「全托」について
神想観をやっていると、日常生活の通念を超えた経験をすることがよくある。
「全托」という言葉があるが、これは絶対他力の信仰を一言で現したコトバである。
例えば、何か問題が起こったとき、「それは神様に全托したらいいよ」というようなアドバイスを、することもあるし、される場合もある。
しかし、そのような托し方は、絶対他力の信仰とは、実はあまり関係がないのである。
絶対他力の信仰における「全托」とは、即ち「自分が托す」という、その「自分そのもの」を托してしまう、ことである。
そして、「自分そのものを托す」とは、自分の見聞覚知している全意識、全宇宙、全存在を大生命に「托す」ということである。
ここに不思議な世界が出現する。
自分がぽっかり、神(究極的実在)と全宇宙との「接点」に位置していることを知るのである。
つまり、からっぽになって、全宇宙となって、全存在となって、神に祈っている(包摂されている)ものが、これまで「私」と思われてきたところの存在なのである。
「大調和の神示」には、
「われは此処(ここ)に見よ、彼処(かしこ)に見よと云うが如くにはいないのである」
「われを招ばんとすれば天地すべてのものと和解してわれを呼べ」
というコトバがある。
神は「此処や彼処には」存在しない。
なぜなら、「此処や彼処」とは、時間・空間上に現れた現象に過ぎないからである。
また、「天地のすべてのものと和解して」いなければ神を呼ぶことができないのは、「天地のすべてのもの」は、即ち「神そのもの」の顕れだからである。
和解するとは、要するに身を(も心をも)捨てて、天地万物を「無償の愛」の内に包摂することにほかならないのである。
「全托」とは、ただただ完全円満なる大生命のみに生かされることである。
こんなに楽な世界はないのである。
久都間 繁
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