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2009年4月

2009年4月24日 (金)

友人への手紙〈2009.4.22〉

 これは友人からの質問に答えた手紙です。
 支障のない範囲で転載します。

 

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合掌、返信をありがとうございました。

 

本当にあなたが道を求めているのであれば、まず周りの人たちに貴方から心開いて、皆のお役に立つこと、身近な人が喜ぶことを、毎日ひとつでいいからやってみましょう。

 

本当は、自分も他人も無いのです。
すべてひとつの、神のいのちです。
そこを体感してカラッポになって、一所懸命に生きることが、「救われる」ということです。

 

生長の家では、親切のことを「深切」と書きます。
それは、自分や他人といった「現象」を、深く切る、ということです。

 

無いものを、無い! として、そこに飛び込むことです。
それが百尺竿頭を進一歩することであり、そこからいのちの世界への扉が開くのです。

 

だから、今から、身近な人が悦ぶことを、周りの人が楽になることを、させていただきましょう。
そこから天国が開けてきます。

 

久都間 繁

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2009年4月14日 (火)

新たな使命

 自分にはそんな資格がないから、能力がないから、学歴がないから、とてもそんな器ではないから、などと「出来ない」理由を挙げることはいくらでもできるのであるが、これらのことは全て「現象」に過ぎないのである。

 

 なによりも大切なことは、私たちは今、ここに、それは神とも仏とも呼ぶべき「無限の大生命」によって〝生かされている〟ということである。

 

 誰も、自分の意志によってこの世に生まれて来た者などはいないのである。
 ここに〝生かされている〟ということは、自分で生きているのではなく、この仏とも神とも云うべき「無限の大生命」が、そのままそこに〝生きている〟のである。

 

 この「無限の大生命」に生かされているにもかかわらず、私たちが自分で、能力がない、時期ではないなどと、目先の現象にとらわれてさまざまな条件を作り上げ、私たちの内にひそむ「夢」や「願い」や「希望」(即ち人生の真の目的)を勝手に握りつぶしていたのでは、私たちを生み出した無限の大生命が、その生命の噴出口(表現の場)を失ってしまうのである。それが、つまり人生における〝行き詰まり〟であり〝生き甲斐を見失う〟ということであり、スランプ状態の本質である。

 

 つまり、巡りめぐって私たちのところに偶然のようにしてやって来る「新たな使命」を、表面だけ見てただの人為的なもの、価値なきもの、取るに足らぬものと解釈し、現象的な条件が整わないからという理由を付けて退けていたのでは、大生命が私たちを無限に生かそうとしても〝生かしようがなくなる〟のである。

 

 二葉のうちは、誰もそれが大木になるなどと信じないのは世の常である。

 

「新たな使命」がめぐって来るということは、私たちをこの世に生み出した無限の大生命そのものが、そこに実現しようとしているのである。

 

 

 

 久都間 繁

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2009年4月11日 (土)

友人への手紙〈2009.4.7〉

 合掌、ありがとうございます。

 

 イエスは、「与えよ、されば与えられん」と語っていますが、この言葉は真理です。

 

 与えてもらうために「与える」というのでは、これは商売であり、利害関係が濃くなるほど、神から発した無償の愛や善の行為とは遠ざかることになります。

 

 しかし、神が無限の大生命であるように、太陽の光が無尽蔵であるように、人間が神の子であるということは、「与えるものが無限にある」ということなのです。

 

 それは、その人が役に立つとか立たないとか、能力があるとか無いとか、明るいとか暗いとか、そんなことはすべて現象であって、「人間・神の子」ということとは関係ありません。

 

 大切なことは、神が無限の愛であり、私たちは「神という大生命」から生まれた「神の子である」ということです。
 智慧も、愛も、生命も、与えれば与えるほど無尽蔵のいのちの水源(本源)から流出して来るのです。

 

 だから、「何か特別なことをしなければ、生きている甲斐がない」などというのは、まだ在りもしない現象にとらわれているのです。

 

 自分の周りの人たちのお役に立つこと、相手が誰であれ、頼まれたことを真心込めてさせていただくこと、日々祈りながら神の御心を生きること。

 

 それが、貴方のいう「ご恩返し」ということであり、「お役に立てる人間になる」ということです。
そこ(今、ここ)を離れて、神様の御心を生きる場所はありません。

 

  久都間 繁

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2009年4月 1日 (水)

夜空の星

 今年の一月元旦、小6の次女と小3の長男の2人を連れて実家のある静岡の田舎に帰省した。

 

 その翌日、8年ぶりに同窓会に参加したのであるが、宴は昼から始まり、えんえんと会場と品を替え、ついに深夜にまでおよんだ。
 夜も更け、送ってくれた友人と、その息子の運転する車から降り、玄関前に立って夜空を見上げると、深く神秘的な光景が頭上に広がっているのに驚いた。一瞬、ゴッホの描いた「星月夜」を観ているのかと思った。

 

 幾つもの星雲、星団や細かな星々の一粒ひとつぶが、双眼鏡も使ってないのに手に取るように見えた。まるで深い星くずの海の底に頭を沈めて、普段は誰も見ることのできない宇宙の秘密を垣間見てしまったような気分だった。

 

 部屋で眠っている子どもたちに見せたら、どんなに驚嘆するだろう! 母にも知らせてあげなければ! と、家に飛び込んでみたものの、みんなすっかり熟睡していたので、あきらめて、そっと床に就いた。

 

 3カ月ほど経ったが、あの夜の光景が今も忘れられないでいる。
 考えてみれば、あのような星空は、私が子供の時から頭上に輝いていたはずである。なのに、なぜその美しさに気が付かなかったのだろう。

 

 ちょうどそれと同じようなことを、当日の同窓会でも体験した。
 午後1時からはじまった同窓会は、振り返れば12時間ほどにおよんだのであるが、そこで膝を交えて語り合った旧友たちの魂に魅せられているうちに、あっという間に時が経っていた。
 私は浦島太郎なのかと思った。今まで“当たり前”のように存在していた全てのものが、ぜんぜん“当たり前”ではなかったのだ。

 

 あの日、私は何を見て、何を感じていたのだろう。今はそんなことしか思い浮かばない。
 夜空にしても、幼なじみにしても、学生だった当時は“当たり前のもの”としてしか感じることのできなかった全てのものが、星空に輝く美しい星たちのように輝いていたのである。

 

 イエスは、「目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている」(ヨハネ4・35)と語っている。

 

 彼の眼には、取り巻く弟子たちのみならず、ピラトもマリアも、パリサイ人も取税人も、きっと夜空の星のように、美しく輝いて観えていたのではないだろうか。
 

 

  久都間 繁

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