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2009年3月

2009年3月27日 (金)

次女の卒業式に寄せて

 先週から今週にかけて、幼稚園、小学校、中学校と、3つの卒業式に出席させていただいたが、最後を締めくくったのは火曜日に行われた小学校の卒業式だった。

 

 小学校を卒業した次女の担任だったA先生は、児童と保護者に宛てた学級通信を、5年生の1学期から卒業式の当日までの2年間、授業のある日はほぼ毎日発行していた。主幹を兼務した多忙な日々にもかかわらず、この作業のお陰で、学校でのさまざまな出来事が分かり、学校に通う子供たちのみならず私たち保護者にとっても、大切で、楽しみなニュースレターになっていた。

 

 A先生は、青梅の小学校に赴任する前は、三宅島の小学校で教員生活を送っていた。
 島で出会った海洋生物学者のジャック・モイヤー氏とも親交を深めながら、モイヤー氏や子どもたちと一緒に海に潜り、環境問題やその啓発活動に深い関心を寄せながら離島での児童教育に勤しんでいた、そんな矢先、2000年に三宅島が噴火。

 

 避難先となった東京都・あきる野市内の施設で、140人ほどの児童とともに疎開生活を開始したものの、両親の落ち着き先が決まった子供が一人去り、二人去り、毎週のようにお別れ会を繰り返す中で、残された子どもたちが親恋しさに涙を流すのにいたたまれず、A先生は泣く児童を毎晩両腕に5人も6人も抱えながら一緒に眠った。朝になると、服の両腕が涙でぐっしょりぬれていたという。

 

 翌2001年春には児童数が20数人となり、同年度後半には、ついに0人となった。

 

 カラッポになった教室に残されたA先生は、かつて子どもたちと本土へ渡る船の中で、「必ず島へ一緒に連れて帰る」「私がみんなのことを守るぞ!」と誓った期待に応えることができず、教師の使命や役割について反芻する度に無力感に苛まれ、「もう教師を辞めて別の仕事に就こう」と思ったという。
 しかし、教師として悔いの残らぬよう、「あと一年だけ、精一杯やらせていただこう」と決意し、たまたま赴任した先が青梅市内の小学校だった。

 

 2002年春、さっそく校長室を訪問し、「一年間だけですが、お世話になります」と挨拶した。

 

 彼にとって、教師生活最後となる一学期が始まった。
 演壇に立って、自分を見つめる子どもたちの純粋な眼に出合ったとき、「三宅島の子どもたちの眼と同じだ!」と、感じた。

 

 天職とは、周りの人たちから教えられるものなのかもしれない――

 

 以来、今日までの7年間の歳月は、彼にとって、あっという間の出来事だったことだろう。

 

 私がA先生と出会ったのは、3年前の2006年秋、小学校で行われた学習発表会だった。

 

 それは環境問題についての6年生による「いのちの環(わ)」という児童劇で、台本も、ストーリーも、子どもたちの唱う歌も、衣装も、舞台セットも先生の指導で何もかも自分たちの手で作り上げたものだった。

 

 劇の最中に登場する、子どもたちと先生とで作詞・作曲したというオリジナル曲の合唱を聴いているとき、この歌と物語の根底に流れている、自然に寄せる深く、そして優しい眼差しが伝わってきた。たかが小学校の学習発表会と高を括り、まったく何の期待もしていなかった私の目に、涙が止めどなくあふれてきた。それは紛れもない、A先生の根底に流れているものとの出会いだった。

 

 翌年、次女が5年生に進級し、A先生は娘の担任となった。それ以来、何度か膝をつき合わせてお話しする機会があり、私たちは導かれるように、教育のこと、環境のこと、地域社会への貢献のこと、他の若い先生方、あるいは大先輩の先生なども交えて夜が更けるまで話し合った。

 

 そんなA先生も、どうやら4月からの転勤も決まり、より責任ある立場の道へと進まれるようだ。したがって、今年の卒業生が、彼が教育現場で受け持つ最後のクラスとなった。

 

 卒業式の後、クラスの謝恩会が開かれ、A先生のニュースレターを通して繋がり合っていた保護者の皆さんが大勢参加した。

 

 謝恩会では、生徒の一人ひとりが両親に宛てた「感謝の手紙」を、皆の前で一人ずつ読み上げて、それぞれの親に直接手渡したほか、これも新たに卒業式に向けて先生と子どもたちとで作詞・作曲したというオリジナル曲の楽器演奏が披露され、最後に父母と子どもたちとが、先生のギターに乗せて一緒にその曲を合唱した。希望に満ちた、どんなに絶望したときでも元気が湧いてくるような爽やかな歌詞とメロディからは、A先生から子どもたちへの、彼らの将来に寄せる深い〝思い〟があふれていた。その演奏と歌は、今も私の頭の中で鳴り響いている。

 

 A先生、長年にわたる生徒たちへの情熱的な指導、本当にありがとうございました。

 

 子どもたちは、貴方と一緒に経験した学校でのさまざまな行事を通して、無償で奉仕して何かを成し遂げる喜びを、全身で感じ取ったことでしょう。
 この経験は、彼らの生涯の宝となり、自身の運命を切り開く大きな力となることでしょう。
 貴方と出会えたことを、生徒共々心より感謝しております。
 

 

  久都間 繁 

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2009年3月 8日 (日)

自分を拝むことについて(二)

 愛さん

 

 ご質問、ありがとうございました。
 

 

>> 一年間、学校に通い、4月から2年生になりますが、この期に及んで、「わたしはこの学校に来てはいけなった」「わたしの居場所ない」と思ってしまっています。毎日、自信も明るさも、喜びもない生活です。早くここから脱したいです。こんなに苦しい思いをしなければならないほど、わたしは悪業を積んできたのでしょうか?

 

 

 これは大切なことですが、それは「悪業」とは関係ありません。むしろ、貴方の魂が素晴らしいが故に、そのような苦悩と思えるようなことをご経験になっているのかもしれませんね。
 
 大学や専門学校などに通うということは、ご両親が大きな経済的負担を負わなければ実現できないことと思います。
 学校に行くことが苦しいのなら、大学は義務教育ではないのだから無理して行く必要はありませんし、また、勉強を本当にしたくなったときに、改めて学び直すこともできます。

 

 かく言う私自身は、大学に行ったのは社会人になってからです。専門的な分野の研究を本気でしたくなったので、働きながら稼いだお金で学費を払って卒業したのですが、そのころの私は学ぶ理由がはっきりしていたので、(しかも自腹で行ったので(^^;)学校の授業の1分1秒がとても貴重で尊いものに感じました。
 
  また、貴方が本気でやりたい仕事をすでに見出しているのであれば、まっすぐにそこに向かって歩み出してもいいと思います。

 

 しかしまだ、具体的に進みたい進路が定まっていないのであれば、貴方自身が興味をいだいている分野を、在学中に徹底的に掘り下げてみるのもいいでしょう。

 

 また学園生活で、外の世界に興味が湧いてこないということは、実は読書体験を深めて魂を深く耕すのにもってこいの時期でもあるのです。
 トルストイ、シェィクスピア、ディケンズ、ゲーテ、ヘルマン・ヘッセ、夏目漱石、森鴎外、生命の實相全集など、珠玉のような物語の世界があなたを待ち受けています。また、これらの作品に出会うことで、あなたの人生がどれほどいろどり豊かなものへと成熟されることか、とても楽しみなことです。

 

 また、そのようにして、内面の世界を深めているうちに、勉強や学校に対しての考え方も、大きく変わってくるかもしれませんね。

 

 いずれにしても、あなたは完全円満なる神のいのちそのものなのですから、どの道に進もうとも、全てが善き経験となることでしょう。

 

 

 久都間 繁

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2009年3月 2日 (月)

自分を拝むことについて

 「新たに生まれる」の文章に寄せられたコメントへの返信が長文となり、皆さまのご参考にもなるかと思いましたので、こちらにアップさせていただきます。

 

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 合掌、ありがとうございます。
 昨日まで長崎に出張しておりましたので、返信が遅くなり失礼しました。

 

 さて、

 

>>毎日神想観はしていますが全く劣等感を取り除けません。周りの人たちのことも怖くて仕方ありません。自分を拝むって難しいですね。

 

 ということですが、現象の「自分」を拝むことは、貴方が言うようにとても難しいのです。
 それは現象の自分は「影」であり「実体」が無い、ということもありますが、なによりも困難なのは「過去の残像」(現象の自分)の中には善いものと不完全なものとが混在しているからです。

 

 生長の家で、「自分を拝む」というのは、過去の不完全な自分の残像(つまり現象)を拝む、ということではありません。

 

 現象は影であり、実体がないのですから、そんなものは放っておいて、はじめのはじめから完全円満であるところの「実相の自分」つまり、智慧であり、愛であり、生命であるところの本当の自分を拝み、そして味わうことが、神想観で実修するところの実相直視ということであり、そのような神想観を実修されることで、生長の家の「行」が悦びそのものである「楽行道」であることを見出すことができます。

 

 だから、現象の不完全な自分を見て、それを〝良くしよう〟などと思って研鑽していたのでは、いつまでもその不完全に捉われてしまい、さらにそれが〝心の影〟となって現れ、努めれば努めるほど苦しくなってしまうのです。

 

 貴方は、はじめのはじめから神の子であり、完全円満なる智慧・愛・生命をいただいているのですから、もっともっと全身の力をぬいて、神様に全托して、その完全円満なる大生命にただただ生かされていることに感謝して悦んでいればいいのです。
 そうすれば、実相さながらの大調和した世界が貴方の周りに実現して来るのです。

 

 また、「周りの人たちのことも恐くて仕方がない」というのも、人生というものは自分の力でなんとかしなければならない不完全なものだと見て、努め励んでいることの裏返し(心の影)ですから、これまでの日々で辛いことも多かったことでしょう。
 
 もうそろそろ「現象」(影の世界、結果の世界)を信仰することをやめて、「実相」(神様の世界、実在の世界、本当の自分)を信仰する生長の家の生活へと、思い切って飛躍する時期が来ているのではないでしょうか。

 

 機は熟していると思います。分からないことがあれば、何でもお尋ねください。

 

 また、関東地方にお住まいであれば聖典講義の日は個人指導もしているのでお越し下さい。

 

 

 久都間 繁

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