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2009年1月28日 (水)

「願い」の成就

 私たちが抱くところの「夢」や「願い」は、すでに神様の世界で成就していればこそ、後から私たちの脳裏に閃(ひらめ)いて来るのである。だから全ての「願い」には、「実体」があり、その「実体」がすでに完全円満に成就して、光り輝いていることを悦ぶことこそが重要なのである。

 

 その「願い」が正しいものなのか、それとも間違ったものなのかを判断する以前に、その「願い」の背後にある「実体」を知ることが重要なのである。「実体」とは即ち「実相」である。「願い」や「夢」の「実体」を見極めたとき、最早そこには、在るもののみが在るのであり、この「在るもの」のことを、「神」とも「仏」とも「実在」とも云うのである。この「在るもの」と出会ったとき、全ての「願い」は成就するのである。

 

「われは此処に見よ、彼処に見よと云うが如くにはいないのである」と、『大調和の神示』には書かれている。が、「願い」も「此処に見よ、彼処に見よ」というが如くにはないのである。イエスは、「汝らもし盲目なりしならば、罪なかりしならん。されど今は見ゆと言う汝らの罪はのこれり」(ヨハネ9・41)と語っている。「此処に見よ、彼処に見よ」が指し示すものは、現象世界に現れた影に過ぎないのである。

 

 現象世界において、さまざまな「願い」が成就することは嬉しいことであるが、この世は「諸行無常」であるということを私たちは知っている。しかし、ささやかな「願い」が成就するということは、実はたいへんな(驚くべき!)ことなのである。
 私たちは、いずれは財産や地位、名誉のみならず肉体も家族も何もかも“この世”に置いて去らなければならない時が来るのであり、全人類がそのような宿命の内に生きており、一つの例外もあり得ないのであるが、現象世界に咲く一輪一輪の花(願いの成就)は、これ全て「実相世界」から咲き出でている“実在の鳴り響く相”であることを知らなければならないのである。

 

 だからどんなに小さな悦びにも、そこに無尽蔵の光明が宿っているのである。

 

 仏教でも「三車火宅」の喩えがあり、この世の栄枯盛衰は、まさに春の世の夢の如きものにすぎないのであるが、そのようなこの世(現象世界)にも、次から次へと無尽蔵に尽きることなく花を咲かすことができる秘訣が、生長の家の教えにはあるのである。

 

「願い」とは、実相世界からの切々たるメッセージであり、それは、如実に「実体」があるからこそ出てきたのである。
 この「実体」こそが、すべてのすべてなる「神」であり、この「実体」のことを天照大御神とも尽十方無碍光如来とも云うのである。

 

 その「実体」つまり、「実相」と出会うことで、すべての「願い」は成就する。イエスは、「み心の天に成る如く地にもなさせたまえ」と、「主の祈り」で称えているが、み心は、すでに「天に成る」つまり、実相世界で完全円満に光明燦然と輝きながら成就しているのである。

 

 その実相世界にある「実体」を観じて悦び感謝したとき、「地」つまり現象世界にもそれは実現するのである。それが、横の真理である「三界唯心所現」の法則であり、誰でも応用し実現することができる生長の家の神癒の秘訣である。

 

 このように「縦の真理」と「横の真理」とが完全に相俟(あいま)って、実生活も救われるのが生長の家である。

 

 このことを悟るためには、完全円満なる神に、既にすべてのすべてに亙って全面的に生かされているのである、という「絶対他力」の信仰に逢着しなければならない。
 

 

 久都間 繁

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コメント

合掌、ありがとうございます。


前回も素晴らしいご回答ありがとうございました。


私の場合、まずその願いの実体をみることが置き去りにされています。

私はある願いが湧き上がって来た時に、これは神意に適っているのかな、それともただの自己中心な欲なのかと分析をしてしまいます。
ほとんどの行き着く結論は、これは純粋なる内側からの催しではなく、単なる外側からの欲だということになります。そしてすぐに自分で答えを出して、こんなのではダメだと、その想いを捨ててしまいます。

機会(チャンス)の神は前髪しかないと生命の實相で読んだ事がありますが、自分はどれだけ今までその前髪を掴み損ねたか計り知れません。

神がどれほど私たちを通して、今尚その御願いをこの現象界に完全に現したくてたまらないか私なんかの想像ではとうてい及びもつきません。

しかしその掴み損ねたことに関して反省することが、神に対する懺悔のひとつではないかとも思います。

また生長の家で説かれる唯心所現を巧みに利用できる人がこの世でいわゆる成功者となるのだなとも思います。


しかし、実体をみるように日々を営んでいくと、現象がどうであろうと、このままでよかったんだなと大安心出来るようになってきます。


新たな日々に生かされつつ、あるがままの人生を感謝して歩みたいです。

いつもありがとうございます。


山崎拝


投稿: 山崎 | 2009年1月28日 (水) 21時07分

 山崎さん

「つかみ損ねた前髪」などは、妄想に過ぎません。
前髪は、常に「今、ここ」にあるのです。

 また、「唯心所現を巧みに利用できる人がこの世でいわゆる成功者となるのだなとも思います」ということも間違いです。

 唯心所現を利用することはできません。
 唯心所現の法則とは、神の愛そのものの働きなのです。その実相を観じて、その愛を生かさせていただいたとき人生が光明化するのです。

投稿: 久都間 繁 | 2009年1月29日 (木) 10時14分

合掌、ありがとうございます。

毎回先生のお言葉にはハッと気付かされます。

唯心所現は私たちが日々の生活において実践すべき、私たちの法則だと思っていました。
相変わらず勘違いが多いです^^;

神の愛の働きに没入し生かさせて頂く事が、神に全託することだと思いました。

ありがとうございます。

山崎拝

投稿: 山崎 | 2009年1月29日 (木) 19時34分

山崎さん。

ヒントを得られたとのこと、さすがですね。

これからも遠慮はいらないので何でも聞いてください。


また、これを読んでいる貴方も、道を求める上で、必要なことがあれば何なりとお尋ねください。

投稿: 久都間 繁 | 2009年1月29日 (木) 23時11分

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