから、生長の家の「唯神実相」の教えが本当によく分かるようになり、それからはyukoさんと同じように神想観が楽しくなり、以来『生命の實相』を拝読しても、『新約聖書』を拝読しても、副総裁先生のご著書を拝読しても、そこに説かれていることの真意を汲み取ることができるようになりました。
ですから、私の本部講師としての使命は、「唯神実相」のみ教えをお伝えすることにあると思っています。
これからも遠慮せずに、気軽にコメントなり質問なり、なんなりとお寄せください。
投稿: ashikabi | 2008年10月12日 (日) 17時34分
合掌、ありがとうございます。
毎回丁寧なご回答を心より感謝しております。
四苦八苦、悪戦苦闘の人生は無様に現れたように一見みえますが、それもその人、各人において必要な事なのですね。
人間誰でも、特に吾々は神の子ですから神のように智慧博く、愛深く、生命を未来永劫紡ぎながら躍動したいものです。これが奥の奥、内部から自然に沸き起こる人間の本性・希望であります。これがイコール実相に帰結するのではないかと思います。
私を含め、殆どの方は悪しき現象が現れるとそれに固執し、またそれから離れよう、放とう、忘れようとすればするほど反対にそれらのことに執着してしまいます。
私は今生において生長の家のみ教えに触れ、唯神実相・唯心所現・万教帰一など新鮮で素晴らしいみ教えを感得させてもらっております。
だからこそ、副総裁先生も仰っていたように有限の現象界で無限をどれほど顕せるかというのが、人生の目的であり、神を表現することだと思っております。
人間・神の子無限力は時折プレッシャーにもなります。現象の自己を省みるとまだまだと不完全さを嘆き、これでいいんだと自分を説得しても、もう一人の自分がそんなのでいいわけないだろうと脅迫に近いことをしてきます。
これは人間力・人間智ではどうしようもないものだと思います。
だからこそ神に全託や、先生が上述した親鸞聖人のように阿弥陀如来に全てを“南無(おまかせ)”し、自力の心をひるがえし、捨てることが肝要だと観じます。
コメント欄に投稿頂いたyuko様のように、自然に神想観ができるようになり、したくなり、悦びの日々を営んでいる方は素晴らしいと思います。
まさに神想観が神想観を教える事を体現されています。
まだまだ“自力”の三正行や努力精進で何とかしようとしている自己を反省し、ただ神と共に歩を進めるのみです。
ありがとうございました。
山崎拝
投稿: 山崎 | 2008年10月13日 (月) 00時41分
合掌ありがとうございます。
いつも感動しながら拝読しております。特に今日の記事のタイトル「その場、その場が神の子の舞台」は何度もつぶやいて読ませていただきました。
昨日、今日と少々、凹んでおったのですが「ああ、そうだそうだ」と胸のつかえがおりました。ありがとうございます。
また山崎さま、yukoさまのコメント、それに対するashikabiさまのお返事にも心が洗われました。
>>どんなにどん底と見える境遇にいたとしても、“聖”なる神の子は、死ぬことも汚れることもできないのです。ですから、人生のその場、その場が、神の子の命が大きく開花する最高最良の修行の「舞台」なのです。
>>私もみ教えと出会えたお陰で、それはそれは“点滴石をも穿つ”ような感じで、ゆっくりゆっくり心境が開けていったのです。人間は久遠生き通しなのですから、焦ることなく着々と歩を進めて行けばいいのです。。。
ありがたい・・ただ感謝合掌です。
投稿: シコク嫁 | 2008年10月13日 (月) 17時25分
合掌、ありがとうございます。ご回答有り難うございました。私は地方の教化部に奉職しておりまして、地方講師を拝命してます。最近、私の使命、地方講師としての使命は、「神さまがすべてのすべてで、その神さまに私たちは完全に生かされていて、“今”ここそのまま完全円満を悦びまくりましょう!」ということをただお伝えすることだと確信してたら、先生のご回答にも同じことが書いてあったので、びっくりしたと同時に、とても嬉しかったです。先日、遺伝子の世界的権威であられる村上和雄先生とお話するご縁を頂いたのですが、科学者であられる先生も神さまの存在を熱く語って下さいました。そういうことを話したり、想ったりするとウキウキしますね!!
投稿: yuko | 2008年10月14日 (火) 09時59分
>>「ああ、そうだそうだ」と胸のつかえがおりました。
シコク嫁さまも、よかった、よかった!
私たちは、“やっぱり神の子だったなあ、嬉しいなあ”と、実相や真理を確認できたとき、胸のつかえがおりるのだと思います。
私も胸のつかえがおりたことを、折々に綴らせていただきます。
投稿: ashikabi | 2008年10月14日 (火) 15時49分
yukoさま
地方講師としてご活躍されているのですね!
>>「“今”ここそのまま完全円満を悦びまくりましょう!」ということをただお伝えすることだと確信してたら、先生のご回答にも同じことが書いてあったので、びっくりしたと同時に、とても嬉しかったです。
生長の家では、実相のことを「久遠の今(eternal now)」とも表現し、そこから生じたみ教えを、“「今」の哲学”とも呼んでいることはyuko様もご存じのことと思います。
この、「久遠の今」を実生活に生きることが、即ち「今を生きる!」ということであり、さらに具体的に言えば、それは神想観などを通して「“今”を深く観じて悦ぶ!」ということに尽きるのです。
なぜかと言えば、“今”とは、即ち「神」であり、「悦び」そのものの実体であり、「生命」そのものだからです。ですから、どんなときでも(どんなに現象が壊れていても)、現象を超えた「今(実相)」を直観して悦ぶことで、三界唯心所現の理(法則)によって、実相世界さながらの大調和した相が現象世界に展開して(鳴り響いて)来るのです。
この「今を悦ぶ」ことについては、神奈川教区で地方講師をされている堀浩二さんもブログ「悦びの広場」で、深い直観から得た素晴らしい信仰生活の悦びを綴られています。
ですから、「“今”ここそのまま完全円満を悦びまくりましょう!」というyuko様の至った確信も、神想観によって得た、深い共通の直観から来ているのですから、誰にも遠慮することなく(現象がどんな状態であったとしても)、神において「今」、そのままで無限に悦ぶことが許されているのです。
投稿: ashikabi | 2008年10月14日 (火) 19時19分