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2009年6月27日 (土)

仏の四無量心について

 本日、本欄の読者のYさんから質問のメールをいただきました。
 回答をこちらに掲載します。

 

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Yさんからの質問
心という言葉は『甘露の法雨』にもたくさんでてきますが、この心をどうすることもできないのが現実の世界です。
真象であればよいが、偽象が現れた時には、やはりいろいろと迷いますし困惑もします。

 

そんな心をすべて無しと、打ち消したのが生長の家の教えなれば、ただ神さまの世界のみを肯定し、その実相そのものを味わうというか、悟るというか、喜ぶということも、やはり「心」ではないのでしょか?

 

先生の云われる歓喜とは、われわれのよろこびとはちがうのかもしれませんが。(現象的喜び)

 

時間空間がすぎてしまえばなくなるもの、それは、絶対的なものでもない。「肉体もなし」と打ち切っています。では「心」とは、神さまが作られたものなのでしょうか?

 

質問への回答

 

「心」についての質問をありがとうございました。
生長の家の聖経『甘露の法雨』には、

 

完全なる神の
『心』動き出でてコトバとなれば
一切の現象展開して万物成る。万物はこれ神の心、
万物はこれ神のコトバ、
すべてはこれ霊、
すべてはこれ心、
物質にて成るもの一つもなし。

 

 と書かれていますが、ここに説かれているの「心」は、「神の心」のことです。つまりそれは「実在の心」であり、完全円満なる「実相の心」とも云うべきものです。

 

 この「心」のことを、キリスト教の『聖書』などでは「御意(みこころ)」と表現し、仏教では「仏心」や「仏性」とも呼んでいます。

 

 一方、生長の家で「心も無し」と否定してしまうところの「心」とは、「現象の心」のことで、「実相の心」や「仏心」のことではありません。

 

 先に引用した『甘露の法雨』の文章は、次のように続いています。

 

物質はただ心の影、
影を見て実在と見るものはこれ迷(まよい)。
汝ら心して迷に捉わるることなかれ。

 

「影を見て実在と見る」それが、現象に惑わされた「心」です。
つまり、影のように現れては消える現象を、「有り」として、それを追いかけて掴んで放さない「迷いの心」のことです。

 

 聖経には、この心のことを「無明」と書いて、「まよい」と仮名をふって読んでいます。

 

 天理教祖は、この心の働きのことを次のように表現しています。

 

「惜しい、欲しい、可愛いと、欲と傲慢、これが埃(ほこり)や」と。

 

 普段私たちが「心」と認めているのは、この「迷いの心」である場合が多いのです。

 

 では、あらためて実相の心、真実の心、実在の心とは何かと云えば、それは、「神そのもの」の命の響き(コトバ)であり、「仏そのもの」の命のことなのです。

 

『観無量壽経』には、「仏の心」について、「仏心とは四無量心是なり」と説かれています。

 

 四無量心とは、慈、悲、喜、捨のことで、「無量」とは、「量が無い」つまり「無限である」ということです。

 

 衆生の悩み悲しみを見て慈しむこと無限であり、同悲の心をもって苦を除くこと無限であり、人の悦びをともに歓喜すること無限であり、執着を解き放ち一切を束縛から解放すること無限である、これが「仏心」です。

 

 この「仏心」こそが、私たちの「本心」(実相の心)なのです。

 

 ですから、現象的に金が儲かった、執着していた人や物や事が手に入った、というところから来る「求めるよろこび」と、「仏心」(実相の心)から来る「慈しみ与えるよろこび」とは、根本的に異なるのです。

 

 前者は「無い」よろこび、であり、後者は「実在する」よろこびなのです。

 

 この「仏心」そのものに生かされて生きることが、「救われる」ことに当たります。

 

 その「仏心」(神の御心)の中にこそ、私たちがこの世に生を受けたところの本当の「使命」があり、それを生きたとき、「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」というような真の生き甲斐やよろこびを見出すことができるのです。

 

 なぜなら、私たちの実相は、自性円満なる「神性」「仏性」そのものなのですから。

 

 
 とり急ぎ書いたので説明としては不十分かもしれませんが、質問があればブログかメールにまたお寄せください。

 

  久都間 繁

 

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コメント

先生ごめんなさい
あんなことしませんのでお許しください
先生の怒りはごもっともです
ところで今回は真面目な質問です
仏教の『般若心教』にもこれとほぼ同じの記述がありますが『色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。』そしてその後に『是諸法空相。不生不滅。不垢不浄。不増不減。是故空中。無色無受想行識。』とあります。また同じようなものとして『無上甚深微妙法百千萬劫難遭遇我今見聞得受持願解如来眞實義』もありますが同じでよろしいのでしょうか、ご教授願います。

投稿: なおちやん | 2009年6月28日 (日) 07時08分

なおちゃん。「お経」についての質問だったら、寺に行ってお坊さんに聞いた方がいいと思いますよ。

投稿: 久都間 繁 | 2009年6月29日 (月) 10時48分

人の喜びを共に喜ぶ、その、人の喜びとは多くの場合現象的なことではないでしょうか?

投稿: かずちゃん | 2009年7月 2日 (木) 14時35分

かずちゃん、コメントをありがとうございます。

>>人の喜びを共に喜ぶ、その、人の喜びとは多くの場合現象的なことではないでしょうか?

 現象的なことのなかに実相(真象)が現れるのです。

投稿: 久都間 繁 | 2009年7月 2日 (木) 16時31分

久都間繁先生へ
先日は私たちのグループのテーマ心について
ご返答くださりありがとうございます
さっそく皆さんとその先生のおっしゃる仏の四無量心についてを読ませていだだきました
何回も何回も吟味するよう、そして頭から直観的な把握と変わっていくようにと
そしてこの極めなければならないことをおきざりにしてはいけない事
先生のおこころがうれしくもったいない回答でした。
それで各自の宿題として、かれこれ先生のお答えから2週間近くもなりましたが
(みんなの求めていることはこの一つという事はまちがいないのですが)

1、 その人なりの心境と環境によりますが、心とは
思ってはいけないと思えば思うほど
考えてします、 ひっかてしまう  その中から抜け出ようとと思うほど
どうにもならない
こんな心なんかなければよい  そんな自分がどうにもならない 身動きできない
などなど ・・・・・ 

2、 私たちは現象から実相を観ようとしていること、このことが一番の問題ではないか?

3、やはり神想観を真剣にやりたい  その真剣とは自力ではなどなど

4.甘露の法雨解釈をやっていきたいなど

榎本恵吾先生がおっしゃていた
こんなことなければいいなぁという事はすべてないのですよ。
というお言葉が聞こえてきます

私は久都間先生の書かれていた、このところですっきりしたような気がしました。
ない喜びと実在の喜び (絶対に消えないもの破壊されない喜びと私は解釈しました)
執着を解き放し一切を束縛から解放すること無限である。これが仏心です
(自己解放)

少しみんなと話をしていて全員の呼吸が一つになっているような感じがありました。
本当に朝に道を聞けば夕べに死すとも可なり
の雰囲気が先日の輪読会にはありました。
先生ありがとうございます。
この心まだまだ未熟なりです
また同じ質問をするかもしれませんがどうぞお指導ご鞭撻をお願いします
延岡のぼりざる達

投稿: 横山純子 | 2009年7月11日 (土) 14時53分

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