« すでに与えている | トップページ | 新たに生まれる »

2008年12月29日 (月)

久遠の基礎(そのまま完全円満)

「人間・神の子」というのは、ゴールではない。生長の家の人類光明化運動は、すでに此処から出発していたのである。先ず、私たち「一人」の実相が、完全円満なる「仏」であり、「神」であったということを発見したのが生長の家であり、私たちの運動はこの〈原点〉から出発していたのである。

 

 生長の家は、これから光りになるという教えでも、これから神の子になるという教えでもない。先ず最初に、そのまま完全円満なる光りであり、神の子であったという原点(そのまま)を発見した悦びから発進したのが「人間・神の子」の教えであり、私たちの人類光明化運動なのである。

 

 その原点(そのまま)を発見することが、即ち初心に帰ることであり、実相に帰ることであり、このことを南無阿弥陀仏とも南無妙法蓮華経とも、天地初発時(あめつちのはじめのとき)とも云うのである。

 

 先ず「光り」であり、先ず「神の子」であるという原点(そのまま)を発見すれば、過去、現在、未来に渡って、私たちの一切の所作、進退が「光り」そのものであったことに気が付くのである。

 

 無限生長の道というも、この原点(そのまま光りである)という大盤石なる永遠の基礎に立脚した生命の相(すがた)であり、それがそのまま国際平和信仰運動の展開する相である。

 

 その久遠の基礎(そのまま完全円満である)を見出した歓びを生きること、それが生長の家の光明生活であり、人間・神の子の黄金の人生なのである。

 

 

 

  久都間 繁

|
|

« すでに与えている | トップページ | 新たに生まれる »

万教帰一の信仰」カテゴリの記事

ESSAY」カテゴリの記事

コメント

合掌、ありがとうございます。

毎回、素晴らしい御文章を自分の日々の生活に照らし合わせながら反省しながら拝見させて頂いております。


私の場合、中々、自分の一切の所作、進退が『光り』そのものだとは到底思えませんが、光りでないからこそ、光を求めているのではないかとも思います。

先生の仰る“そのまま”と目標や夢を持って進み、新たな自分に変わることとの違いは何でしょうか?

実際に在るのが“現象”であり、夢幻が“実相”だとまだまだそういう位置に居続けている私ですが、少しでも神・仏・光に焦点を合わせた日々を営みたいと思います。

今、この瞬間の自分を全肯定し、あるがままに生かさせて頂きます。


ありがとうございました。

山崎拝

投稿: 山崎 | 2009年1月24日 (土) 07時07分

 山崎さん。頂いたご質問への返信は本文にアップしました。

投稿: 久都間 繁 | 2009年1月24日 (土) 17時44分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/138762/43561536

この記事へのトラックバック一覧です: 久遠の基礎(そのまま完全円満):

« すでに与えている | トップページ | 新たに生まれる »