神の外にあるものなし
現象の我は、現象(影の世界)しか見ることができないが故に行き詰まるのである。
私たちは、現象が無ければ、あとは神一元、光明一元の世界であるということを、魂の根底では既に知っているのである。
しかし「現象あり」と思う(見る)が故に、躓くのである。
現象の非実在をハッキリ悟るに従って、「實相」と「現象」との峻別が可能となるのである。しかし現象は、私たちが悟ろうが悟るまいが、はじめから無いのである。
在るものは、光明であり、悦びであり、澄み切りであり、真如であり、如々実々なる神のみであり、現象は、どこどこまでも無いのである。
「自分が」という、ニセモノの我をのさばらせることなかれ。キリスト教で悪魔というのは、この「現象我」を擬人化したものにすぎない。
悪とは、永遠に存在に入ることのできないものを、在ると誤って認識したが故に生じたところの無明(まよい)である。
無いもの(現象我)を在るとしたがゆえに、それはすなわち悩みとなり、苦しみとして感じられるのである。無いものを在ると見誤ることで生じた矛盾が、即ち悩み苦しみの正体である。
これを克服するためには、「神の外にあるものなし」と知ることである。
今まで「自分だ!」と思い続けてきたものは、実はニセモノの自分であって、本当の自分自身は神の子であり「神のみに生かされていたのだ!!」と知ることである。
神のほかに何ものも存在しないのである。
神のみが久遠に生き通し、在り通してていたのである。
それは既に今ここ、そのままに、久遠生き通しの神だったのが私たちの“いのち”なのである。
「自分だ」と思い、勝手に自己限定していたが故に、神の子無限力と知りながらも、その無尽蔵の實相が秘められたままになっていたのである。
そのまま神であり、無限の智慧・愛・生命を蔵する神の子であったことを悦び、その歓喜の内に澄み切るとき、現象我が消滅し、そのままそこに實相・真我が復活するのである。
久都間 繁
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コメント
合掌、ありがとうございます。素晴らしすぎるご文章で、読みながら体の力が抜けて、心地よくなりました。そのままでよいのですよね。生かされている生命をもっもっと悦べます。有り難うございます。
投稿: yuko | 2008年11月29日 (土) 15時12分
yuko 様
嬉しいコメントありがとうございました。
昨朝の通勤電車の中でメモしたものをまとめてみました。
『甘露の法雨』の中にある、「キリストは『神の国は汝らの内にあり』と云い給えり」という言葉が、神の国を開く鍵ですね。
投稿: 久都間 繁 | 2008年11月29日 (土) 17時28分
ashikabi様
ただただありがとうございます。
拝読していて涙が溢れて参りました。
投稿: しじみ | 2008年12月 2日 (火) 18時07分
合掌、ありがとうございます。
冷たくなりましたね。冬本番です。
相変わらず、ありのままお元気でしょうか?
私は相変わらず、現象の日々の喜怒哀楽の中で、土台を作っている最中です(o^-^o)
私は生長の家を始める前までは、神は自分と遠く離れたところにいると思っていました。
ゆえに人生はどんなにつまらなくても神に侍り、畏怖従順であれば死後、天国に行けると本気で思っていました。
過去世・現世・来世という概念は全く無く(現在でもここのところはよく理解していません)、「自分は何てラッキーなんだ。天国行きの切符を買う権利を神から頂いた。」周りを見ては「あ~可愛そう。いま楽しくても死んだら“自ずから”地獄に行くのに。」といかにも自分だけ、またはそれに類する人だけが神から選ばれた選民ならぬ選人だと全く勘違いしていました。
1泊2日で生長の家でいう青少年練成会みたいなものに行った時です。無事に帰宅し、庭先を見ると私のバイクがありました。近づいてよく見るとそのバイクはピカピカに磨かれていました。父が磨いてくれていたのです。無神論者で宗教やその団体を毛嫌いしている父が自分の息子が不在でどこで何をしているのかもわからないのに、私が研修中にそれから帰ってきたらまたすぐに乗れるように磨きメンテナンスをしてくれていたのです。
そして父は「帰ってきたか。」の一言でした。私は嬉しさと感謝と申し訳なさで胸中複雑で、こみ上げるものがありました。
研修の思い出が一発で吹っ飛びました。
幼き未熟ながら、私はあの時に父という神を観ました。「神はこんな近くにいたんだ」と思った瞬間でした。
日々忙しく勉学・仕事・バイト・青年活動などに奔走している中、ふと立ち止まると、凡ては神が私を通して学び、働き、活動しているのだと思い、また自己にそう思わせています(^^;)
神と吾々は、はじめのはじめから終わりなく共に生き続けています。
その実相・内部理想という無限供給の源泉から、さらにさらに幸福という水を湧出していきたいです。
ありがとうございました。
山崎拝
投稿: 山崎 | 2008年12月 2日 (火) 21時48分
しじみ様
いつも「日だまりのなかでcafa」を楽しく拝見させていただいています。
人間・神の子、そのまま円満完全なのが私たちの“いのち”ですから、神様に一切を全托することで、安らかとなり、嬉しくなり、円満となり、健康な状態が現れてくるのですね。
一点突破とは、悦びであり光であり愛である神様に「全托」したところに開ける、(そのまま完全円満なる實相)世界のことだと思っています。
投稿: 久都間 繁 | 2008年12月 3日 (水) 13時11分
山崎様
お父様は、神様の愛そのものだったのですね。
そんなご両親のもとに生まれ育った山崎様は、やはり神様の愛そのものです。
すでに、幸福の泉(愛)そのものがそこにいらっしゃるのですから、これからますます實相円満なる世界が、あなたの「夢」や「願い」が実現する姿で湧出してきますよ。
投稿: 久都間 繁 | 2008年12月 3日 (水) 13時21分
久都間先生
早速のお言葉ありがとうございます。
「一点突破」の意味がすとんと入って参りました。
感謝合掌
しじみ拝
投稿: しじみ | 2008年12月 3日 (水) 21時32分
先生ありがとうございます。ゲームをやめて一ヶ月たちました。やめて様子をみています。相談があります。ぜひ教えてください。僕は父の仕事を継ぐのが夢です。父は一人で自営業、酒食料品卸売業をやっています。僕の近所に仕事のない人がいます。ある方は僕が父の仕事を継ぐことをあきらめればその方が仕事を継ぐーつまりその人が仕事を得るからそうしろといいます。生長の家では「ちょっとでも愛に背くな」といいますよね。でも僕も他に行く所がありません。どうすれば愛の道にかなうでしょうか?教えてください。そのかたにいい仕事がみつかるよう祈ることもあります。でも見つかっていないようです。僕はその方に仕事を譲ることが愛の道にかなうでしょうか?
奥田 健介拝
投稿: 奥田健介 | 2008年12月 6日 (土) 19時45分
ご両親を喜ばせることが「愛の道」です。
貴方の人生であり、「人間は神の子である」と教えていただいているのですから、このような問題は先ず神想観して「内なる神」にお訊ねください。
また、生長の家は、「ちょっとでも愛に背くな」というような不自由な教えではありません。
投稿: 久都間 繁 | 2008年12月 7日 (日) 13時05分