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2009年7月

2009年7月14日 (火)

神想観こそ功徳そのもの

 横山さんから質問をいただいておりましたので、回答をこちらに掲載します。

 

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質問1
>>心とは、思ってはいけないと思えば思うほど、考えてしまい、ひっかてしまいます。その中から抜け出ようとと思うほど、どうにもならない。こんな心なんかなければよい、そんな自分がどうにもならない。身動きできない。

 

【回答】

 

「三界唯心所現」の心の法則については、『生命の實相』頭注版 第20巻の127ページからの(肉体および物質の否定 六)に、谷口雅春先生が詳しくお説きくださっています。

 

 ここには引用しませんので、ぜひご熟読いただければと思います。

 

 そのポイントだけを申し上げますと、心が変化することによって、悟って仏となり、迷って衆生となるような、「心、仏、衆生三無差別」の心というものは本来無い。ただ初めから仏であり、神である「実相の心」があるだけである。その実相の心が展開した実相の天地があるだけである、ということが詳述されています。

 

 生長の家の唯神実相哲学の根本が説かれていますので、お時間があれば「自傳篇」全体を通読(再読)なさると、より一層理解が深まることと思います。

 

 身動きできなくなるのは、無いものを、有ると思って握ってしまうから。
 手を放してしまえば、自由自在です。

 

 無いもののことを「現象」と言います。
 本当に在るものは「実相」のみです。
 「実相」のみを相手にすれば、身動きできるようになります。

 

質問2~4
>>私たちは現象から実相を観ようとしていること、このことが一番の問題ではないか?

 

>>やはり神想観を真剣にやりたい。その真剣とは、自力では。

 

【回答】

 

 重要なところに気が付かれましたね。

 

 神想観において、「吾れ今、五感の世界を去って実相の世界に入る」とは、そのことを意味しています。

 

 現象は実在ではありませんから、現象の基準や尺度で実相を推し量ることは、「針の穴から天上を覗く」の喩えのようなもので、実相世界そのものを捉えることはできません。

 

 生長の家では、神想観という素晴らしい行法を授けられているのですから、ひたすら、うまずたゆまず毎日実修すれば、誰でも必ず実相覚が開けてきますので、ぜひお続けになってください。

 

 また、神想観は自力か、他力かとのことですが、生長の家の信仰は絶対他力の信仰であると教えられています。

 

 絶対他力の信仰とは、神の外にあるものなし、仏の外にあるものなし、つまり神のみ、仏のみが真実の実在であり、その善一元の生命のみが今ここに(全実在宇宙に満ちて)存在しているという教えです。

 

 今ここに、貴方となって、森羅万象となって、完全円満なる神が、仏が、活きているのであり、それが実相です。

 

 
 不完全に見えるのは、心の影であり、そのような現象は本来無いのです。

 

 神想観を通して実相のみ、神のみ、仏のみを観じるのが「縦の真理」の実践であり、実生活においては人生の光明面(真象)のみを積極的に相手にしていくのが生長の家の信仰です。

 

 その結果(三界唯心所現)として、一切の現象が整うというのが「横の真理」です。

 

 現象をキレイに整えてから実相が現れるのではなく、現象がどんなにぐずぐずに崩れていても、円満完全なる実相に飛び込んで、ひたすら(まっしぐらに実相を観じて)悦んで生きていれば、現象が成就する(真象が現れる)のです。

 

 これが神想観の功徳です。

 

 また、神想観それ自体が、実は最良の功徳(実相の体感)そのものなのです。

 

 

    久都間 繁

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2009年7月 4日 (土)

耳を傾けること

 私は結婚して今年で21年目になる。

 

 その間、仕事の関係で関西と東京で生活してきたが、かつて残業が続いて一週間も子どもと会話をしていないことが、ときどきあった。

 

 そんなとき、なんとなく子どもたちの心が離れてしまったことが分かるものだ。

 

 彼らの態度が妙によそよそしくなり、“お父さんなんか居てもいなくても全然関係ない”といった世界に住み始め、努めて会話を試みてはみるものの、どうも取り付く島もないような状態になってしまうものだ。

 

 これは多くのお父さんのみならず、忙しく働いているお母さん方も、ときに感じることがあるかもしれない。

 

 こんなとき、それぞれの家庭では、コミュニケーション不足を補うための、いろいろな工夫が為されていることだろうと思う。

 

 わが家でも、子どもが幼いころは、努めて早く帰宅して抱きしめたり一緒に風呂に入ったり、休みの日に野山を散策したり、即興でつくった物語りを聞かせて大笑いさせながら一緒に眠ったり、いろいろな工夫をして心を通わせたものだ。

 

 しかし子どもが中・高生になると、これらの方法が功を奏しなくなる。ことにきょうだいが多い(わが家は4人)場合は、どうしても行き届かないことも出てきたりする。

 

 身も心も大人へと成長しつつあるこの時期の子どもにとって、実はこれからがいよいよ大人の経験や知恵を必要とする、大切な時期なのだ。

 

 さて、皆さんはどのようにしてこの時期を乗り越えているのだろうか。

 

 放っておくことも一つの手かもしれない――

 

 しかし、つい先月、娘の通う中学校の生徒が、メモに親への感謝の言葉を書き遺し、誰にも告げずに、誰にも相談することなく、イジメなどのハッキリした理由もないのに自殺してしまうというショッキングな事件があった。

 

 子供が一人で、黙って死を選ぶ、彼にどんな孤独や、辛い思いがあったのかは、今となっては知るよしもない。が、放っておけば雑草が蔓延(はびこ)り荒れ果てるのは、人の心も同じなのかもしれない。

 

 この事件を機に、私は、あらためて親子間のコミュニケーションについて考えさせられた。

 

 もしかしたら皆さんの参考にもなるかもしれないので、わが家で始めたささやかな工夫の一つを紹介させていただこうと思う。

 

 それは至って簡単なことである。

 

「子供からの問い掛けに、耳を傾けること。そして一緒に答えを探してあげること」

 

 これに尽きるのではないかと思った。そして、とても大切なことは、先の言葉の前に、

 

「どんなに忙しいときでも――」

 

 という一句を添えて実践することだ。

 

 そうすれば、もし子どもたちが自殺したくなってたとしても、どこかでその信号をキャッチする機会が生まれるはずである。また、それ以前に、親子間の深い信頼関係を構築できることが、何よりも重要なことなのだ。

 

 それは、「どんなに忙しくても、あなたのことを第一に考えているんだよ!」という親から子への、明確なメッセージをもって生活することになるからだ。

 

 しかし簡単なことのようでいて、これを実践するには「親の側」に、意外なほどの心的努力が要る。

 

 ついつい、

 

「今、忙しいから!」
「今、仕事をしているから!」
「今はダメだから!」

 

と、言ってしまうのだ!

 

 心ならずもそんなことが何回か重なれば、もう子どもたちの脳裏にひらめいた宝石のような問い掛けは、どこか空の彼方へと消し飛んでしまうかもしれない。
(かく云う私も、どれほど宝石を扱い損ねてきたことか(^^;)

 

 しかし、私たちの人生の中で「子育て」の時期というのは、意外なほど短いということも忘れてはならない。

 

 ことに小学生から中・高生にかけての多感な時期は、彼らの長い人生の中のほんの数年にすぎず、この大切な時期を逃したら、よほどのことがない限り、彼らは私たちに対して自由に心を開いて問い掛けることを、あきらめてしまうかもしれないのだ――

 

 
――でもご安心いただきたい。

 

 たとえどんなに「手遅れになった!」と見えたとしても、

 

「彼らからの問い掛けに真摯に耳を傾けること。そして一緒に答えを探してあげること――」

 

 人生で出会う全ての人のことを祈りながら、この時の来るを待ち続けていれば、成人したわが子のみならず、どのような大人でも、やがて天来のタイミング(導きのとき)が必ず訪れるのである。

 

 そのときが、彼らが心を開き、彼らと心を通わせることのできる、神様に導かれた時節なのである。

 

 ただし子供のときと比べて、たっぷり待たされるかもしれない!

 

 しかし、私たちには永遠の生命が宿っているのだから、なにもあせる必要はない。

 

 祈りつつ、ご縁ある人たちの魂の成熟を待つ時間くらい、この広大な宇宙のいとなみと比べたら、ほんの一瞬なのだ。

 

 しかしその一瞬の内に、人間・神の子の神性・仏性が芽生え、生長して華を開き、やがて「実相」の実を結ぶのである。

 

  久都間 繁

 

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