« 澄み切った秋空 | トップページ | 神の外にあるものなし »

2008年11月13日 (木)

聖なる生

 クリスチャンだった故遠藤周作氏は『沈黙』という作品で、“神はなぜ沈黙しているのか”ということを扱っているが、実は神は、「光あれ」(創世記第1章)と宣言されて以来、沈黙などしていないのである。

 

 神が沈黙しているように見えるのは、人間の側が神からのメッセージを受け止めていず、理解していないだけのことなのである。

 

 世の中の光明面(真象)を見ようと欲する願いさえあれば、神は至るところに満ちていることが分かるのである。「日時計主義」とは、この神からのメッセージに照準を合わせて積極的に耳を傾けて悦ぶ生き方であるのだ。

 

 うれしいこと、ありがたいこと、良かったこと、美味しいこと、楽しいこと、幸せなこと、善いこと、美しいこと――これらを神からのメッセージと呼ばなくて、ほかに何処に神の声があると言うのだろう。

 

 私たちは今まで、あまりにも人生の暗黒面ばかりを見る習慣の内に生きてきたのである。そして、「善」と「悪」とを対立させて、「悪(暗・やみ)を消さなくては善は現れない」という考え方、つまり善悪二元の現象界を標準にした考え方に、知らず知らずのうちに心を支配されていたのである。

 

 しかし、善悪二元の世界は、現象世界の様相であって、久遠に実在する実相の世界のことではないのである。生長の家では、実相の世界は善一元であり、現象は無い! という唯神実相の世界を説く。信仰生活とは、この善一元の世界を観じて悦ぶ生活である。

 

 私たちは、善悪二元の世界観から、善一元の世界に躍入することで、神からの豊穣なるメッセージを受けとめることができるのである。それは、善悪二元の世界観を脱却してからでも、悪(暗)を消してからでもない。今このまま、善一元、光明一元であり、そのまま円満なる神であり仏である実相を悦ぶだけでいいのである。

 

 善悪二元の世界から、光明一元の世界に移行することを、新たに生まれるとも、新生ともいうのである。「善一元の世界」の信仰を生きるとき、私たちの周りに神のみが充ち満ちていることが分かり、一切が神の親愛なるメッセージであることが分かるのである。それが「大調和の神示」に説かれた、「汝ら天地一切のものに感謝せよ」という言葉の真意である。既に神の恩寵のまっただ中に生かされているのが、私たちの人生である。すでに、死んでも死なない聖なる生を、生かされて生きているのである。

 

  久都間 繁

|

« 澄み切った秋空 | トップページ | 神の外にあるものなし »

コメント

久都間繁先生へ
合掌ありがとうございます
初めてメールをさせていただきます。
私は榎本恵吾先生の3回忌の御本、はじめなくおわりなくをいただき
先生の文章を初めて読みました。そのときは本当に嬉しくてわき上がってくるなにかを
おさえることができないくらいでした。

私は恵吾先生とは練成会でお会いするぐらいでした。それでも平成5年に初めて先生の講話を聞いてそれからは、何十回も宮崎から先生の講話の時間帯を調べていったものです。
恵吾先生の言葉の中にひびきにすいこまれていくことのよろこびがありました。
ただ1回だけの個人指導をお願いしましたが、あまりの緊張で自分でもよくわからない
質問をしたような気がします。
そしてこんどこそと先生と膝をつき合わせてなんて考えていましたが、結局その機会も
のがしてしまいました。
その後一子先生と色々なお話をすることができました。(一子先生へ久都間先生と会えますかと聞いたこともありました)
そして弟子像の御本もいただき、一番下の弟子までもいかなかった私を、見守り愛してくださっていると思えるようにもなりました。
それは久都間先生の文章からでした。

大事に読み私たちのグループで大切は御本に一つにもなっています
そんなとき偶然に恵吾記念館が写らない状態になり、何回もやってみたら久都間先生のグロブをみつけました。
はっきりいってとても嬉しかったのです。パソコンをみて泣いている自分がいました
感動 遙かに超えて世界 私の中で展開をしていく広がっていく本当に嬉しかったです。
どう表現してしたらいいのでしょうか?こんな時詩人ならもっとうまく先生に伝えることができるものをと・・・・・
今では先生のグロブを開くことがすごく楽しみ、全部よんでプリントしています。
友人も勉強会などの資料としているみたいです。 

先生へ私はあまりパソコンはうまくありませんが
とにかくお礼としてメールをさせていただきました。

私の住んでいるところ宮崎延岡はとても自然豊かなところで雄大な延岡を見下ろす
行縢山 鮎が釣れます大瀬川そんなところで生活をしています
空気と水はこの上なく素晴らしいところに生活をさせて頂いてます

それから先生へお願いですが個人指導はやったおられるのでしょうか?
のぼり猿の延岡  横山純子


投稿: 横山 純子 | 2008年11月24日 (月) 14時19分

横山さま

合掌、ありがとうございます。
嬉しいコメントをありがとうございました。

個人指導は、基本的には毎月の聖典講義の後で(11月は29日、12月は13日)応じさせていただいています。横山さんは宮崎にお住まいなので、公開して構わないようなご相談であればこのブログのコメント欄をご利用ください。

 また、プライベートなご相談であれば、メールアドレスを伝えますのでそちらにお寄せください。

投稿: 久都間 繁 | 2008年11月25日 (火) 13時12分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 聖なる生:

« 澄み切った秋空 | トップページ | 神の外にあるものなし »