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2009年2月

2009年2月14日 (土)

イエスについて

  新約聖書には、イエスが行ったさまざまな奇蹟が記録されている。死んで数日経ったラザロを蘇らせ、目しいの眼を開き、足萎えを立ち上がらせ、悪鬼を追い出すなど、常人には成しえないような奇蹟を行ったことが紹介されている。

 

 しかし、現象的に見れば、やがてイエスは十字架上に磔になって殺され、生還したラザロも、目の癒された人も、足が癒えた人も、悪鬼から救われた人も、みんな間違いなく死を迎えているのである。

 

 聖書に記されていることの本当の値打ちのあるところは、死人が蘇った奇蹟でも、不具や病気が癒された奇蹟でもないのである。イエスが神のみを信じて、その神の御意(みこころ)を生きたところにこそあるのだ。

 

 神のみを信じて生きた結果として、ラザロが蘇り、目しいの眼が開き、足萎えが立ち上がり、悪鬼が消えたのである。

 

 現象のイエスは、ラザロの死を見ては嘆き、磔(はりつけ)になる前には「願わくはこの苦き杯をわれより取り去り給え」と神に哀願しているのであるが、そこがありのままに記述されているところが聖書の素晴らしいところである。

 

 イエスは、私たちと同じ悩み苦しみを抱きながらも、最終的には一切の問題を神のみに委ねているのであるが、そこから、この物語の「聖」なる輝きが生じているのである。

 

 イエスの復活とは、二千年前に生じた一回限りの事件ではない。キリストは、私たちの内に、はじめから(生まれる以前から)活在しているのだ。

 

 内なるイエス・キリストと出会ったとき、今・ここから「聖」なる物語が始まるのである。

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2009年2月13日 (金)

赤毛のアンについて

目の前に広がるこの美しい世界。赤い花を赤い花だと認識し、青い空を青い色として体感することの不思議。水があり木々があり、宇宙があることの不思議。「私」という意識があることの不思議。そもそも、この「私」がこの世に生まれてきたということ自体、考えてみると「奇蹟」としか言いようがない。
 そうしてみると「奇蹟」というのは、何も宗教だけの専売特許ではなくて、日常生活のありとあらゆる瞬間に潜んでいるのです。後は、その小さな「奇蹟」に気が付けるかどうかということが、すべての鍵を握っています。

(茂木健一郎著『「赤毛のアン」に学ぶ幸福になる法』239頁より)

 

 私は「赤毛のアン」の隠れファンである。が、そんなことは家族以外には話したこともなかった。かつて、モンゴメリーの書いたアンのシリーズを夢中になって通読したことがあったが、私の中では、それは心の引き出しの奥深くにしまったままになっていた。
 しかし、7年前にわが家に迷い込んできたメスの子猫に、「アン」と命名していたり、テレビでアン関係の番組があれば予約してチェックし、関連書籍があれば思わず手にとって紐解いている。これも潜在意識のなせるワザであり、それなればこその隠れファンなのであり、要するに表立ってファンであることをあからさまにするのが恥ずかしかっただけのことである。

 

 茂木健一郎さんの書いた『「赤毛のアン」に学ぶ幸福になる法』も、そんな具合にたまたまアマゾンで発見して購入したものだ。

 

 一読して、自分がなぜアンをはじめマシュー、マリラ、リンド婦人など、彼女を巡る人々やストーリーそのものに引かれていたのか、その構造がようやく理解できたような思いがした。そして、その構造に気が付くたびに、涙があふれて来た。この物語は「真心」「誠実」「愛」といった原初的なものによって骨格が成り立っていたのである。

 

 同書で茂木さんは語っている〈その小さな「奇蹟」に気が付けるかどうかということが、すべての鍵を握っています〉と。

 

 虚心に眺めてみれば、世界そのものが、「奇蹟」そのものだったのだ、再びアンに会いたくなってきた。

 

 

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