« 2008年10月 | トップページ | 2008年12月 »

2008年11月

2008年11月28日 (金)

神の外にあるものなし

 現象の我は、現象(影の世界)しか見ることができないが故に行き詰まるのである。
 
 私たちは、現象が無ければ、あとは神一元、光明一元の世界であるということを、魂の根底では既に知っているのである。
 しかし「現象あり」と思う(見る)が故に、躓くのである。
 現象の非実在をハッキリ悟るに従って、「實相」と「現象」との峻別が可能となるのである。しかし現象は、私たちが悟ろうが悟るまいが、はじめから無いのである。

 

 在るものは、光明であり、悦びであり、澄み切りであり、真如であり、如々実々なる神のみであり、現象は、どこどこまでも無いのである。

 

「自分が」という、ニセモノの我をのさばらせることなかれ。キリスト教で悪魔というのは、この「現象我」を擬人化したものにすぎない。
 悪とは、永遠に存在に入ることのできないものを、在ると誤って認識したが故に生じたところの無明(まよい)である。
 無いもの(現象我)を在るとしたがゆえに、それはすなわち悩みとなり、苦しみとして感じられるのである。無いものを在ると見誤ることで生じた矛盾が、即ち悩み苦しみの正体である。

 

 これを克服するためには、「神の外にあるものなし」と知ることである。

 

 今まで「自分だ!」と思い続けてきたものは、実はニセモノの自分であって、本当の自分自身は神の子であり「神のみに生かされていたのだ!!」と知ることである。
 神のほかに何ものも存在しないのである。
 神のみが久遠に生き通し、在り通してていたのである。
 それは既に今ここ、そのままに、久遠生き通しの神だったのが私たちの“いのち”なのである。

 

「自分だ」と思い、勝手に自己限定していたが故に、神の子無限力と知りながらも、その無尽蔵の實相が秘められたままになっていたのである。

 

 そのまま神であり、無限の智慧・愛・生命を蔵する神の子であったことを悦び、その歓喜の内に澄み切るとき、現象我が消滅し、そのままそこに實相・真我が復活するのである。

 

  久都間 繁

| | コメント (9) | トラックバック (0)
|

2008年11月13日 (木)

聖なる生

 クリスチャンだった故遠藤周作氏は『沈黙』という作品で、“神はなぜ沈黙しているのか”ということを扱っているが、実は神は、「光あれ」(創世記第1章)と宣言されて以来、沈黙などしていないのである。

 

 神が沈黙しているように見えるのは、人間の側が神からのメッセージを受け止めていず、理解していないだけのことなのである。

 

 世の中の光明面(真象)を見ようと欲する願いさえあれば、神は至るところに満ちていることが分かるのである。「日時計主義」とは、この神からのメッセージに照準を合わせて積極的に耳を傾けて悦ぶ生き方であるのだ。

 

 うれしいこと、ありがたいこと、良かったこと、美味しいこと、楽しいこと、幸せなこと、善いこと、美しいこと――これらを神からのメッセージと呼ばなくて、ほかに何処に神の声があると言うのだろう。

 

 私たちは今まで、あまりにも人生の暗黒面ばかりを見る習慣の内に生きてきたのである。そして、「善」と「悪」とを対立させて、「悪(暗・やみ)を消さなくては善は現れない」という考え方、つまり善悪二元の現象界を標準にした考え方に、知らず知らずのうちに心を支配されていたのである。

 

 しかし、善悪二元の世界は、現象世界の様相であって、久遠に実在する実相の世界のことではないのである。生長の家では、実相の世界は善一元であり、現象は無い! という唯神実相の世界を説く。信仰生活とは、この善一元の世界を観じて悦ぶ生活である。

 

 私たちは、善悪二元の世界観から、善一元の世界に躍入することで、神からの豊穣なるメッセージを受けとめることができるのである。それは、善悪二元の世界観を脱却してからでも、悪(暗)を消してからでもない。今このまま、善一元、光明一元であり、そのまま円満なる神であり仏である実相を悦ぶだけでいいのである。

 

 善悪二元の世界から、光明一元の世界に移行することを、新たに生まれるとも、新生ともいうのである。「善一元の世界」の信仰を生きるとき、私たちの周りに神のみが充ち満ちていることが分かり、一切が神の親愛なるメッセージであることが分かるのである。それが「大調和の神示」に説かれた、「汝ら天地一切のものに感謝せよ」という言葉の真意である。既に神の恩寵のまっただ中に生かされているのが、私たちの人生である。すでに、死んでも死なない聖なる生を、生かされて生きているのである。

 

  久都間 繁

| | コメント (2) | トラックバック (0)
|

2008年11月11日 (火)

澄み切った秋空

 生長の家では、「人間は神の子である」ということを説いている。

 

「人間」とは、時間・空間のスクリーン上に映し出された仮の存在であって、その実相は円満完全なる神である、というのが「人間・神の子」の意味するところである。だから私たちは、時間・空間上にある“仮の存在”のみを「人間」であると思ってはならないのである。

 

 時間・空間上にある“仮の存在”とは、念の仮作したところの存在であるから、それははじめから“無い”のである。だから、私たちが仮に病んだとしても、病気や症状を掴まなければ、それは自然に消えゆくのである。
 その掴みを放つためには、神の子の「子」の方ばかりを見ることを止めて、「神」の方(實相)のみを観る必要があるのである。
「子」とは現象人間である。「神」とは実相・実在である。現象人間は、現れているだけであって本来無いのである。

 

 谷口雅春先生は、「人間・神の子」の自覚から「神の子人間」の自覚へ、ということをお説きくださっている。
「神の子人間」の自覚とは、“神が私を生きている”という自覚である。この、“神が私を生きてる”ことを自覚するとは、即ち、“完全円満なる神”が私を生きていることを悦ぶことである。
 この悦びの内に、無限力の自覚が、完全円満の自覚が、無限健康の悦びが湧き上がり、罪と病と死とが消えるのである。

 

 だから、仮に肉体が病んでいたとしても、あるいは人間関係で不調和が現れていたとしても、その“不完全な状態を治そう”と、あせる必要はないのである。
 病み、縺(もつ)れているのは、過去の迷いが雲となってどんどん消えていっているのであるから、雲は行くにまかせればよいのである。無いものは、消えるほかはないのである。

 

 そして、澄み切った秋空のような、一切の曇りのない爽快な世界のみが本来の住みかであったことに感謝すればよいのである。

 

 生長の家で説く、「現象は無い!」とは、病と見え、不完全と見え、不調和と現れているそれら一切のものは「無い!」ということである。

 

 無いものを無い! としたとき、澄み切った青空の世界がはじめのはじめから在り通していたことを見出すのである。

 

  久都間 繁

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

2008年11月 2日 (日)

わが家のエピソード(yukoさまへの返信)

 コメントいただいたyukoさまへの返信をこちらにアップすることにしました。
 谷口清超先生のご指導をめぐっての、わが家のささやかなエピソードです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 yukoさま。コメントをありがとうございました。

 

 谷口清超先生に体験談を聞いていただけたというのは、観世音菩薩さまに聴いていただいたようなものですね。

 

 折をみて、ご発表になった体験談の内容などもご紹介いただければ嬉しいです。

 

 わが家では、結婚してから何年経っても子供が授からなかったのですが、平成5年に忽然として子宝が宿り、翌6年、結婚7年目にして長女が誕生したのです。後から家内は、神性受胎した日が、ちょうど宇治特別練成会での谷口清超先生がご講話された日と重なっていると話していました。

 

 その後わが家は、二女、長男、二男とほぼ3年ごとに子宝を授かり、4人の神の子さんに恵まれ、今は長女も中学3年になり、毎晩一所懸命に受験勉強に取り組んでいます。

 

 今から思えば、谷口清超先生は、まるで空気のように私たちを包む生長の家の大神そのものだったように思います。
 それは「古事記」に記された天之御中主神はじめ七柱の別天つ神(ことあまつかみ)が、「身(みみ)を隠し給いき」と表現されているように、その真の御身は遍満する仏身であり、総裁先生としての現(うつ)し身は、「慈愛」そのものの化身だったようにも思えてくるのです。

 

  久都間 繁

| | コメント (9) | トラックバック (0)
|

« 2008年10月 | トップページ | 2008年12月 »