神想観の醍醐味について
祈りについて、もう少し書かせていただこうと思う。
私は宇治別格本山にいたとき、神癒祈願部長をしていた小嶋博先生から、
〈人のために祈ってあげるときは、まず自分が実相(神)と「ひとつ」になっていなければ駄目だ。不完全な人やものや事が〝ある〟と思って、その不完全を認めて〝治そう〟と祈っていたのでは、神癒祈願にならない〉
〈神様がお創りになった世界は、はじめから完全円満であり、その実相世界は既に在り、すでに成就しているのだから、神癒祈願とは神様の邪魔をしないことだ!〉
と、ご指導いただいたことがあった。
あれから25年以上も経っているのであるが、このコトバは、祈り(神癒)における重要なポイントを語っていることを、折に触れて感じている。
生長の家には、「縦の真理」と「横の真理」があると云われており、「縦の真理」とは、「唯神実相」の哲学である。
これは神の創り給うた実相世界は、そのままで完全円満なる善一元の世界であるという教えである。
また、横の真理と云われているのは「三界唯心」である。これは仏教に由来するコトバであるが、平たく云えば私たちの五感六感の感覚を通して観じられる現象世界は、心が造り出したところの世界である、ということであり、これを三界唯心所現の法則とも、「心の法則」とも呼んでいる。
人のために、あるいは家族のために祈るとき、「私が」祈っていたのでは、これではなかなか「神癒」に至ることはできない。
「私が」というものが消え、ただただ実相(神)に身をも心をも全托して、完全円満なる神が「私」を生きる、その神の子無限力の充実し切った悦びが神想観なのである。
ここでは、もはや天地の森羅万象が「神癒」(祈り)の対象となるのである。
家族のこと、仕事のこと、学校のこと、友人のこと、生長の家のこと、指導した人たちのこと、地域社会のこと、国のこと、国際社会のこと、地球環境のこと、ありとあらゆるものが祈り(神癒)の対象であり、心の底から、本当にからっぽになって、彼らのことを祈り切ることが出来るのである。それこそが神想観の醍醐味なのである。
そのときに、初めて神意というものが分かり、中心帰一とは如何なるものであるかが分かるのである。
なぜなら、生長の家大神――総裁・副総裁――み教え、この構図が、生命の本源から発した「無償の愛」の無限供給の流れの一つであることが理屈抜きに体感できるからである。
そして信仰者の人生とは、「神癒の展開」以外のなにものでもないことが分かるのである。それが「全托」ということであり、「生かされる」ということであり、絶対他力の信仰なのであると、私は思っている。
なお、誤解のないように補足するが、生長の家大神とは、「生長の家」の固有の神様のことではない。時間(生)・空間(長)となり、森羅万象を生み出すところの究極的実在(大生命)のことである。これを神道では、「天之御中主神」とも「天照大御神」とも云い、仏教では「尽十方無碍光如来」とも「毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)」とも称するのである。
久都間 繁
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コメント
合掌、ありがとうございます。
神想観は神との再会、神癒祈願は神への全托ですね。
どうしても僕は我の力みや浅はかな人間知が介在しそれらの邪魔をしています。
自分に“神様をもっと信頼しろ!吾生くるにあらず、神のいのちここにあって生くるなりだぞ!”と言い聞かせるほど自己と神が離れ離れになっていきます。
信仰をしている人にはこういう傾向がある方々もいると思います。唯心所現なので、悪念を起こしてはダメだとか、善い言葉を使っても、それと同時に“こうは言うものの潜在意識にはどう反映されているか”などと生きるのに消極的、保守的になられている方も多分にいられると思います。僕にもそういう傾向はあります。また責任感や罪悪意識、良心の呵責が強い人には多いのではないでしょうか。
自分の力で生きていると思っているほど私たちは神をあっちへ追いやってしまいます。
しかし神の世界では私たちは離れたこともなく、あっちへ追いやったこともありません。
常に神の御手に包まれて生きております。
まさに先生の仰る通り、神への全托の信仰生活は神の癒しの展開そのものであります
ありがとうございました。
再拝
P.S.僕のブログNO GOD, NO LIFE!!
http://kami-no-ko.cocolog-nifty.com/blog/
を先生のリンクの一部に加えて頂きたいです。
何卒よろしくお願い致します。
投稿: 山崎 | 2009年6月16日 (火) 22時07分