澄み切った秋空
生長の家では、「人間は神の子である」ということを説いている。
「人間」とは、時間・空間のスクリーン上に映し出された仮の存在であって、その実相は円満完全なる神である、というのが「人間・神の子」の意味するところである。だから私たちは、時間・空間上にある“仮の存在”のみを「人間」であると思ってはならないのである。
時間・空間上にある“仮の存在”とは、念の仮作したところの存在であるから、それははじめから“無い”のである。だから、私たちが仮に病んだとしても、病気や症状を掴まなければ、それは自然に消えゆくのである。
その掴みを放つためには、神の子の「子」の方ばかりを見ることを止めて、「神」の方(實相)のみを観る必要があるのである。
「子」とは現象人間である。「神」とは実相・実在である。現象人間は、現れているだけであって本来無いのである。
谷口雅春先生は、「人間・神の子」の自覚から「神の子人間」の自覚へ、ということをお説きくださっている。
「神の子人間」の自覚とは、“神が私を生きている”という自覚である。この、“神が私を生きてる”ことを自覚するとは、即ち、“完全円満なる神”が私を生きていることを悦ぶことである。
この悦びの内に、無限力の自覚が、完全円満の自覚が、無限健康の悦びが湧き上がり、罪と病と死とが消えるのである。
だから、仮に肉体が病んでいたとしても、あるいは人間関係で不調和が現れていたとしても、その“不完全な状態を治そう”と、あせる必要はないのである。
病み、縺(もつ)れているのは、過去の迷いが雲となってどんどん消えていっているのであるから、雲は行くにまかせればよいのである。無いものは、消えるほかはないのである。
そして、澄み切った秋空のような、一切の曇りのない爽快な世界のみが本来の住みかであったことに感謝すればよいのである。
生長の家で説く、「現象は無い!」とは、病と見え、不完全と見え、不調和と現れているそれら一切のものは「無い!」ということである。
無いものを無い! としたとき、澄み切った青空の世界がはじめのはじめから在り通していたことを見出すのである。
久都間 繁
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