信仰と実生活
私は、神想観という瞑想を始めてから、ずいぶんな歳月が経っていることに最近になって気が付いた。この祈りは、長くやっていればいいというものではないが、計算すると一万時間以上にもなっていた。でも、そんなことは大したことではない。
大したことなのは、内なる大生命(神)を観ずることは、三十年の歳月を「あっ!」という間に感じさせるほど、魅力的だった、ということである。いわば浦島太郎みたいなものかもしれない。
神想観を始めたころ、恩師の榎本恵吾先生(故人)が、「神想観を熱心に続けていると、祈りを始めたころの天にも昇るような悦びがなくなったように感じることがあるかもしれない。しかしそれは、実相を観じられなくなったからではなくて、現実生活の方が、祈りの世界に近づいてきて差が無くなってきたからなんだよ」と語ってくれたことがあった。
実に配慮された、天狗になっていた初心者にも分かる優しい言葉だったことを、しみじみと思うのである。
祈りの世界は広大無辺である。実生活が、祈りの世界に近づくたびに、内なるものがクライマックスに達し、さらに次なる光明と、次なる歓喜と、次なる使命が、まるで恩師の優しさのように、祈りの内からあふれてくる。そんなことを、これまで幾たび経験させていただいたことだろう。
かつて宇治別格本山の智泉荘で目にした、谷口雅春先生のお詠みになったという短冊に墨書された歌を思い出す――
一筋の 道踏み往けば燦然と
光り満ちわたる 吾が世界来ぬ
「信仰生活」とは、この一筋の道(唯神実相)を、勇敢に踏み往くことである。
また「実生活」とは、私たちを光満ちわたる世界へといざなう、「道」そのものなのである。
久都間 繁
| 固定リンク
「万教帰一の信仰」カテゴリの記事
- 読者からの質問に答えて(2009.10.29)
- 神様からの授かりもの(2009.10.10)
- 「レッテル」について②(2009.10.15)
- 「レッテル」について(2009.09.30)
- 因果律を超えて(2009.08.17)
「ESSAY」カテゴリの記事
- 神様からの授かりもの(2009.10.10)
- 悲しみの奥にある聖地(2009.10.19)
- 「レッテル」について②(2009.10.15)
- 「レッテル」について(2009.09.30)
- 因果律を超えて(2009.08.17)


コメント
合掌、ありがとうございます。
お久しぶりです。梅雨が近づいて来ていますね。
相変わらずお元気の事と思います。
僕も不慣れながらも、日々走らさせて頂いております。
社会は本当に鍛え磨き上げてくれる場と痛感しております。
実生活の中で感動を覚える間もなく一日が同じように颯爽と過ぎていきます。
“せっかく与えられた人生これでいいのかなぁ~”とも思いますが、現実はそれを許す暇も与えてくれません。
そのような現実にもめげずに、責任を担い、真正面からぶつかっていこうと一日一日を過ごしております。
神想観は生活の一部になっていますので、僕の中でも特段の感動は無いのですが、榎本先生のお言葉の『現実生活の方が、祈りの世界に近づいてきて差が無くなってきたんだよ』の心境に近いものを感じます。
本当に何もない、時に煩悶や世の矛盾を感じる日常ですが、日時計主義に則り“今”を悦んで生かさせて頂いております。本当に人生道場は訓練の場です。
しかしその日々の一瞬一瞬、一刻一刻の日常生活がまさに信仰生活そのものであり、気が付くと神の道しか歩んでいない私たちであります。
あ~神の子でよかったです
先生の聖典講義また必ず行かさせて頂きます
ありがとうございました。
再拝
投稿: 山崎 | 2009年6月 9日 (火) 22時03分
山崎さん、コメントをありがとう。
>>“せっかく与えられた人生これでいいのかなぁ~”とも思いますが、現実はそれを許す暇も与えてくれません。
>>そのような現実にもめげずに、責任を担い、真正面からぶつかっていこうと一日一日を過ごしております。
山崎さんが一所懸命に働いている姿が目に浮かびます。
後から振り返ってみれば、そのようなときが一番、身も心も生長しているものです。
よく眠ってよく食べて、よく祈って、よく学んで、うまずたゆまず日々の精進を重ねてください。
またゆっくりお話ししましょう!
投稿: 久都間 繁 | 2009年6月10日 (水) 15時19分