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2009年1月24日 (土)

新たに生まれる

 いただいた質問への回答が長文になりましたので、こちらにアップします。

 

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 ご質問をありがとうございました。さて、

 

>>私の場合、中々、自分の一切の所作、進退が『光り』そのものだとは到底思えませんが、光りでないからこそ、光を求めているのではないかとも思います。
先生の仰る“そのまま”と目標や夢を持って進み、新たな自分に変わることとの違いは何でしょうか?

 

 人間の生命は、そのままで天照大御神の“いのち”そのものなのです。

 

「そのまま」というのは、完全円満であり「光り」であるところの神なる実体のことを指し示しています。
 私たちは、初めから神なる実体そのものなのです。

 

 その神の命が、いよいよ花咲こうとしている相が、切実な「夢」となり「願い」となって顕れているのです。

 

 だから、真の「目標」や「夢」には必ず「実体(神)」があります。
 私たちがこの世に“生まれてきた”ということも、この「実体(神)」そのものが出現したのです。
 つまり私たちの人生は、「夢」や「願い」と切っても切り離すことができないのが本来の姿なのです。

 

 ところが、人生の「目標」というものが、いつの間にか「実体(神)」とは懸け離れた、現象的な「欲望」、つまりお金や地位・名誉、五感の欲望などに、すり替えられてしまっていることが、今日(の社会通念)における最大の迷いなのです。

 

 これは物質至上主義とも、欲望優先主義とも呼ばれていますが、このような「実体」のないものを、どれだけ追い求めて実現させたところで、求めれば求めるほど、発展させればさせるほど、いよいよ欲しくなり、挙げ句の果てに次世代の人類が巻き添えを食っている。この迷走の産物が地球環境問題です。

 

 余談ですが、ニートや引き籠もりとなっいる人たちは、世の通念となっているこのようなニセモノの常識(迷いの価値観)に感づいていればこそ、社会から逃避しているのかもしれません。(神を見出していなければ私も崩壊していました)
 
 ご質問にある、新たな自分に生まれ変わる、ということは、神の子・人間の「実体」であり、神の理念であるところの「夢」や「願い」が“花開く”ことです。

 

 ですからニートや引き籠もりの人のみならず、私たちも「自分の本質とは何か」ということ(つまり内なる神)を発見して悦ぶことで、毎日毎日、新たに生まれることができるのです。

 

 それは、別物の自分に成る、ということではありません。

 

 新たに生まれるとは、より自分らしくなり、より楽々と「神」が現れることです。
 

 

  久都間 繁

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コメント

 割り込んですいません。正に吾が意を得たりという気持ちを抑えられなくて書き込みさせて頂きました。

 我らの夢そのものが神の願いなのですね。私はテニスが好きで好きで、しかし、そんな事をやっている暇があれば人に生長の家を伝えなくてはならないというジレンマを長い間抱えていました。こんなのは利己的欲望ではないかと。しかし、榎本先生にその全ての私の心情を吐露した所、それでいいんだよと諭されまして。これは本当に嬉しかったのです。それで私は自分の願いが神の願いであると具体的に知る事が出来たのです。今では雅宣先生が盛んに仰っている「意味より感覚を優先させなさい」というご指導が私がテニスをしている時に感じる「感覚」なのだと本当に思い知り、それが生長の家の運動や講話をする中で本当に役に立っていたという事を実感出来るのです。

投稿: 堀 浩二 | 2009年1月25日 (日) 00時07分

 堀さん、いつも温かなコメントをありがとうございます。

 誰も文句の付けようのない「善い」こと、それが例えば運動目標の達成ということであったとしても、もし、そのことが理由で内なる「願い」や「夢」を殺していたとしたら、もしかしたら「神」から授けられた(その人にしか出来ない)天来の使命を殺すことになっているのかもしれない。

 これは、家庭生活でも、仕事の上でも、私たちが運動を進める上でも、細心の注意を払わなければならないとても重要なテーマですね。

『甘露の法雨』に、「神があらわるれば乃ち、善となり、義となり、慈悲となり、調和おのずから備わり」とありますが、要は「神が顕れること」が私たちの運動の使命であり真の目的なのだと思います。

 これからも、神想観から出てきたところの第一義のものを第一に、つまり内なる「願い」や「夢」を実現しながら同時に人類光明化運動に邁進するという「有情非情同時成道」の道を歩んでいきましょう。
 

投稿: 久都間 繁 | 2009年1月26日 (月) 14時25分

久都間先生
合掌。私は20代の学生です。
私は生長の家の家庭で生まれ育ちました。
しかし今は、自分を大切に思えず、自分を否定し、自分を傷つけてばかりです。
毎日神想観はしていますが全く劣等感を取り除けません。周りの人たちのことも怖くて仕方ありません。自分を拝むって難しいですね。

投稿: 愛 | 2009年2月27日 (金) 22時53分

 愛さま

 合掌。
 昨日まで長崎に出張しておりましたので、返信が遅くなり失礼しました。

 返信は、やや長くなりましたのでブログ本編にアップしますね。

投稿: 久都間 繁 | 2009年3月 2日 (月) 12時09分

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